秋風に たなびく雲の絶え間より
もれいづる月の影のさやけさ


左京大夫顕輔 / 新古今集 秋 413

 

 

今日は8年ぶりに「中秋の名月」かつ「満月」なんだそうで。

 

ワタクシも外に出でて月を見てみました。

感想は…うん、まんまるだった(←センスが子供)

 

 

前回の8年前といえば、2012年。

『平清盛』の放送年で、ということはこのブログを始めた年。

 

8年前の中秋の名月(2012年9月30日)に何を書いたかな…?と振り返ってみたら、更新してなかったw

もしかしたら、「中秋の名月」かつ「満月」って知らなかったかもしれないな(^^;

 

 

冒頭の和歌は 「百人一首」79番歌。 藤原顕輔の和歌。

 

月そのものを直接詠むのではなく、「雲の絶え間よりもれいづる月の影」と、 雲の間から差し込んだ月光を詠む幻想さ。

 

「さやけさ(澄み渡ってはっきりしている)」と体言止めにすることで余韻をさそう語感。

 

「秋の月」といえば寂しさや悲しさを響かせそうなんですが、そういったことはあまり感じない、 純粋な月の美しさと感動の一瞬を切り取ったような和歌になっています。

 

顕輔のライバル 「御子左家」に生まれ育った 定家が、流派を越えて認めたというのも頷けますねー。 (この歌が採られた『新古今和歌集』は藤原定家が撰者を務めています)

 

と、「秋」の「月」を詠んでいるので、中秋の名月にかけて紹介してみました。

 

つーか、このブログ、百人一首で目次を設けているのに、サッパリ紹介していないことに先日気づきまして。

急遽、こんな手を打ってみました(笑)

 

 

詠み人の藤原顕輔は、ちょうど大河ドラマ 『平清盛』の時代の人物です。 (ドラマ中に姿を見せたかな??忘れちゃったけど、たぶん出てないと思う)

 

顕輔は父に似て和歌の才に優れていたようで、 「六条藤家」を興すこととなりましたが、もとは藤原氏善勝寺流の人。

 

善勝寺流は、藤原氏の本家から遠く離れた没落貴族でしたが、 白河帝の乳母・藤原親子(ちかこ)を輩出した縁で家運を盛んにし、院近臣として一気に表舞台に躍り出た一族です。(顕輔から見ると、白河帝乳母の親子は祖母にあたります)

 

つまり、鳥羽院の寵姫だった美福門院や、鳥羽院の院近臣で平清盛の烏帽子親だった藤原家成と、同じ一族ということですねー(顕輔から見ると、お二人は姪と甥にあたります)

 

諸大夫の男(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11246872428.html

 

 

ところで、 崇徳帝は和歌が大の得意な人で、勅撰和歌集を1つ、編纂させています。

 

その名も詞花和歌集(しかわかしゅう)』

 

顕輔は 『詞花集』の撰者として勅を受け、この任務を果たしています。

 

『詞花集』は天養元年(1144年)に下命、仁平元年(1151年)に完成奏覧。

で、崇徳帝が譲位したのは永治元年(1142年)。近衛帝の崩御は久寿2年(1155年)。

 

『詞花集』は、崇徳「上皇」の時代・近衛帝の御世に編まれたことになります。

 

崇徳院は白河院の曾孫(白河院-堀河帝-鳥羽院-崇徳院。一説には白河院の御落胤)で、白河院の「鶴の一声」で皇位を継いで、白河院が崩御した途端に玉座から下ろされた、徹頭徹尾「白河院ありき」だった人。

 

顕輔が撰者に選ばれたのは、もちろん和歌の才を買われたのでしょうけど、白河院の乳母の一族(院近臣)という立場も、大きかったのかもしれないですねー(あるいは、近衛帝の御時ってことは、美福門院から「我が叔父の顕輔を撰者にするんなら勅撰集やってもいいよ」とでも条件に出されたんですかね?)

 

 

顕輔の息子・ 清輔も、百人一首に和歌を採用されています。

 

 

ながらへば またこの頃や しのばれむ
うしと見し世ぞ今は恋しき


藤原清輔朝臣 / 新古今集 雑 1843

 

 

清輔は父・顕輔とすげー仲が悪かったみたいですが、父と同じく和歌の才には恵まれ、勅撰和歌集の撰者に選ばれました。

 

その名も続詞花和歌集(しょくしかわかしゅう)』

 

しかし、下命した二条院が成立を見る前に崩御してしまい(1165年)、プロジェクトはご破算。

 

清輔は二条帝の遺志を継ぎ、同年中に 私撰集として完成させたそうです (なので、勅撰集には数えられていません)

 

ちなみに紹介した和歌は、 「長生きすれば、今のこのツラい現実も、後で懐かしく思い返すものなのだろうか」みたいな意味。

 

清輔は仲が悪かった父に邪魔されて昇進が滞ったと言われています。 父との仲の悪さに疲れて詠んだのか、そういうことにして定家が百人一首に父子入選させたのか、どうなんでしょうかね…。

