本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。

 

今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。

 

 

良房は冬嗣の次男として生まれました。

 

長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。

どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。

 

前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫ってみたいと思いますw

 

 

良房は日本史の教科書でも大々的に登場するので、数多いる藤原氏の中でも指折りに有名な人だと思う。

 

藤原良房が日本史上で初めて
皇族以外(人臣)で摂政となる

(貞観8年8月19日=866年)

 

「反論無用の/野郎ムカツク」(866)人臣初の摂政就任…なんて語呂もありましたね(ワタクシは「ハムシックス良房」と謎な語呂で覚えてましたがw)

 

これまで、推古天皇のもとでの厩戸皇子(聖徳太子。用明天皇の子…推古女帝の甥)、斉明天皇のもとでの葛城皇子(別名「中大兄」。舒明天皇の子…後の天智天皇)など、皇族が摂政になることはあったのですが、人臣では日本史上初の快挙だったというわけ。

 

その次代、基経日本史上初の「関白」に任じられ、藤原氏が「摂政」「関白」を独占することで実権を握る「摂関家」となって、日本史の真ん中を牛耳ることになっていきます。

 

もちろん、これはこれでとても重要な出来事。

 

なのですが、良房個人について深掘りする時、もう1つの「日本史上初めて」の方も重要ではなかろうか…と思うのです。

 

それは「日本史上初の皇族以外(人臣)で『天皇の娘』と結婚した人」ということ。

 

これまで、5世孫以上の王女が人臣と結婚したことはあっても、「天皇の娘」が人臣と結婚したのは、良房が「ほぼ初」のことなのでした。

 

ちなみに、なぜ4世孫までは人臣と結婚したことがなかったのかというと、律令で「ダメ」と定められているから。

 

「凡王娶親王 臣娶五世王者聴 唯五世王 不得娶親王」
(『養老律令 継嗣令王娶親王条 第四条』)

 

およそ王は親王を娶ることができる。臣下は五世王を娶ることができる。しかし、五世王は親王を娶ることはできない。

 

つまり、4世孫までは皇族だけど5世孫からは皇族じゃない…というわけですな(でも「王」を名乗っても良い…とはなっています)

 

ただし、奈良時代後半の頃。藤原久須麻呂(くすまろ)が、葛女王(かずら)と結婚していて、これが唯一の例外とされています。

 

葛女王は、天武天皇の曾孫…つまり四世王(天武天皇-舎人親王-三島王-葛女王)にあたりますが、叔父の大炊王が「淳仁天皇」として即位したので、三世王(淳仁天皇-三島王(兄・二世)-葛女王(姪・三世))ともなっていました。

 

お相手の藤原久須麻呂は、あの「藤原仲麻呂の乱」を起こした南家・仲麻呂の三男

 

当時、天下を掌握して従一位太政大臣まで登り詰めていた「権勢の鬼」仲麻呂が、王家に並ばんと欲して葛女王を息子に娶らせた…という魂胆が見え見え。

なので、これは「例外」というよりも「独断による律令違反」といったところでしょうかね。

 

 

他にも、検討されるべき事例がいくつかあるんですが、本題ではないし長くなり過ぎるので今回は割愛して…(^^;

 

良房が娶った皇族女性の名は潔姫(きよひめ)

809年生まれなので、良房の5歳年下の皇女さまです。

 

彼女は嵯峨天皇の皇女

源姓を賜って臣籍降下し、「源潔姫」となっていました。

 

時に弘仁5年(814年)のこと。彼女を含め4皇子4皇女の兄弟姉妹が共に皇籍を離れていて、「賜姓源氏」の初例なんだそうですよ。

 

ちなみに、嵯峨源氏…といって有名なのは、やっぱり「河原左大臣」として『百人一首』にも和歌を採られている風流人・源融(みなもと の とおる)

彼は822年生まれなので、この時はまだ生まれていません。潔姫のひとまわりくらい年下となりますね。

 

嵯峨源氏も、いつか「系図で見てみよう」で取りあげたいものですな(いつになるんだか)

 

 

弘仁14年(823年)、嵯峨天皇が、皇太子の異母弟・大伴親王に譲位すると言い出しました。

 

この時、嵯峨天皇の腹心で権臣だった冬嗣は諌めて反対しましたが、嵯峨帝は翻意せず、大伴親王が即位することになりました(淳和天皇

 

良房と潔姫が結婚したのは、この年のこと。

 

結婚した日付が分からないので、時系列は不明なのですが、「自身の退位をきっかけに、危険と苦難に満ちた御代を最大限に支えてくれた冬嗣への恩に報いるために、冬嗣の息子を婿にすることにした」という流れが、なんとなく想像させられますね。

