これまで「一条家」「二条家」を紹介してきた当ブログ。

 

ならば次は「三条家」ではなかろうか…?となってきたので、せっかくなのでやってみようと思いますw

 

 

三条家は、藤原氏閑院流の嫡流にあたる家です。

閑院流とは、藤原兼家(道長の父)にとってずっとずっと下の弟・公季(きみすえ)から始まる一族。公季は道長にとって、たった10歳だけ年上の叔父さんです。紫式部大河にも出る…はず。

 

閑院流の紹介は、普通にやると今日どころか明後日まで終わってしまうので(笑)、ざっくりやると『平清盛』にも登場した白河天皇の生母を出したことで、運が開けた家です。

 

その後、白河天皇の子・堀河天皇に入内させた苡子(しげこ)が鳥羽天皇の母となり、さらに、鳥羽天皇に璋子(たまこ。待賢門院)を入内させ、崇徳天皇後白河天皇が生まれて、大きく家名を上げました。

 

 

「汝は結婚せよ」とばかりに天皇家に次々と娘を送り込んで天皇に育てていく閑院流。

 

三条家はその嫡流と冒頭で述べましたが、閑院流全体で後宮政策を見てみると、姉妹家にあたる徳大寺家と西園寺家が目立っているのとは対照的に、当初は盛んではない印象があります。

 

実は、徳大寺家祖の実能(さねよし)と西園寺家祖の通季(みちすえ)は、待賢門院の同母兄(母は勧修寺流)なのに対して、三条家の祖・実行(さねゆき)は異母兄(母は中御門流)でした。

 

このあたりが影響して、最初は控えめだったのかなぁ…と思うんですが、どうなんでしょうかねー(単に女の子に恵まれなかっただけ?)

 

ちなみに、璋子が18歳で崇徳天皇を生んだ元永2年(1119年)で、実行は39歳。

西園寺通季は29歳、徳大寺実能は23歳にあたります。この閑院流兄弟の絵面をいつか大河で見たいですね(いつになるんだか)

 

 

と、全然ざっくりにならなかった前置きは以上(笑)

 

 

三条家曖昧さ回避…ではないですが、三条家は後々、嫡流である本家(「転法輪三条家」とも呼ばれますが、当ブログでは単に「本家」にします)の他に正親町三条家(おおぎまち さんじょうけ)」三条西家(さんじょう にしけ)」の3つの家に分かれます。

 

 

公房の弟・公氏(きみうじ)の家系「正親町三条家」は、南北朝時代の公秀(きみひで)の娘が光厳天皇(持明院統-北朝初代天皇)に入内して、崇光天皇後光厳天皇の外戚となりました。

 

これを足掛かりに実継公豊と3代に渡って内大臣に至ったことで、分家筋ながら本家と同格の家格が確定。

 

公豊の弟・公時(きみとき)は、さらに分家として「三条西家」を創立。

しかし二代で絶えてしまったので、再び実家(正親町三条家)から公保(きみやす)を迎えて再興しています。

 

公保は内大臣・公豊の次男だったので、分家当主ながら内大臣に就任。このために、三条西家の家格も本家と同格に定まった…らしいです(このあたりはよく分かりませぬ…)

 

 

こうして3家とも中の上の家格を得た三条家は、室町時代から戦国時代、そして江戸時代にかけてチラホラ顔を見せます。

 

正親町三条家の10代・実雅(さねまさ)は、妹の尹子が室町6代将軍・足利義教に嫁いだので、足利将軍家のミウチになっていました。

 

義教が暗殺された「嘉吉の変」(1441年)の現場に実雅もいて、刀を抜いて応戦したものの、かなわず負傷して卒倒したと伝わります(幸いなことに命だけは助かっています)

 

尹子の侍女が義教の御手付きとなって足利義視(よしみ)を生んでいて、義教の死後この子を将軍家の庶子として手元で育てました。

義視は室町10代将軍・義稙(よしたね)の父。「応仁の乱」で東軍の主将だったのに、西軍に寝返った人ですね(苦笑)

 

「応仁の乱」を経た後の三条本家16代当主・公頼(きみより)は、領地だった能登や甲斐によく下向していたのですが、大内義隆を頼って周防国に下向した際、陶隆房(後に晴賢)の謀反「大寧寺の変」(1151年)に巻き込まれて、横死を遂げてしまいました。

 

公頼には男子がいなかったので、三条本家の血筋はここに絶えます

 

正親町三条家から実教(さねのり)を養子に迎えていたのですが、1554年に死去したため、今度は三条西家実綱(さねつな)が跡を継ぐことになりました。

 

以降現在に至るまで、三条本家は三条西家の血筋になっています(ということは、幕末の「七卿落ち」で知られる三条実美や三条季知は、血統では三条西家の人ということですね)

 

そして、戦国時代の有名人、甲斐の虎こと武田信玄の継室は「三条の方」という名で、大河ドラマ『武田信玄』『風林火山』なんかで知っている方も、おられるのではなかろうか。

この三条の方(三条夫人)は、先程紹介した「公卿なのに周防で殺害されてしまった」三条本家最後の当主・公頼の娘にあたります。

 


三条の方@池脇千鶴サン
2007年大河ドラマ『風林火山』より

 

「三条家から来た」から「三条の方」だったんですかねー。本名は不明。

系図でも書きましたが、後に父・信玄に対して謀反を起こそうとして自害を命じられる嫡男・武田義信の生母でもあります。

 

彼女は三人姉妹で、一番上の姉は室町幕府の管領・細川晴元(はるもと)に嫁いでいます。

 

