「一条家」「二条家」「三条家」と、計らずも「○条家」紹介のシリーズと化してしまった当ブログ。

 

だったら「四条家」もやってしまおうと、今日はそんな試みです。自己満足もここまでやるとかえって清々しいってもんよ。

 

四条家は、大河ドラマ『平清盛』『鎌倉殿の13人』の時代ドンピシャ(ちょっとオーバーするけど)なので、今年のうちにやるとちょうどいいですしねw

 

 

四条家は、藤原氏善勝寺流の流れをくむ家です。

 

善勝寺流は、以前に紹介した奈良時代に左大臣にまで登り詰め、そして失脚した藤原魚名の末裔。

 

魚名が見た夢(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html

 

元は没落貴族だったのを、白河天皇の乳母を輩出したことで一気に歴史の表舞台に躍り出た一族です。

 

代表的な人物としては、鳥羽院の中宮で近衛天皇の生母・藤原得子(美福門院)や、鳥羽院の院近臣にして清盛の烏帽子親・藤原家成などがおります。大河ドラマ『平清盛』でお馴染みですな。

 

藤原家成 美福門院 池禅尼
左:藤原家成@佐藤二朗サン
中:藤原得子(美福門院)@松雪泰子サン
右:藤原宗子(池禅尼)@和久井映見サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

女系では池禅尼(清盛の継母)とも繋がりますが、このあたりについては家成卿の紹介も兼ねて語ったことがありますので、宜しければそちらをドウゾ。

 

諸大夫の男(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11246872428.html

 

「四条家」は、家成の子・隆季(たかすえ)が家祖。

 

家成の子といえば、『平清盛』でもレギュラー格だった成親(なりちか)のイメージがありますが、隆季(母は高階氏)は、成親(母は中関白家)異母兄にあたります。なので、嫡流はこっちなんですねー。

 

 

隆季は父・家成の「鳥羽院の忠臣」という立場を受け継いで、「保元の乱」は「鳥羽院→後白河帝」サイドについて生き残り、後白河帝の右腕である信西の派閥に属したようです。

 

隆季の妻は中関白家(水無瀬流)の女で、「平治の乱」の首謀者・藤原信頼の姉妹でした。

しかし、隆季は(この時に信頼に成敗されてしまった)信西派の人として、信頼を義兄ではなく政敵として扱ったことで、悪影響を受けずに済んでいます。

 

こうして、「保元の乱」「平治の乱」をなんとか乗り切りながら、父・家成と同盟関係にあった平家とも関係を強化。
成親が清盛の子・重盛と婚姻関係を結んだように、隆季は息子の隆房に清盛の娘を娶らせ、バリバリの親平家公卿として時代を駆け抜けます。

 

重盛や旧二条親政派と組んでいた成親とは派閥が違ったせいか、彼が平家への謀反を企て大コケしてしまったとされる「鹿ケ谷事件」でも、隆季は加担や連座の形跡はありません。

(そもそも、家成の頃から平家の同盟者的立場で時代の荒波を乗り越えてきた家ですから、成親の方が異端なんですよね…)

 

「以仁王の挙兵」があって、以仁王が興福寺に逃げ込んだという情報があった時、藤原氏の氏寺なのに興福寺を追及すべきとの立場を取って、同じく藤原氏の九条兼実に「平家に迎合しやがって」と非難されています。

 

 

隆季の子・隆房(たかふさ)は、先程も述べたように清盛の娘婿ですが、『平家物語』で小督局との恋愛譚にも出てくる人物として知られる人。

 

隆房の愛人だった小督局は、高倉帝に入内することになって引き離されてしまうのですが、清盛が「娘の徳子が入内しているのに小督局に懸想するとは何事だ!」とカンカンになって、小督局は冷遇されてしまうという、二重に悲劇なお話。

ちなみに、小督局は信西の孫娘にあたります。愛人関係だったのは、父・隆季が信西派の人間だったつながりですかね。

 

そんな隆房は、平家が滅亡した後も「私は平家の支持者」と公言していたという剛毅な人。後白河院の側近中の側近だったので、誰憚ることなかったんでしょうか。

こうした気質もあって、「壇ノ浦の戦い」から生還した建礼門院(清盛の娘。安徳天皇の母)や治部卿局を庇護した人としても注目されます。

 