 

でも、その「名誉」を得られたのは何故、兄の長良ではなかったのだろうか。

 

その答えは追々、考えて行くとして…。

 

当時の結婚制度は「婿入り婚」「妻問婚」「呼ばい婚」などと呼ばれるように、夫が妻の実家の世話になる形式。

つまり、良房と潔姫の結婚は、嵯峨上皇に「良房の世話をする義務」が発生したことを意味します。

 

良房は「舅が上皇」という、途方もない後ろ盾を得ることになったわけですな。

 

しかし、当初は目立った「美味しい思い」はありませんでした。

 

嵯峨上皇は、兄の先代・平城天皇との揉め事(「二所朝廷」「薬子の変」)で危うい所に立たされた過去を教訓にしたのか、弟の淳和天皇の御時は、極力政治に口を出さないようにしていたみたい。

 

良房の昇進も、淳和朝においては停滞気味。

藤原北家では、叔父の愛発(冬嗣の異母弟)が権臣として頑張っていたようです。

 

淳和天皇の母・旅子は藤原式家の出身。

式家は「薬子の変」で没落しましたが、外戚として藤原吉野が権勢を奮っていて、良房はその陰に隠れてしまった…とも考えられます。年齢もまだ若いですしねー(淳和天皇即位時で19歳)

 

あるいは、父の冬嗣が天長3年(826年)に薨去しているので、後ろ盾を失った23歳の若者ではこれが限界だった…のかもしれません。

 

天長6年(829年)、潔姫との間に待望の第一子・娘の明子(あきらけいこ)が誕生。この時はまだ「従五位下・蔵人」に過ぎず、兄の長良(従五位上)の方が身分が上でした。

 

天長10年2月28日(833年)。淳和天皇が譲位して仁明天皇が即位。

すると、良房の急速な昇進が始まります

 

仁明帝即位の天長10年中に、正五位下→従四位下と駆け上がり、正五位下だった兄の長良を昇進面で追い越します。

翌年の承和元年(834年)、31歳にして「参議」に昇進して議政官の仲間入り。

 

嵯峨上皇が崩御する承和9年(842年)には正三位・中納言まで上がっておりました(兄の長良は、ようやく従四位下)

 

仁明天皇は、嵯峨上皇の皇子

弟の淳和朝の時とは違い、息子の仁明朝だったら、嵯峨上皇は政治への口出しは気軽にできそうです。そして、仁明天皇もそれによく応えていたのではなかろうか。

 

おそらく良房は、舅の引き立てでエリート街道を突っ走ることができたのでしょうね。潔姫の婿になっていたことが、大きく作用する形となった…と考えられます。

 

承和9年(842年)、嵯峨上皇が崩御してわずか2日後、前回紹介した「承和の変」が発生。

恒貞親王は廃太子され、代わって仁明天皇の皇子・道康親王が立太子しました。

 

道康親王は、良房の妹にあたる順子の所生。いわば良房にとっては甥っ子。

 

ここに、良房の愛娘・明子が嫁に行って、皇太子妃となりました。

道康親王15歳、明子14歳。年齢的にもお似合いの二人ですw

 

承和11年(844年)、長良が参議に補られ、議政官の仲間入りを果たします。

良房はこの時、正三位・大納言。承和15年には右大臣に登るので、さらに差は開きました。

 

嘉祥3年(850年)、良房のスピード出世をヨイショしてきた仁明天皇が、病を理由に退位すると、2日後の3月21日に宝算41にして崩御。

 

長良は帝を追慕するあまり、哀哭。肉食を断って冥福を祈念したといいます。

仁明天皇に「俺と会う時は普段着でいいし、言葉に気を付けなくてもいい」と言われていたほどの仲の良さだったそう。公の事では良房を優遇した仁明天皇も、私的なことでは長良との方が親密だったんでしょうかね。

 

ともあれ、甥っ子の道康親王が即位して、「文徳天皇」となりました。

 

文徳天皇即位と同じ年、明子が惟仁親王(これひと。後の清和天皇)を出産

 

第四皇子だったにも拘わらず、良房によって皇太子へとゴリ押しされ、文徳天皇が寵愛した第一皇子・惟嵩親王が悲しい風流の道を歩んだのは、以前にも触れましたねー。

 

をとこありけり(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html

 

文徳朝の斉衡3年(856年)、長良が「従二位権中納言」で薨去。

同じ年、妻の潔姫も病死。良房は最愛の兄と妻を失ってしまいます。

 

なお、清和天皇の女御にして在原業平との恋愛話で知られる藤原高子(たかいこ。二条后)は長良の娘なのですが、入内したのは866年なので、長良の没後となっています。

 

