本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画。

 

第5弾。前回(と前々回の半分)は良房だったので、今回は次の代の…と、行きたい所ではあるんですが。

 

もう1つ、避けて通っちゃうのはなぁ…っていう大事なことがあるので、それについて語ってみます。

 

さすがは日本史上の巨人、藤原良房。三部作になってしまったわ。

 

その避けては通れないこととは?については、タイトルバレしてますね(笑)

サブタイトルつけるのヘタで…まぁ分かりづらいよりはいいかな。

 

 

「応天門の変」は、貞観8年(866年)に起きた政治事件。

語呂では「野郎ムカツク応天門」。そう、藤原良房の摂政就任と同じ年です。

 

…というあたりは、前回も軽く触れました。

 

でもって、よく「藤原氏による他氏排斥事件の1つ」と紹介されます。

事実、この出来事によって大伴氏と紀氏が没落。藤原氏は2つもライバル氏族を中央政権から追いやることに成功しています。

 

でも、この事件は「藤原氏の他氏排斥事件」って一言だけで捉えてもいいのかな?もっと違う側面があるのに、それを見落とすことになってない??

 

ワタクシはそんな風に妄想していたので、これを機会にそれを語っちゃおう!

というのが、今回のもう1つの軸となっています(今回予告)。

 

 

話は「応天門の変」からちょこっと遡ったところから始まって…。

 

 

清和天皇が即位してから4年が経った、貞観4年(862年)。

年の暮れから翌年にかけ、京の都で疫病が流行り出しました。

 

咳逆病(がいぎゃくびょう)」と呼ばれ、今でいうとインフルエンザの大流行だったみたい。

 

大勢の死者を出し、これを問題視した朝廷は「朱雀門(大内裏の正門)」と「建礼門(内裏の正門)」で「大祓」を執り行って邪気を祓い、困窮者に医薬品が賑給されました。

 

この波は朝廷の中まで押し寄せ、翌年の1月から2月にかけては源定(大納言。嵯峨源氏)が薨去したのを皮切りに、藤原興邦(内蔵権頭。藤原北家・鳥養の5世孫)、大原内親王(平城天皇皇女)、源弘(大納言。嵯峨源氏。定の兄)、統忠子(淳和天皇皇女)と、2ヶ月で多くの者たちが亡くなる凄まじさとなります。

 

2年後の貞観6年(864年)、東国では富士山の大噴火があった年(「貞観大噴火」)

良房がその「咳逆病」に罹り、前後不覚になってしまいます

 

御年60歳。年も年なだけに、朝廷は政情不安に沈みかけたようです。

 

「政務に支障が出てはいけない…」

 

良房は重篤状態は脱したものの、政務は藤原良相(よしみ)に委ねて、自身は幼帝の孫・清和天皇(御年12歳)の輔弼に専念し、半ば隠居することにしました。

 

 

藤原良相は、冬嗣の五男。良房の7歳年下の同母弟にあたります。

弘仁4年(813年)生まれなので、この時51歳。右大臣にまで昇っていて、朝堂では序列3位でした。

 

1位はもちろん、良房。

そして序列2位の左大臣は、源信(みなもと の まこと)。

 

弘仁元年(810年)生まれなので、この時54歳。

嵯峨天皇の子で、潔姫(良房の妻)と一緒に臣籍降下した、4男4女の「嵯峨源氏」の1人でした(ちなみに、異母兄弟の正良親王=仁明天皇と同い年)

 

序列4位にいたのは、伴善男(とも の よしお)。

大納言。弘仁2年(811年)生まれなので、この時53歳。

 

伴氏は、元々は大伴氏。古代からの名門氏族ですが、それだけに時流に呑まれやすかったようで、散々な目に遭ってやや落ちぶれていました。

大伴氏から大納言が出たのは「大伴旅人」以来、実に134年ぶりの出来事。それだけ伴善男は「できるヤツ」だったわけですなー。

 