晴元は父(細川澄元)の仇である細川高国を倒すため、本願寺の証如と手を結んで一向一揆を利用するのですが、目的達成後に一向一揆が暴走して制御不能になってしまいます。

管領としてこの事態を見過ごすことができず、決別してこれを鎮圧することになりました。

 

その際、三条公頼の一番上の娘を自分が、一番下の妹(如春尼)を顕如(証如の息子)が、それぞれ娶って相婿となり、和睦の体裁を整えています。

(何故に三条家の姉妹で相婿を構築したのかは分かりません。近江守護の六角定頼が絡んでいるらしいのですが…)

 

顕如は、織田信長と10年に渡る抗争「石山合戦」を戦い抜いた指導者としても有名。

いわゆる「信長包囲網」には、三条家の娘を通じて義兄弟となっている武田信玄も入っていますねー。

 

如春尼と顕如の間には、兄の教如(西本願寺を開いた僧)、弟の准如(本願寺=東本願寺を継いだ僧)などがおります。

 

 

三条西家から三条本家に入って家督を継いだ実綱の姉妹には、稲葉一鉄の妻になった女性がおりました。

 

稲葉一鉄は、美濃の斎藤道三に仕えた「美濃三人衆」の1人(あとの2人は安藤道足と氏家卜全)ですが、一鉄の娘(多分、実綱の姉妹との間の娘…だと思う…)斉藤利三に嫁いで、孫娘にあたるをもうけました。

 

この福こそ、後に徳川家光の乳母となる、春日局(かすがのつぼね)その人。

 


春日局@富田靖子サン
2011年大河ドラマ『江~姫たちの戦国』より

 

福は、父・利三が明智光秀の重臣だったこともあって、「本能寺の変」(1582年)が起きて謀反人として討伐されると、亡命生活に追われました。

 

最初は稲葉家に保護されていたようなのですが、やがて祖母方の親戚だった三条西家に辿りつきます。福は1579年生まれなので、この時4~5歳くらい?

 

ともあれ、福は少女時代を三条西家で養育されたことによって、公家の素養である書道・歌道・香道などを身につける機会に恵まれ、この教養が後に、将軍の乳母となって立身するきっかけになれた…と言われています(大河ドラマ『春日局』では、三条西家で召使い扱いされてコキ使われていたけれど、これは創作ですかね…?)

 

後に、春日局が参内できるように三条西実条が取り計らったり、その実条が武家伝奏となったり、家光の側室「お万の方」が三条西家の同僚の家(六条藤家)だったりと、三条西家と福の交流は、江戸時代初期の人物相関図にも影響を及ぼしています。

 

(ちなみに、春日局の系図は以前に取り上げてますので、気になる方はそちらをドウゾ→

 

 

ところで、三条西家は歌道の家としても知られるのですが、この歌道と言うのは「二条派」のこと。

 

二条派とは、藤原定家の出身・御子左流の嫡流である二条家が指導していた流派です。前回で触れていますね。

 

系図で見てみよう(二条家曖昧さ回避/御子左流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12773422681.html

 

二条家8代・為世には、頓阿(とんあ)という高弟がおりました。俗名は二階堂貞宗。足利尊氏の和歌の師匠でもあります。

 

二条派の奥義「古今伝授」を為世から授かった頓阿は、息子の経賢に伝授し、孫の堯尋→曾孫の堯孝と、二階堂氏の4代に渡って伝わっていきます。

 

堯孝は、弟子の東常縁(とう つねより)に伝授しました。常縁は、以前にも紹介した文化人武将ですねー。

 

和歌で、城を。(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12735309027.html

 

常縁は、和歌山出身の天才歌人・宗祇(そうぎ)に伝授。この宗祇から、「古今伝授」を引き継いだのが、三条西家の4代・実隆(さねたか)でした。

 

以降、二条家の断絶で消えかかっていた二条派「古今伝授」は実隆→公条→実枝と、三条西家に受け継がれていきます。

 

実隆の孫・実枝(さねえだ)は、息子の公国(きみくに)に「古今伝授」を授けようとしましたが、まだ若輩だったので叶わず、高弟の細川幽斎に伝授して、彼に公国へと伝授するように約束させました(1574年)。

 

しかし、公国は若くして死没(1588年)。幽斎は師匠との約束を果たすべく、その息子の実条(先ほど出て来た、春日局の参内を取り計らった人。1575年生まれ)の成長を待つことにしました。

 

ここで起きたのが、「関ヶ原の戦い」(1600年)

 

幽斎は東軍について、田辺城において西軍と籠城戦を繰り広げていたのですが、「古今伝授」を受け継いだ唯一の人であったため、死んで絶えてしまうことを、朝廷や公卿たちは怖れました。

 

そこで、朝廷は停戦勅令の勅使を派遣。幽斎は無事に生還し、「古今伝授」は無事に三条実条に伝えられ、三条家の中で現在も伝わり続いていくのでした。

 

と、前回の話の続きを盛れたことで、今回の語りの締めにしたいと思います。

 

 

それにしても…。

 

藤原定家が撰者を務めた「百人一首」の詠み人には、徳大寺家と西園寺家の歌人はいるのですが、同じ閑院流でも三条家の人はいません

 

なのに、定家が伝えた「二条派」の歌風が、三条家によって伝えられていたというのは、歴史が作り出したロマンなのか、皮肉なのか。

 

不思議な巡りあわせ…という感じがしてしまいますねー。

 

 

【関連記事】

 

系図で見てみよう(一条家曖昧さ回避/水無瀬流)
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系図で見てみよう(三条家/藤原氏閑院流)
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系図で見てみよう(四条家/藤原氏善勝寺流)
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