ワタクシが院政期から鎌倉時代にかけてを漁り始めた頃。

よく、こんな風に思うことがありました。

 

「この一条さんって、どの一条家なん??」

 

この時代。源頼朝にからんで「一条家」がチラホラ出てくるんですが、実は全然違う家だったりして、だとすると関係図も出てくる意味合いもまるで変わってきて、なんだかややこしいんですね…。

 

で、最近。記憶力が落ちて来たのか、時々戸惑ったりして(笑)

 

今日は自分用の整理の意味も込めて、それぞれの一条家についてまとめてみようかと。そんな試みです。

 

とはいえ、「そんなに一条家っていくつもあるの?」と思われる方も、中にはおられるのではなかろうか。

そこでまず、wikipediaで見てみると、このように解説されています。

 

一条家(いちじょうけ)

  1. 五摂関家の一つ。九条道家の子・一条実経を祖とする。代々摂政・関白を輩出した。一条家を参照のこと。
    • 上記、一条家の庶流。応仁の乱後に所領のある土佐国幡多郡に下向して、戦国時代には戦国大名化したため、「土佐一条」と呼ばれる。後に長宗我部氏に滅ぼされた。土佐一条氏を参照のこと。
  2. 藤原道長の子・頼宗の子孫である持明院家の庶流の一つ。頼宗の5代目の子孫である一条能保が源頼朝の妹婿であったために鎌倉幕府より京都守護に任命されて栄えた。一条家 (中御門流)を参照のこと。
  3. 藤原北家閑院流西園寺公経の子・実有の子孫。7代目の一条実秋が一時期「清水谷」を号した事から、子孫は家名を「清水谷」と改めたという。清水谷家を参照のこと。
  4. 藤原北家世尊寺流世尊寺家の別名の1つ。世尊寺家を参照のこと。
  5. 藤原北家中関白家庶流の一つ。一条長成・能成父子らが知られる。
  6. 宇多源氏の源雅信が一条家(または鷹司家)と称した。
  7. 甲斐源氏の一つ。武田信義の子・忠頼が「一条」を名乗った事に由来する。後に断絶するが、武田信玄の弟・一条信龍が家名を再興した。武田氏滅亡時に織田氏によって滅ぼされた。甲斐一条氏を参照のこと。
  8. 伯耆国の国人領主、室町時代には守護の山名氏家臣に「一条出雲守」の名が見える。永禄年間からは南条氏の重臣となった。伯耆一条氏を参照のこと。

 

引用先:一条家 (曖昧さ回避)(wikipediaより)

 

なんと、9つもありましたか…それはそれは。思ったよりあったなぁ(笑)

 

今回はこの中から、「2.一条家(中御門流)」「5.一条家(中関白家)」、そして「1.一条家(五摂家)」の3つの家をメインテーマに進めます。すなわち、

 

  • 一条家(中関白家):一条長成・能成
  • 一条家(中御門流):一条能保
  • 一条家(五摂家):一条実経

 

まずは3家の関係を系図で確認すると、以下の通り。

 

 

で、今日は一条家(中関白家)を取りあげます。

 

 

まだ院政期に入る直前の平安時代後期。

「御堂関白」と呼ばれた権力者・藤原道長は、兼家の五男坊でした。

 

「正室の子」ではありましたが、上に道隆道兼という2人の同母兄がいたので、栄達する可能性は極めて小さいものでした。

 

ところが、道隆が酒の飲み過ぎで早死にしてしまいます。

 

つづいて、父のあとを継ごうと道長への対抗心剥き出しにかかってくる道隆の子・伊周隆家との政争に勝利。

 

天皇家に次々と娘を入内させ、前代未聞の閨閥を形成しました。

 

 

この世をば わが世とぞ思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば

 

この有名な和歌を詠むほどの栄華を誇り、摂関政治の全盛期を築き上げたのでした。

 

まさに「スーパー望月おじさん」(ワタクシの命名)

 

…というあたりは、再来年の大河ドラマ(紫式部が主人公)でやるかと思うので、詳細はその頃に譲るとして。

 