1位・太政大臣:藤原良房

2位・左大臣:源信

3位・右大臣:藤原良相

4位・大納言:伴善男

 

この朝堂ベスト4が、各々の立場で政治スキャンダルを演じた事件

それが「応天門の変」なのでした。

 

 

「応天門の変」が起きたのは、貞観8年(866年)。

良房が半ば隠居状態になって、2年後のことでした。

 

ひとことに「応天門の変」と言ってしまいますが、連続した2つの事件を一括りにしています

 

1つ目の事件は、貞観8年閏3月10日(866年4月28日)の夜半。

 

「朝堂院」の正門にあたる大事な建造物「応天門」が炎上し、門の両サイドにあった棲鳳楼と翔鸞楼に延焼。

 

一夜にして応天門が焼失したこの出来事に、朝廷は「不吉」を感じたと言われています。

 

「門」ということは、住居のように生活の営みから失火するなどは考えられず、「放火…?」というのは、誰もが自然に思いつくこと。

 

さらに「大内裏」の中の「朝堂院」の正門…という場所柄、放火だったとすると犯人は朝廷の関係者に限られる…という、不審不穏な要因がメラメラしている火災でした。

 

 

とはいえ、この頃は旱魃などが相次ぐ乾燥した世界だったので、自然発火だったのかもしれないですね。

 

乱世の温度(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12784080948.html

 

おそらくは「ただの火事」だった、この出来事を政治利用しようと伴善男が企みます。

 

伴善男は「応天門の火災は左大臣・源信が放火した事件」であると、右大臣である良相に告発します。

 

伴善男は、源信をとても嫌っていて、2年前の貞観6年ごろから「源信に謀反の噂がある」と上奏していたようです。

 

結局は取り上げられなかったので、詳細はよく分からないのですが、貞観6年と言えば、良房が体調を崩して半ば引退状態になった年。それを好機として捉えたんでしょうか。

 

また、左大臣が失脚すれば、自分はもっと上位に昇れる…という出世欲もあったといいます。

 

伴善男は策略のために、良房から信任を受けて朝堂を先導していた右大臣・藤原良相とタッグを組みました

 

「藤原氏にとって朝堂に嵯峨源氏がいるのは邪魔でしょう?」

「源信を追い払えば、貴方が左大臣に昇れますよ?」

「一緒に排除しませんか?」

 

そう誘導したのではないか…と言われます。

 

伴善男と良相は、源信を喚問することにしました

「放火の罪科で主人が捕まるかもしれない」と、源信の家人たちは絶望に慄きました。

 

しかし、間一髪のところで、隠居していたはずの良房から手が差し伸べられました

「源信がやったという確証はない。とりあえず、包囲は解いて差し上げなさい」

 

この時、良房は清和天皇に解放の許可まで取り付けていました。

太政大臣と天皇の両方に介入されてしまっては、伴善男と良相には為すすべもありません。

 

源信は解放。しかし、事件のショックで心がポッキリ折れてしまったようで、以後は自宅に塞ぎ込むようになってしまいました。

 

こうして「応天門の変・第一幕」は、「政治事件」としては一旦鎮火します。

 

 

2つ目の事件は、それから約半年後。

貞観8年8月3日(866年9月15日)、突然「あの火災は放火だった」と告発する者が出現します。

 

放火の犯人として名差しされたのは、なんと伴善男!!

「えっ、左大臣の源信じゃないの??」と目を疑う衝撃の展開から、事態は「政治事件」として再燃。

 

伴善男は、先述した通り源信に謀反の疑いがあると散々言及していたので、「あれは左大臣を陥れるための自作自演だったのか」と、官人たちは合点が行きました。

 

しかし、実は告発した男・大宅鷹取(おおやか の たかとり)は、娘を伴善男の下僕に殺害されていました。

「娘の復讐のために、伴善男を陥れてくれるわ!」という魂胆が見え見えで、ウソの目撃情報をでっち上げた可能性も、だいぶありそうです。

 

源信は、本当に放火していなかったのか?