 

顕輔が亡くなると気運があがって、53才で従四位下・ 太皇太后宮大進(太皇太后宮の家政を司る役職)に昇任。

 

「太皇太后宮」とは、近衛帝の皇后・ 藤原多子(まさるこ)のこと。

 

悪左府・ 藤原頼長の養女となって 近衛帝に入内し、皇后となった女性です。

 

多子自身は何もしていないのですが、彼女を巡って周囲では熾烈な政争が繰り広げられました。

 

藤原摂関家を頼長(弟)に譲りたくない忠通(兄)が、多子の入内に対抗して養女の呈子を近衛帝に入内させて「中宮」にさせてしまいます。

 

これに忠実(父)が激怒し、忠通の屋敷を襲撃して氏長者を剥奪。

こうして摂関家内は、関係が修復不能なまま、鳥羽院の崩御→保元の乱に至ってしまう顛末が、大河ドラマ『平清盛』でも描かれていました。

 

入内当初、近衛帝は12歳、多子は11歳(ちなみに呈子は20歳)

お似合いの二人だったのですが、近衛帝は17歳で崩御

 

なし崩し的に起きた「保元の乱」で、多子は養父・頼長を失うのですが、近衛帝が崩御したことで利用価値を失っていた彼女は、頼長とは関係が途絶えていたために連座されることはなかったといいます。

 

夫・近衛帝を失った多子は「皇太后」となり、やがて呈子が皇太后となったために、さらに押されて「太皇太后宮」となりました(1158年)。

 

清輔は、この前後に多子に仕えたみたい。

 

そんな多子が、青天の霹靂に遭うのは1160年のこと。

二条帝に請われて、なんと人生2度目の入内生活になったのです!

 

二条帝は、 近衛帝の皇后だった多子自らの皇后とすることで、近衛帝の正式な後継者であることを示そうとした…と言われています。

二条帝、父の後白河院と仲があまり宜しくなかったから、はやく正統性を構築して父を牽制したかった…ということなんでしょうかね。

 

清輔に勅撰集の撰者の任が巡って来たのは、「二条帝の皇后の家政」となっていた関係があるのかもしれません。

 

前代未聞の 「二代后」となった多子は、二条帝には愛されたと聞かれますが、本人は何より恥ずかしさが勝ったようで、目立たない服装で参内していたそうで。

 

思ひきや うき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見むとは(憂き身の上なのにまた宮中に戻り、かつて見た月を再び眺めることになるなんて)」なんていう和歌を詠んでいたりします(これもまた月ですな)

 

ちなみに、多子は「頼長の養女」と紹介しましたが、出自は頼長の妻の家・ 徳大寺家でした。

 

「百人一首」81番歌の詠み人・ 徳大寺実定は、多子の同母兄にあたります。

 

 

ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば
ただ有明の月ぞ残れる


後徳大寺左大臣/千載集 夏 161

 

 

おお、後徳大寺左大臣も月を詠んでいた(笑)

 

意味は 「ほととぎすが鳴いたから振り向いたのに、そこには何もいなくて、ただ明け方の月が淡く残っているだけだった」と、なんだかホラー(?)

 

妹が皇后として仕えた二条帝は、若くしてこの世を去り。

跡を継いだのは、息子の六条帝ですが、その生母は伊岐致遠の娘でした。

 

伊岐氏は、徳大寺家に仕える家司の一族で、この関係から、 徳大寺家は「六条帝の外戚」と見なされました。

これはつまり、「憲仁親王(後の高倉帝)」の即位を目指す平家や、二条帝と冷戦を続けていた後白河院とは、競合の関係になってしまったことを意味します。

 

苡子(鳥羽帝の母)、璋子(待賢門院。崇徳帝と後白河帝の母)、多子(近衛帝と二条帝の后)、そして六条帝の母と、 まるでハプスブルグ家のように後宮に女人を送り込んで熾烈な政治闘争を勝ち抜いてきた徳大寺家は、ここに来て平家にキューっとされてしまいます。

 

さらに、六条帝が政争に敗れた上に、夭折の憂き目に遭ってしまいました。

 

(ほととぎすが鳴いた=天下が来たと、六条帝の方を振り返ったら姿が見えなくなった=失脚・崩御してしまったわけですな)

 

しかし、平家が都落ちし、頼朝が天下を掌握すると、九条兼実の右腕として幕府・朝廷間を奔走。

 

頼朝の推挙により左大臣に任命され、 完全復活を果たすのでした。

 

(有明の月ぞ残れる=徳大寺家の復活が叶った、ってことかな??)

 

 

と、中秋の名月にかこつけて、 『平清盛』の頃にやろうと思ってできなかった平安時代のネタ消化とともに、百人一首の詠み人を一気に3人ほど紹介できました。

 

が、欲張り過ぎでしたかね…^^;

 

長く成り過ぎまして、大変失礼イタシマシタ。ではではまたー。