治暦4年(1068年)4月19日。

藤原氏の女を生母としない尊仁親王(たかひと)が、天皇に即位しました。

 

第71代・後三条天皇。御年33歳。

 

幼年ではない天皇の即位も久しぶりながら、藤原氏を外戚としない天皇は170年ぶりという、なんだか珍事件のような様相を呈した天皇の誕生でした。

 

(#一応、後三条帝の母親は道長の孫娘ではあるんですが)

 

 

 

藤原氏が外戚ではなく、本人も幼年でもなければ、未熟でもない。

 

藤原氏の影響を払拭できるだけの能力・立場をそなえた後三条帝は、藤原摂関家の弱体化を狙った政策を打ち出したと言われています。

 

その頃の朝廷の財政は、ひどい有様。

「免税」の特権を持つ藤原氏や寺社に「寄進」された荘園が、「錐を打つ隙間もないほど」に蔓延っていたので、国庫はいつも火の車。

 

朝廷は少ない国衙領に重税を課し、国政を切り盛りしようとするので、民には大きな負担がかかっていた一方、国は何のサービスもしてくれないという、最悪の社会状態だったのです。

 

こうなったのも「私有と免税」をむさぼる荘園制度と、そこに胡坐をかく藤原氏のせい。諸悪の根源はココにあります。

ならば、藤原氏の荘園をなんとかすれば、そこから租税を徴収できるというわけです。

 

しかし、その藤原氏は言わずと知れた政府高官。

「荘園を廃止しよう」といえば、死に物狂いで反発してきます。

 

荘園をなんとかしようという試みは、これまで何度も試みられていたのですが、そのたびに潰されたり骨抜きにされたりして、上手く行きませんでした。

 

そこに来て、藤原氏を外戚としない後三条天皇の登場。

 

延久元年(1069年)「延久の荘園整理令」が発せられ、「すべての荘園から権利書(巻契)を提出させて、不正な荘園を調査・没収する」改革が断行されました。

 

外戚の地位を失っていた藤原氏は、折り悪く兄弟同士で内部分裂していたこともあって、これにあまり抵抗できなかったみたい。改革は見事に成功しました。

 

しかし、後三条帝は没収した荘園を国衙領には戻さず、天皇家の私領に入れます。

これがのちに、「院政」を行う際の経済基盤となっていきます。

 

 

後三条天皇が荘園を整理したのは、藤原摂関家を狙い撃ちにするためだったのか?

・・・・というのは、意見の分かれるところ。

 

でも、摂関家を警戒したのは本当みたい。

 

というのも、皇太子には貞仁親王(さだひと。のちの白河天皇)を指名しましたが、「その後継には弟・実仁親王(さねひと)を、その次は末弟・輔仁親王(すけひと)を指名するように」と申し渡していたからです。

 

系図(後三条2)

 

 

貞仁親王(=白河天皇)は藤原氏の娘を生母とする皇子でした。

摂関家ではないのですが、藤原北家出身であり、関白の弟の養子になっていた娘です。

(能信と関白・頼通は、異母兄弟で仲が悪く、反目しあっていましたが)

 

それに対し、実仁親王と輔仁親王は、源氏の娘を母としていました。

 

後三条帝は「本当は、摂関家とつながりのない実仁に後を継がせたいけど、まだ年若いから、貞仁を中継ぎにしよう」と、考えていたわけです。

 

これは紛れもなく、「貞仁のラインを皇統にしたら、摂関家が外戚として息を吹き返してしまうかもしれない」のを警戒しての戦略でしょう。

 

しかし、貞仁が天皇になってまもなく、実仁親王は急死してしまいます。

 

すると、白河天皇は「輔仁親王を後継者に」という父の遺言をあっさり無視(笑)

自分の息子・善仁(たるひと。後の堀河天皇)を皇太子とすると、譲位して上皇にクラスチェンジ。院政へと乗り出したのでした。

 

このあたりの話は以前にも少し触れたので、もし興味がありましたらついでにどうぞw

 

MY平安時代区分話(後編)(関連)

http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11228793955.html

 

系図で見てみよう (天皇家/平安時代概要)(関連)

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善仁親王の母は藤原摂関家(師実)の養女

白河天皇の勝手な独断によって、藤原摂関家は再び外戚に返り咲きました。

 

しかし、摂関家が息を吹き返したか・・・・というと、そうでもなかったのは「平清盛」を見ていても感じるところ。

 

外戚の地位を回復したのに、どうして摂関家は昔日の勢いを取り返せなかったのだろうか?

 

その謎を解く鍵は、前回触れた「受領」たちの動向にあったと、ワタクシは思います。

 

すさまじきもの(関連)

http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11299899602.html

 

受領たちは、藤原摂関家に不満を持っていました。

 

中流以下の貴族は、一族の繁栄を狙うには「受領」になるしかありませんでした。

しかし、赴任先で蓄財の邪魔をしていた存在こそが「荘園」であり、「荘園制度」の最大の主が藤原氏でした。

 

しかし、藤原氏におべんちゃらを使わなければ、そもそも「受領」になることすら不可能。

それは、藤原氏が人事権を握っていたためです。

 

この矛盾が、「受領」たちには大いに不満でした。

 

そこに登場したのが、「元天皇」で「天皇の父(祖父)」という最高の権威をもつ「上皇」が、独自の政治を行う「院政」でした。

 

上流貴族は朝廷に属しているため、院庁は中流以下の貴族や武士を積極的に登用していました。

 

つまり院政の時代とは、摂関家が弱ったところに、新たな権力構造が生まれた時代だったわけです。

 

「院に仕えるのは、新しい繁栄の道かもしれないな!」

「藤原氏に気を使わなくてもいいんなら、それに越したことはないわなぁw」

「受領には院から命じてもらおうぜ」

 

こうして中流以下の受領層は、次々に「院政」を支持

 

新しい時流に取り残された藤原摂関家は、昔日の勢いを取り返せないまま、清盛たちの時代を迎えることになってしまったのでした。

 

 

ちなみに、後三条帝の意思を破り、輔仁親王を皇太弟として立てずに善仁親王を次期後継者にした白河天皇は、それに不満を抱く勢力を警戒したみたい。

 

そこで、輔仁親王派が威圧をかけてきても対処できるように、院に護衛の兵力を集めました。

 

これこそが、「北面の武士」の始まりと言われています。

 

「院政」「北面の武士」「荘園整理」「摂関家の没落」

 

平安時代末期を彩る、これらの現象を演出したのは、藤原氏の操り人形にはならなかった後三条天皇の意思のなせるものであり、また白河天皇の我がままが後押ししたものであったことが、よく分かると思うのですが、どうでしょうかねー。

 

 

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