大河ドラマ「平清盛」は、来週から雲行きが怪しくなって、「平治の乱」が首をもたげ始めています。
「保元の乱」ほどではないですが、「平治の乱」もまた多くの登場人物たちが舞台を降りることになる事件。
その中でも、視聴者にとって最も喪失感を味わうであろうと覚悟せねばならないのが、源氏の棟梁・源義朝の非業の最期でしょう。
源義朝@玉木宏サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より
義朝の生涯において、最大級の疑問といえば。
なぜ「保元の乱」で勝てたのか?
なぜ「平治の乱」で負けたのか?
そのふたつに繋がりはあるのか?
これでしょう。
今回は「なぜ保元の乱で勝てたのか?」について求めるため、彼の過去を迫ってみようと思います。
「保元の乱」で処罰を受けた面子を見ると、河内源氏(棟梁家)は義朝を除いてほぼ全滅してしまったように見えてしまいます。
となると、逆に「どうして義朝だけが勝てたのか?(生き残れたのか?)」が気になってくるところ。
義朝が「保元の乱」で勝ち残れた理由・・・・それは、父や他兄弟が藤原摂関家に仕えていたのに対して、義朝は院庁に仕えていたから。
彼は東国から帰京すると、「北面の武士」として就職することになりました。
この繋がりから、彼の所属は「院庁」、つまり鳥羽法皇→後白河帝の側につくことになり、戦ったというわけです。
なーんだ簡単w
・・・・とはいかないのが、この話のややこしいところ。
なんせ、東国から帰ってきた義朝は無位無官。
しかも、あまり世渡りや政治をできるような人間には見えません。父のコネで院に士官できるのなら、そもそも為義自身がやっているはず(笑)
武芸と喧嘩のやり方しか知らないような義朝は、一体どんな手管を使って、中央政府(院)に仕えることができたのだろうか?
ここが、この最大級の疑問が謎たるゆえんなのです。
その秘密を解くカギは、義朝が東国へ赴いたところにあると、ワタクシは思っています。
大河ドラマでは仲良さそうに描かれていた為義・義朝父子ですが、実際には不仲だったみたい。
義朝の暴れぶりに手を焼いて、中央政府の心証を気にしていた為義は、義朝を東国へ送る決意をします。
義朝は、追放同然に家を追い出されたわけです。
義朝が関東に行った時、最初は父・為義ゆかりの地だった安房(現・千葉県南部)に移り住んだようです。
そこから坂東平氏の上総氏、三浦氏、波多野氏らの協力を得て、実力で南関東を切り従えていきます。
さすがに為義に追い出された暴れん坊なだけあって、喧嘩の強さはホンマモンw
河内源氏ってごく一部を除いてみんな強い・・・っていうイメージがあるんですが、義朝は中でもトップクラスの強さだったと思います。
(ちなみに、三浦氏は義朝の長男・義平の母方、波多野氏は次男・朝長の母方の一族です)
南関東を切り取ったら、次は北関東や肥沃な武蔵國をどうするか?が問題になってきます。
南関東のように実力で切り取るか?同盟を組むか?ふたつにひとつです。
義朝は対立せずに、同盟する道を選んだみたい。
北関東には、義朝にとっては大叔父にあたる源義国(よしくに)がおりました。
武蔵國にいた同族の河内経国(かわちつねくに)を仲介として手を結び、関東に巨大な「河内源氏同盟圏」が誕生することになります。
(↑調べてもよく分からなかった部分もあり・・・・・・・・。
三割は想像だと思ってください。↑)
この同盟の一環として、義朝は熱田神宮の宮司の娘・由良御前と結婚。
これがのちに、義朝にとって思わぬ道を切り開くことになります。
なぜ由良御前と結婚するのが同盟の一環になるのかというと、義国の次男・義康(よしやす。足利義康とも)と相婿になるから。
系図で表すと、このようになります。
相婿(義理の兄弟)となったこの足利義康は、北面武士として院に仕える武士でした。
そして、在京武士としてキャリアを積んだ彼は中央政界に精通し、院庁にも顔が利く御仁です。
(ちなみに、室町幕府を開く足利尊氏の祖先にあたります)
思うに、義朝が「北面の武士」として京の中央政界に就職できたのは、義康との縁があったからなのではなかろうか。
京にもどってきたからと言って、不仲だった父・為義のコネは使いたくない。
そもそもロクなコネがなさそう(笑)←為義も政治は下手なタイプの人です。
ならば、「妻の親族」という独自のコネをつかって政界復帰しようと義朝が考え、その結果が足利義康を頼っての「北面の武士」への就職だったのではないかなと、ワタクシは思っているんですが、どうでしょうかねー。
なお、「保元の乱」では平清盛が300騎で最も多く、源義朝が200騎と2番目に多くの兵を率いて参戦しましたが、3番目に多い100騎を率いて参戦したのが、この足利義康だったといいます。
大河ドラマではやっぱり登場しませんでしたが(涙)、いつかどこかで、その雄姿を見てみたいものですね・・・・。
以下、余談。
義朝が院に仕えるのは、為義が仕える摂関家にとっては大問題だったと思います。
ただでさえ衰退気味だったところに、私兵である河内源氏から人手を奪われてしまうわけですから。
しかも、そいつは東国の武士団を従えて、大きく成長して帰ってきたカリスマ性のある武士です。
そんな奴が院に取られては、ますます摂関家は院に勝てない・・・・
氏長者・藤原頼長は「義朝が院に仕えてしまった以上、何とかせねばならないだろう」と思案を巡らせたはずです。
そこで行われたのが、源義賢(よしかた)の東国派遣。
義賢は為義の次男(義朝の弟)で、頼長の男色の相手。
義朝が去った河内源氏棟梁家の次期棟梁とも目される人物でした。
若いころは東宮帯刀先生という、皇太子の近衛隊長のような職業についていたので、武芸の腕前も折り紙つき。
義賢をもって、義朝が作り上げた勢力圏の切り崩しにかかりました。
しかし、義朝の長男「悪源太」義平によって、義賢が討ち滅ぼされてしまったのは、大河ドラマでも描かれていた通り。
この反撃の成功は、実は義国一族が協力してくれたおかげでもありました。
義朝が作り上げた「河内源氏同盟圏」が、ここでも役に立ったというわけです。
実は他にももう1人、この成功劇の影に隠れたキーパーソンがいるのですが、それは後日に回したいと思います。
・・・・まぁ、この男なんですけどね(笑)