大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

「比企能員の変(1203年)」「源頼家暗殺(1204年)」と進んだようで。

 

次に来るのは「畠山重忠の乱(1205年)」ですかねー。

 

というわけで、その関連として「畠山氏」の系図を紹介してみようかなと。今日はそんなブログとなりますw

 


畠山重忠@中川大志サン
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

系図をご紹介する前に、前提として。

 

「坂東八平氏」という言葉があります。

 

房総の豪族となった「上総氏」「千葉氏」

相模に勢力を持った「三浦氏」「大庭氏」「梶原氏」「長尾氏」「土肥氏」

武蔵国の武士団を形成した「秩父氏」

 

ざっくりと紹介すると、この「八氏」のこと。

 

畠山氏は、この中の「秩父氏」の一族でした。

 

「坂東八平氏」には共通の祖となる人物がいて、その名も平良文(たいらの よしふみ)

 

良文は桓武平氏の系譜に連なります。系図で確認してみると、こんなかんじ。

 

 

高望王(平高望)には代表的な子が5人いるのですが、良文は側室の子で五男坊でした。

 

昌泰元年(898年)。上総介に任官した父・平高望が東国へ下った時、異母兄の国香(長男)良兼(次男)良将(三男)は一緒に赴いたのですが、まだ12歳だった良文は、京に残ったみたい。

 

兄たちは任期を過ぎても帰京せず、坂東に土着していきました(父の高望は、延喜2年=902年に大宰府に赴任して、その地で没しています)

 

延長元年(923年)。36歳になった良文は、「相模に跋扈する反徒の討伐命令」を受けて、母とともに相模国に転住。

討伐後、良文はそのまま相模に定住して「坂東八平氏」の祖となりました。

 

相模国と言えば、そう。後に源頼朝が拠点とする鎌倉があるところ。

 

ここに根を張ったことが、良文流が「坂東八平氏」などと呼ばれ坂東平氏の代表のような存在になっていく僥倖になったんでしょうねー。

(ちなみに、北条氏は伊豆平氏…良文の兄・国香の末裔に当たります)

 

 

天慶2年(939年)に起きた「平将門の乱」で、良文がどのような行動をとったのか?

よく分からないながらも、なんとなく「将門サイドだったのでは」と言われるフシがある、とされています。

 

将門や国香・良兼らの対立の背景になったとも言われる源護(みなもとの まもる)」との関係は、良文にはあまりありません。

 

そして、良文の三男・忠頼には将門の娘の春姫が嫁いでいて、さらに忠頼は、将門と対立した平繁盛を、後年に「仇敵」と呼んでいたと言われるなど、将門のミウチになっていたことが分かります。

 

でも、良文には「平将門の乱」後に下総国相馬郡(将門の旧領)が与えられているので、将門と対峙して何らかの手柄を立てたのでは…とも言われます。

 

うーん…やっぱり良文の動向はよく分からないってことですかねぇ(^^;

 

 

良文は天暦6年(952年)享年67歳で没。

 

良文が最初に踏み入れた相模国は、五男・忠光の系統に受け継がれます(彼の子孫が、三浦氏や鎌倉党。これについてはまた後日ということで…)

 

 

忠頼と春姫の子孫は、房総武蔵(秩父)に開拓の手を広げていったようです。

 

畠山氏に繋がる将常(または将恒。忠頼の子)は、武蔵国造家の武蔵武芝(むさし たけしば)の娘を娶り、武蔵に進出。

(ちなみに武蔵武芝は、国内問題の調停を将門に依頼し、従わなかった源経基に実力行使して「平将門の乱」の発端を作った人。ここでも良文流と将門の密な関係が…)

 

子息の武綱とともに「前九年の役」に従軍して源頼義・義家父子に貢献。

頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」に選ばれ、「白旗」を賜ります。

 

続いて「後三年の役」では、武綱が先陣を務める「栄誉」を得ます。

「仙北金沢の柵」を攻略して清原武衡を討つなど武功をあげ、秩父氏発展の礎となりました。

 

重綱(武綱の子)の頃になると、河内源氏の義朝(頼朝の父)が、為義(頼朝の祖父)によって京を追い出され、坂東に下向してきています。

 

