「平安(院政期)~鎌倉時代に現れるいくつかの一条家を整理して紹介しよう!」という、どこに需要があるんだか分からない(笑)今企画。

 

前回の続きとして、今日は一条家(中御門流)を取りあげます。

 

 

中御門流(なかみかどりゅう)」とは、道長の子・頼宗(よりむね)の系譜の呼称。

 

「御堂関白」と呼ばれ権勢を誇った藤原道長は、たくさんの子宝に恵まれましたが、正室の子と側室の子とを明確に区別して遇していました。

 

天皇に嫁がせた娘は全て正室から生まれた子ですし、摂関家の地位も正室の子・頼通に継がせ、そのように昇進の便宜も図っていました。

一方、側室から生まれた子は、男の子は昇進も遅れ、女の子も「后かね」にはなっていません。

 

頼宗は、そんな側室から生まれた1人。中御門流はハナっから傍流として存在していたわけですね。

 

 

道長の正室腹の子と側室腹の子の戦いは、嫡流が天皇家の外戚になるのに失敗した経緯も絡んで中々に面白いのですが、それは別の機会に譲って。

 

中御門流藤原氏も、院政期~鎌倉時代に何度も表舞台に顔を見せている大変重要な存在で、中でも一条家(中御門流)は格別の味わいがあります。

 

というのも、一条家の当主たる能保(よしやす)には、頼朝の同母妹である坊門姫が嫁いでいたからです。

 

 

一条能保は、父・通重と徳大寺家の娘との間に生まれました。

徳大寺家は、藤原氏閑院流(かんいんりゅう)の支族。ここは後白河天皇の母・待賢門院の実家です。

(能保からすると、待賢門院は母方の曾祖父の妹にあたります)

 

系図で見てみよう(藤原北家/待賢門院&美福門院周辺)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11240438200.html

 

で、待賢門院所生には、後白河院のほかに上西門院統子(じょうさいもんいん・むねこ)という同母姉がおりました。

 

頼朝と坊門姫の母・由良御前の実家(熱田神宮家。系統は藤原南家)は上西門院に仕える家柄で、頼朝も上西門院の元で宮仕えをスタートさせています。

 

という関係図から考えると、おそらく能保と坊門姫の結婚は両者の母方の縁者である上西門院を通じて組まれたものなんでしょうねー(たぶん)

 

そんな夫婦には、一条高能(たかよし)という男の子が産まれています。

 

高能は、従兄弟の関係に当たる頼朝の娘・大姫を娶る予定だったのを、拒絶されて実現しなかった人。『鎌倉殿の13人』にも登場していましたね。

 

一条高能@木戸邑弥サン
一条高能@木戸邑弥サン
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

むしろ、注目なのは女系の方。

 

娘の1人は藤原摂関家の九条良経(兼実の子)に嫁いで、道家立子(仲恭天皇の母)を生んでいます。

もう1人は西園寺公経に嫁いで、掄子(みちこ)という女の子をもうけました。

 

この道家と掄子は後に婚姻関係となり、その間に生まれた子の1人が、鎌倉幕府4代将軍頼経

 

つまり、頼経は「坊門姫の2人の孫」の子として生まれた頼朝の血縁者。だから鎌倉将軍となる資格があったわけですねー。

 

頼経が鎌倉にやって来たのは承久元年(1220年)の2歳の時ですが、鎌倉殿になったのは嘉禄2年(1226年)。北条義時が亡くなった(1224年)あとの話なので、このあたりの話は『鎌倉殿の13人』には来ない可能性が大…次の鎌倉大河に期待ですね(いつになるんだか)

 

 

 

頼経のことは、ちと話を進め過ぎなので時間を巻き戻して。

 

坊門姫の子が嫁いだという九条良経は、「百人一首」91番歌の詠み人です。

 

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに ころもかた敷き ひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣/新古今集 秋 518

 

耳なじみのある「きりぎりす」で始まるだけあって、「百人一首」の中でも、知名度も好感度も高い(らしい)和歌w。

 

「きりぎりす(と言いつつ、平安朝ではコオロギのこと)が鳴く寒い霜夜に、自分の衣服ひとつ敷いて、寂しく一人寝をするのだろうか」みたいな意味。

 

一見すると「失恋」もしくは「片想い」っぽいですが、この歌を詠む直前、奥さん(ということは坊門姫の娘)に先立たれたそうで、そうなると趣が変わってきますねー(種別も「恋」ではなく「秋」ですしね)

 

ともあれ、頼朝は念願の平家を滅亡させた後、娘の大姫を入内させるべく朝廷工作に着手するのですが、その手段として妹の婿家である九条家と提携しています。

 

一条家は、頼朝と九条家を繋ぐ家でもあったんですねー。

 

 

やがて時は過ぎ、源頼朝が亡くなった直後の正治元年(1199年)2月。京都で「三左衛門事件」と呼ばれる事件が起きます。

 

出仕中だった土御門通親に、「何者かが貴方を襲撃しようと企てている。外を出歩かない方がいい」という情報が飛び込み、院御所から出られなくなりました。

 

やがて、犯人とされる後藤基清、中原政経、小野義成の3人が逮捕され(3人の官職が「左衛門尉」だったので、「三左衛門事件」と呼ばれます)、一応の事態鎮静化がかないます。

 

後の調査で、騒動の発端が源隆保(左馬頭。村上源氏)が自邸に武士を集めていたことにあると判明。これに関連して、西園寺公経持明院保家も出仕を止められました。

 

