このブログは「平安時代ブログ」を標榜して始めたブログ。
なので、外しては語れない人のひとりが「桓武天皇」。
「鳴くよウグイス平安京」
794年「平安京遷都」から、平安時代が始まるわけですからねー。
桓武天皇が即位するに至るまでの長く険しい道について話は、別の日に譲るとして。
今日は桓武天皇の後裔について、語ってみたいと思います。
桓武天皇の後裔と言えば、なんといっても「桓武平氏」。
高棟王(たかむねおう)と高望王(たかみおう。高見王と同一?)の兄弟が、天長2年(825年。淳和天皇の御時。在原業平が生まれた年)に、父・葛原親王(かずわら)の願いによって「平氏」の姓を賜って臣籍降下したのが始まり。
平高棟は「公家平氏(堂上平氏)」の祖となり、清盛の正妻である平時子(二位尼)などに連なっていきます。
平高望は「武家平氏(坂東平氏)」の祖となって、多くの武家平氏へと続いていきました。
これについては以前にも系図付きで語ったので、そちらに譲るとして。
系図で見てみよう(桓武平氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233864292.html
葛原親王の母となったのは、多治比真宗(たじひ の まむね)
多治比氏は、古墳時代の宣化天皇(せんか。第28代)の皇子・上殖葉皇子(かみつうえは)の子孫にあたる皇別氏族です。
有名なのは多治比嶋(たじひ の しま)。
上殖葉皇子の曾孫に当たる人物で、文武天皇の御時(奈良時代)には人臣最高峰の左大臣にまで登り、宮廷歌人・柿本人麻呂のパトロンだったとも言われます。
『竹取物語』に登場する5人の求婚者の1人「石作皇子(いしづくりのみこ)」のモデルともされます(多治比氏の同族に「石作氏」という氏族がいます)。
インドに1つしかないという高級品「仏の御石の鉢」を求められ、3年ほどブラブラして天竺に行ったフリをして、大和国の山寺にあったものを持って来て「これです」と言い張った、ナマグサモノですね(笑)
その後の多治比氏は、「橘奈良麻呂の乱」(757年)や「藤原種継暗殺事件」に一族の者が加担して、平安時代には奮わなくなってしまいました。
平安後期から鎌倉時代にかけて、東国で繁栄した「武蔵七党」の1つ「丹党(たんとう)」は、多治比氏の末裔を名乗っています(多治比→丹治比→丹治 と氏が変化して「丹党」というわけですな)
ともあれ、桓武天皇と真宗は、第26代・継体天皇を共通の祖とする、異母系の遠い血族でした。
また、古代を代表する武人・坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)の娘・春子も、桓武天皇のもとに入内しています。
その間に生まれた葛井親王(ふじい)は、798年生まれ。
幼い頃から聡明で、6歳にして帯剣を許されたと言うほど。
弓が得意で、12歳の嵯峨天皇の御時に、武芸大会の余興に出場し、百発百中の腕前を見せて、観客を沸かせた…といいます。
そこに居合わせた外祖父の田村麻呂は狂喜乱舞。親王を抱き上げると「私は蝦夷には勝てたが、この子には勝てないわ」と大いに喜んだといいます。
ところで、「上野国」は親王任国といって、皇族が国守を務める国。
人臣は「吉良上野介」「小栗上野介」のように「介(2番目)」までしかなれなかった…なんてお話も、知られているのではなかろうか。
その「上野大守」の初代に任ぜられたのが、この葛井親王でした。
葛井親王の孫娘は、清和天皇に入内して貞純親王(さだずみ)をもうけました。
貞純親王の子・経基(つねもと)は、「源氏」の姓を賜って臣籍降下したとされています(ただし皇籍にいたのか疑うフシもあり)
彼こそが、清和源氏の祖。後に鎌倉幕府を開く源頼朝、室町幕府を開く足利尊氏、江戸幕府を開く徳川家康たちの始祖にあたります(家康は若干マユツバらしいですが)
河内源氏の先祖は、田村麻呂の血も引いていたんですねー。
(清和源氏は「清和天皇御後」なので今回ちと余計でしたが、田村麻呂の子孫でもあるって言いたかったのですw)
桓武平氏以外では、「良岑氏(よしみね)」が代表的。
良岑氏の始祖は良岑安世(やすよ)。