建礼門院は義理の妹。そして治部卿局は、義兄弟にあたる平知盛の妻で、高倉天皇の皇子・守貞親王の乳母でした。

 

守貞親王は後鳥羽天皇の同母兄ですが、乳母の関係で「平家の都落ち」の際に一緒に西国へ連れ去られたので、京に残っていた弟が、安徳天皇の次の皇位を継いでいました。

 

弟が天皇になっては、自分や自分の系統が即位する芽はほとんどありません。守貞親王は都に戻った後、相当気落ちして出家してしまいます。

 

ところが、弟の一家が「承久の乱」で配流の身になり果てると、承久3年(1221年)、守貞親王の子・茂仁王が「後堀河天皇」として即位。自身も「後高倉院」となって、院政を担うことになりました。実に38年越しの返り咲きw

 

守貞親王の庇護者だった四条家は、後堀河朝で重用されることになったといいます。

 

ちなみに、後堀河天皇の子は四条天皇御所で転倒した際に当たり所が悪くて亡くなってしまい(12歳。歴代天皇最年少の崩御、後堀河天皇の系統は断絶となりました(1242年)。

「四条天皇」と謚されたのは、四条家とつながりが深かったから…なんですかね(だったら後堀河院が「四条」と謚されそうですが…うむむ)

 

 

ともあれ、守貞親王の庇護者だった四条家は、だからといって後鳥羽系と疎遠だったわけではなく、むしろ親密でした。

 

四条隆衡(たかひら。隆房と清盛の娘の子)の妻は坊門信清の娘。信清は後鳥羽天皇の叔父(姉妹が後鳥羽天皇の生母)で、さらに娘を後鳥羽天皇に入内させていました。

隆衡は坊門家を通じて、後鳥羽天皇の義理の従兄弟かつ義兄弟だったわけです。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれましたが、坊門信清の娘の1人は、鎌倉3代将軍・実朝にも嫁いでいます(ドラマでは役名「千世」)

 

四条隆衡は西の後鳥羽天皇、東の実朝と縁繋がりだったんですねー。

(ちなみに坊門家は、中関白家=水無瀬流の一家です)

 

信清の娘との間に生まれた娘・貞子は、西園寺実氏に嫁いで娘をもうけ、後深草天皇・亀山天皇 兄弟の外祖母となっています。以前に紹介した、西園寺公経が強引に入内させた、あの一件の結果です→

 

 

縁戚という点では、四条家は足利氏とも関係が深い家でした。

 

隆衡の子・隆親は足利義氏の娘・能子と婚姻を結びました。

また、足利氏は坊門家の近縁である水無瀬家とも通じています(義氏の姉が嫁いでいます)

 

坊門家と四条家と水無瀬家は、足利氏と繋がることで親幕府の公家集団を形成。

ここが、鎌倉幕府にとって朝廷工作の橋頭保となっていたようです。

 

そもそも足利氏は義氏の祖父・義康(源義朝の相婿にして盟友)の頃からの京武者で官僚筋。京都の事情に通じていました。

さらに義氏は北条政子の甥でもあるので、北条氏からしたら北条一門のような感じもあったのでしょうね。

 

足利能子は、四条隆親と結婚したことにより、後鳥羽院の孫・邦仁王の乳母になることができました。

 

邦仁王は四条天皇が12歳で急死した後、即位して後嵯峨天皇となります。

実は、彼の皇位継承に、この親幕府公家集団が暗躍しています。

 

 

「承久の乱」が起きて後鳥羽院サイドの敗北が決まり、後鳥羽系が皇統から排除されると、後堀河天皇の系統に皇位が巡って来たのは、先程触れたとおり。

 

後堀河天皇の中宮は九条道家の娘で、四条天皇の生母でした。

 

後鳥羽院と距離を置いていたがために無傷で乱後を迎え、四条天皇の外戚となり、さらに当時の鎌倉幕府将軍が道家の子・九条頼経という、「承久の乱」後の藤原摂関家は息を吹き返したかのように強大な存在となっていました。

 

