本日も、前々回からの続き。藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。
魚名が見た夢(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html
前回は、「武士系藤原氏の代表格」とも言える「藤原氏秀郷流」をご紹介しました。
系図で見てみよう (藤原氏秀郷流)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12730979360.html
今回は、秀郷流の祖となった藤成の兄・鷲取の末裔をご紹介します。
鷲取の子孫は、大きく「山蔭流」と「利仁流」に分かれます。
どちらも、後に有名になる武士の祖に当たるので、両方ともやってしまおう!という魂胆ですw
(なので、今回もとても長くなりますね…)
魚名の子・鷲取(わしとり)は、父が失脚した時(天応2年=782年)にどのような処分を受けたのか記録に残っていないので、これより前に亡くなったようだ…とされています。
魚名は鷲取の娘・小屎(おぐそ)を桓武天皇に入内させていて、孫娘の処遇を巡る魚名の意向が、桓武天皇の勘気を蒙って失脚に繋がった…というのは、以前紹介した通り。
鷲取にはもう1人、面白い娘がおりまして。
三津氏という渡来系氏族に嫁ぎ、生まれた子が広野(ひろの)。後に受戒して「最澄」(さいちょう)。天台宗を開いた伝教大師その人です。
最澄は桓武天皇に重用された高僧ですが、こうやって見ると、鷲取の娘を通じて義理の伯父・甥の関係だったんですねー。
鷲取の孫・高房(たかふさ)が、今回取り上げる「山蔭流」「利仁流」の共通の祖。彼の息子が山蔭、山蔭の甥が利仁となります。
高房は体躯に優れた見た目の、豪放磊落な人だったそうな。
細かいことは気にしないけど自分でやらないと気が済まないとか、硬いと思ったら柔らかい対応をするとか、結構オトコマエな雰囲気がぷんぷん(笑)
悪は許さねぇ!とばかりにキビキビ捜査バシバシ捕り物をするから、赴任先の国内から盗賊がいなくなってしまった…なんて伝説もあります。
もし平安初期で勧善懲悪時代劇をやるんだったら主人公にピッタリですねw
で、山蔭流の祖となった藤原山蔭は、清和天皇の時代の人。
清和天皇の即位前…惟仁親王だった時に、春宮大進(春宮坊の第三等官)として側近くに仕えていました。
春宮大進は、次の天皇となる皇太子に近侍できるので、出世の足掛かりになる重要なポスト。
たとえば藤原北家の隆盛を築いた冬嗣も、神野親王(後の嵯峨天皇)の春宮大進に就いたことで大きく前途を開いています。
問題は、皇太子に気に入ってもらえるかどうかなんですが、山蔭は惟仁親王に大変気に入られたみたい。
天安2年(858年)、惟仁親王が即位した後も蔵人・近衛といった側近としての役割を仰せつかり、厚い信頼を受けて、長きに渡り清和天皇の側に仕えたそうです。
(といっても、清和天皇は即位時9歳なので、彼を後見していた人…藤原良房あたりが気に入っていた、ということなのかもしれません)
ちなみに、山蔭が蔵人として働いていた時の蔵人頭は、藤原基経。
良房の後継者(養子)で、清和天皇系を廃して光孝天皇に皇統を移した人。宇多天皇の頃に「阿衡の紛議」を起こした人物ですね。どんな風に話を交わしていたのかなぁ…と気になりますw
また、山蔭には伝説めいた話があって、ある日いじめられていた亀を、自分の着物と交換して助けたそうな。
後日、息子が川に流されてしまい、観音菩薩に祈ったら、助けた亀が息子を助けてくれた…という、ちょっと浦島太郎のニオイがあるお話。
この時、川に流された息子というのが、如無だったと言われています。
如無は名前から分かるように僧侶なんですが、俗世にいた頃かまたは破戒したか、彼には在衡(ありひら)という息子がおりました。
在衡は伯父の有頼の養子となったのですが、「実父が僧侶」で「養父が大夫層(中級貴族)」という出自ながら、祖父・山蔭の中納言を超え、なんと魚名以来の左大臣に至ったという異例な人物。
「安和の変」(安和2年=969年)で左大臣・源高明(醍醐源氏)が失脚した影響や、78歳の長寿であったことも関係あるとされます。
