京都のお寺って似たような名前ばかりで、ややこしい…

 

そこで、平安時代に建てられた「法◯寺」を紹介してみよう!と思い立って、前回企画で4つのお寺を語ってみました。

 

そのうちの「法勝寺」は、通称「六勝寺」と呼ばれる6つのお寺のひとつ。

 

なので、この際だから六勝寺の歴史についてもやってしまおうかな…と。今回は、そんなブログになります。

 

 

そうそう。先に言っておきますが、今回ご紹介する6つのお寺。

 

すべて、当時の場所には現存していません。

 

よって、旅行の予習に…みたいに利用するのは、今回のブログも難しいかと思います。

 

あらかじめご了承ください…。

 

 

「六勝寺」は、第72代・白河天皇から、第76代・近衛天皇に至るまでの5人の天皇と、女院の待賢門院の6名が、「白河」の地に建てたお寺の総称です。

 

いずれも「○勝寺」と称することから、「『六』つの『勝』がつく『寺』」で「六勝寺」というわけ。

 

「白河」は、今では「岡崎」と呼ばれています。

 

東海道から「逢坂関」を通り抜けた京都の入り口で、東山山麓の西側から鴨川の東岸に広がる地。

 

「平安神宮」「京都動物園」がある場所…というと、ぱっと思い浮かぶ方も多いのではなかろうか。

幕末好きなら、京都守護職となった会津藩の本拠地「金戒光明寺」があったところというと、通りがいいかもしれませんね。

 

…と、ロケーションを一通り説明した所で、創建者とされる5人の天皇と1人の女院を紹介すると、以下のようになります。

 

寺院 創建者(在位) 創建された年
法勝寺
(ほうしょうじ)
白河天皇
(1072~1086年)
承暦元年(1077年)
尊勝寺
(そんしょうじ)
堀河天皇
(1086~1107年)
康和4年(1102年)
最勝寺
(さいしょうじ)
鳥羽天皇
(1107~1123年)
元永元年(1118年)
円勝寺
(えんしょうじ)
待賢門院
(鳥羽天皇中宮)
大治3年(1128年)
成勝寺
(せいしょうじ)
崇徳天皇
(1123~1141年)
保延5年(1139年)
延勝寺
(えんしょうじ)
近衛天皇
(1141~1155年)
久安5年(1149年)

 

法尊最円成延。法尊は最も円く成る延び(何)

 

表を見てみると、女院が建てた「円勝寺」以外は、創建されたのが各々の天皇の在位中であることが分かります。

 

つまり「六勝寺」は「御願寺」だった…ということなんですねー。

 

 

 

最初に建立されたのは「法勝寺(ほうしょうじ)」

 

創建は白河天皇で、承保3年(1076年)。御年23歳。即位3年目のことになります。

 

「白河」には、藤原良房の別荘「白河別業」があり、代々の藤原氏が継承してきました。

 

藤原良房は、このブログでも何度か取り上げました。

9世紀、「藤原北家」の祖・房前から数えて4代目(来孫)にあたる当主です。

 

藤原の兄弟たち(花婿の禍福編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12797193366.html

 

藤原の兄弟たち(応天門炎上編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12801612882.html

 

簡単に紹介すると、嵯峨天皇の娘婿で、「承和の変」「応天門の変」を利用して藤原氏の基盤を強固にした人物。

「人臣初の摂政」に任ぜられた人として、教科書にも大々的に載っているので、藤原さんの中でも超有名人ですな。

 

白河天皇の時代は、藤原氏の当主は師実(もろざね)

 

藤原道長の孫にあたる人物。

藤原道長は、来年の大河ドラマ『光る君へ』の重要パーソンで「望月の歌」でお馴染みの御方ですね。

 

承保元年(1074年)、師実の父・頼通(宇治平等院を建てた人)と、伯母にあたる上東門院(道長の娘。彰子。一条天皇の中宮)が相次いで死去。

 

この追善のために、師実が白河天皇に「白河別業」を寄進したことが、「六勝寺」の始まり。前回も紹介しましたが、白河天皇自身も彰子の曾孫にあたります。

 

 

ちなみに、「法勝寺」は中心に添えられたのが「毘盧遮那仏」だったことから、宗派は「華厳宗」だったと考えられるみたい。

 

華厳宗と言えば、奈良の大仏がある「東大寺」と同じ。

 

奈良・平安と華厳宗(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11244239241.html

 

法勝寺は「国を仏教の力で治める」という「鎮護国家の寺院」として建てられた…となりそう。

 

ただし、法勝寺は、伽藍を建てる順・寺僧構成・法会などの形態が、道長がつくった「法成寺」とソックリなんだそう。

 

