先日、藤原北家傍流の祖となった藤原魚名をご紹介しました。

 

魚名が見た夢(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html

 

今日はその続き、藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。

 

とはいえ、平安時代も初期の初期に枝分かれした家なので、その末裔は多岐に渡っていて、1回で語りつくすのは無理(言い切った)

 

何回かに分けることにした中で、今回は藤原魚名の五男・藤成(ふじなり)の子孫をご紹介します。

 

必要とはいえ盛大に脱線した前回ですが、本来はこれを掘り下げる企画でしたからね。

 

佐藤サンのルーツ(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11224220358.html

 

佐藤サンのルーツ…それこそが、藤成の子孫というわけ。

 

で、藤成の系譜は、一般的に「藤原氏秀郷流」と呼ばれます。

 

「武士は何も、源氏と平氏だけじゃないんだぜ?」の代表格、藤原秀郷(ひでさと)は、藤成の子孫なんですねー。

 

これを系図で確認すると、以下のようになります。

 

 

藤成は、宝亀7年(776年)の生まれ。計算上では、父・魚名55歳の時の子供。

 

魚名の失脚は天応2年6月(782年)のことなので、藤成の官歴は、御家没落後のことになりますねー。

 

藤成は国司の下野介(二等官)として下野国(現在の栃木県)の国府に赴任し、現地の豪族・鳥取氏と姻戚を結んで、その時に生まれた子が豊沢(とよさわ)

 

父が任期を終えて帰京となった際に、豊沢は一緒に帰らずに現地に残ったことが、この系統が坂東武士となっていく発端になりました。

 

…と伝承では言われるのですが、これアヤシイねと言われているのは、以前にもちらっと語りました。

 

アヤシさついでに言うと。奈良時代の孝謙天皇が崩御して、62歳の白壁王(光仁天皇)が即位した時。

女帝の側近として権勢をふるった「怪僧」弓削道鏡が、下野国薬師寺別当に左遷され(神護景雲4年=770年)、そのまま赴任地で没しました(宝亀3年=772年)

 

下野には、藤成が来るより前に、道鏡が来ていたのですね…ということで、藤成が娶った鳥取氏の娘は、道鏡の子孫でもあったという説もあるみたいです。

 

唐突だな…と思いつつ、そういえば道鏡って下野に来てたよね…と思ったので、一応メモみたいな(何)

(ちなみに、藤成が下野に赴くことになったのは「蝦夷対策の専門家」だったのではないか…みたいな説も出ているようです→

 

 

その藤成の、5代後の子孫が、藤原秀郷

 

伝説では「百足退治」で有名ですが、歴史的には「平将門の乱」(天慶2年=939年)で頑張った人。

 

坂東平氏の内紛がエスカレートして、平将門が常陸国衙を襲撃。

そこから広がった反乱を鎮圧したとして、藤原秀郷は名をあげ、下野掾から従四位下・下野守・武蔵守に昇格しました。

 

こうして貴族社会に「ツワモノの家」として認められた秀郷一家。

秀郷本人は現地を離れなかったようですが、嫡子の千晴(ちはる)を京武者とすべく上京させました。

 

千晴は上京すると、当時の左大臣・源高明(醍醐源氏)に近侍。

同じく源高明に仕えていた、清和源氏の源満仲(頼朝の8世祖)とライバル関係になっています。

 

康保4年(967年)、村上天皇が崩御すると、千晴は伊勢の「鈴鹿の関」を固める固関使に任じられて派遣。

この時、源満仲も同じく命じられたのですが、病気を理由に役目を辞退しました。

 

そして安和2年3月25日(969年)、源満仲の密告から「安和の変」が勃発。

 

「源高明は、為平親王を東国に迎えて乱を起こし、守平親王(皇太子。円融天皇)を廃して即位させようと企んでいた」として流罪・失脚。

 

「東国に迎えて」って現実味なくない?と思ってしまうのですが…そう。東国出身の千晴が仕えているのだから、やろうと思えば簡単に出来そうです。

 

そんな推理を立てられたのか、あるいは満仲にハメる意図があったのか、千晴は一味として捕縛され、隠岐に流罪となり、秀郷流は中央政権から姿を消すことになったのでした。

 

その後の彼の消息は不明なのですが、彼の子孫には藤原経清(つねきよ)がいます(異説もありますが)

