今週の大河ドラマ「平清盛」で、藤原家成(いえなり)がお亡くなりになりました。
作中では、良識派で、鳥羽法皇を心配する忠臣にして、清盛のよき理解者。
視聴者からすると、暴れる主役と、濃い脇役陣の陰謀渦巻く中で、きちっと大人な対応をしてくれる安心キャラクター。
ワタクシからすると、素なのか演技なのか分からない(笑)表情をした、可愛らしい家成卿は、一服の清涼剤でした。
歴史ドラマの宿命として仕方がないとはいえ、退場されてしまって本当に残念でなりませぬ・・・・。
ところで。
「この人、つまりは何者だったの?」
なんて思われている方も、多いのではなかろうか。
結構マイナーな方ですし、大河ドラマを見ていても「説明不足のような・・・・?」という感じが、ずーっとしておりました。
「人間関係を明確にする」とおっしゃっているNHKの公式サイトでさえ、藤原家成は「新興貴族」としか紹介されていません。
そこで今日は、この藤原家成について取り上げてみようと思います。
もう登場しない人ではあるけれども、今後の息子たちとの平家との関わりは、(歴史妄想的な意味でも)中々に重要です。
結構なキーパーソンだったお方なので、一度紹介しておこうと。そういう試みです。
ドラマで描かれていた藤原家成の人物像を整理してみると、以下のようになります。
- 平宗子(平忠盛の正妻。清盛の義母。後の池禅尼)の従兄弟。
- 平家一門と仲が良かった。
- 平清盛の烏帽子親。
- 鳥羽院に仕えていた。
- 藤原成親、師光らの父親。
- 藤原頼長に襲撃され、屋敷を破壊された。
「宗子(池禅尼)の従兄弟」という話は、ワタクシの記憶が確かなら2回ほど台詞で出てきましたね。
このあたりを系図で確認してみると、こんなかんじ。
家成の母が、宗子の父と兄弟という関係だったわけです。
そして、系図を見ると分かると思うのですが、実は美福門院得子とも従兄同士です。
藤原家成は、以前に紹介した善勝寺流(ぜんしょうじりゅう)藤原氏の人なのです。
■系図で見てみよう (藤原北家/待賢門院&美福門院周辺)
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11240438200.html
善勝寺流は、藤原氏の本流・摂関家と、遠い遠い昔に枝分かれした支流。
平安時代後期には没落貴族になっていました。
しかし、家成の祖父にあたる顕季(あきすえ)の時代になって、ようやく日の目を見ます。
(正確には、顕季から「善勝寺流」と呼ばれます)
顕季の母・親子(ちかこ)は、後に「白河天皇」となる貞仁王(さだひとおう)の乳母でした。
貞仁王の父は、天皇と内親王の間の子で、藤原摂関家という後ろ盾がいないので、天皇になる見込みがありません。
自分が後に「天皇の乳母になる」だなんて、思いもしなかったのではなかろうか。
色々あって、貞仁王の父が後三条天皇として即位。
貞仁親王が立太子されたことで、乳母である親子の一族は落ちぶれた地位から脱却するチャンスを得ます
親子が頼み込んだのか、それとも後三条帝か白河帝あたりが気を利かせたのか。
息子の顕季が、白河天皇の外戚だった閑院流藤原氏に養子入りとなりました。
没落貴族では家柄が問題だったんでしょうかね。
ちなみに、この閑院流というのは、待賢門院璋子の一族です。
ここから、善勝寺流藤原氏の巻き返しがスタート。
村上源氏(得子の母方)、水無瀬流藤原氏(池禅尼の母方)、平氏と、どんどん縁を繋いで勢力を成長させていきます。
やがて、白河天皇が白河院となって、院政が始まります。
院政を行うためには、優秀なスタッフが必要。
そこで、中流貴族や下流貴族の中で、やり手の者を抜擢していくのですが、外戚(白河院の皇后の一族=閑院流=待賢門院の一族)や乳母(善勝寺流)の一族も取り立てていきました。
このようにして院庁に上がり、上皇の側近くで政務を執った貴族たちを「院近臣(いんのきんしん)」と呼びます。
白河院の院近臣は、孫の鳥羽院に受け継がれます。
乳母の一族も、顕季から家保、そして家成へと、院近臣の役目は受け継がれていきました。
このような経過があって、家成は三代に渡って院に仕えた名士となり、鳥羽院の側近として、その手腕を評価されて重用されたというわけです。
そして、得子が鳥羽院のお眼鏡にかなう機会も、こうした相関図の中にあったというわけです。
ちなみに、平清盛の祖父・正盛は、白河院に重用された北面の武士でした。
清盛の父・忠盛は、白河院・鳥羽院に重用された北面の武士です。
院近臣だった家成とは、院庁で顔見知りだったはずで、それが縁で忠盛と宗子の婚姻話が上がったのかなと、考えられますね。
ともあれ、家成は白河院の乳母の一族・善勝寺流だったというのが分かれば、色々なことが1本の線で繋がってくるのではないでしょうか。
NHK公式サイトの「新興貴族」という紹介。
摂関家の藤原頼長が「おのれ、成り上がり者の分際で!」とエリート意識丸出しで怒り狂い、家成の屋敷を破壊したあのシーン。
頼長が美福門院を「諸大夫の女(官位が四位以上に上がれない家柄の娘っ子)」と呼んで蔑視していたように、家成もまた「諸大夫の男」だったわけです。
しかし、家成は「諸大夫の男」であるとともに、鳥羽院の近臣で、鳥羽院が深く愛する得子の親戚でした。
頼長はどうも、この肝心の事実を忘れてしまっていたように見えてなりません。
そんな彼に乱暴を働いたことで、頼長は鳥羽院に嫌われ、信頼を失ってしまうことになりました。
そして、おそらくは従兄弟を襲撃された美福門院も、この一件で頼長をより一層嫌うことになったのではないでしょうか。
(大河ドラマでは、美福門院の策略のように描かれてましたが)
「保元の乱」で、藤原頼長は崇徳天皇の側につきます。
いや、おそらくは鳥羽院・後白河天皇の側につけなかったというのが正しいと、ワタクシは思います。
近衛天皇が眼病で亡くなった時、「頼長が呪詛した!」という噂が立ち、美福門院が逆上。
鳥羽院は、頼長を「内覧(朝堂の特別職)」からはずします。
これによって頼長は鳥羽院→後白河天皇の皇統グループに与することができなくなり、崇徳院とくっついて、そのまま排除されることになってしまったのでしょう。
頼長が内覧から外されるほど、鳥羽院に嫌われてしまった。
それは、家成という人を「成り上がり者」と見くびったために、鳥羽院の気持ちを察するのに失敗し、あの暴挙を抑えられなかった。
そんなところにあったのかなぁと、考えてしまうのです。
ああ、また結局、頼長さまの話になってしまったな・・・・(汗)
家成卿の息子たちについては、いずれ後ほど触れ・・・られたらいいな(何)
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