四条天皇が不慮の事故で崩御すると、藤原摂関家は順徳天皇の皇子・岩倉宮忠成王を次の天皇に推します。

順徳天皇は、中宮が道家の姉だった縁者。これを利用するために推したわけですね(ちなみに、忠成王の生母は善勝寺流藤原氏…美福門院の甥の孫娘)

 

 

忠成王が即位したら九条家は益々盛んになることは間違いなく、さらに言えば「承久の乱」の関係者である順徳天皇の系統が復活することを意味します。

 

幕府としては、これを何とかして阻止したいところ。

そこで白羽の矢が立ったのが、足利能子が乳母となっていた、邦仁王の存在。

 

邦仁王は、生母の実家である土御門家(村上源氏)に保護されていたのですが、土御門定通(さだみち)は、北条義時の娘(母は姫の前)を妻に迎えている、こちらも親幕府公家。

 

さらに、邦仁王の父・土御門天皇は、後鳥羽院の子ながら「承久の乱」には関与していないので(なのに自ら配流を願って土佐へ、後に阿波へ流されていました)、少なくとも乱当事者である順徳院の系統である忠成王よりは、鎌倉時代の帝王に相応しい。

 

この朝廷工作の為、四条家と水無瀬家が動きます。

(ちなみに坊門家は、「承久の乱」に大きく加担したので没落してしまいました…生母を出した縁か、後鳥羽院を裏切れなかったんですかね)

 

水無瀬家は、後鳥羽院の所領「水無瀬荘」と、お気に入りだった邸宅「水無瀬離宮」を預かっていたことから(ここから「水無瀬家」「水無瀬流」の呼び名があるわけですな)、かつて後鳥羽院に近かった公家たちとも交流がありました。

 

後鳥羽院がいなくなって、ぱっとしなくなっていた彼らを「後鳥羽院の皇統が復活するんだから」「院に味方しなかった摂関家の世になるなんて面白くないだろ?」と説得して味方に引き込みました(セリフはワタクシの妄想ですが、近いことを言ったんじゃないかなって思います…たぶん)

 

こうして、公家社会を切り崩して幕府与党を増やし、後嵯峨天皇の即位に成功。

 

やがて摂家将軍も廃して九条家の野望を打ち砕いた鎌倉時代は、後嵯峨天皇による「両統迭立」の時代へと進んでいくことになります。

 

ちなみに、皇統が復活した後鳥羽院は、かつて自分を傍系に追いやった鎌倉幕府により、水無瀬神社の祭神にされています。

もしも後鳥羽院にこのことを教えたら、「はぁ?どういうこと??」ってなるでしょうね(笑)

 

 

…なんだか、途中から四条家というより水無瀬家や足利氏、鎌倉幕府の話になってしまったような気が…。脱線のままホームイン、失礼イタシマシタ。

 

 

 

余談、その1。

 

 

四条家の紹介を目指しておいて、これを外すのはなぁ…の1つに「庖丁」があります。

 

公家は各家ごとに「家職」があったのですが、四条家の家業は「笙」と「庖丁」。

 

四条家は、「四条流庖丁式」の家元としても知られています。

つーか、むしろ「院近臣の家」とか「親平家の家」とか「親幕府の公家」とかいったマイナーな歴史より、断然こっちの方が有名です(笑)

 

「四条流庖丁式」は、藤原山蔭光孝天皇の勅命で庖丁道をまとめたことが、伝承上の始まりとされます。

 

藤原山蔭は以前にも語ってみましたが、助けた亀に川で溺れた息子を助けてもらった、あの人です(そういう紹介もどうよ)

 

系図で見てみよう(藤原氏山蔭流/利仁流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12732164020.html

 

山蔭は藤原魚名の子「鷲取」の子孫ですが、四条家が属した善勝寺流は、鷲取の兄弟だった「末茂」の子孫。直系では繋がっていません。

 

 

なんで山蔭と系統を異にする四条家が、山蔭が興したとされる家業を継承して、しかも山蔭を祖としているの?という疑問には、明確な答えはないみたい。

 

一応、山蔭の来孫にあたる親子(山蔭-中正-安親-為盛-親国-親子)が、末茂流の藤原隆経の妻となって、生まれた子が顕季(善勝寺流の祖)なので、女系では繋がっているんですけどね。

(ちなみに、この親子が白河天皇の乳母で、善勝寺流が飛躍するきっかけになったキーパーソンです)

