このブログ、関連として今までに何度か紹介しているけれど、本題に触れていない系図ってのがいくつかありまして…。

 

一応、「ブログで触れようと思っている人は黄色」「キーパーソンはオレンジ」というように、名前の札を色分けしたりしているんですが、肝腎の本題に触れてないから「何でこの人をこの色にしてるの?」ってなっているのが多数あったりします(^^;

 

ほかにも、ちょっと触れるだけのつもりだから略系図の簡易版で、みたいにやっておいて、そのまま…というのも結構あり。

 

ブログ開設から10年経ってこの有様はちょっとな…ということで、折を見て掘り返していこうかなと。

 

というわけで、どこからやってもいいんですが、古い方からやるのも良かろうと。

今日はこちらを深堀りします。ワンワン(←ここ掘れ的な)。

 

佐藤サンのルーツ(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11224220358.html

 

あな、なつかしやー。

一番最初にやった系図って、こんなに手抜きでしたっけ(苦笑)

(あまりにもアレだったんで、ちょっと直しました…)

 

これは「簡易版を上げたままパターン」なので、より細かい系図をご紹介します……の前に。

 

今回は、これら佐藤サンや伊藤サンらのルーツになった人物。

 

「藤原魚名(うおな)」を取りあげてみようと思います。

 

魚名は孝謙天皇から桓武天皇あたりに活躍した人物なので、カテゴリーとしては「飛鳥・奈良を語る!」になりますねー。

 

 

魚名は藤原北家の祖・房前(ふささき)の五男坊。母は「片野朝臣の娘」(調べてもよく分からなかったです…長屋王の娘という説もあり??)

同母兄の清河は遣唐使として唐に渡り、阿倍仲麻呂と一緒に唐に仕え、阿倍仲麻呂と同様に帰国できないまま客死しています。

 

二番目の異母兄・永手(ながて)は、称徳天皇晩年の頃に左大臣を務めておりました。

 

神護景雲4年8月(770年)。女帝・称徳天皇が崩御。

大海人皇子(天武天皇)が「壬申の乱」(672年)で大友皇子(弘文天皇)から勝利をもぎ取って以来、100年ほど続いた天武朝の皇統が断絶となりました。

 

朝堂を掌っていた永手は、右大臣の吉備真備、参議の藤原宿奈麻呂(良継)藤原縄麻呂石上宅嗣、近衛大将の藤原蔵下麻呂らを招集して、以後の対応を協議。

 

結果、天智天皇の孫にあたる大納言・白壁王を次代の天皇として即位させることになりました。

 

第49代・光仁天皇の誕生。

白壁王、この時、62歳(現在時点でもなお最高齢の即位)

 

 

ちなみに、この時の招集メンバー。藤原北家(永手)、藤原南家(縄麻呂)、藤原式家(蔵下麻呂、良継)と、藤原四家のうち3家が揃い踏み。

奈良時代なんだなぁ…という感慨(妄想?)に耽らせてくれますw

 

と同時に、吉備真備が顔を見せていて、これで話がまとまるのかなぁ…と思いきや、やっぱり白壁王を推す藤原永手と、文室浄三(長親王の子。天武帝の孫)を推す真備とで、紆余曲折はあったみたいですね。

(もっとも、文室浄三はこの時すでに78歳と白壁王よりだいぶ高齢…。この770年に亡くなっています。「白壁王の推戴」は「天武統から天智統へ皇統を戻したかった藤原氏の陰謀!」なんかではなく、「こっちの方がまだ無理のない妥当な線だから選んだ」ような気がしますねー。 ← #なんか見た)

 

皇嗣が決まると、称徳天皇が重用したという「怪僧」道鏡を下野国薬師寺別当に左遷、道鏡の弟の弓削清人も土佐国に配流。

 

称徳朝の後始末が片付くと、「白い亀さんが献上された。これは瑞兆に違いない」として元号を「宝亀」に改元。光仁朝が始まりました。

 

 

魚名の躍進は、この光仁朝での出来事。

 

先ほどの皇嗣を決める協議の様子からも分かるように、この頃の藤原氏は四家でバランスが取れるように動いていたみたい。

 

南家からは継縄と縄麻呂の兄弟、式家は良継と田麻呂との兄弟と、2人ずつ議政官を出しておりました(京家は適齢適任の者がおらず)

 

藤原北家では、次男の永手が左大臣として最高位にいましたが、長男の鳥養(とりかい)は早世(733年頃?)、三男の真楯(またて。平安時代の摂関家の祖)もすでに亡くなっていました(766年)

先述したように四男の清河は遣唐使として不在だったため、残された五男の魚名の政治的立場が重視されることになります。

 

そんな中の宝亀2年(771年)、首班として政治を引っ張って来た兄の永手が死去

 