近隣の相模国鎌倉に拠点を構えた義朝をどうするか?の重要案件について、重綱は手を結ぶことを選びました。

重綱の後妻となった女性は、義朝の長男である義平(頼朝の異母兄。母は三浦氏)の乳母となっています。

 

この重綱の孫にあたるのが、重忠の父にあたる、重能(しげよし)

 

武蔵国男衾郡畠山郷(現・深谷市)を本拠にしたことから、「畠山氏」を称しました。

 

 

重能の父・重弘(ということは重忠の祖父)は、何故か秩父氏の家督と家業(「武蔵国留守所総検校職」)の後継から外されて庶流となり、弟である重隆(ということは重忠の大叔父)が継いでいました。

 

当然、重能は面白くありません。「なんで叔父が?家督を継ぐのは俺だろ!」

 

秩父氏にくすぶる家督争いの火種。

ここに、河内源氏の内ゲバが結びついてしまいます。

 

為義によって京から追い出され、裸一貫で東国へ下って来た義朝は、その喧嘩の強さを武器に多くの豪族を従え、カリスマすら感じさせる武者となって京に帰って行きました。

 

帰京するや、私兵として摂関家に野良犬のように仕えていた為義をよそに、「北面武士」として院庁に就職。

ついには父の官職を超えて下野守に任じられ、関東を地盤とする在京武者としての地位を高め、台頭していきます。

 

「脳みそ全筋肉」みたいな義朝(笑)が、何故こんなにも上手に世渡りできたのか?については、以前に考察しましたが、それはともかく。

 

MY「源義朝」人物考(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11282393817.html

 

追放したはずの息子の栄達に焦った為義は、跡継ぎにしていた次男の義賢(よしかた。義朝の異母弟)を関東に向かわせ、義朝の地盤の切り崩しを図りました。

 

この時、義賢に協力したのが、兄を差し置いて秩父党の家督を継いでいた、あの重隆。

重隆は娘を義賢に嫁がせて縁戚となります(その間に生まれたのが、駒王丸…後に木曽義仲となる子でした)。

 

源義賢は武蔵国比企の「大蔵館」に拠点を置いて足場を固めると、義朝の地盤である相模国へ手を伸ばそうとしました。

 

義朝が留守の相模国は、息子の義平が守っていました。義平は、重隆と対立していた畠山重能に協力を依頼。

 

さらに、秩父党と抗争を繰り返していた新田氏や藤姓足利氏、地元の三浦氏らと結び、大蔵を襲撃して義賢と重隆を討ち果たすことに成功しました(1155年「大蔵合戦」

 

重隆の嫡男・能隆は畠山氏に追われて河越館に移り、以降「河越氏」と称するのですが、何故か秩父氏の本家は畠山氏ではなく河越氏と考えられていたようです。

 

ちなみに「大蔵合戦」の時、重能は討ち取った義賢の遺児・駒王丸(木曽義仲)を斉藤実盛に預け、木曽に逃がしています

木曽義仲と畠山重忠(の父)には、こういう関係があったわけで、これを下敷きとした絡みがあったら面白そうですよねー(でも重忠が主役でなければ蛇足感もありますね…)

 

 

「平治の乱」で河内源氏が没落すると、武蔵国が平知盛の知行地になったこともあって、畠山氏・河越氏は平家に従います。

 

「頼朝挙兵」時、「大蔵合戦」では対戦した仲ですが、いつの間にか関係が繋がっていたようで、河越氏は畠山氏の要請に応じて三浦討伐(「衣笠城の戦い」)に参加しています。

 

 

ところで、秩父氏には「葛西氏」という氏族がいます。

 

「石橋山の戦い」で大敗してしまった頼朝は、房総半島で体勢を取り戻した後、武蔵国を目指しました。

これに、葛西氏が同調。この功績は頼朝にとって非常にありがたかったようで、以降重用されて豊臣秀吉に滅ぼされるまでの長生きに渡って、葛西氏は「奥州総探題」の地位にあったりしています。

 

こうなると、元から源氏と縁があった畠山氏も、帰参したほうが良さそう…となったようで。

 

畠山・河越の両氏とも頼朝のもとに鞍替えしました。

 