「前九年の役」で俘囚方について処刑され、しかしその子孫が奥州藤原氏となった人。大河ドラマ『炎立つ』でもお馴染み。

 

源頼義より早くに陸奥に来ているのは確かなことのようですが、それ以外はハッキリしていないようで。

その中に「在京の官僚だった」説があるんですけど、これは高祖父の千晴が上京していたことと関係あるんですかねぇ。

 

 

こうして、千晴が流罪となってしまったので、秀郷の家は弟の千常(ちづね)が家督を継ぎました。

 

千常本人と、子の千万と文脩、曾孫の頼行は「鎮守府将軍」も務めました(ついでに言うと秀郷も)

関東北部から奥州にかけて勢力を広げている様子が伺えます。

 

 

秀郷の曾孫にあたる兼光(かねみつ)は、長元元年(1028年)に起きた「平忠常の乱」に巻き込まれ不運を囲った人。

 

平忠常は結局、朝廷に降伏するのですが、仲介を藤原兼光に頼んでいます

 

兼光は引き受けて講和の意志を京へ伝えるのですが、「あいつも関与してるんじゃね?」という根も葉もない風聞が立って、疑われたみたい。

 

憤慨・失望したのか、あるいは本当だったのか(マジデ?)、兼光は出家。

その後、兼光の子孫は受領に登ることはなく、国衙の在庁官として北関東の各地に土着していったようです。

 

下野の小山党、上野の藤姓足利氏、常陸の下河辺氏などが、兼光の子孫に当たります。

彼らは平安末期、源頼朝の動きとかなり大きな連動をしていたので、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にもきっと登場するはず。これはオタノシミニ、ですねw

(ちなみに、小山政光の妻である寒河尼は、頼朝の乳母です。頼朝には何人も乳母がいるんです…さすが貴族だネ)

 

 

千晴、兼光が中央政権からは脱落していった一方で、兼光の甥にあたる公光(きんみつ)の系統は、中央に近い立場にいました。

 

公光の子の公清(きみきよ)が、佐藤サンのルーツとされる人物。

左衛門尉(さえもんのじょう)だったので、「左」と「藤」で「佐藤」になったと言われています。

(他にも、養父だった藤原公行の「佐渡守」から採用して…とか色々な説がありますが、まぁ大差ないし、好きなのを選べばいいかと←ぇ)

 

公清の子孫には、大河ドラマ『平清盛』に、レギュラー格で登場した人物が3家あります。

 

まずは、平家の侍大将・伊藤忠清(ただきよ)

彼は藤原秀郷の子孫だったのですねー。

 

伊藤忠清
伊藤忠清@藤本隆宏サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

忠清の曾祖父にあたる基景が、伊勢守として赴任したことから「伊勢」の「藤原」ということで「伊藤」となったそうです。

 

平家は、元は桓武平氏の傍流・伊勢平氏の一派で、伊勢に根を張っていた一族。

忠清は、伊勢の縁で平家と繋がり、平家の家人・侍大将となったわけですねー。

 

 

そして次に、佐藤義清(のりきよ)。出家後に号して、西行法師

 

佐藤義清
佐藤義清(西行)@藤木直人サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

元永元年(1118年)生まれで、清盛とは同い年。

 

『百人一首』86番歌の詠み人としても知られますね♪

 

歎けとて 月やはものを思はする かこち顔なるわか涙かな
西行法師/千載集 恋 929

 

『平清盛』で触れられていたかどうか、ちょっと忘れてしまいましたが、義清の家は、祖父の代から徳大寺家に仕えておりました。

 

徳大寺家は、閑院流藤原氏鳥羽院の中宮だった待賢門院(藤原璋子。崇徳院と後白河院の生母)の実家です。

 

この縁なのかどうか、義清は鳥羽院のもと北面武士として奉仕し、清盛の同僚となっていました。

 

保延6年(1140年)の10月に、突如として出家。

出家の理由は色々と言われますが、その中に「待賢門院に恋して、でも空気を読まない彼女に散々に打ち破られたから」というのもあるようですよ(笑)

 