ここから、白河天皇は「道長の王権」の継承を表現するために「法成寺を模した法勝寺」を造営することを思いついたのでは…とも考えられているみたいです。

 

白河天皇の父帝・後三条天皇は、170年ぶりの「藤原氏を外戚としない天皇(母は三条天皇の娘)」で、「天皇の外戚になって政権を牛耳る」をお家芸としていた「藤原摂関家の衰退の始まり」を象徴するような天皇でした。

 

一方、道長は「藤原摂関家の最盛期」を象徴する人。

 

「これからは天皇親政の時代だ」

 

「法成寺から法勝寺へ」には、そうした白河天皇の想いが、あったのかもしれないですねー。

(といいつつ、白河天皇は藤原氏の娘を母にしていたのですがw)

 

MY院政パワーバランス話(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11300969115.html

 

法勝寺は、「六勝寺」の中で最古にして最大。

 

正門にあたる「南大門」をくぐると、中島のある池を抱えた南庭(だんてい)が広がります。

 

中島には大日如来が君臨する"金剛界曼荼羅"的「八角九重塔(高さ27丈=約80メートル)」が聳え、その先には三丈二尺の毘盧遮那仏がおわす"胎蔵界曼荼羅"的「金堂」が構えられました。

 

さらに、釈迦如来が坐す"顕教の広学竪義の場"「講堂」、そして薬師如来が安置された"浄瑠璃浄土"「薬師堂」が続いて、3つの御堂が南北に並ぶ伽藍配置。

 

ちなみに「講堂」があるのは六勝寺の中では唯一「法勝寺」だけ

 

「白河の水浄ければ、漢月感応の光を浮かぶ。東山の風閑かなれば、嶺雲去来の景を駐む」(白河の水が清ければ全ての水が清くなり、東山の風が穏やかなら全ての空が穏やかになる)

 

そんなふうに仏法があまねく広がってゆく世界を志す、白河天皇の意志が表れる建物といえそう。

 

また、自分とこの寺である「興福寺」の維摩会だけ経て僧侶になる、ぬるま湯育ちな藤原氏出身の甘ちゃん坊主どもに、儀式面で喝を与えようとしたとも言われています。

 

応徳3年(1086年)、白河天皇は8歳の皇子・善仁親王(たるひと)に譲位して上皇となり、院政を開始。

その後の寛治4年(1090年)、同じ白河の地にあった、覚円の房舎を改装し、院御所「白河泉殿」としました。

 

ちなみに覚円は前回も紹介しましたが、「法勝寺」の落慶供養を執った「開基」とされる人物。師実の11歳年上の異母兄です。

 

永久3年(1115年)、「白河泉殿」を改築して「白河南殿」を造営。

元永元年(1118年)には、その隣接地に「白河北殿」が新造。

 

この北殿が、後に「保元の乱」の舞台になっていくことになります(大河ドラマ『平清盛』でも登場した、あの建物ですね)。

 

 

六勝寺の2番目は「尊勝寺(そんしょうじ)」

 

堀河天皇により、康和4年(1102年)に創建。

堀河天皇は御年23歳。即位して16年目のことでした。

 

伽藍の配置図を見ると、「学問の場」である「講堂」を中心とする法勝寺に対して、尊勝寺は「密教道場」である「灌頂堂」を中心に開かれているそうです。

 

ここから、「法勝寺=顕教」と「尊勝寺=密教」という役割分担があったのではないか…とも言われているとかなんとか。

 

堀河天皇は前述の通り、即位時は8歳。当然政務は執れません。

 

そこで、白河上皇の院政が敷かれるのですが、当初の白河院政は『平清盛』で見られたような、豪腕強権の政治体制ではなかったみたい。

 

上皇は関白の藤原師実(堀河帝にとっては義理の祖父)を大変に信頼していて、師実の方も上皇を大変に敬っていて(先程も触れた通り、白河天皇に「白河」を寄進した人ですしね)、2人は協調関係にあったからです。

 

というのも、2人は利害が一致していたから。

 

後三条天皇は白河天皇に「皇太子は弟宮にせよ」と遺言して崩御しました。

 

なので、皇太子には弟宮の実仁親王(母は三条源氏)が立てられ、その次は輔仁親王(実仁親王の同母弟)と決まっていたのですが、白河天皇は息子の善仁親王(=堀河天皇)を即位させたがっていました

 

堀河天皇の母・賢子は、師実の養女(師実の従姉妹にして妻・麗子の姪っ子)。

 

 

 