この時、重忠はかつて先祖(武綱)が「前九年の役」で賜っていた「白旗」を持参して、頼朝の陣営に赴いたそうな。

 

「平家は一旦の恩、源氏は重代の恩」と述べる重忠に、頼朝は参陣を許可。

「後三年の役」の故事にならい、重忠は先陣を務める「栄誉」を得ました。

 

(実際には、秩父一族がコロっと帰参したのではなく、頼朝は秩父一族の豊島氏や江戸氏を調略して籠絡に使い、当初戦っていた三浦氏との仲裁を行って憂いを断つなど、事前に丹念な根回しをやった上で帰参を促して、戦わずして畠山・河越両氏を味方につけたと言えます。この辺、さすが政治魔人というかんじがしますね・笑)

 

こうして源氏の麾下に入った畠山氏は、先陣を務めて鎌倉のある「相模国」を占拠し、頼朝の鎌倉入りをお膳立て。

以降、「木曽義仲討伐」から「平家討伐」「奥州合戦」まで軍功を立てていくことになりました。

 

 

ちなみに、畠山重忠の従兄弟は稲毛重成(いなげ しげなり)

重成が亡き妻の供養のため相模川に橋を架け、頼朝はその落成供養に出席した帰り、落馬して間もなく亡くなったという説話にも登場する人物です。

 

系図でもわかる通り、重忠も重成も北条時政の娘を娶って、北条氏とミウチになっています

 

一方、一族の河越氏は、河越重頼の妻が比企尼(頼朝の乳母で流人時代最大の後援者)の娘(河越尼)

北条氏と繋がって頼朝との関係を深めた畠山氏よりも、頼朝との繋がりが早い時期から深かったと言えます。

 

河越尼は頼家の乳母でもあり、比企一族としても扱われていたわけで。

 

ならば河越氏は「比企能員の変」で落ちぶれてしまったのか…というと、実はそれよりももっと早い段階で悲運をかこっていました。

 

というのも、郷御前(重頼と河越尼の間に生まれた娘)が義経の正妻になり、義経との関係が強まっていたから。

 

郷御前は『鎌倉殿の13人』にも登場していますねw

 


里@三浦透子サン
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

義経が後白河院と結託して頼朝を裏切ると、頼重・重房親子は頼朝に敵視され、誅殺されてしまったのでした。

 

こうして、河越氏が義経に巻き込まれるようにして没落したことによって、畠山氏は秩父氏本家の座を取り戻したのでした。

 

 

しかし、武蔵国への野望に燃える北条時政・牧の方夫妻の陰謀により、「畠山重忠の乱」が起きて畠山重忠は戦死。稲毛重成も濡れ衣を着せられて誅殺。

畠山氏が滅亡したことにより、秩父氏の本家の座は、再び河越氏に戻ってしまうのでした

 

それにしても、時政は娘婿の重忠と重成を、どうして滅ぼしてしまわなければならなかったんですかねぇ。

 

同じく娘婿の平賀朝雅(武蔵国司)が可愛かった…にしても、あそこまで強引にやっちゃうのは、ちょっと理解不能な所がありますねー。

 

 

武蔵国は「比企能員の変」「畠山重忠の乱」、そして北条時政の失脚を経て、北条義時の得宗家が支配するところとなりました。

 

河越氏は、重時の子孫が北条得宗家の被官(御内人)として鎌倉時代を生き、南北朝時代に上杉氏に敗れて伊勢に去るまで、関東に残りました。

 

重頼の娘は、下河辺氏に嫁いでいますが、その子孫は長谷川氏となって、「鬼平」こと長谷川平蔵に続いていくとかいかないとか(下河辺氏の子孫ではあるようですが、河越氏の娘を母とするかは、よく分かりませんでした)

 

畠山氏は、源氏一門の足利義純が重忠の未亡人を娶り、名跡を継承。

 

平氏ではなくなりましたが(源姓畠山氏)、足利氏のミウチとして、この後も歴史に顔を見せていくことになります。

 

時政と政子の畠山争奪戦(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12766493491.html

 

 

というわけで、思いのほか長くなってしまいましたが(汗)、これまでといたします。

 

成り行きとはいえ、将門のあたりまでやっちゃったのは冗長だったかな…。