2022年大河『鎌倉殿の13人』は、北条義時が主役の大河ドラマ。

 

「で、その北条義時って誰?」と聞かれた時、歴史好きの皆さんはどう答えるんだろう?

 

 

本当は鎌倉幕府の執権で、「承久の乱」の勝者って答えたい。

でも、そう言った時の反応は何となく想像つきます。

 

「しっけん…??」「じょうきゅうのらん…??」

 

どんなに日本史のエポックであっても、知名度がなくてはどうしょうもありません(この点は「壬申の乱」にも言えますよね…)

 

 

一番カンタンなのは「北条政子の弟だよ」なのではなかろうか。

 

北条政子は、源頼朝の正室であり、2代頼家・3代実朝の実母。

キャラクターも、夫の浮気に雷落としたり、いざ鎌倉の演説したり、尼将軍って呼ばれたり…。「日本史上の三大悪女」をチョイスせよと言われたら、真っ先に出てきそう。

濃すぎるキャラで存在感バツグン(笑)

 

北条政子は有名人。やもすると『「承久の乱」の勝者』そのものが義時よりも政子のイメージになっているかもしれません。

 

北条と言えば、政子。これは中々覆せない…

でも「北条政子の弟だよ」では、負けたような気がしません?(笑)

 

 

これとは違う回答となると、「義時=北条時宗の先祖っていう答えもありそう。

 

時宗は「モンゴル帝国」「神風」などの言葉でも彩られる「元寇」の時の執権で、大河ドラマでも主役になったことがある人物。

「時宗」の名を聞いたことのある人は、意外と少なくなさそうだし、これでもイケそうな気がします。

 

でも、時宗って本当に義時の子孫かな?「それまでの経緯」よく知らないんだよねという方も、多いのではなかろうか。

 

そこで、今日は「義時から時宗までの北条家」を、軽く語ってみようと。

つまり、「北条政子の弟だよ」で終わりたくない人向けの記事(笑)をやろうかと、そういう試みです。

 

 

…と思ったんですが、よくよく見てみると、北条家って代替わりごとにゴタゴタが起きていて。

それが周囲に波及する形で鎌倉時代が形作られているな、というかんじがします。

 

代替わりを見ることで、鎌倉時代前半の流れもざっくり見えるのではなかろうか。

 

北条家の恥を晒すようなことになってしまいますが、面白おかしくやりたいワタクシには、これを避けることはできませんw

 

なので、そんな切り口で紹介しつつ、いつものように独断と偏見で(面白さ重視だけど真面目に)だらだらと進めてみようと思います。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

初代執権・北条時政には、どことなく「女たらし」なイメージがあります(え、ワタクシだけ??そうかな^^;)

 

これはやはり、最後の妻「牧の方」の存在が大。

 

なんといっても牧の方は、時政の長女・政子(一説には1157年生まれ)とたったの2歳差(ということは、義時とは8歳差)

 

こんなにも娘の年齢にも近いうら若い女性を、息子の嫁ではなく自分の妻にしてしまうの、なんだかイヤらしい(笑)

 

この牧の方、時政の最後の側室かなと思いきや、なんと実は正室。

 

というのも、牧の方の父・牧宗親は、駿河国大岡牧を知行していた下級貴族。牧の方は御令嬢だったんですねー。

(一説として、水無瀬流藤原氏の出身という話もあり、もし本当だとすると京都に平家方の人脈を持つことになってナンタラカンタラ…と長くなるので(笑)、このスジの話は機会があったら別の日に!ってことで)

 

時政には、牧の方以前に、宗時(長男)義時(次男)時房(三男)の3人の男の子がおりました。

そして、牧の方との間には政範(四男)が生まれます。

 

このあたりを系図にしてみると、次のようになります。

 


※北条政子と義時は、同母姉弟とする説もあります。ワタクシは母親は異なると聞いていたんですが、歴史が変わったんですかね…?確かに政子と義時の手を取り合った人生は、母を同じくする姉弟という感じもありそう。でも、ここの系図では、異母姉弟として紹介します。

 

時政は、牧の方との間の子・政範を溺愛。義時たちは「庶兄」に置かれ、政範を跡継ぎにしていたとされます(なんてったって貴族の血筋は格上です)

 

ところが、政範は任務遂行中の京都で若くして病死(1204年)

 

長男の宗時は、頼朝挙兵時の「石橋山の戦い(1180年)」ですでに戦死しています。

 