後三条天皇は、まだ皇太子ですらない親王時代に摂関家にイジメられていたので、「摂関政治は復活させてはならない」という信条を持っていた…と言われています。

だから、後三条天皇は「お前の息子を即位させると摂関政治に回帰しちゃうからダメ。弟にせよ」と言っていたんですね。

 

一方で、堀河天皇の母が師実の養女と言うことは、師実にとっても「ミウチの堀河天皇を即位させたかった」ことを意味します。

 

そこで、白河天皇と師実は共謀。皇太子だった弟の実仁親王が病死してしまったことを好機と見て、「次は輔仁親王」という約束をあっさり反故にし、2人は堀河天皇の即位を実現させたというわけです。

 

白河上皇と関白師実の政権は、まるで摂関政治が復活したかのような様子だったそうな(後三条天皇の危惧が現実のものとなったわけですなw)

 

寛治8年(1094年)、師実は息子の師通(もろみち)に関白の座を譲り、引退。

「白河院・師実体制」が終了し、時代は若者たちの「堀河帝・師通体制」が始まります。

 

師通は父と違って、院政には否定的。かといって摂関政治を目指したかと言うとそうでもなく、堀河天皇の親政を全面バックアップするという政治姿勢を示しました。

 

15歳になっていた堀河天皇は、白河上皇からの自立を志向していたので、これを助けたいと心から思ったようなのです。

 

それでも白河上皇の影響力は変わらず…と思われたのですが、嘉保3年(1096年)、白河上皇最愛の娘である郁芳門院(堀河天皇の同母姉)が21歳の若さで死去するという「不幸」が発生。

 

白河上皇の悲嘆は生半可ではなく、絶望のあまり出家までしてしまいました(以降「白河上皇→白河法皇」)

 

こうして「堀河帝・師通体制」は、愛娘に先立たれて意欲を失った白河法皇によって容認されるような形になりました。

 

ところが、承徳3年(1099年)、師通が突然死。38歳。

 

息子の忠実は、この時まだ21歳で大納言。若過ぎますし、大臣にさえなっていません。

 

この時代、「寄進系荘園」が土地問題を躍起していて、比叡山などの寺社が朝廷に強訴する事件が多発するなど、訴訟事件多発が社会問題。政治家には高い折衝力が求められていました。そんな中、若過ぎる帝王と経験不足の関白では、政権運営は無理ゲーが過ぎました。

 

そこで、白河法皇の経験と人脈が必要不可欠となり、白河院政は完全に息を吹き返します。

 

師実は存命でしたが、引退後の身ではどうすることもできなかったみたい(そもそも師実は白河院政に肯定的でしたしね)

 

康和3年(1101年)に師実が59歳で薨去すると、若い忠実にすべてが押し付けられた摂関家は、白河院政に完全従属する立場になってしまうのでした。

 

こうして、必要性から復活した「白河法皇の院政」と、当主を相次いで失って没落の一歩手前まで衰退した「藤原摂関家」の体制の中で、康和4年(1102年)を迎え、「尊勝寺」は創建されたわけですねー。

 

嘉承2年(1107年)、堀河天皇が在位のまま29歳で崩御。

息子の宗仁親王が践祚し、「鳥羽天皇」となりました。

 

 

六勝寺の3番目は「最勝寺(さいしょうじ)」

 

鳥羽天皇により元永元年(1118年)に創建。

鳥羽天皇は御年15歳。即位11年目のことでした。

 

場所的には、「法勝寺」と「尊勝寺」の間。広さは2寺と比べるとかなり控え目。

 

 

詳しいことは資料が乏しくて分からないのですが、金堂よりも先に塔が供養されているので(『中右記』元永元年2月21日条)、「塔を伽藍の要」としていたかもしれない…そうです。

 

ということは「法勝寺」と同じく、正門を潜ってすぐに塔が聳えて、金堂へと繋がっていく…というかんじだったのかも?

 

鳥羽天皇の在位16年間は、白河院政の絶頂期。

 

即位して10年後の永久5年(1117年)、白河法皇の御意向により、法皇の養女である藤原璋子(たまこ。待賢門院。崇徳天皇や後白河天皇の母)が入内

 

「最勝寺」が建てられたのは、その翌年のこととなるわけですねー(ちなみに、第一皇子の顕仁親王=崇徳天皇は、さらに翌年の元永2年(1119年)の生まれ)

 

保安4年(1123年)、白河法皇の御意向により、顕仁親王に譲位させられ、鳥羽天皇は上皇となります。

 

実権は「白河法皇」が握ったまんま。鳥羽上皇は、ただの「前天皇」でした。

 

 