吉備真備も致仕(辞任)してツートップがいなくなったため、人事が刷新され、魚名は参議から中納言を飛び越え、大納言に昇任しました。

 

太政官 勢力図
官職 永手存命中 永手死没後
左大臣 藤原永手(北家)
右大臣 吉備真備 大中臣清麻呂
内臣 藤原良継(式家)
大納言 大中臣清麻呂 文室大市
藤原魚名(北家)
中納言 藤原良継(式家) 石川豊成
藤原縄麻呂(南家)
参議 石川豊成(蘇我氏)
文室大市
藤原魚名(北家)
藤原清河(北家) 藤原清河(北家)
石上宅嗣(物部氏) 石上宅嗣
藤原縄麻呂(南家)
藤原田麻呂(式家) 藤原田麻呂(式家)
多治比土作 多治比土作
藤原継縄(南家) 藤原継縄(南家)
藤原百川(式家)
阿倍毛人

 

朝堂のトップこそ長老の右大臣・大中臣清麻呂ですが、本当の主導者は藤原良継(藤原式家)

 

実弟の田麻呂、百川を太政官に加えて政界を主導し、末弟の蔵下麻呂に軍事を掌握させて藤原式家の主導体制を確立させていました。

 

とはいえ、永手亡きあとの藤原式家の天下で、魚名は北家の代表として重視されたみたい。

式家の祖・藤原宇合の娘を妻としていたので、良継たちとは義理の兄弟。「ミウチ」意識も働いていたのかもしれません。

 

近衛大将、中務卿と重職を歴任し、宝亀8年(777年)には良継の内大臣昇進に寄り添うように従二位に至り、息子の末茂も従五位下に叙されたのでした。

 

同年に良継が62歳で薨御すると、魚名は後任として大納言から内臣に昇進。

 

光仁天皇は「宝亀」から「天応」に改元するなど、まだ政権運営の意欲を見せるのですが(つーか、元日に改元は史上唯一。もしかして酔っぱらってた?・笑)、老齢には敵わず4月には山部親王に譲位(桓武天皇)

 

ここに、右大臣の大中臣清麻呂が高齢を理由に引退したため、魚名は左大臣に昇進(譲位されたばかりの桓武天皇が、政治の安定を図るために最高位につけた、と言われています)。魚名は、ついに朝堂のトップとなったのでした。

 

しかし、光仁天皇が崩御(天応元年12月23日)して半年後の天応2年6月(782年)、左大臣を突然罷免させられ。魚名は大宰帥として大宰府へ左遷となってしまいます。

長男・鷹取は石見、三男・末茂は土佐と、子供たちも連座して配流さてしまいました。

 

魚名は左遷がよほどショックだったらしく、大宰府に赴く途上で発病して進めなくなり、摂津国で養生。

延暦2年5月(783年)、赦されて平城京に召還されましたが、7月25日に薨去。享年63。

 

一度は左大臣に昇りつめながらも、左遷によって転落し、失意の中に死没。

なんだか、菅原道真を思い起こさせますね…。

 

 

それにしても何故、魚名は左大臣を突然クビにされたのだろうか。

 

正史『続日本紀』「事に坐せられて大臣を免ぜられる」と明言を避けています。

 

桓武天皇は魚名が亡くなって間もなく、左大臣免官に関するものを焼却して、魚名の名誉を回復させたと言われるので、彼の左遷に関する資料はみな灰となっていました。

『続日本紀』は797年に完成した勅撰史書。14年も前の出来事を憶測や伝聞で埋めることは、モラル上できなかったのだろう…とされています。

 

こうして曖昧になった「事に坐せられて」とは、いったい何のことを言っているのか?について、バシっと答えられる定説は、まだないみたい。

 

 

有力な説のひとつとして「魚名が継嗣問題に口を挟んだ(あるいは無関心を決め込んだ)ことが桓武天皇の逆鱗に触れた」が、よく挙げられます。

 

その背景として、良継の没後に藤原式家主導政権が衰退すると、魚名は着々と権力基盤を固めたのですが、桓武天皇の即位によって頓挫したという指摘があります。

 

桓武天皇が即位する前と後の朝堂の勢力図を確認すると…

 

太政官 勢力図
官職 桓武帝即位前 桓武帝即位後
左大臣 藤原魚名(北家)
右大臣 大中臣清麻呂
内大臣 藤原魚名(北家)
大納言 藤原田麻呂(式家)
中納言 藤原縄麻呂(南家) 藤原継縄(南家)
石上宅嗣(物部氏)
参議 藤原継縄(南家)
藤原田麻呂(式家)
藤原小黒麻呂(北家)
藤原浜成(京家) 藤原浜成(京家)
藤原是公(南家) 藤原是公(南家)
藤原百川(式家)
藤原家依(北家) 藤原家依(北家)
大伴家持
大伴伯麻呂 大伴伯麻呂
神王
藤原乙縄(南家)
石川名足 石川名足
大中臣子老
紀船守

