「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。

 

「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)

 

これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。

 

相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。

 

 

さっそく、wikipediaで「二条家」のページを見てみると、冒頭にこのような記述があります。

 

この項目では、五摂家の一つについて説明しています。

歌道と鞠道を家業とした御子左流の嫡流については「二条派」をご覧ください。

 

引用先:二条家(wikipediaより)


御子左流(みこひだり りゅう)といえば、そう。「百人一首」の撰者・藤原定家の実家。

 

この一族については、紹介するだけで今日が終わってしまう…(汗)

 

なので、「藤原道長の末っ子・長家(ながいえ)の子孫」と述べるだけに留めて、細かい所は別の機会に譲ります(ってか、まだやってなかったんだ…ワタクシの不覚…)

 

 

二条家御子左流の嫡流で、定家の孫・為氏(ためうじ)から始まる一門です(ただし「二条」を名乗ったのは、為氏の子の為世から)

 

ところで、「定家の子孫って冷泉家じゃないの?」と思われる方も、おられるのではなかろうか。

 

冷泉家の祖となった為相(ためすけ)は、為氏の異母弟(ちなみに、二条為氏は1222年生まれ、冷泉為相は1263生まれなので、41歳差になります…なんと、なんと)

 

御子左流では唯一、冷泉家のみが現在にも続いているので、「定家の子孫=冷泉家」という感じがしてしまうのですが、実は二条家の方が、かつては嫡流だったんですねー。

 

御子左流にはもう1つ「京極家」があって、こちらは二条為氏の同母弟・為教(ためのり)が祖。

(ちなみに、室町~戦国時代に大名として出た京極家は別の家です…こちらは宇多源氏で…これも曖昧さ回避になりそう・笑)

 

「二条家」「京極家」「冷泉家」

 

この3つの家は、いずれも同祖で同じく歌道の家。

なのに(ゆえに?)不和で不仲な険悪の関係でした。

 

 

彼らの仲が悪かった理由は、おそらく2つあります。

 

1つは、財産問題

 

3人の父にあたる為家の死後、播磨国にあった御子左家の所領・細川庄の相続をめぐって、嫡子為氏阿仏尼(為相の母)が訴訟を起こして抗争中になっていました。

 

為家が「細川庄は為相に譲るからね」といっていた書状を阿仏尼が持っていたのに、為氏が否定してこじれてしまったわけです。

 

この紛争問題は京都では解決できなかったらしく、阿仏尼は鎌倉まで出向いて直訴。為氏も鎌倉に下っているみたい。

 

阿仏尼が弘安2年10月16日(1279年)に出発して、鎌倉に4年ほど滞在した模様は、彼女の著書『十六夜日記』に記されています。

 

(10月16日から始まっているから『十六夜日記』。1279年ということは、将軍・惟康親王執権・北条時宗の時代。2回目の元寇「弘安の役」(1281年)の直前。あと、一遍が時宗を開いた年ですね→

 

この訴訟の勝敗は定かではないのですが、彼女の『十六夜日記』は例の領地を治めていた冷泉家によって代々伝わってきたとのことなので、勝ったのかな…?

 

ちなみに、この時は阿仏尼の1人旅で為相は京都に残っていたので、『十六夜日記』には「残してきた子供を想って寂しくて袖を涙で濡らす」みたいな和歌がいくつも収められています(阿仏尼は、代表的な歌人です)

 

でも、訴訟や和歌の指導などで為相も度々鎌倉を訪れ、住んでもいたようで、彼のお墓も鎌倉は浄光明寺にあります(このお寺は以前「ブラタモリ」で立ち寄ってましたな)

 

ワタクシも大昔に訪ねたことがありますが、そこの親切な住職さんと歴史話に花が咲いて、足利直義の持仏もあって…とまぁ、これは余談なので置いといて。

浄光明寺の門前に「藤谷黄門遺蹟」という大きな石碑が建っていて、要するに「藤ケ谷にあった正二位中納言(=黄門)為相の邸があった跡」、つまりそのあたりに住んでいたというわけです。

 

 

鎌倉で暮らしていたこともあってか、鎌倉幕府9代将軍となった久明親王(後深草天皇の皇子)に娘を嫁がせる機会に恵まれ、久良親王も生まれています。

 

 

2つ目の仲が悪かった理由は、政治的立場

 

当時、天皇家は持明院統(後深草天皇系)」大覚寺統(亀山天皇系)」に分かれて、天皇を交互に出す両統迭立(りょうとうてつりつ)」という建前の元、自分の子を皇位に就けたい本音を隠さない(笑)大モメ状態で、「南北朝時代」の一歩手前にありました。

 

天皇家略系図 両統迭立・南北朝・後南朝

 

冷泉家は、久明親王に娘が嫁いだように、持明院統寄りの家でした。

 

それに対し、二条家は大覚寺統寄り

これは、為氏が出世に目をギラつかせていた当時が後宇多帝・亀山院政の御時だったのが大きいんでしょうかね(どちらも大覚寺統)

 

そして、大覚寺統にあたる後醍醐天皇(鎌倉倒幕運動で有名)は自身も歌人でしたが、和歌が得意な女性が好きなタイプだったみたい。

 