六勝寺の4番目「円勝寺(えんしょうじ)」は、藤原璋子の創建。

 

藤原璋子は鳥羽天皇の中宮。後に女院号を得て待賢門院。

 

このブログでは常連客レベルの顔馴染みですが(笑)、かいつまんで紹介すると、出身は閑院流藤原氏。白河天皇の母(藤原茂子)、そして鳥羽天皇の母(藤原苡子)の実家の娘でした。

 

系図で見てみよう(藤原北家/待賢門院&美福門院周辺)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11240438200.html

 

白河法皇が目に入れてもいたくないくらい可愛がった養女。

鳥羽天皇に入内した時、白河法皇の子を宿していた(→それが後の崇徳天皇)と噂が立ち、大河ドラマ『平清盛』が、これを「本当だったかも」としてストーリー展開したのは、当時話題にもなりました。

 

「円勝寺」は大治3年(1128年)の創建というので、夫の鳥羽天皇はすでに譲位して(譲位させられて)崇徳天皇の御世になっています(璋子は1124年に女院号を得ているので、この時すでに「待賢門院」)

 

崇徳天皇は御年9歳。当然、彼の意思で建てられたものではなく、夫の鳥羽上皇というのも考えにくい。なので、おそらくは白河法皇の発意によるもの。

 

とはいえ、息子の中宮の御願のお寺を何故…?という理由は、やっぱりよく分かりません。

 

広さは鳥羽天皇の「最勝寺」より広かったようで、しかも白河天皇の「法勝寺」に隣接していたので、白河法皇の寵愛ぶりが見えてきそう。

 

伽藍には、塔が3基あったことが文献上で確認されています。待賢門院ご本人は10基建てることを希望していたというので、待賢門院が塔に執着していた様子が見て取れそうですな。

 

白河法皇は大治4年(1129年)に77歳で崩御するので、亡くなる寸前に建てられたことになります。白河法皇最後の願い…のような?

 

それから、待賢門院のお寺と言って真っ先に出てくる「法金剛寺」は、大治5年(1130年)に再興されたものなので、「円勝寺」よりも後の時代になります。時期的にも白河院の他界後のことになりますね。

 

 

六勝寺の5番目は「成勝寺(せいしょうじ)」

 

崇徳天皇により保延5年(1139年)に創建。

崇徳天皇は御年20歳。即位16年目のことでした。

 

崇徳天皇は、『百人一首』でもお馴染み…という方も多いですかねー。

 

 

瀬を早み 岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ


崇徳院/百人一首 77・詞花集 恋 229

 

落慶供養を行った覚法法親王(仁和寺4世)は、鳥羽天皇の子。母の源師子は、藤原忠実の懇願により下げ渡されて妻となり、泰子(高陽院。鳥羽上皇の皇后)と忠通を産んでいます。ということは、忠通の異母兄が落慶供養を行ったわけですな。

 

崇徳天皇の在位21年は、初めの6年は白河院政、後の15年は鳥羽院政の影響下。

 

鳥羽天皇は、白河法皇によって20歳の若さで息子(4歳弱)に譲位させられ、そして白河法皇が亡くなるまで「ただの前天皇」とされて実権を握れなかったので、白河法皇に大きな不満を持っていたと言われます。

 

崇徳天皇は、白河法皇の指示で母が入内し、白河法皇の指示で即位した、徹頭徹尾「白河法皇ありき」の人。

 

だから、鳥羽上皇は崇徳天皇の御世にも不満だったのかな…と思ってしまうのですが、白河法皇の没後でも15年も皇位にあったんですねー。

 

白河法皇が亡くなった5年後の長承3年(1134年)頃、鳥羽上皇は、将来歴史を変える1人の女性を寵愛するようになります。

 

藤原得子(なりこ)。後に女院号を得て「美福門院」となる人です。待賢門院のライバルとして、『平清盛』でも火花を散らしておりました(^^;

 

保延元年(1135年)に叡子内親王、保延3年(1137年)に暲子内親王と、女の子を立て続けに産んだ後、保延5年(1139年)、後に「近衛天皇」となる体仁親王(なるひと)が誕生します。

 

同年、鳥羽上皇は生まれたばかりの体仁親王を崇徳天皇の皇太子に指名。

「退位後に生まれた皇子」が皇太子になるのは、さすがに世間体が悪かったのか、崇徳天皇の妃・聖子(藤原忠通の娘)の養子縁組を経ての立太子となりました。

 

「成勝寺」は、近衛天皇が生まれて皇太子になった年に創建されたんですねー。

なので、崇徳天皇の…というよりも、鳥羽上皇の発意で建てられたと考えられます。

 