 

藤原浜成は「氷上川継の乱」で失脚したので、朝堂における藤原氏は9人→6人と推移して過半数を割り、明らかに衰退しています。

 

新顔の神王(みわおう)は、桓武天皇の従兄弟(父・光仁天皇の弟・榎井王の子)で、紀船守(きのふなもり)は桓武天皇の祖母(紀橡姫)の親族。大伴家持は父(大伴旅人)ゆずりの反藤原派。

 

桓武天皇が親政のために身内を固め、かつ気鋭の反藤原派を牽制として用いている。そんな構図が見えてきます。

権力に陰りが生じた魚名の焦りが見えてきそうです。

 

ここで絡んでくるのが、桓武天皇の皇嗣の問題

 

桓武天皇は、即位した時に弟の早良親王(さわら)を皇太子にしていましたが、息子の安殿親王(あて。後の平城天皇)が成長するにつれ、「この子に皇位を継がせたい」と考えるようになっていました。

 

安殿親王の母は藤原乙牟漏(おとむろ)。藤原良継の娘で、式家出身。

そこで、安殿親王の立太子を念頭に置いて、乙牟漏を「皇后」にするための布石として「夫人」にランクアップさせる企てを、藤原式家が全面バックアップしていました。

 

 

この時、魚名はどう考え、何をしていただろうか。

 

実は魚名も孫娘(藤原小屎)を桓武天皇に入内させていました。

 

「式家の娘が夫人になるのならば、左大臣である自分の孫娘も夫人にして頂かないと、権力のつり合いが取れない」と考えただろうか。

 

しかし、乙牟漏にはすでに安殿親王と神野親王(後の嵯峨天皇)が生まれていましたが、魚名の孫娘には皇子がいません。子のいない孫娘を夫人にするのは、結構無理筋。

 

でも、早良親王を皇太子に立てているのに、乙牟漏を「夫人」とするのも、何の意味が??と疑問の、かなりな無理筋です。

 

「乙牟漏を夫人にするのは政治的混乱を招きかねない。早良親王に憚るとして反対しよう」と、潰しにかかっただろうか。

 

「しかし、式家は我が氏族。乙牟漏が昇格すれば、我が政権も盤石になるかもしれず、邪魔だてするのもどうなのか…」と、消極的態度に出たのか。

 

まさしく『英雄たちの選択』(笑)

 

一体、どれを選び取って、しくじったんだろう?

 

ワタクシは「乙牟漏を夫人とすることに反対して墓穴を掘った」と、思っています。

 

そもそも、兄の永手は光仁天皇を即位させた際に、他戸親王を皇嗣としていました

しかし、永手が亡くなると(771年)、式家はそれをあっさりと覆して他戸親王を廃太子に追い込み、山部親王(後の桓武天皇)を立太子させました(772年)

 

この時、魚名はどう思ったんでしょうね?

 

首班の良継に逆らったら、藤原北家は村八分にされて危機に陥りますから、表立っては従順な態度を取り、結果的に信用を掴みました。

でも、良継の死後。式家からは百川を太政官に上げただけで、小黒麻呂と家依を参議に登用して、政権を藤原北家で固めた印象があります。

 

これ、兄の死後に速攻で手のひらを返した式家を、心の底では信用し切れてなかったからではなかろうか。

 

もっと言えば、魚名が兄の立てた他戸親王を支持していたことを悟った山部親王(桓武天皇)が、心の底では魚名を信用し切れず、些細なことで左大臣を罷免したのかもしれない…?

 

 

桓武天皇は魚名の死後すぐに名誉回復をしており、また後年に孫娘との間に皇子をもうけていることから、魚名が無実であることを知っていたとする説があります。

 

でも、左大臣にまで昇った魚名の子孫がその後、権力の座から遠ざけられ、国の中枢に立てず、地方の長官を歴任する中級貴族に落ちぶれてしまったのを思うと。

 

実際にはどうだったんだろうか?と訝しんでしまいますねー。

 

 

というわけで、藤原氏の傍流中の傍流となった魚名流の祖・魚名が、時流にもまれながら左大臣にまで昇り、時流に呑まれて転落する人生を語ってみました。

 

魚名の後裔は中級貴族に成り下がったとはいえ、歴史上に名を残す者たちが多数輩出され、大河ドラマ『平清盛』や『鎌倉殿の13人』にも多く登場してくるのですが、それについてはまた別の機会に、ということで。

 

 

というか、また本題に触れない系図を出してしまったな…本当、何やってるんでしょうかねー(苦笑)

 

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