伴善男は、本当に放火したのか?

あるいは「ただの火事」で、どちらも無実なのか?

 

誰が本当のことを言って、誰がウソをついているのか?

 

心理ゲームみたいな混乱状態に朝廷が動揺。

 

源信を罰すれば、嵯峨源氏からの反発は必至。

さらに朝堂2位の左大臣が罪人になるという衝撃が朝廷を襲います。

 

伴善男を罰すれば、彼には「応天門の放火」とともに「左大臣を陥れようとした」という大逆罪までオマケが付き、さらに協調した右大臣・良相もタダでは済みません。

 

どこをどう切っても今のままではいられなくなる重大局面…。

清和天皇は、良房に政界復帰を促し、「摂政」の詔を出して事態の収拾を命じました。

 

結局、良房は「伴善男が犯人である」と断罪

 

伴善男は失脚。「策士策に溺れる」という無惨な結末で終幕…というのが、「応天門の変」のあらすじです。

 

 

以上のように、スキャンダラスな展開の挙句に伴氏の排除に成功したと言われる「応天門の変」ですが、大きな疑問と言えば、以下の2つがあります。

 

なぜ、伴善男は源信をハメようとしたのか?

なぜ、伴善男は失敗してしまったのか?

 

…というあたりを探っていくのが今回のメインテーマなのですが、気になることを先に片づけます。

 

序列3位の右大臣、藤原良相は、良房の同母弟。

一応、このシリーズは「藤原の兄弟たち」なので、彼も紹介しないとね…というわけでw

 

 

前回、良房と良相の兄にあたる藤原長良の人物について、wikipediaの文章を引用して紹介したのですが、あの文章をもう一度見てみると…

 

高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。

出典:wikipedia「藤原長良」

 

弟達に官途で先を越された…「弟たち」と複数形になっています。

 

長良は、すぐ下の弟・良房だけでなく、9歳年下の良相にも、昇進面で後れを取っていたのですねー。

 

仁明天皇が即位した翌年の承和元年(834年)、良相は官暦をスタート。

 

順調に昇進を進め、「承和の変」では兵を率いて恒貞親王の邸宅を囲み、兄の意向に応えています。良相は武官だったんですね。

 

承和15年(848年)には参議に任ぜられて議政官の仲間入り。

 

嘉祥3年(850年)、文徳天皇が即位すると、皇太子となった惟仁親王の春宮大夫に任ぜられました。

 

翌嘉祥4年(851年)、従三位・権中納言に叙され、この時に兄の長良を越えます

 

天安元年(857年)、太政大臣に昇進した良房の後を受けて右大臣に就任し、清和朝を迎えることになりました。

 

 

良相が昇進面で長良を越えていけたのは、何故だったんだろう?

 

良房は、嵯峨上皇の婿(娘・潔姫の夫)だったことが、エリートコースへの力強い追い風になって、兄を越えて行けたのなかぁ…と考えたのは、前回紹介しました。

 

でも、良相の妻は、従五位下・大江乙枝の娘。

良房の嫁とは比べ物になりませんし、長良の嫁(藤原総継。藤原北家魚名流。従五位上)とは、そう大差ありません。

 

良房のお気に入りだったから…とは、よく聞く話。

時の権力者である良房に気に入られなければ、出世できないですからね。

 

でも、良房は長良とも仲は良好だったと、歴史は語ります。

前回、良房は基経(長良の息子)を養子に迎えたと紹介しましたが、それができたのも親密だったからこそ。険悪だったら無理です。

 

なので、良房のお気に入りという点でも、長良と良相に格別の差があったような感じはしません。

 

良相が長良より有能だったから…とも、よく言われるみたい。

 

ここは判断のしようのない所。でも、長良は亡くなった時点で権中納言(太政大臣は没後の追贈)。ここまで昇ったのに能力は凡人だったなんて、評せるものなんだろうか。

 