こうした兄弟の不幸が続いた結果、義時が跡取りになった…と思いきや、時政は牧の方との間に生まれた娘の婿・平賀朝雅を跡取りに…と考えたみたい。

 

平賀氏は頼朝と同じく源氏の一族。

 

系図で見てみよう(清和源氏/河内源氏)(関連)

 

朝雅は、頼朝から見ると「同じ源氏の一族」で、「乳母(比企尼)の娘の子」。おそらくはこの関係から頼朝の猶子になっていました。

 

 

「頼朝の猶子なんだから、朝雅にも将軍になる資格あるよね」と、時政と牧の方は、実朝を廃して朝雅を擁立しようと画策しました。

実朝政権は政子と義時の影響力が大きく、時政は発言権が小さかったのが不満だった、と言われています。

 

しかし、事前に察知した政子と義時が、この企みを容赦なくブロック。

時政は一切の職務と権利を剥奪された上で、牧の方と一緒に伊豆に追放されて失脚してしまうのでした「牧氏事件」1205年)

 

※…という時政の顛末ですが、「牧の方を排除したい義時と政子にハメられた」とも考えられています(っていうか、こっちが有力視?)。その背景には、牧の方の持つ人脈が…。やっぱり、この話はどこかでやらないとダメそうですね(^^;

 

 

そして、いよいよ義時の時代となるのですが。

彼もまた父・時政と同じようなことをやらかすことになります(^^;

 

 

義時は最初の妻・阿波局との間に長男の泰時をもうけていました。

 

でも、母の実家の身分が低かったので、「泰時を跡継ぎに」とは考えていなかったみたい。

 

泰時もそこは心得ていたようで、庶長子として早くから官僚としての道を目指しました。

分を弁え、行政官として勉学に励む、実直で才能ある甥っ子を、政子はとても可愛がったようで、これが後に、実務畑を歩んでいた泰時の運命を変えます。

 

義時は、おそらく2番目の妻として比企氏(繰り返すようですが、比企氏は頼朝の乳母の一族)の娘「姫の前」を正室に迎え、朝時(次男)重時(三男)をもうけました。

 

 

しかし、姫の前の実家・比企氏が比企能員の変(1203年)」によって失脚・滅亡。

 

比企能員の変(関連)

 

義時は姫の前と義絶すると、今度は伊賀朝光の娘(伊賀の方)を正室として迎えることになります。

 

時に朝時10歳。重時5歳。

多感な少年期に母親を追放されて心が歪んだのか、朝時は将軍・実朝の妻が京から連れてきた侍女に、夜這いをかける椿事を起こしました(1212年)

 

ただの娘ではありません。実朝の妻(坊門信子)は後鳥羽院の女房(坊門局)の姉妹。侍女といえども、院と繋がる公家の娘です。

 

当然、実朝は激怒。朝時は父に義絶され(つまり嫡男から降ろされ)、駿河に追放されました。

 

(「比企能員の変」は、時政主導で起こった事件で、義時は比企氏に同情的…だから朝時を嫡男のままにしていた、らしい?そうだとするなら、ここでも時政(というか牧の方)と義時の気持ちが離れているのが見えますね)

 

こうして朝時を処罰した義時は、伊賀の方との間に生まれた政村(五男)を溺愛しました。

 

義時が亡くなると、伊賀氏は政子が可愛がっている泰時を警戒。

政村を執権に、そして娘婿で、頼朝の甥(頼朝の妹の旦那の子。血は繋がってない…)一条実雅を将軍に就けるべく画策します。

 

この動きに対して、またもや政子は素早く反応(危機察知能力の優れた御方だ)

政村に味方しそうな三浦氏(政村の烏帽子親の一族)を取り込んで伊賀氏を孤立させ、この企みも容赦なくブロック(「伊賀氏の変」1224年

 

そして、我が子のように接してきた泰時を「長男だから」という理由で跡継ぎとしました。

 

この時、政子は追放されていた朝時も復権させて鎌倉に戻したようです。

朝時は分家して「名越氏」(なごえ)を興し、名越朝時と名乗りました。

 

こうして三代執権となった泰時は、「御成敗式目」を作った人として歴史の教科書に載る人物。

 

執権になるまでのゴタゴタを振り返ると、家督と財産の相続問題を法律として制定したのも、頷ける感じがしますねー。

 

 