…というのが、「三左衛門事件」のあらまし。

 

『鎌倉殿の13人』でも、怪僧・文覚(@市川猿之助サン)が京都で捕縛されるシーンがありました。この事件の黒幕は、文覚だったとされているみたいです(あるいは、頼朝の意を汲んだ文覚が工作を行っていた…とも言われます)

 

この場面では「捕えられたのは一条高能の関係者」みたいなセリフがさらっと出てました。

 

源隆保は妻・坊門姫の従兄弟(ということは、頼朝の従兄弟)

西園寺公経は娘婿で、かつ息子・実雅の養父。

持明院保家は20歳年下の父方の従兄弟で、将来を見越して昇進を譲ったこともある、親密な関係。

 

というように、出仕を止められた3人は、一条家と関係の深い人たちでした。
実は、逮捕された3人は一条家に出入りしていた御家人だったので、その関係者として3人に捜査が及んだみたいです。

 

一条家が文覚の企てに乗ったのは、「一条家の焦り」にあったと考えられています。

 

一条能保は、頼朝が他界するより先立つこと2年前の建久8年(1197年)に薨去。

翌年には息子の高能(先ほども出て来た、大姫と結婚する見込みだった人)も亡くなっていました。

高能の嫡男・頼氏は、この時生まれたばかり(1198年生まれ)

 

ここにきて、最大の後ろ盾とも言える頼朝が死去。一条家は没落の危機に瀕し、困窮した一条家の家人たちが、当時九条兼実を追い落として権勢を誇っていた土御門通親を襲撃して家の再興を謀った…というわけ。

 

通親の襲撃が何故に一条家の再興に繋がるのか…は、ワタクシにはよく分かりません。

「土御門通親の排除→九条兼実の再登板」を起死回生の起爆剤とするつもりだった…のでしょうかねぇ。

 

しかし、幕府側は「頼朝の没後」という困難な時期に朝廷との関係を悪化させたくありません。土御門通親を支持して、「三左衛門事件」関係者は切り捨てられる形になりました。

 

大河ドラマでも、家督を継いだばかりの頼家が、「文覚の処罰は朝廷に任せる」と冷たくあしらっていましたね(それまで強気だった文覚が「そ、そんな…」と絶望の顔に変わっていくシーンが印象的)

 

本当は、朝廷に抗ってでも関係者を守り、「頼朝の頃と変わらず、頼家は御家人を守ってくれる」というパフォーマンスを見せたほうが良かったのでは…という評価もあったり。正解はどっちなんだろう。

 

こうして大打撃を受けた一条家は、高能の異母弟・信能(のぶよし)を中心にまとまって、「鎌倉殿の姻戚」から「後鳥羽院の院近臣」へと立場を変えていきます。

 

それでも一条家は鎌倉幕府との繋がりは維持していたみたい。

 

北条家と婚姻関係を結び、義時の娘(後妻となった伊賀の方との娘)を、能保の子・実雅(さねまさ)に嫁がせていました。

 

実雅の母は藤原南家の人なので、坊門姫(源氏)とは血縁関係にありませんが、関東申次という朝廷と鎌倉を繋ぐ役職にあった西園寺公経の猶子となっていました。

 

そして高能には、嫡男となった頼氏のほかに、能氏能継という子がいます(頼氏からすると兄ですが、摂政・関白も務めた名門・松殿家の娘を母としている頼氏が後継とされていました)

 

実雅と3人の兄弟は、鎌倉幕府との関係から、実朝の右大臣就任の式典に参加しています(そして、鶴岡八幡宮で実朝暗殺を目撃することになりました。大河ドラマにも登場するかも?)

 

源氏三代が絶えた後、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係が微妙なものとなり、やがて「承久の乱」が勃発。

 

一条家の実質的な当主・信能と弟の尊長(そんちょう)は、院近臣の関係から上皇側について、義時追討を支持しました。

 

高能の3人の息子のうち、能氏と能継も上皇側に加担。

 

中でも注目は能氏。彼は、母方の曾祖父が、あの比企能員なんです。

「『比企能員の変』の仕返しだ!一族の仇を討つ!」とでも思いついたんでしょうかね。

 

 

嫡男の頼氏は、妻が北条時房(義時の弟)の娘だったともあって、身の危険を感じて即座に京都を出奔。鎌倉に駆け込んで、京での変事を伝えたと言います。

 

「承久の乱」後、2人の叔父と2人の兄は、反乱を起こした罪で処罰されてしまいました。

 

頼氏は生き残りましたが、子孫は北条家と縁戚を組んだ形跡がなく、次第に歴史の中に埋もれて行ったみたいです。

 

一方、実雅は、義時が亡くなった直後、母(伊賀の方)の兄・伊賀光宗が将軍に立てようと企て、大コケしてしまった「伊賀氏の変」(1224年)の登場人物になっています。

 

伊賀の方は伊豆国、光宗は信濃国に追放。実雅は越前国に流罪となり、配流先で変死を遂げたといいます(「河死」とあるので、河で溺れられたか、沈められたか…?)

 

 

というわけで、一条家(中御門流)の紹介は、以上ここまで。

 

頼朝の生前は鎌倉寄り、死後は院近臣になって(なったせいで)没落…というような、時代に翻弄された家と言えるんでしょうかね…。

 

中御門流は、清盛の頃から南北朝直前まで、まだまだ話の幅が広がるので、また機会があったら取りあげてみたいです。もしかしたら、オタノシミニ。

 

 

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