永治元年(1141年)、かつて自身が白河法皇に迫られて譲位させられたように、崇徳天皇に譲位を迫って近衛天皇を即位させました

 

この時、崇徳天皇が「院政」できないようにするため、罠にハメるようなことをやらかして、後年「保元の乱」に発展してしまう火種をつけてしまいました。

 

MY「崇徳上皇」人物考(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11273390526.html

 

 

六勝寺の6番目は「延勝寺(えんしょうじ)」

 

近衛天皇により久安5年(1149年)に創建。

近衛天皇は御年10歳。即位8年目のことでした。

 

当然、こんな若年で「寺を建てる!」なんてできるわけもなく、この発意も鳥羽法皇によるもの(鳥羽上皇は、近衛帝即位翌年の1142年に出家して「法皇」になっています)

 

ちなみに、創建の久安5年(1149年)は、藤原得子が「美福門院」の女院号を得た年で、「悪左府」頼長が左大臣となった年、そして忠通が頼長と反目するきっかけとなってしまった息子・近衛基実が元服した年でもありました。

 

「保元の乱」の背景になった人たちが関連してくる年だったんですなー。「延勝寺」創建と関係あるのかな?

 

「延勝寺」は、平清盛の父・忠盛が建設責任者を務めたことでも知られます。

 

近衛天皇の12年の在位は、鳥羽院政の影響下。忠盛は鳥羽院の院近臣だったもんなぁ…と再確認する思いですねー。

 

忠盛は「延勝寺」だけでなく、同じく白河の地に建てられた、鳥羽上皇創建の「得長寿院」にも携わっています。

 

彼が担当した「観音堂」は、聖観音像が千体安置され、建物の規模は三十三間あったそうな。

 

三十三間の御堂と言えば…そう、「三十三間堂」

有名なこちらの方は、後に清盛が後白河上皇の「蓮華王院」本堂として造営したもの。

 

「得長寿院」の創建は天承2年(1132年)とされているので、清盛14歳の時。

「蓮華王院」の時、清盛の頭には父が作った「得長寿院」の三十三間堂の光景が広がっていたはずです。

 

ともあれ、この「観音堂(三十三間堂)」の建設によって、忠盛は鳥羽上皇から忠誠を認められ、武士として初めて内裏「清涼殿」への昇殿を許されることになりました。

 

ただ、得長寿院の三十三間堂は、元暦2年7月9日(1185年)に起きた「文治地震」で倒壊し、現存していません。

 

奇しくもこの年の3月24日、西国では「壇ノ浦の戦い」が起きています。

平家躍進の発祥ともいえる「三十三間堂」は、平家の滅亡とともに崩れ去っていたのですね…。

 

 

というわけで、以上「六勝寺」の歴史について、語ってみました。

 

なんとなく、白河天皇から近衛天皇に至る、5代の歴史っぽくなってるのは、気のせいではないです(笑)

 

 

 

 

ところで、最後の「延勝寺」を作った76代・近衛天皇の、次の天皇は誰か?というと、御存知。

 

我らが法皇さま、後白河天皇です。

 

近衛天皇を最後に、白河の地に「○勝寺」が作られなくなったのは、つまり後白河天皇が作らなかったから終わった…ということ。

 

これは何故なのか?

 

「六勝寺」は「各天皇の御願寺」と解説しましたが、実態を見てみると「治天の君」たる上皇(または出家して法皇)の発意によるものが多いです。

 

「法勝寺」「尊勝寺」「最勝寺」「円勝寺」は白河上皇(法皇)、「成勝寺」「延勝寺」は鳥羽上皇(法皇)の御意向によって建てられました。

 

後白河天皇が即位して、「保元の乱」が終わった時。

 

鳥羽法皇は崩御し、先代の近衛天皇も先立っていました。先々代の崇徳上皇は、敗北して讃岐へ移された身。

 

後白河天皇の御世には「上皇」が誰もいません

 

保元3年(1158年)に二条天皇に譲位してから、後白河上皇が拠点としたのは「東三条殿」、これが「平治の乱」で焼失してからは「法住寺殿」でした。

 

「保元の乱」で「白河北殿」が焼失してから、白河の地は「上皇の拠点(院御所)」として使えなくなり、だから後白河上皇は「○勝寺」を作らなかったんですかねー。

 

 

「法勝寺」を創建して「白河」を政治の舞台にした白河天皇。

「白河」を政治の舞台としては使用しなかった後白河天皇。

 

2人の天皇号に「白河」がついているのが、なんだか奇妙な符合に見えて来るなと、そんな気もしてしまいますね。

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