となれば、二条家(御子左流)の娘は適材。為氏の子・為世は、後醍醐天皇がまだ尊治親王だった時代(皇太子でさえない、ただの親王の時代)の正妃を出しており(二条為子)、さらに即位後には為世の子・為道も娘(二条藤子)を入内させています。

 

為子との間には尊良親王(倒幕に参加して九州で活躍。越前で新田義貞の子・義顕と戦死)宗良親王(法親王。信濃~東海で粘る)、藤子との間には懐良親王(九州を制覇。明における日本国王)をもうけました。

 

もう、見紛うことなき大覚寺統ですな。

 

ちなみに、京極家は持明院統寄り

 

京極家は、祖母の実家(ということは、定家の妻の実家)である西園寺家の家司をしていたのですが、西園寺家は以前に紹介したように、摂家将軍を出し、朝廷と鎌倉のつなぎ役の関東申次を請け負った経緯からか、鎌倉寄りの家。

 

京極家が持明院統寄りになったのは、二条家への対抗意識もあったんでしょうけど、こうした西園寺家の影響もあるんでしょうかね(鎌倉寄り=久明親王寄り=持明院統寄り)

 

こうして、持明院統(冷泉家・京極家)大覚寺統(二条家)に派閥が分かれていたら、仲良くなんてできそうもない…(笑)

 

この3家は歌風が違っていて、仲が悪かったのは歌風が違うからだ…とよく言われるのですが、たぶんそれは後付けで、対立・対抗から歌風の違いが生まれたんだと思うのですよねー。

 

(ちなみに歌風は、「二条派=保守古風」「京極派=革新自然」「冷泉派=特徴なし(笑)」なんだとか)

 

こうして二条家は、後醍醐天皇の倒幕運動に携わるなど大覚寺統側として去就を決める部分もありましたが、足利尊氏に敗れて南朝を開く最終局面には同調しなかったようで、京都に残って北朝(持明院統)との協調路線を取り、動乱の時代でも存続を成功させています。

 

二条家は御子左家の歌道の嫡流として認識され、勅撰和歌集の撰者を7度に渡って任命されるなど、歌壇の重きを務める家となっていました。

 

 

二条家は、南北朝が終わって室町時代、悲運に見舞われます。

 

当主・為遠(ためとお)酒好きのせいで怠惰な態度が目立って信用が薄く、関白・二条良基(もちろん五摂家の二条家)に疎まれたばかりか、室町幕府3代将軍・足利義満の不興を買う有様でした。

 

すると、義満は庶流の為重為右(ためすけ)親子を優遇

 

為遠は嫡流の重圧と信用のない不遇に耐えきれなくなったのか、深酒が進み過ぎて体調を崩し、1342年に死去。息子の為衡も若死にしたので、為道の系統は断絶してしまいました。

 

こうして二条派を受け継ぐことになった為重は、父・為冬が南北朝動乱の中で後醍醐帝側で戦死を遂げるほど傾倒していたので、北朝の御世では肩身の狭い思いをしていた、そんな中での抜擢には相当奮起をした…はず。

 

ところが1385年。為重は夜盗に襲われて横死を遂げてしまいます。

 

残された為右が二条家を盛り立てる…かと思いきや、1400年。

義満の女房(下級女官)・テルに手を出し、妊娠させるスキャンダルを起こしてしまいます。

 

義満の怒りを怖れた為右は、事件のもみ消しを決断。「駆け落ちしよう」と言ってテルをこっそり連れ出すと、琵琶湖に突き落として殺害を図りました。

 

ところが…死んだと思っていたテルが、漂流している所を地元の船に助けられて生還(仏教を篤く敬っていた徳が、彼女を救ったそうな)

全てが露見したことで、義満は激怒。為右は佐渡に流罪となるのですが、義満の密命によって護送中の近江坂本で処刑となってしまいます。

 

「公家が武家に処刑される」という衝撃を残しながら、二条家(御子左流)は断絶となりました。

 

これに先立つこと68年前、京極家は、2代目の為兼が1332年(後醍醐天皇が破れて隠岐に流された年)に亡くなって断絶していました。

 

こうして、御子左家は室町時代までに2家が消失し、冷泉家だけが残ったのでした。

 

 

二条家(御子左流)の断絶で、歌道の最高峰とも称された二条派は、どうなったのか…?

 

安土桃山時代に行われた「関ヶ原の戦い」の時、細川幽斎が城を囲まれてピンチに陥ったのですが、「彼が死ぬと古今伝授が絶えてしまう!」と焦った朝廷が、勅使を派遣して城攻めを止めさせた…というエピソードは、結構有名。

 

この「古今伝授」とは、実は二条派歌道の奥義のこと。

 

幽斎は生き残ったので、古今伝授はその後も受け継がれ。二条派は今も続いているんです。

 

どうやって続いたのか?というと、それはまた別の機会に…ということで。

 

 

それにしても、「和歌の家」って響きだけなら風流と言うか牧歌的と言うか、そんな平穏の極みですけど、動乱の時代にはやっぱり安泰な死に方はできなかったりするもんなんですねぇ。

(和歌は政治色を色濃く残す「がゆえに」かもしれませんがー)

 

 

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