長良を良相が追い越せた真相は、ぶっちゃけ分かりません。

ですが、それだとブログが進まないので(笑)妄想話として言ってしまうと。

 

ワタクシは、順子が支援していたのではなかろうかと考えています。

 

 

藤原順子(のぶこ)は、藤原冬嗣の長女。

仁明天皇に入内した、道康親王(文徳天皇)の生母

 

大同4年(809年)生まれなので、良房の5歳年下の同母妹。

良相にとっては2歳年上の同母姉にあたります。

 

 

順子にとって良相は、年齢も近く、母を同じくする唯一の弟

 

この時代の「姉と弟」の上下関係って、正直よく知らないのですが、もしかしたら兄たちよりも気が許せて、そして気軽に使える男だったのかもしれない(笑)

 

天皇の后である順子が、お気に入りの弟として良房に推したから、兄の長良を越えて昇進したんじゃないかなぁと(となると、長良と順子はそれほどでもなかったんかな)

 

そう思う理由は、実は「応天門の変」にも表れてます。

 

事件の首謀者となった伴善男は、当時の身分は「正三位・皇太后宮大夫民部卿大納言」でした。

 

「大納言」と「民部卿(財務大臣)」とともに、「皇太后宮大夫」を兼ねています。

 

皇太后宮大夫は、皇太后に仕える側近のトップ。

この時の皇太后は、文徳天皇の母である藤原順子その人。

 

伴善男は、順子のすぐそばにいたのです

 

久しぶりに大伴氏から大納言を出せたのって、善男が天皇の生母たる順子の側近くに仕えて覚えめでたかった、順子の「お気に入り」だったからなのではなかろうか。

 

そして、「応天門の変」は、伴善男が良相と共謀して、源信をハメようとした事件。

 

順子というフィルターを通して見てみると、順子のお気に入りの臣下・善男と、順子のお気に入りの同母弟・良相の組み合わせ。

 

伴善男と良相がなんで協調したのか?それは、順子というハブが繋げていた関係じゃないのかなぁ…と、なるわけです。

 

 

そんな順子と、良房の仲がどうだったのか、歴史は語ってくれません。

 

ワタクシは、不仲とまでは言わなくても、文徳朝に入ってからはビミョウだったんじゃないかな…と思います。

 

というのも、文徳天皇と良房の関係がビミョウだったから。

 

文徳天皇は在位8年、嘉祥3年(850年)に31歳の若さで崩御するのですが、その早過ぎる死には「良房による暗殺」説が浮上するほど、関係が良くなかったとされています。

 

良房と文徳天皇が不和になった理由は、皇位継承者問題。

 

文徳天皇は、自分の後は第一皇子の惟嵩親王(これたか)を皇位につけたいと考えていました。

 

しかし、文徳天皇が即位した直後、良房の娘・明子が、文徳天皇第四子となる惟仁親王を出産すると、良房は惟仁親王を立太子するべくゴリ押しを始めます。

 

惟嵩親王の母は、紀名虎の娘。藤原氏の母ではありません。

 

文徳天皇は「中継ぎで惟嵩親王を即位させる」などの案を出して調整を望みますが、良房はガンとして譲らず、ついには叶わずに諦めてしまうことになりました。

 

このあたりは、在原業平と絡めても紹介したことがあるので、気が向かれたらそちらも見て頂きたいのですが、それはともあれ。

 

をとこありけり(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html

 

この様子を見ていたであろう、文徳帝の母である順子は、どのように考えていたのだろうか。

 

表向きは藤原氏のために、惟仁親王を推すよう息子を説得しつつ、内心では息子の思い通りにしてあげたかったのではなかろうか…。

 

「息子を苦しめるだなんて…兄にとっても可愛い甥っ子で婿のはずじゃない」

「惟仁親王が成長したら譲位させるという条件を出しているんだから、惟嵩親王に皇位を渡させてあげてもいいのに…」

「良房兄は鬼だわ…」

 