安世の母は、渡来系氏族だった飛鳥部氏の娘・百済永継(くだら の ながつぐ)でした。
母の身分が低かったせいか親王宣下は受けられなかったそうで、ここが「平氏」を賜れなかった条件分岐だったのかもしれません。
良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下したのは、延暦21年(803年)のこと(ということは、高棟王・高望王の「桓武平氏」に先立つこと22年前)
文武両道の名官僚で、歌舞も得意。嵯峨上皇の40歳を祝う宴(825年)では、中納言という身分にも関わらず自ら舞いを披露して上皇の歓心を得、830年に46歳で薨去すると、その死を悼んだ嵯峨上皇は挽歌を御製になったそうな。
ちなみに母の永継は、元々は藤原北家の内麻呂の妻。
内麻呂との間には、後に藤原氏主流の祖となる冬嗣(775年生まれ)と、その兄の真夏(774年生まれ。日野家の遠祖)をもうけています。
安世は冬嗣の異父弟だったわけですねー。
安世が生まれた785年から、内麻呂は急速に昇進していくのですが(781年:従五位下→785年:従五位上→786年:正五位上→787年:従四位下)、この背景には、安世をもうけた永継の存在があるという説もあります。
ところで、桓武天皇は、南都仏教と決別するために平安京遷都を行い、天台宗を開いた最澄を重用しています。
その最澄とは、藤原魚名の孫娘・小屎(おぐそ)を通じて義理の伯父・甥の関係だったことは、以前触れました。
系図で見てみよう(藤原氏山蔭流/利仁流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12732164020.html
ということは、最澄は桓武天皇を通じて良岑安世と、そして百済永継を通じて藤原冬嗣とも縁繋がりだったことになります。
この影響があるのかどうか、安世と冬嗣は、天台宗の興隆と比叡山戒壇設立にも尽力したようで。
恩義を感じた最澄が「四所主」と称えた4人の賢臣にも、2人は数えられています(あと2人は藤原三守と伴国道)
なお、安世は比叡山にのみ肩入れをしていたわけではなく、空海とも親しくしていました…が、ここでは割愛して…
安世の八男にあたるのが、良岑宗貞(むねさだ)。
出家して「遍昭(へんじょう)」
「百人一首」12番歌の詠み人ですねー。
あまつ風 雲のかよひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
良峯宗貞(僧正遍昭)/古今集 雑 872
この和歌は詞書が「五節の舞姫を見てよめる」、詠み人は「良岑宗貞」となっていて、出家する前に「五節の舞姫」を見て詠まれたもの。
藤原定家が「百人一首」に採る際に、何らかの理由で僧正遍昭が詠んだものとした…らしいです。どんな思惑だったんでしょうね。
良岑宗貞は816年生まれ。「六歌仙」の1人で、在原業平や小野小町と同時代の人。
従兄弟にあたる第54代・仁明天皇に仕え、三十代の若さにして「蔵人頭」(皇室秘書官のトップ。宮廷指折りの出世コース)にまで出世。
しかし、嘉祥3年(850年)に仁明天皇が崩御すると、愛妻にも内緒で行方不明となり、(父ゆかりの)比叡山に登って突如として出家してしまいました。
出世頭の若者が、敬愛する主上の死に悲嘆して世を捨てる。正史『文徳天皇実録』は、
「宗貞は先皇の寵臣なり 先皇の崩後
(宗貞は仁明天皇のお気に入りで、その崩御を悲しむあまり、出家することで天皇の恩に報いたいと願い、出家してしまった。時の人はみな哀れんだ)
と、その行動を嘆くような称賛するような調子で記しています。
天皇の死を悼む思いの強さはホンマモンだったようで、遍昭の強い気持ちが見える歌があります。
深草のみかどの御時に 蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを 諒闇になりにければ さらに世にもまじらずして比叡の山にのぼりて かしらおろしてけり そのまたの年 みな人御ぶくぬぎて あるはかうぶりたまはりなど よろこびけるを聞きてよめる
みな人は 花の衣に なりぬなり
苔のたもとよ乾きだにせよ