斉衡4年(857年)、良房は「従一位・太政大臣」に叙任され、「弓削道鏡」以来、約90年ぶりの太政大臣として位人臣を極めることに。

この時、55歳。老齢でツラかったのか、政務は同母弟の良相(よしみ)にゆだねることが多くなっていたらしいです。

 

天安2年(858年)、文徳天皇が崩御。

皇太子に選ばれていた良房の孫・惟仁親王が即位しました(清和天皇

 

ただ、清和天皇、御時9歳。

幼帝を補佐するために、外祖父である良房が輔弼を行うことになりました。

 

これが、事実上の「人臣初の摂政就任」

 

「事実上の」というのは、この時は摂政の詔が発せられていないから。

「正式な」人臣初の摂政就任は、この8年後に起きる「応天門の変」がきっかけとなっています。

 

 

貞観8年(866年)、宮殿の外門のひとつである「応天門」が火災に遭い、焼け落ちる…という出来事が起こります。

おそらくは「ただの火事」だったのですが、「これを契機に政敵を排除してくれよう!」と思い立った伴善男(とも の よしお。大納言。朝堂4位)の策略により、「放火事件」に発展させられます。

 

伴善男は、源信(みなもと の まこと。嵯峨源氏。左大臣で朝堂2位)を犯人と決めつけ、邸宅を兵で囲みました。

 

この「暴挙」は、清和天皇の取り成しによって一旦は収拾されたのですが、さらに後日になって「放火犯は伴善男だ」という告発があり、出来事は再び事件化。

 

重大事件になってしまった一連の出来事の裁定を任せるため、良房は清和天皇により詔を下され、「摂政」に任ぜられることになりました

 

「摂行天下之政(天下の政を摂行せしむ)」

 

良房の裁定により、伴善男は失脚。

これに巻き込まれる形で、伴氏(古代豪族・大伴氏の末裔)と紀氏(古代豪族にして光仁天皇の外戚として成り上がった中興貴族)が中央政権から没落。

 

良房は「承和の変」に続き、「応天門の変」というラッキーもまた掴み取って、藤原氏一強体制を整える機会に恵まれることになりました。

 

 

貞観14年9月2日(872年)、良房は68歳で薨去。

 

良房にとって従兄弟(良岑宗貞)の子にあたる良岑玄利(『百人一首』21番歌の詠み人・素性法師)が詠んだ哀傷歌が伝えられています。

 

 

前太政大臣を白川のあたりに送りける夜よめる

血の涙 おちてぞたぎつ白川は
君が世までの名にこそありけれ


素性法師 / 古今集 雑 830

 

[貴方が亡くなった悲しみで血の涙が落ち、白川も紅に染まって、もはや白川と呼べなくなりました]

 

 

良房は、潔姫との間に生まれ、文徳天皇の妃で清和天皇の母となった、明子しか子供がいませんでした

 

そこで、長良の息子である基経を養子として迎え、その後の藤原氏の本流は、基経の系統が受け継いでいきます。

 

良房は男の子に恵まれなかった…と、歴史は語ります。

でも、もっと言うのなら良房の妻は嵯峨上皇の娘・潔姫ただ1人だけでした。

 

良房ほどの身分であれば、側室や妾がいてもいいハズなのに、正妻1人だけしか置いていなかった。

 

これ、やっぱり潔姫に、もっと言うなら嵯峨上皇に遠慮したから…だったのかなぁ。

 

天皇家の王女様を嫁にもらったことで、上皇を舅として、それを追い風にして急速な昇進街道を突っ走ることができた…のかもしれない。

 

けれども、それがゆえに他に妻を娶ることができず、子宝に恵まれなくて、系譜は兄の家系に持って行かれた…のだとしたら。

 

それは「禍」と「福」どっちだったのだろうか…と、考えてしまいます。

 

 

嵯峨上皇の王女を娶ったのが、なぜ兄の長良ではなく弟の良房だったのか。

 

その答えは、もしかしたら父の冬嗣が、嫡流・長良の子孫が細くなってしまうのを怖れて、次男に「押し付けた」のではなかろうか

 

兄に子孫を繁栄させ、弟は家運を高める。

 

またしても、真夏・冬嗣の兄弟の時と同じように、戦国時代の真田家(信幸=信之と信繁=幸村)みたいだなぁ…やってることは相当違うけれども。

 

 

 

余談、その1。

 

「人臣初の太政大臣」 「人臣初の摂政」 「人臣初の天皇の婿」 「藤原北家初の外戚」 と「史上初」の四冠王に輝き、日本史の教科書的にも超有名な巨人・藤原良房ですが、勅撰和歌集には1首しか採られていないそうです。

 

 