ゴタゴタの極みを経て三代執権となった北条泰時は、その苦労を子孫に繰り返させないために、きちんと跡継ぎを果たしました。

…と言いたいところですが、彼もまたやらかしてしまいます…

 

 

泰時には時氏という嫡男がいたのですが、執権を継ぐ前に早世しています(1230年)。

そこで、時氏の子の経時(長男)時頼(次男)を養子とし、跡継ぎとして育てていました。

 

 

孫を必死に教育している頃の、仁治2年11月29日(1241年)、鎌倉で事件が起こります。

 

鎌倉は若宮大路で、小山党三浦氏の輩の間で些細な出来事が起き(犬を追い払うために射た矢が、誤って三浦氏の宴会場に飛び込んでしまい、矢を返せ返さぬで揉め事に)、エスカレートして市街戦に発展したのです(鎌倉武士って本当に血の気が多い…)

 

騒ぎを聞いて駆け付けた経時は、三浦氏に加担(祖母=矢部禅尼が三浦氏出身だからですかね?)

 

これを聞いた泰時は、「将来の将軍家を補佐するべく御家人を統率する立場にありながら、一方の御家人に加担するとは、なんという軽率!」と大激怒。

「経時は出仕を禁じ、跡継ぎは時頼とする!」としてしまいました。

 

もしかしたら「ついかっとなって」だったのかもしれません。

しかし、仁治3年6月15日(1242年)、跡継ぎを本当はどうするのかを表明しないまま、泰時は死去してしまいます

 

あんなに身に染みて相続問題の厄介さを理解していたはずなのに泰時ぇ…。

経時と時頼の間にも、後継者問題が発生してしまいました。

 

「泰時殿は、時頼殿を跡継ぎと申された。4代執権は時頼殿だ」

時頼擁立派には、尾藤氏、諏訪氏らの泰時側近(これを御内人(みうちびと)と呼びます)の多くがつきました。

 

「いや、時頼殿はまだ年少でとても執権は務められない(当時15歳)。経時殿に継がせるべきだ」

「というか、兄を差し置いて弟が継げるなら、この朝時(泰時の弟)が継ぐのこそ道理になるではないか」

名越朝時はそう主張し、縁戚の足利氏や外戚の安達氏(&旧比企一族)らが賛成しました。

 

そもそも「兄が家督を継ぐ」は、政子が泰時を継がせる時に持ちだした道理。

そんなこともあって4代執権には経時が就いたのですが、御内人が協力に消極的だった政権運営は、かなり苦労したみたい。

 

執権になってわずか4年後の寛元4年閏4月1日(1246年)、経時は23歳でこの世を去りました

 

跡を継いで5代執権となったのは、経時の弟・時頼。

時頼の子が、北条時宗です。

 

ちなみに、時宗は8代執権なので、執権職は父との間にもう2人、一族の人が入っています。

 

 

本当はこの系図を基に今日の記事を作っていたのですが、話を面白おかしく広げていたら都合3つも別バージョンを追加することになったんだよな…と愚痴(?)はともかく。

 

時頼は康元元年(1256年)、麻疹と赤痢にかかって小康状態となったのですが、跡取り息子の時宗は6歳。とても使い物になりません。

そこで、妻の兄にあたる長時に、時宗が成人するまでの中継ぎとして、執権職を任せました。

 

その後、長時も病を得て出家してしまうのですが、時宗はまだ14歳だったので、長時は叔父の政村に執権職を任せます(1264年)

 

そして文永5年(1268年)、政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となったのでした。

 

 

時頼→長時→政村→時宗は、親子ではないのにゴタゴタせずスムーズに執権職が伝わりました。

 

それまでの「親子継承なのにゴタゴタしてた」のは、なんだったんだという…

 

ただ、3代に渡ってゴタゴタした影響は、時宗の時代後に及ぶまで大きな波乱をもたらしました。

 

経時と仲が良かった三浦氏と、時頼の間に流れる微妙な空気。

本当は嫡流だったはずの分家・名越氏が持つわだかまり。

時頼・時宗の外戚として存在感を見せていく安達氏。

4代執権のゴタゴタ時に、時頼を推していた御内人が、それが叶って権力拡大・影響力増大を招いていく未来。

 

北条家が代々やらかしてきた後継者問題は、まだまだ鎌倉時代の禍根となって後に浮上してくるのですが…それはまた別のお話。

 

とりあえず時宗まで繋いで語ることができて良かったと、ほっとしました(笑)

 

本日はこれまで。ではではー。