後に、西行法師は諸国の旅に出ます。

鎌倉に立ち寄った時、たまたま鶴岡八幡宮に参詣していた源頼朝が見つけ、梶原景季(梶原景時の子)に命じて、参詣が終わるまで足止めさせてでも会ったという素敵(?)エピソードがあるので、『鎌倉殿の13人』にも出るかもしれませんね。

(ちなみに、その時に頼朝が聞いたのは「和歌の道」と「弓矢の作法」だったそうです。いくら西行が「元・北面の武士」だからって、僧侶に武術を聞くのはどうなんですかね…苦笑)

 

 

そして最後が、鎌田通清・政清(みちきよ・まさきよ)の父子。

 

源氏の為義・義朝の父子に、それぞれ仕えた家人の親子ですね。

 

鎌田通清鎌田正清
鎌田通清@金田明夫サン鎌田正清@趙珉和サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

『平清盛』は、まこと主従関係が美しく尊いドラマでありましたが、「保元の乱」で去っていく為義・通清「平治の乱」で共に散った義朝・政清も、まことに華のある主従でございました。

 

義朝は「平治の乱」で敗走した後、長田忠致(おさだ ただむね。桓武平氏)の館に逗留し、入浴中に騙し討ちにあって鎌田政清とともに討たれてしまうのですが、この長田忠致は鎌田政清の舅にあたります。

 

鎌田父子の祖・資清(すけきよ)は、首藤(すどう)を名乗っていました。

資清が主馬首(しゅめのかみ)になっていたことから、「首」と「藤」で「首藤」というわけですね。

 

資清の子・資通は河内源氏・源頼義の郎党となり、源義家に従って後三年の役でも活躍。

 

資通の曾孫にあたる俊通が、鎌倉の山内庄を領したことから山内氏を名乗り、「山内首藤氏」と呼ばれるようになりました。

(幕末に土佐の大名だった山内氏は、山内首藤氏の末裔とされるみたいです)

 

俊通は義朝に従って「保元の乱」を戦い、「平治の乱」では息子の俊綱とともに戦死。

鎌田父子に限らず、首藤氏の系統は河内源氏棟梁家と「保元」「平治」の苦楽を共にしています。

 

病のため「平治の乱」に参戦せず、ゆえに生き延びた経俊は、家督を継ぐものの、父兄を亡くしたショックで源氏についていくことに嫌気がさしたのか、「石橋山の戦い」では平家方について、頼朝の追討を行っています(矢を放って頼朝を負傷させた…とも)

しかし、その後は頼朝に臣従して、志田義広の討伐戦などに参加しています。

 

 

一方、近藤サンのルーツになった脩行(のぶゆき)の家系では、源氏は源氏でも、こちらは頼朝の弟・義経の家来として活躍した佐藤サンがおります。

 

佐藤継信・忠信の兄弟。「義経四天王」の2人ですねー。

 

元は、奥州藤原氏に仕えていたのですが、藤原秀衡の命により義経の郎党として平家討伐の旅に随行。

義経の主戦力と補佐役を務めて(マジで大変そう…)獅子奮迅の活躍!というのは、『鎌倉殿の13人』で描かれそう、ですかねw

 

…と、先走ってしまいましたが、「近藤」は藤原脩行が近江掾(おうみのじょう)であったことから、「近」と「藤」で「近藤」となったようです。

 

彼の子孫からは、大友氏少弐氏という、どこかで(九州で・笑)聞いたことがある人たちが輩出されています。

 

 

あと、『平清盛』では1回だけチラっと登場した坂東の波多野氏も、秀郷流の系統。

波多野義通の妹が、義朝との間に次男の朝長(ともなが)をもうけています(頼朝の1つ上の異母兄)。

 

MY「源義朝」人物考(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11282393817.html

 

そして、波多野氏の兄弟筋が伊賀氏で、こちらは鎌倉時代に起きる「伊賀氏の乱」の発端となってしまった一族。

北条義時の子供を巡る話なので、これは『鎌倉殿の13人』に期待ですねw

 

鎌倉北条三代のやらかし(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12694006604.html

 

 

というわけで、「佐藤さんの日(3月10日)」に「佐藤さん」のお話を狙って(笑)、だいぶ駆け足ながら、「藤原氏秀郷流」をご紹介してみました。

 

魚名さんの子孫は、これで3分の1くらいかな(まじで)

 

続きはまたの機会に、ということで。

ではではー