帰り道、1本前の電車が人身事故に遭遇してしまったようで、辺鄙な駅で2時間も足止め喰らっちゃいました。

いやぁ、ひどい目に遭ったものです。

 

 

今日は、桓武平氏の系図を取り上げます。

 

例によって、系図の中身について適当に語りますねw

 

系図(桓武平氏)

 

葛原(かずわら)親王の子である高棟王(たかむね)高望王(たかみ)の兄弟が平氏の姓を賜って臣籍に下ったのが「桓武平氏」の始まりです。

 

高望王は早くに父・高見王を亡くしてしまい、後ろ盾のないままでは中央にいても出世の見込みがないので、肥沃な坂東に下って統治する道を選び、「坂東平氏」の祖となった・・・・と、かつては言われておりました。

 

しかし、高見王は系図を表わす史料には載るものの、それ以外では記録がない謎の人物
成人になった皇族なのに官歴も何も分からないなんて、そんなことある・・・・?本当は実在しなかったのでは・・・・?

 

確かに、高望王の「望」「み」とも読むことができて、「『高見王』は『高望王』の名前を書き違えたもの」と取ることもできます。


つまり高見王は高望王と同一人物だったのでは・・・・?というわけ。もしそうならば、高望王は本当は葛原親王の子で、高棟王の兄弟ということになりますね・・・・というバージョンで系図にしてみました。

 

ともあれ、高望王は父たちとは別れて、上総介として実際に坂東の地へと赴いたのは本当みたい(当時は赴かない上級国司も多かったのですが)。

 

高望王本人はやがて西海道の国司を任じられて大宰府に赴き、この地で没したようですが、連れて行った子供たちは在地勢力の娘をゲットして、そのまま土着。その後の坂東平氏の基盤を固めたのでした。

 

ちなみに大宰府と言えば、菅原道真
彼が左遷され、この地で望郷の思いを抱きながら没したということでも有名な地です。

 

菅原道真が大宰府に赴任したのは昌泰4年(901年)~延喜3年(903年)
高望王が大宰府に赴任したのは、延喜2年(902年)~延喜11年(911年)
なんと二人は大宰府で会っている可能性がかなり高いのです。だから何?と言われても困るのだけれど(笑)

 

一方、高棟王(たかむねおう)は京から離れず中央政権に残り、公家平氏(堂上平氏)」と呼ばれる一派の祖となります。

 

妻は藤原長良の娘。つまり藤原基経、藤原高子(清和天皇女御、陽成天皇生母)らの姉妹です。

 

大河ドラマ「平清盛」でも登場した平時子(清盛の正室。二位尼)平時忠(ときただ。時子の実弟)の実家は、この公家平氏の出身。同じ平氏でも、だいぶ遠い親戚です。

 

(桓武平氏やそれ以外の桓武天皇所縁の賜姓皇族については、こちら↓で紹介してますので、宜しければー)

 

系図で見てみよう(桓武天皇御後)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12784649757.html

 

話を高望流に戻して・・・・。

 

坂東に根を張った平氏は、平安時代の中期頃に平将門の乱」(939年)平忠常の乱」(1030年)という、大きな戦乱を起こしています。

 

「将門の乱」のほうは坂東の平氏が一丸となって討伐し、早くに決着がつきましたが、「忠常の乱」のほうは失敗。戦乱が長引いてしまいました。

 

すると中央から朝廷軍として源氏が派遣され、ようやく乱は鎮圧。これを機に源氏が坂東で幅を利かせるようになっていきます。

 

そんな「源氏の我が物顔」に従う気がなかった平維衡(これひら)が、伊勢國に流れて根を張り、伊勢平氏(つまり清盛たち一族)の祖先となりました。

 

清盛たちは、平氏の傍系であるばかりか、坂東から逃げ出した一族でもあるわけで、藤原氏どころか同族(坂東平氏)からも低く見られていたのではなかろうか・・・・と、ワタクシは想像しています。

 

この点、武家政権を樹立させる意味においては、祖先が築いた名声と父(義朝)が築いた坂東の地盤を背負ってスタートできた頼朝と比べると、忠盛・清盛親子には大きなハンデがあった・・・・というのが、MY平家パワーバランス論です。

 

 

ところで、この平安時代末期を彩った武家同士の争いって、「源氏vs平氏」の戦いだと思ってません?