ただ、在衡が子供の頃に鞍馬寺の天童から、「おまえは大臣に昇るぞ」「長生きするぞ」という予言を受けたことがあった…という伝説があって。
山蔭-如無-在衡と伝説に彩られ、不思議な三代だなぁ…というかんじがしますねー。
そんな在衡の子孫には、源頼朝の側近だった安達盛長(藤九郎)や、「足立区」の由来になった足立氏がおります(足立遠元は「十三人の合議」の1人)。
安達盛長@野添義弘さん
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より
藤九郎や安達氏については、以前にもご紹介しておりますので、宜しければどうぞー。
MY「藤九郎」人物考(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11307043429.html
山蔭の子孫の中でも重要なのは、七男・中正(なかまさ)の系統。
中正の娘・時姫は、藤原氏本流の兼家に嫁いで、道隆や道長、超子、詮子らの母となったからです。
超子は冷泉天皇に嫁いで三条天皇を産み、詮子は円融天皇に嫁いで一条天皇を産んでいます。中正は2人の天皇の外祖父なんですねー。
兼家との繋がりのおかげで、子の安親、孫の為盛あたりまでは、摂関家とべったりで出世街道を開くことができたみたいです(歩めた、とは言ってない)。
中正の曾孫にあたる親国の娘・親子(ちかこ)は、藤原氏末茂流(魚名後裔)の隆経に嫁いで、顕季(あきすえ)をもうけました。
そして親子は、天喜元年(1053年)に尊仁親王の皇子だった貞仁王の乳母となりました。
尊仁親王は、後朱雀天皇の第二皇子でしたが、母が禎子内親王(三条天皇の娘)で摂関家の娘ではないので、ほぼ間違いなく皇位からは遠い親王さまでした。
ところが、後冷泉天皇(藤原道長の娘・嬉子所生の異母兄)が子がいないまま崩御(治暦4年=1068年)したので、尊仁親王が皇位を継ぐことになってしまいます(後三条天皇)
すると、親子が乳母として仕えていた貞仁王が親王宣下を受けて格上げ。さらに皇太子となり、延久4年(1072年)に父帝の譲位を受けて20歳で即位。白河天皇となります。
ただの皇族の乳母から、あれよあれよと天皇の乳母になったことで、息子の一族は寒門から一気に新興貴族へと脱皮を遂げたのでした(善勝寺流)
まぁ、このへんは「末茂流」編で語るべきなんですが、その大本になった乳母が山蔭流の娘なので、かるく触れてみましたw
実際には、系図でも触れてますが貞仁王(白河天皇)の母・茂子も女系で山蔭流と繋がっているんですけど、彼女は貞仁王を産んですぐに亡くなっています。実母不在だったがゆえに、乳母としての影響力が強かったということなんでしょうねー。
親国の兄弟の系統では、甥っ子の実宗が常陸国の伊佐荘中村に赴任して「中村氏」を名乗っています(中村氏は、桓武平氏系にもあります)
さらに子孫の光隆は、河内源氏の為義の娘(源頼朝の伯母)を娶り、朝宗(ともむね)をもうけました。
この朝宗が、戦国大名としても活躍する伊達氏の祖。伊達氏は為義の子孫でもあったんですねー。
伊達政宗@渡辺謙さん
1987年大河ドラマ『独眼竜政宗』より
で、話を大きく遡って、山蔭の甥にあたるのが、利仁(としひと)。
秀郷と双璧を成すといっても過言ではない、藤原氏を代表する武人。通りすがったキツネさえ思わず平伏してしまうような威勢のよい豪気の人だったと言われます。
あまりに強いイメージで伝わり過ぎたのか、龍に跨って海を飛び越えるやら鬼退治やら新羅討伐やら剛毅というか荒唐無稽というかな伝説に彩られます(詳しくは存知ないので間違ってたらスミマセン)
山蔭は亀さんに乗る伝説だったけど、利仁は龍に乗るような伝説なんですね。
祖父・高房は越前守を歴任していて、利仁の母は赴任先の越前(現・福井県)の豪族の娘だったと言われます。
利仁は鎮守府将軍として東北に赴いていたので、坂上田村麻呂のイメージをかぶっていると言われているのですが、越前、武人、鬼、新羅、龍(海を渡る)とくれば、ツヌガアラシト(天日矛命)がふと思い浮かぶけれども、そのイメージも重なっていたりするのかな…?