文徳天皇は、実は「惟仁親王への譲位を前提に、惟嵩親王を即位させよ」と、左大臣の源信に命じたといいます。

 

源信は、これに不服従。

「おそれながら、惟仁親王に罪があるのなら、それも叶いましょう。しかし罪がない以上、惟仁親王以外の者を立てるのは、従いかねます」

 

文徳天皇の願いは、これで完全に断たれ、やがて自身の死と共に、惟仁親王(清和天皇)が即位することになりました。

 

結果論として、惟嵩親王の即位の道は、源信によって完全に阻止された形になりました

 

これを良房が、順子が、どう思ったか?を考えてみると。

 

もしも、順子が「源信…ひどい…」と悲嘆に暮れたとするなら、それは順子の手足となって働いていた伴善男も、きっと共有したと思います。

 

伴善男が不思議なくらい源信を憎み、「何の証拠もないのに謀反の噂を上奏」し、応天門の火災を「源信の仕業として上奏」するという、無謀ともいえる謀略に打って出たのは、「順子のため」の一心から出た行動だったのではなかろうか。

 

そして、もしかしたら本当に、伴善男は応天門に火を放ったのかもしれない…?(ワタクシは半信半疑ながら)

 

一方で、「惟嵩親王を即位させる命令」に不服従の態度を取り、惟仁親王の立太子を説得した源信に、良房は感謝したのではなかろうか。

 

既成事実は怖いもので、本当に惟嵩親王が即位していたら、良房でも「いまのナシ!」とはできません。そうなっていたら、約束通りに惟仁親王に即位の芽が回って来ていたかも分かりません。

 

そして、源信は嵯峨源氏…藤原氏ではありません。嵯峨源氏は嵯峨上皇の精力のおかげで(笑)いっぱいる脅威の勢力。良房とは異なる独自の行動を取ることも可能だったでしょう(良房と対立するリスクはもちろんありますが)

 

そんな危機的状況を、源信は己の判断力で回避してくれたのです。

 

それに対する感謝の気持ちを返したのが、「応天門の変・第一幕」で見せた、源信の弁護だったのではなかろうか

 

決して、妻(潔姫)の兄だから…という、その一点だけではなかったと、ワタクシは思います(なので、前回の「花婿の禍福編」では触れませんでした…ガマンしました・笑)

 

このあたりの良房の心の機微を、伴善男は見誤ったのが、失敗に繋がったのだと思います。

 

いや、見誤ったのではなく、軽んじていたのかもしれないですね。

良房は半ば隠居状態でしたし、その引退した直後から盛んに源信の謀反の噂を使い出しているあたり、「太政大臣がいなくなった今、右大臣(良相)さえ上手くたぶらかせられれば、左大臣は落とせる」と踏んでいたのでしょう。

 

良房が政務から離れたあと、朝堂は順子・善男・良相の三党体制となったそうです。

 

源信をハブっているこの体制を見て、良房はどう思っただろうか。

「あいつら…俺がいなくなった途端に調子に乗り始めたな」と眉をひそめていた…のかもしれません。

 

解明困難な応天門火災事件を「伴善男が犯人」と断罪した背景には、順子の揺れ動く気持ちと、そこに忖度した伴善男の姿があり。

 

そこには、文徳天皇の「惟嵩親王を即位させたいという叶わなかった願い」が伏流水として根底を成しているのではなかろうか。

 

ワタクシはそう妄想しているんですが、どうなんでしょうかねー。

(あくまでも妄想ですが、一応、真面目に考察はしているつもり)

 

 

有罪判決を下された伴善男は、伊豆国へ流罪。

貞観10年(868年)、配流先の伊豆で死去したと言われています。

 

息子の伴中庸(なかつね)は隠岐国へ流罪。

古代豪族・大伴氏は、ここに没落してしまいました。

 