 

そして、家成は保延6年(1140年)、天皇(ということは崇徳天皇)の御前で請われて鯉捌きを披露したそうで、おそらくはこれが事実上の「四条流庖丁式」の始まり(『古今著聞集』巻18「保延六年十月十二日白河の仙洞に行幸の時御前にて盃酌ありけり」)

 

この出来事と、かつて山蔭が「四条中納言」と称していて、たまたま家号の「四条」と呼称がかぶっていたこと。

この2つがかけ合わさって、「四条家は庖丁道を家業にして山蔭を祖とした」ということなんでしょうかねぇ。

 

それにしても、家成卿…庖丁裁きがお上手だったんですねw

 

 

 

余談、その2。

 

 

「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」という、国宝にもなっている古文書があります。

 

「宸翰(しんかん)」というのは、「宸(天皇が住む場所)」の「翰(筆で書かれたもの)」で「天皇直筆の書」

つまり、後鳥羽天皇の直筆の書が現代にも伝えられていて、国宝に指定されている…ということ。

 

「御手印」とあるように、朱色のインクで大きく後鳥羽天皇ご本人の手形が捺されています…というと、書籍やインターネット、テレビで(あるいは実物を?)見たことある!という方も、多いのではなかろうか。

 

 

この置文(手紙)は、隠岐に流されていた後鳥羽院が亡くなる直前(13日前)、近臣だった藤原親成のために書き残した書です

 

この藤原親成というのは、このページでも紹介した、水無瀬離宮を預かっていて、後鳥羽院シンパの公家と交流があって、四条家(≒足利氏=鎌倉幕府)による公家社会の切り崩しを担った、あの水無瀬家の人です。

 

ちなみに内容は、「もしかしたら私はこの病で亡くなるかもしれない。貴方の奉公には感謝しているが、それに応えられず無念である。摂津の水無瀬と井口、出雲の持田の領地を与えるから、ここを治めて、私の菩提も弔ってくれないか」みたいなかんじ。

 

病床に倒れて死期を悟りながら書いた…とは思えないほどの明晰な筆跡で、手形も力強く生々しささえ感じられますな。

 

 

 

余談、その3。

 

 

水無瀬家が切り崩した後鳥羽院に近い公家たちの中に、藤原清房という勧修寺流藤原氏の公家がいました。

 

彼の家は藤原摂関家の家司を務めていて、そのために「保元の乱」では氏長者だった悪左府・藤原頼長について、敗者となって没落してしまいます。

 

やがて、清房は従兄弟の在子(承明門院)が後鳥羽天皇に入内したことから、後鳥羽天皇に近侍

家運の立て直しを図っていたのですが、「承久の乱」でまた敗者の側に回ってしまいました。

 

その後、隠岐まで行ったり、後鳥羽院の復権運動をしたりするなど燻っていたのですが、そこに親幕府公家集団からの切り崩しがかかったわけです。

 

先程の在子は、土御門天皇に入内していて、生まれていた皇子が茂仁王…つまり後嵯峨天皇。

清房は(おそらくは)イの一番に「後嵯峨天皇の即位」の話に乗り、尽力して成功させました。

 

清房の子・重房が、鎌倉幕府の宮将軍第1号となる宗尊親王(後嵯峨天皇の子)とともに、鎌倉に下向。関東にやってきます。

 

この頃には、所領から名を取って「上杉氏」を名乗っていました。

室町時代から戦国時代にかけて東国で活躍した、あの上杉氏の祖です。

 

清房と重房は、水無瀬家から声をかけられた時、背後にいた四条家、その活動の根っことなっていた足利氏と、顔見知りになったのではなかろうか。

 

やがて、上杉氏の娘が足利氏に嫁ぎ、生まれた子が足利尊氏。初代室町幕府将軍です。

 

その後、上杉氏は足利氏の外戚として「関東管領」(室町幕府の関東政権「鎌倉府」のナンバー2)を世襲するようになり、関東における戦国時代の幕開けを担ってしまったのは、御存知のとおり。

 

こうして見ると、上杉氏が歴史の表舞台に出てきたのは、四条家の存在も大きかったんだな…なんて感慨深いものがありますねー。

 

 

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