 

よく「源平合戦」と言われるし、最終対決が「源頼朝vs平宗盛」だったので間違いとは言い切れないんですが、桓武平氏の系図を見ると、頼朝の側について戦った人たちが目につくかと思います。

 

源頼朝の舅・北条時政。頼朝側のナンバー2・平広常(上総介広常)。義経と口論した梶原景時。平敦盛を討った熊谷直実。etc・・・・。

 

「源平合戦」は、実質上は「坂東平氏」と「伊勢平氏」の戦い、つまり「平平合戦」だった・・・・とも言えるわけです。

 

このように考えてみると、
流謫の身である頼朝が「奢れる平家」を相手になぜ戦えたのか?
坂東の武士たちはなぜ平家の元に集わなかったのか?
鎌倉幕府の源氏公方が三代で滅びてしまったのはなぜか?
そのあたりが、見えてきたり見えなくなったり(?)するんじゃないかなーと思ったするのですが、どうでしょうかねー。

 

なお、余談ですが忠常の子孫・平常胤(つねたね)千葉県の方は注目!

 

そう、この人こそ坂東の土豪・千葉氏の有名人で、三代目の千葉常胤。

千葉サンは、坂東平氏だったんですねー。

 

 

と、本編はここまで。以下、ワタクシの趣味的な余談です。

 

 

余談、その1。

 

堂上平氏の系統では、百人一首の詠み人・周防内侍(すおうの ないし)を輩出しています。


二条院で夜通し語らっていた所、疲れて眠くなって「枕が欲しい」とつぶやいたら、藤原忠家(藤原氏御子左家。藤原定家の曽祖父)御簾から腕を出して「これを枕にw」とからかってきたのを「腕=かいな」「甲斐なし」をかけた歌で返した…という女性です。

 

周防内侍の先祖には平生昌(なりまさ)という人がおりまして、時は一条天皇の御世の頃、火事で生家を失っていた中宮・定子が、敦康親王を懐妊した際に邸宅を提供した…と『枕草子』に記載されています。


兄の平惟仲(これなか)藤原兼家(道隆・道長の父)の家司で、この縁で中関白家・道隆のお付きになった縁で、その娘の定子と繋がっているわけですが、中関白家を没落とともに見限ったような形跡があって、ゆえに『枕草子』では清少納言の恨みを買って、兄弟そろってコメディシーン担当のような描かれ方をしている、と言われています。

 

清少納言周防内侍。活躍した時代は1~2世代ほど違いますが、百人一首の詠み人が意外なところで繋がっているのですねー。

 

 

余談、その2。

 

同じく堂上平氏の系統では、清盛の正室になった時子の大叔母にあたる人物も百人一首の詠み人。

 

祐子内親王家紀伊(ゆうし ないしんのうけの きい)。祐子内親王(後朱雀天皇の娘。ちなみに母は敦康親王の王女…先ほど定子が邸宅を借りて生んだ、あの子の娘です)の女御なので、藤原道長の息子・頼通の晩年あたりの時代の人物です。


堀河院御時艶書合(男が女に恋歌を詠み、その返歌を愉しむお遊びの会)で、70歳にして29歳の若造から挑戦され、「高師の浜のあだ波」の歌で雅やかに返した…という和歌が、百人一首に採られています。

 

ちなみに、この29歳の若造とは藤原俊忠(藤原氏御子左家)。先程ピックアップした、周防内侍をからかった忠家の息子にして、藤原定家の祖父です。

 

定家の先祖は高棟流桓武平氏の女性を2人もからかっているのですね(そして、曾祖父と祖父がやり込められた和歌を、自作のアンソロジーに喜んで採り入れるという・・・・テイカ・・・・^^;)

 

 

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