僧正遍昭/古今集 哀傷847
[仁明天皇の崩御を悲しんで出家した遍昭が、俗世の人たちが喪服を脱いで、現世に戻って楽しんでいる様を聞き及んで詠んだ「世の人たちは綺麗な衣服に着替えて、華やかな暮らしを取り戻しているだろう。涙にぬれて苔が生えそうな私の僧衣の襟よ、乾いておくれよ]
仁明天皇を悼んで出家したことは、宗貞からすれば本意のことだったでしょうが、勝手に出世コースを捨てたことは、母に申し訳ない…と思ったらしく、そんな和歌も残されています。
初めて頭おろし侍りける時 物に書きつけ侍りける
たらちめは かかれとてしも むばたまの
我が黒髪を なでずやありけむ
後撰集 1240
(比叡山で初めて剃髪した時、その髪を見てメモった歌「母は、こんな頭になれと思って、幼かった頃の私の黒髪を撫でたのではなかったろうに」)
そんな宗貞の母が誰だったのかは不明のようですが、『後撰和歌集』には同じ六歌仙の「小野小町」との交流を表す贈答歌が収録されていて、そこにヒントがある…と言われます。
いそのかみといふ寺にまうでて日の暮れにければ 夜あけてまかりかへらむとてととまりて この寺に遍昭侍 と人の告げ侍りければ 物いひ心見むとていひ侍りける
[石上寺に参詣したら日が暮れて、一泊して帰ろうとしたところ、今この寺に遍昭さんがいますよと教えてくれた人がいて、様子が見たいので話しかけるつもりで詠んだ]
小野小町
岩の上に 旅寝をすれば いと寒し
苔の衣を我に貸さなん
[今宵は石上寺の岩の上で旅寝をするので、寒さを凌ぐために苔の衣(と称される貴方の僧衣)を私に貸してくれませんか]
返し 僧正遍昭
世をそむく 苔の衣は ただ一重
貸さねば疎し いざ二人寝ん
[俗世を離れたので苔の衣(僧衣)は一重しかなく、しかし貸さないと薄情ですよね。ならば2人で一緒に寝ませんか]
後撰集 雑3
旧知の仲だった遍昭が滞在してます…と聞いた小町が、修行中の様子を伺いたくて、ちょこっと茶化した歌を詠んでみたら、ニヤリとした遍昭が悪乗りして「じゃあ一緒に寝ますかw」という歌を返した…という内容。
小野小町は、宗貞が敬愛していた仁明天皇の更衣(下位の妃。ほぼ愛人)と言われ。もしそうなら面識があるはずで、その贈答歌も親しさが滲んでいます。
(ちなみに、『大和物語』168段にはほぼ同じ内容が掲載されていますが、遍昭は返歌直後に寺を逃げ出し、小町が探しても見つからなかった…となっています。小町が怒ると思ったのか、あるいは本気ではないのに本気にされたら困ると思ったのかw)
ともあれ、この「石上寺」は、かつては「良因寺」、またの名を「良岑寺」と呼ばれていたそうな。
奈良県・石上神宮の近隣にあったとされます。地名は「布留(ふる)」。宗貞の母は、このあたりの出身だったのではと言われているみたいです。
ともあれ、仁明天皇ファーストな宗貞の出家騒動は、世間を驚かせると同時に、仁明天皇の子・時康親王(後の光孝天皇。「百人一首」15番歌の詠み人)も大変感銘を受けたようで、「歌友」として親しく交流することになっていきました。
仁和元年(885年)の光孝天皇の御時に僧正となり(天台僧で初の僧正)、同年に内裏の仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われ、二人は親しく語り明かしたと言われているようです。
(ちなみに、宗貞の母は光孝天皇の乳母だった…という説があって、wikipediaにも「一説には」として載っています…光孝帝は宗貞の13歳年下だから、どうなのかなぁ…とワタクシは疑問形ですが…あり得なくはないけれど、さて…)
そんな遍昭の息子は、良岑玄利(はるとし)
清和天皇の時代に殿上人となりましたが、「僧侶の息子は僧侶だろう」とよく分からない理屈で父に諭され、出家させられています。
出家後の名前は素性法師(そせいほうし)。「百人一首」21番歌の詠み人です。
いま来むと いひしばかりに長月の
有明ありあけの月を待ちいでつるかな
素性法師/古今集 恋 691
「あまり恋の歌が得意ではない素性法師」…と言われる、数少ない恋の歌が百人一首に採られている、とされます。