順子は「応天門の変」から5年後、貞観13年(871年)に62歳で崩御。

「お気に入り」の善男が罪人として近辺から離れた後、どのような生活をしていたのかは、よく分かりません。

 

実権は、清和天皇の生母である明子(あきらけいこ。良房の娘)に移っていたみたい。

順子の政治力は低下してしまった…ということなんですかね。

 

良相は、伴善男に連座して罪人になる…というようなことはありませんでしたが、「応天門の変」を期に、政治影響力をガタ落ちさせてしまったみたい。

 

元々、順子と伴善男の三頭体制だったところを、2人が力を落としてしまったのだから、当然と言えば当然だったかもしれません。

 

結局、数多ある歴史の読み物やあちこちの歴史サイトが言うように、「応天門の変」によって藤原氏は他氏排斥に成功し、良房は勝ち組として政権の独占に一歩近づけることになりました。

 

しかし、「応天門の変」はそれだけじゃない、愛する子に皇位を継がせられなかった文徳天皇の嘆きと、寄り沿う母の悲しみそこに呼応した成り上がり者の捨て身の献身があったのではなかろうかと。

 

そんな妄想話をしたかったんですよ…ということで、今回はオシマイにしたいと思います。

 

結局、良相というよりは順子のお話みたいになってしまったような…。

まぁ、「藤原の兄弟」に変わりはないのでヨシ!ってことで。

 

 

 

余談、その1。

 

「応天門の変」の首謀者・伴善男。

彼についてwikipediaを見てみると、こんな人物像が紹介されています。

 

生まれつき爽俊(人品が優れている)な一方で、狡猾であり黠児(わるがしこい男)と呼ばれた。また、傲岸で人と打ち解けなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯は矮小であった。

引用先:wikipedia「伴善男」

 

「品が良い」と言いながら「悪賢い」「傲岸」「忍酷」と、上げて下げる論法(笑)

 

これを歴史書に記述した人、ラスボスは高潔偉大であって欲しいと思ったのか、罪人なんだけど同情される面もあるんだよと思われたのか。

 

伴善男は、地獄から這い上がって来た男

 

奈良時代、曾祖父の大伴古麻呂が「橘奈良麻呂の乱」に連座して刑死。

さらに「藤原種継暗殺事件」の主謀者として、祖父の大伴継人が処刑。

善男の父・国道も連座して佐渡に流罪となってしまいました。

 

善男は、父の配流先の佐渡で生まれた説もあるほど、凄惨な底辺からの人生のスタートを余儀なくされたわけですな。

 

伴善男の運が開けたのは、赦された父とともに在京して、校書殿官人(国会図書館管理人。830~841年)を務めていた時代に、正良親王に見出されたことがきっかけ。

 

その才能を看破した正良親王は、天長10年(833年)即位して仁明天皇となると、善男を大抜擢。彼の立身出世が始まります。

 

仁明天皇は、藤原順子の夫。後に順子の知遇を得ることになる前段階に、こうした経緯もあったわけですね。

 

承和13年(846年)の右少弁となっていた時代、勤め先である弁官局で、とある事件が起こります。

 

奈良・法隆寺に仕える僧の善愷(ぜんがい)が、寺の財物を私物化する有力檀越の登美氏(とびし。聖徳太子の弟・来目皇子の末裔)を見かねて、横領を止めさせるために弁官局に告訴して来たのです。

 

6名の弁官のうち、左大弁の正躬王(まさみ。桓武天皇の孫。ちなみに魚名の孫娘・小屎の孫でもあります)を始めとする5名は、「これは違法だ」と判断して有罪判決を下します。

 

ですが、6人目の弁官・善男はこれを認めず、猛烈に批判を始めます。

 

「律令では、僧は僧形のまま告訴してはいけないことになっているのに、何故それを見逃すのか!この判決は不当手続きにより無効である!そして、この違法判決を下した5人の弁官の処罰を要求する!」