摂関家の嫡流から外れてしまった、道隆の子供たちの家系は、「中関白家」(または「水無瀬流」と呼ばれます。

 

 

一条家(中関白家)は、源義経の関係で出てくる家系です。

 


源義経@滝沢秀明サン
2005年大河ドラマ『義経』より

 

義経といえば、奥州藤原氏のもとで育ち、旗揚げした兄・頼朝のもとへ、この北の地から旅立ったことは有名。

 

義経は、生まれはもちろん、父・義朝が務めていた京都。11歳で洛北の鞍馬寺に入れられるなど、京生まれの京育ち。

そんな義経が、どんな伝手を使って義経は奥州藤原氏の客分になれたのか?と疑問に思われる方も多いのではなかろうか。

 

実はこれ、義経の母である常盤御前が作っている縁。

 

常盤は、夫の義朝が「平治の乱」に敗れて東国へ落ち延びていくと、京に取り残されました。

 

やがて子供たちとともに平家に捕まり、清盛の妾にされたのですが、どういう経緯かその後、一条家(中関白家)の当主・長成の妻となりました。

 

一条長成の系図を辿ると、母方の従兄弟(忠隆)の子に、藤原基成という人物がいます。

 

基成は、「平治の乱」(1159年)の首謀者となった藤原信頼の兄ですが(13歳ほど年が離れてますが)、本人は長く陸奥守を務めた、東北と縁の深い人物。

娘は奥州藤原氏の三代目・秀衡に嫁いで、泰衡の母となっています。

 

義経が奥州へやって来たのは、おそらくは長成が基成の縁を頼ってやったこと。

「母(常盤)→一条長成→藤原基成→藤原秀衡」という繋がりを辿っていたんですねー。

 

 

(まぁ、このあたりは以前にもやってるんですが、復習みたいなかんじで ^^;)

 

長成は常盤との間に、義経の異父弟にあたる能成(よしなり)をもうけています。

1162年生まれなので、「平治の乱」の3年後(ということは義経の3つ下)、頼朝が挙兵する(1180年)18年前のこと。

 

義経が伝承通り11歳で鞍馬寺に入ったとすれば、幼少の頃は一緒に暮らして面識があったのかもしれないですね。

 

能成は、近衛天皇の中宮・呈子のはからいで官歴をスタートさせています。

 

呈子は藤原忠通が養女として近衛天皇に入内させた娘。これに対抗して頼長が多子を入内させた話は、以前にも触れました。

 

ことはなのさやけさ(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12699338839.html

 

母の常盤は出自が「九条院(呈子)の雑仕女」とされていますが、その伝手で呈子の御給となったのか、あるいは後の歴史家(あるいは物書き)が能成の職歴から想像した「設定」なのかは、よく分かりません。

 

やがて源平合戦の時代が到来して、義経が鎌倉勢の大将として頭角を表すと、能成は義経の元に馳せ参じて対平家戦に参加。

平家滅亡後、義経は鎌倉勢から追われる身となりますが、その時も異父兄に着き従いました

 

しかし、義経が都を落ちのび、西国に向かおうと船出した途端、大風によって難破。

一味は散り散りになってしまうのですが、能成はおそらくこの時、兄とはぐれてしまったのだと思います。

 

その後、鎌倉勢の捕縛や処罰を受けて没落しますが、後に承元2年(1208年…義経の死から19年後)に復帰し、従三位(ただし参議ではない)まで登って嘉禎4年(1238年)に薨去したそうです。享年75。

 

 

というわけで、本日はここまで。

 

このように一条家(中関白家)は、ほぼ一条長成・能成で完結してしまうので、実はお話のメインは一条家(中御門流)だったりします(笑)

 

それについては、後日またご紹介してみようと思います。ではでは、またー。

 

 

【関連記事】

 

系図で見てみよう(一条家曖昧さ回避/水無瀬流)
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系図で見てみよう(四条家/藤原氏善勝寺流)
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