染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる

年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど
花をしみれば物思ひもなし


前太政大臣(藤原良房) / 古今集 春 52

 

「年月が過ぎて私もすっかり年老いてしまったけれど、この桜の花を見ていると、思い煩うことは何もない…という気持ちになるものだ」というような意味。

 

詞書に「染殿の后の御側近くに花瓶に桜の花が挿してあるのを見て詠んだ歌」とあって、この「染殿の后」というのは、潔姫との間に生まれた愛娘・明子のこと。

 

「この桜の花を見ていると」は「天皇の母となった明子のハレの姿を見ていると」の意味…といいます。

 

文徳天皇に嫁いで、生まれた子が清和天皇として即位。

藤原北家で初めて、外戚となれた喜び。もう心配することのない御家の未来。

 

ある意味、藤原道長の「望月の歌」と同じような意味合いの和歌ですなー。

 

天皇の娘を娶ったばかりに妻を1人しか持てず、娘1人しかもうけられなかった…というニュアンスでこの記事を書いてきたので、「でも愛娘は可愛くて可愛くてたまらなかったんだよ」という、この和歌を紹介せずには終えられまい!と思って紹介しましたw

 

ちなみのちなみに、この和歌は時が過ぎること平安中期。

あの『枕草子』に登場します。

 

題して「清涼殿の丑寅の隅の」

 

一条天皇がお渡りになった時、中宮の定子が「これに思いついた古歌を書きなさい。何でもいいのよ。さぁ、はやくはやくw」と女房たちに白紙を回して急かします。

 

みなが取り乱し大慌てで次々と書いていき、清少納言に順が回って来た時、先の良房の和歌をちょっと変えて書いちゃおう…と思いつきます。

 

「年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど をしみれば 物思ひもなし」

 

すると、それを詠んだ定子から、

 

「むかし円融院(一条帝の父=定子の義父)が『何でもいいから思いついた古歌を書きなさい』と同じことをされた時、父(道隆)がとっさに歌の末句を書き変えて提出されたら、円融院に大層感心された…ってことがあったそうでね。それを思い出しました」

 

と、思いがけず機転の利かせ方についてお褒めの言葉を頂いて冷汗が出た(すずろに汗あゆる心地ぞする)…というお話。

 

や、今回とは全く関係ない、清少納言の話なんですけどね。ついつい…。

 

まぁ、来年の大河の予習みたいな感じ…ということで、ここは(^^;

 

 

 

余談、その2。

 

弟・良房のまばゆいばかりの栄光と次々に成功させる政略の鮮やかさに隠れて、いまいち目立たない感のある長良アニキ。

 

wikipediaで見てみると、こんな人物像だったそう。

 

高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。

若い頃に仁明天皇に近侍していた際、天皇から対等の交わりを許されたが、長良は常に礼装を崩さず、馴れ馴れしい態度を取る事はなかった。

出典:wikipedia「藤原長良」

 

出世では先を越された弟に、何のわだかまりもなく深く愛したという。昇進などを考察すると、実際に良房とも仲が良かったようにも見えるあたりは、本当救われる気持ちです。

 

ただ、立派な人だったんだなぁ…と思わせられると同時に、なんか歯に衣着せて語っているような、わざと何かを語らないようにしているような、そんなふうにも取れてしまうような気がするんですよね。過剰に褒め過ぎなんだよなー(笑)

 

前述の通り、藤原氏本流となっていった基経や、清和天皇の后で陽成天皇の母である高子は、良房にとっては養子で、本来は長良のDNAを受け継ぐ実子

 

基経と言えば、陽成天皇を「キライだから」というそれだけで退位に追い込んだり、詔のちょっとした言葉遣いに激怒して政務をボイコットした挙句に宇多天皇をして改勅までさせたりする、中々に派手だった人。

高子は、在原業平とのイケナイ恋物語を演じて「后かね」を下ろされそうになったり、僧侶と密通して皇后位を剥奪される事件を起こしたりもしている、キケンな情事を突っ走った女性でした。

 

その父である長良って、もしかして子供らに似て激情型の人だったのかもしれない…?

それを歴史書では殊更に封をして、あんなふうな記述になった…?(笑)

 

「仲が良くて親密だった仁明天皇が崩御した時、人目も憚らず号泣した」というあたりにも、なんだか「感情型の人」というかんじがプンプンしていたりして。

 

潔姫の婿にならなかったのも、昇進面で良房の後塵を拝したのも、この人格が考慮された面も、もしかしたらあるのかもしれない…んですかねぇ?

 

(でも、基経と高子の以外の実子は穏やかな人が多いので、この同母兄妹の性根は母親譲りで長良はそんなに関係ないのかな…ともかんとも)

 

 

 

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