 

一見すると難癖、しかし筋だけはピンと通っているこの弾劾を覆すことが出来ず、正躬王らは失脚。

この「善愷訴訟事件」は注目を浴び、善男は一躍有名人に躍り出ることになりました。

 

嘉祥3年(850年)、善男を重用してくれた仁明天皇が崩御し、文徳朝に入ると、先述した「皇太后宮大夫」を務めることになります。

 

「皇太后宮大夫」と「民部卿(財務大臣)」を兼ねながら、清和朝の貞観6年(864年) には「大納言」にまで到達。

 

大伴氏としては、奈良時代の旅人(たびと)以来、134年ぶりの大納言。

それも二代に渡って罪人を出した古麻呂の系統からです。

よろこびも一入だったことでしょうなー。

 

ところで、「応天門の変」は、左大臣を讒言で陥れようとし、さらに朝堂の建造物に放火までしたという大罪ですが、結末は「伊豆へ流罪」。「死罪」ではないのです。

 

実は伴善男、自分を取り立ててくれた仁明天皇への感謝を忘れず、ことあるごとに法事を行って仁明天皇の菩提を弔っていた…その忠義に免じて罪一等を減じられたとされています。

 

伴善男、「立身出世のためなら何でも利用してやる踏み台にしてやる」という出世蛮族な感を出しながらも、順子に身を粉にして仕えるとともに、仁明天皇への感謝も忘れていなかったんですねー。

 

こういう所が「生まれつき爽俊」っていうことのかなぁ。

 

 

余談、その2。

 

「応天門の変」は「朝堂トップ4が参加した政治事件」ですが、この事件が起きた貞観8年(866年)。

実はもう1人、伴善男と同じ「大納言」についていた、つまり同点4位だった人物がいます。

 

彼の名は、平高棟(たいら の たかむね)

 

「桓武平氏」の1人で、後に「堂上平氏」と呼ばれる、桓武平氏の代表を成す一族の祖です(清盛の正妻・時子(二位尼)や高倉天皇の母・慈子(建春門院)の遠い祖先ですねー)

 

系図で見てみよう(桓武平氏)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233864292.html

 

延暦23年(804年)生まれなので、実は藤原良房と同い年。

天長2年(825年)淳和天皇の時代に「平姓」を賜って臣籍降下。良房がインフルエンザにかかって半ば引退した貞観6年(864年)、60歳の時に「大納言」に至っています。

 

高棟が「応天門の変」の時、どんな反応を見せてどういう行動を取ったのか?は分かりませんでした…。

 

翌年の貞観9年5月19日(867年)に享年64で薨去されているので、体調が良くなかったのかもしれないし、晩年は別邸を「平等寺」という仏教道場にして読経三昧、食封の多くを仏事に費やしたというので、政務にはあまり積極的でなかった(つまり「拘わってない」)のかもしれないですね。

 

ちなみに、時子や慈子の直系の祖となる高棟の子・平惟範の母は、藤原有子。 

この女性、実は藤原長良の娘。となると、高棟は長良の婿=良房の側=事態を静観する立場だったのかな。

 

でも有子が「応天門の変」の頃に亡くなっていて、葬儀やら法事やら死穢やらで政変に拘わっている状況ではなかった…のかもしれない。

 

結局、よく分かりません(笑)

 

 

余談、その3。

 

「惟嵩親王を即位させたい」という文徳天皇に、服従することなく惟仁親王(清和天皇)を支持した嵯峨源氏・源信

 

このお話は、「応天門の変」から時が流れること約70年後の承平元年(934年)。

重明親王(醍醐天皇の皇子)を訪ねた藤原実頼(参議。良房の曾孫。良房-基経-忠平-実頼)が、父・忠平から聞いた昔話として語ったものを、重明親王(通称「吏部王」)が日記に記録していたことから、伝わっています。

 