父に半ば強引に出家させられたから僧侶としての生活には身が入らなかった…などと言われるのですが、雲林院・良因寺(石上寺)・元慶寺と、父ゆかりの寺院を転住している様子は、仏道に励んでいるように見えなくもない…かなぁ、と(笑)
素性法師には「百人一首」に採られている和歌絡みのお話が2つあります。
1つは、在原業平の17番歌。
ちはやぶる 神代も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
在原業平朝臣/古今集 秋 294
この歌は、「二条后(藤原高子)が屏風絵に描かれている『紅葉が流れる竜田川』をお題にした」時に詠まれたもの…というのは、以前にも紹介しました。
をとこありけり(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html
『古今和歌集』によると、この和歌は2番手に詠まれたもので、1番手に和歌を詠まされたのは、素性法師だったとされます。
もみぢばの ながれてとまる みなとには
くれなゐ深き なみや立つらむ
素性法師/古今集 秋 293
[たくさんの紅葉が流れ流れて行きつく河口の湊には、深い紅の波が立っているのだろうか]
屏風には描かれていない、屏風からはみ出した風景に想いを馳せさせる和歌。
(業平の和歌と連番になっていることも注目)
この時、素性法師は(生年は不詳ながら父の出家や彼の没年から想像すると845~849年前後の生まれなので)20代半ばくらい。業平は40代半ば前後。
歌を詠む順番からも、業平が二条后の前に新進気鋭の歌僧・素性法師を引き出したのでは…という状況が想像されます。
(ということは、意外とこの題詠の場は、主催は二条后としても業平が運営したサロンかもしれない…ともなりそう)
もう1つは、菅原道真の24番歌。
このたびは ぬさも取りあへず たむけ山
もみぢのにしき神のまにまに
菅原朝臣/古今集 覊旅 420
[此度の旅では、幣(ぬさ。旅の安全祈願に捧げる織物)を忘れてしまい、捧げることができません。この手向山の見事な紅葉を、錦の幣の代わりとします。どうぞ、神のお気に召されるように]
この和歌の詞書は「朱雀院の奈良におはしましたりける時に たむけ山にてよみける」とあるので、朱雀院(=宇多上皇)が奈良へ御幸した時(898年「吉野宮滝御幸」)に詠まれたもの。
この時、素性法師は石上寺に住んでいたのですが、「せっかく奈良に来たし、素性法師も呼ぼう」という宇多上皇の求めがあって、期間限定ながらも同行していたのでした。
そこで詠まれた和歌。
たむけには つづりの袖も切るべきに
紅葉にあける神やかへさむ
素性法師/古今集 覊旅 421
[お供えに私の粗末な僧衣の袖を切って捧げるべきでしょうが、手向山の美しい紅葉に見飽きてらっしゃる神様ですから返品されてしまうでしょうな]
ちなみに菅原道真は845年生まれなので、素性法師とは同年代。
順番的には道真の後の詠みで、道真の和歌に内容を合せたか、引き摺られたような内容になってしまったか、どう思うかは貴方次第…ワタクシは後者かな(笑)
素性法師は「恋の歌が苦手」と最初に紹介しましたが、逆に得意だったのは「春の歌」だったようで、この時のような「秋の歌」も、それほどでもなかったのでは…ということなんでしょうかw
和歌の評価は置いておくとして、注目なのはこの時の素性法師の行動力。
「御幸しているからおいでよ」と言われて同行しているのも、上皇の誘いだから断れなかったというよりも、そういうものにはヒョイヒョイついていくような人だった…というような気がします。
和歌集って、優れた和歌を集めているだけの文学書のようにも見られますけど、こうやって見ると、歴史書並みに歴史や人物像についても雄弁に語っているなぁ…というかんじがしますね。
といったところで、今回はここまで。
今日は「1月16日」で「ヒーローの日」ということで、平安時代最大のヒーロー(?)桓武天皇の、その後裔について語ってみました。
相変わらず偏っているくせにとりとめがなく、無駄に長くてスミマセン…。
(ちょこっと「百人一首」ネタ強化期間にも入ってましてね^^;)