利仁の次男・叙用(のぶもち)が、斎宮頭(さいくうのかみ)となったことから、「斎」の「藤」で斎藤氏を名乗りました。
斉藤と言えば、何人か思い浮かぶ歴史上の人物がいます。
中でも真っ先に思いつくのは、「美濃の蝮」こと斎藤道三。
彼自身は長井氏(後述する武蔵斎藤氏の子孫らしいです…たぶん)の出自だそうですが、美濃の大名・斎藤氏は美濃斎藤氏の末裔。
美濃斎藤氏の祖は、斉藤親頼(叙用-吉信-為時-則光の子孫)。
彼が美濃国の目代となったことで美濃との繋がりが生じたとされます。承久2年(1220)というから、「承久の乱」のちょっと前になりますね。
この系統には、武蔵斎藤氏も近い氏族としており、その1人に斉藤実盛(さねもり)がいます。別名を長井別当。越前の出身。
実盛は『平家物語』にも登場する人で、大蔵合戦(久寿2年=1155年))の時に木曽義仲を救出して木曽谷に匿った人。そして「富士川の戦い」で平維盛の後見役として同伴しています。
「富士川の戦い」の時。総大将の若き資盛に「坂東武者とはどのような者か?」と尋ねられた実盛が、平家軍を引き締めたいがために坂東武者の勇猛さを誇張して語った所、かえって恐怖心を煽ってしまい、びくびくしている所に水鳥の羽音が鳴り響いて、慌てふためいて逃げ帰った…という、最後の伏線になっています。
やがて、挙兵した義仲が快進撃を続ける中、木曽軍に討たれ、首級として義仲と対面。
「知らずとはいえ、命の恩人をこの手で討ってしまった」と義仲を嘆かせる、諸行無常のお話の核を成しています。
実盛の最期は「篠原の戦い」で討ち取られるのですが、この戦場は加賀国(現・石川県)。越前出身ということで、富士川合戦の後で故郷に戻っていたんでしょうかね。
(最期の時、稲の株に足を取られたために討たれてしまい、これを恨んで稲の害虫になった…という、ちょっと無理矢理な(笑)伝説が尾鰭としてついています。これを鎮める祭りをどこかの神社でやってるみたいですね)
そしてもう1人。
斉藤時頼(ときより)も、『平家物語』に登場します。別名「滝口入道」。
宮中警護にあたる「滝口武士」で、平重盛に仕えておりました。
(ちなみに、滝口武士は嵯峨天皇が「薬子の変」に対応するために設置した宮中警護の武士団。「北面武士」は白河天皇が比叡山の強訴を警戒して、「西面武士」は後鳥羽天皇が趣味で(?)、それぞれ追加設置。時代が違うだけで基本的な存在意義は同じのようです)
ある日、清盛が催した西八条殿での花見宴で、建礼門院に仕えていた「横笛」に一目惚れ。
恋文を交わして相思相愛の仲になるのですが、横笛の父はこの身分違いの恋を許さず猛反発。
失意の時頼は、横笛には告げずに嵯峨の往生院(現・滝口寺)で出家して「滝口入道」を名乗り、横笛への未練を断ち切るために修行に励むようになります。
これを知った横笛は、時頼に会いたい一心で訪ねてくるのですが、時頼は「会ってしまったら修行の妨げになる」と涙ながらに追い返し、女人禁制の高野山静浄院に転居。
横笛は悲しみのあまり、奈良法華寺で出家したのでした…というのが「滝口入道」のあらまし。
ワタクシも奈良法華寺に行ったことがありますが、「横笛堂」という建物があって、「滝口入道」のお話の結末を味わうことができます。
そこには世にも珍しい(?)紙製の仏像が安置されていたそうです(今は本堂にあるそうな)
高野聖となった時頼は、高野山別格本山の大円院の8代住職にまでなりました。
元暦元年(1184年)、平維盛(かつて仕えた重盛の子)が紀州勝浦で入水してしまうのですが、それに立ち会ったと伝わります。
その他の子孫では、「○藤」が何系統か誕生しています。
景通が加賀介(かがのすけ)だったので「加藤氏」。
公則が備後守(びんごのかみ)だったので「後藤氏」(名乗ったのは、孫の則明からだそう)
為輔が修理少進(しゅりしょうしん)だったので「進藤氏」
などなど。
他にも、「勧進帳」にも登場する富樫氏、江戸時代に儒学者を輩出した林氏、戦国時代の「名人久太郎」こと堀秀政の堀氏、加賀前田家の前身・尾張前田氏などが、斎藤氏の後裔として多く枝分かれしています。
ああ、最後は何だかナレーションで片付けみたいなかんじになってしまった(笑)
機会があったら、利仁流を祖とする戦国大名たちのことも取り上げてみたいです。
(ちなみに、百人一首の撰者・藤原定家の母も、魚名流の後裔に当たります。山蔭流でも利仁流でもないですけど…)