文徳天皇最愛惟嵩親王 于時太子幼冲 帝欲先暫立惟嵩親王 而太子長壮時 還継洪基 其時先太政大臣仰曰 太子祖父爲朝重臣 帝憚未發 太政大臣憂云 欲使太子辞譲 是時藤原三仁善天文諌大臣曰 懸象無變事必不遂焉 爰帝召信大臣清談良久 乃命以立惟嵩親王之趣 信大臣奏云 太子若有罪須廃 點更不還立 若無罪 亦不可立他人 臣不敢奉詔 帝甚不悦 事遂無變無帝崩

(出典:『吏部王記』逸文 承平元年9月4日条)

 

「帝(文徳天皇)が源信を召して歓談していた際(爰帝召信大臣清談良久)、「惟嵩親王を即位させるよう命じたい」と仰ったのを(乃命以立惟嵩親王之趣)、「惟仁親王に罪があるなら廃するべきですが、罪もない者に代えて他人を立てるべきではありません(太子若有罪須廃 點更不還立 若無罪 亦不可立他人)。この命令には敢えて従えません(臣不敢奉詔)」と源信は申し上げた(信大臣奏云)そうだ」…というわけ。

 

この承平元年の7月に宇多上皇が崩御し、日記が書かれた2日後に火葬される予定でした。

 

宇多上皇の崩御は、前年の醍醐天皇の崩御に続く衝撃。

すでに即位していた幼帝の朱雀天皇は、父帝(醍醐天皇)に続いて祖父(宇多上皇)の後見も失い、藤原忠平が補佐をすることになっていた…という状況。

 

9歳の幼帝・朱雀天皇を摂関の忠平が輔弼する体制は、9歳の幼帝・清和天皇を良房が摂政として後見した時と、ほとんど同じ。

 

だから、祖父(基経)から父(忠平)へ、そして実頼へと語られた「古事」が思い出されて、雑談として重明親王の耳に入った…というわけなんですね。

遠い日の記憶は、こんなところでひっそりと語り継がれていたんですな。

 

日本史上、初の幼児の立太子→幼帝の即位となった清和天皇

 

しかも、上の3人の兄を飛び越えて強引に皇位につけられた、反感と憐みが鼻につく王者は、貴族たちの支持を集められていなかったとも言われます。

 

それでも、朝堂2位にある源信が支持してくれた…。良房はやっぱり、源信に大きく感謝していたってことなんでしょうね。

 

でもって、文徳天皇のあの発言が気になりません?

 

幼い惟仁親王が成人するまでの中継ぎでいいから、惟嵩親王を即位させたい(于時太子幼冲 帝欲先暫立惟嵩親王 而太子長壮時 還継洪基)」

 

中継ぎでいいから…。

 

そこまで譲りますから、どうか…って表明、いくら最愛の息子のためだったとはいえ、どういう心境だったのか…。

 

文徳天皇は仁明天皇の皇子でしたが、最初から皇太子だったわけではありません

 

父帝の仁明天皇が即位した時、祖父の嵯峨上皇はまだ存命で、祖父が皇太子に選んだのは「恒貞親王」でした

 

恒貞親王は、仁明天皇の先代・淳和上皇の皇子。

それが「承和の変」によって廃太子されてしまい、文徳天皇(当時は道康親王)が立太子される…ということになったわけです。

 

…というのは、前々回の「橘の恩返し編」でも見てきました。

 

恒貞親王の悲運をつぶさに見て、その将来を奪い取る形で皇位についた文徳天皇は、皇位継承がこじれると、とんでもない悲運が待っている…それをイヤというほど知っていたわけです。

 

「中継ぎでいいから」は、その時の記憶が口をついて出させた言葉で、もしかしたら本音ではなかったのかもしれない。

 

それでもなお。あの悲劇を熟知していてもなお。

「惟嵩親王に皇位を」と願ってしまう。

 

愛は記憶を凌駕する…んですかねぇ。

 

 

 

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