戦国時代が間近に迫った、文明元年(1469年)

 

「城を奪われた武将が、和歌で城を取り返した」という、ウソみたいな本当の出来事が起こりました。

 

主人公は東常縁(とう つねより)

美濃(岐阜県)北部にある篠脇城主でした。

 

一説には、応永12年(1405年)生まれというので、この頃は60代のご老体。

優れた武将である一方で、和歌の達人。

母方の家系が「百人一首」の撰者・藤原定家の血を引いているので、そのせいなんでしょうかねー。

 

 

「東氏」は、元を辿れば「下総(千葉県北部)」の名門一族千葉氏の出身。

 

「千葉氏」といえば、有名なのは2代目当主の千葉常胤(つねたね)

 

源平合戦の直前、源頼朝「石橋山の戦い」で平家に大敗して、ボロボロになりながら房総半島に逃げてきた時、真っ先に駆けつけ、頼朝から絶大なる信頼を寄せられたのが彼でした。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場していますねw

 


千葉常胤@岡本信人サン
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

東氏は、この常胤の6番目の末っ子・胤頼(たねより)を祖とします。

 

胤頼の孫・胤行(たねゆき)が「承久の乱(1221年)」で活躍し、その恩賞として美濃北部に1万5千石の領地をもらって移ったのが、美濃「東氏」の始まりです。

 

【千葉氏略系図】

 

本家の「千葉氏」は、下総を本拠として活動していたんですが、なかなか有能な当主に恵まれませんでした。

 

家臣団の台頭を抑え切れず、「享徳の乱(1455年。関東管領vs古河公方)」の混乱の中で家臣と馬加氏(まくわし。千葉氏の諸流)に謀反を起こされ、千葉宗家は16代・胤直で滅亡してしまいます。

 

この事態に、関東管領・上杉房顕が大激怒。

 

「我らの千葉家を謀反で滅ぼすとは、言語道断だッ!」(千葉氏は享徳の乱で関東管領に味方しようとしていました)

 

関東管領として援軍を要請すると、室町幕府は「千葉一族をまとめ、賊を滅ぼし、千葉宗家を再興せよ!」との命令を、千葉氏の子孫である美濃の東常縁に下します。

 

東常縁は、これを拝命すると、下総へと出陣。

千葉宗家の敵を滅ぼすことに成功するのですが、そのまま長期化する争乱にずるずると引き込まれ、関東に長居を余儀なくされます。

 

そんな最中に、西日本では「応仁の乱(1467年)」が勃発。

 

東常縁の地元・美濃の守護・土岐氏「西軍(山名側)」についたのですが、篠脇城がある美濃北部は土岐氏を嫌っていたために「東軍(細川側)」についてしまいます。

 

そんな流れの中で、美濃守護代・斎藤妙椿(みょうちん)篠脇城を陥落させてしまう…という展開になったのでした。

 

派遣先の関東で、東常縁は故郷が敵の手に渡ったことを知ります。

 

「『承久の乱』の功により鎌倉幕府に拝領してから250年。一度も他人の支配を許しはしなかったというのに…」

「いま遠い関東の地で故国落城の便りを聞くとは、無念の限りだッ」

 

この無念・嘆きを歌に詠むと、同僚の浜春利にそれを送ります。

 

「あるがうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔の なおも恋しき」

意訳:生きている内に落城を見てしまった。悲しさのあまり、平和だった頃の人々が恋しく思い出される

 

感動した浜春利は、それを京都に赴任していた兄・康慶に送り届けると、たちまち京の文化人の間で評判となります。

 

「関東で苦節13年。その最中に所領を奪われるとは、常縁は憐れなことよの…」

 

東常縁の嘆きを表した和歌に同情を誘われた文化人たち。

その中に、所領を奪った張本人たる斎藤妙椿もいました

 

妙椿もまた、和歌を愛する文化人の一人。

そして、実は常縁とは同僚の間柄で(将軍の奉公衆)、知り合いでもありました。

 

妙椿は康慶に会いに行くと、伝言を頼みます。

 

「同じ歌道を親しむ者として、この和歌に心を痛めずにはいられない。もしも常縁どのが私のために歌を読んでくれるのであれば、領地はお返しすると伝えてくだされ」

 

それを兄から聞いた浜春利は感心して、常縁に歌を詠むことを勧めます。

「和歌の徳は、乱世の鬼神さえも和らげる効果があるようですなぁ」

 

東常縁は早速、10首の歌を詠んで妙椿に送りました。

 

「たよりなき 身をあき風の音ながら さても恋しき ふるさとの春」

「君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし」

「吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを」

「堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ」

「いかばかり 歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを」

「かたはかり 残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道」

「思ひやる 心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら」

「さらにまた たのむに知りぬ うかりしは 行末とをき契りなりけり」

「木の葉ちる 秋の思ひに あら玉の はるに忘るる いろを見せなむ」

「みよし野に なく雁がねと いざさらば ひたふるに今 君によりこむ」

 

妙椿は大いに感動し、納得。

 

「言の葉に 君か心は みづくきの行すゑとをらば 跡はたがはじ」

意訳:その歌に、あなたの真心が見えました。今後もお気持ちが変わらないなら、領地はお返ししましょう

 

こうして、歌のやり取りをしてから8ヶ月後の文明元年5月(1469年)

 

将軍・義政の許しを得て京都に赴いた東常縁は、斎藤妙椿と対面。

領地の返還式が、しめやかに執り行われたのでした。

 

東常縁の喜びは、この時に妙椿との歌のやり取りに表れています。

 

「故郷の 荒るるを見ても まず思う 知るべにあらずば いかがわけこん」

意訳:故郷の荒廃を見ても、まず思い出すのは貴方の好意です。私が帰れたのは、貴方のおかげですから

 

これに対して、妙椿が返します。

 

「このごろの 知るべなくとも故郷に 道ある人ぞ やすく帰らん」

意訳:貴方に徳があったから、故郷に帰れたのです。拙者がやったわけではありません

 

こうして、血で血を洗う戦国時代に「和歌」で城を取り返すという、前代未聞で風流な出来事が、歴史に刻まれたのでした。

 

ちなみに、その後の東常縁は悠々自適。

 

「応仁の乱」が終息した後、後土御門天皇の命令で上洛して、衰退した歌道の再興を任されました。

 

東常縁が「古今伝授の祖」と呼ばれる所以です。

 

そんな常縁には、有名な女性の子孫がいます。

 

彼女の名前は、千代

「内助の功」で有名な、戦国武将・山内一豊の妻です。

 


千代@仲間由紀恵サン
2006年大河ドラマ『功名が辻』より

 

 

この関係で、土佐山内家には、東常縁が筆をとった「古今和歌集」が伝わっているんだそうですよ。

 


※土佐山内氏は一豊の弟・康豊の子孫なので、千代と血は繋がってないんですけどね。

 

というわけで、エイプリール・フールにかこつけて、「ウソのような本当の話」をやってみましたw

 

1日遅れなのは、仕事の関係ですわ…昨日は疲れて寝てしまって…体力つくらんといかんわね…(-"-;