小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公/拾遺集 雑秋 1129
[小倉山の紅葉よ、もし貴方に趣きを理解する心があるなら、帝の行幸まで散るのを待ってくれないか]
延喜3年2月25日(903年)、前右大臣で大宰権帥の菅原道真が、流謫の身のままこの世を去りました。
菅原道真の死後、旱魃や洪水など全国で天変地異が起きて、「道真公の祟り」が噂されていく中。
その恐怖は朝堂をも蹂躙して、時の権力者たちを奈落のどん底に叩き落すのですが、これがまた凄まじい。
いい機会なので、いちいち列挙してみようと思います。
名づけて「菅家版デスノート」
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Entry No.1 藤原定国(さだくに)
延喜6年7月3日(906年)没。40歳で急死。従三位大納言。
藤原北家勧修寺流・高藤の長男(ということは、醍醐天皇の外叔父)
「菅原道真が謀反の疑いで左遷される」という情報をキャッチして、道真のよき理解者であった宇多法皇は、慌てて醍醐帝のもとに向かうのですが、それを「滝口の武士」を使って御所の門前で阻止したのが、この人。
それが道真公の怒りに触れちゃった…と言われてるとか、言われてないとか。
ぶっちゃけ、彼は職務を全うしただけなので、「道真の祟り」で死んだと見做されるかどうかが微妙です。
ただ、道真が亡くなってから3年が経ったこの年に、醍醐天皇は連座して流刑されていた道真の子供たちを恩赦して、長男・菅原高視(たかみ)を大学頭に復しています。
国定の死で道真を連想したのかな…というのは、想像に難くなさそうですね。
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Entry No.2 藤原菅根(すがね)
延喜8年10月7日(908年)没。53歳。従四位上参議。
藤原南家 巨勢麻呂流。藤原南家から文章博士が輩出されるようになった先駆者。
先程の藤原定国と一緒に、宇多法皇が醍醐天皇に会うのを阻止した人。
ですが、彼の場合はちょっと事情が違います。
彼は、道真に推薦されたおかげで「春宮侍読」という皇太子・敦仁親王(後の醍醐天皇)の先生役に抜擢されました。
いわば、彼にとって道真は恩人。つまり「道真を助けようとした宇多法皇を閉め出した」のは、「恩を仇で返した」となるわけです。
なので、定国とは違って、明らかに「道真公の祟りで死んだと思われた」みたい。
最期は、落雷にあって死亡。この死に方も…。
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Entry No.3 藤原時平
延喜9年4月4日(909年)没。39歳。正二位左大臣。
言わずと知れた菅原道真のライバルで、道真を失脚させた張本人。
藤原国定(1番目)、藤原菅根(2番目)で恐怖が高まったところを、狙い撃ち。
一番憎いヤツを3番目にヤるなんて、道真公もお人が悪い…。
かなり意欲的な人でして、「延喜式の完成」「荘園の整理」をマニフェストとして活動していました(今で言うと、憲法改正と構造改革でしょうかね)
時平はまだ関白になっていなかったので(祖父も父も就任している)、それを心から欲していたみたい。
ですが、志ならずに死去。道真の怨霊を恨んで怨霊になりそうな気配さえします(苦笑)
彼は死の直前、天台の高僧・浄蔵を呼んで、悪霊退散の祈祷を依頼しています。
浄蔵が経を読みあげると、時平の両耳から1匹ずつヘビが出てきて、それを退治しようとする浄蔵に対して「時平の悪事」を懇々と列挙してきます。
たまらず浄蔵が引き下がると、時平が狂死。
坊主を説得してしまったわけです。なんて怨霊だ…。
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Entry No.4 源光(ひかる)
延喜13年3月12日(913年)。58歳。正二位右大臣。
仁明源氏(仁明天皇の子…光孝天皇の15歳年下の異母弟)
前回の政争劇で紹介した、源氏が押し上げようとしていた「源氏の期待の星」。
序列1位の時平(藤原氏本流)と3位の高藤(醍醐天皇の外叔父)は追い落とせないので、2位の道真を狙い打ち。
道真失脚後、右大臣の後任をせしめ、オイシイ思いをしていた彼の最期は、結構なホラー。
鷹狩に出た際に、乗馬したままあやまって沼地にハマります。
そこが底なし沼になっており、脱出することができずに溺死。
遺体も上がらず、その後の姿を誰も見ることはなかったとか(怖いわ)
関係ないけど、「鷹狩」ってところに「ああ、源氏って武家なのね」という感じがしますw
それとも、源光がアウトドア派だったのかな(笑)
※時の帝・醍醐天皇が「鷹狩」が大好きだったので、「権力者の嗜み」だった…ってのが近かったり?ゴルフ接待ならぬ、鷹狩接待。風流なのか人間くさいのか…。
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Entry No.5 三善清行(みよし の きよゆき)
延喜18年12月7日(919年)没。72歳。従四位上参議兼宮内卿。文章博士。
鎌倉幕府問注所の初代執事・三善康信の祖先(8世祖)
道真の属していた「菅原学閥」と張り合っていた「大蔵学閥」の人。
つまりは「菅原下ろし」を盛大にやっていた1人。
道真が失脚した後は、「意見封事」という政策論を上申して、しきりに「第二の道真たろう」と狙っていたようですが、結局は参議止まりに終わりました。
出世街道をひた走る道真に「アナタ、やり過ぎですよ。周囲に恨まれてますよ。引退なさったら?」という手紙を送りつけています。
これを「親切」と見るか「イヤミ」と見るか「瀬踏みをしていた」と見るかは、意見が分かれるところ。
先程の時平の段で、悪霊退散の祈祷をした高僧・浄蔵は、三善清行の息子。
浄蔵が作った結界に守られて、齢七十を越えても(祟られることなく)生きていたのですが、息子が熊野に詣でている留守中に護符が剥がれ落ちてしまい、その隙を道真公に突かれて死亡。
浄蔵は異変に気付いて急ぎ引き返してきたのですが、すでに5日も経っていて、間に合いませんでした。
そこで、「あの世との境目」と言われる「土御門橋」に父の遺骸を運び、「死後七日目まで生き返らせる」という秘術を行って生き返らせ、話し込んで今生の別れを惜しんだというエピソードが残されています。
これが「一条戻り橋」の名前の由来。
清行は極楽浄土の方角(西方)に向かって座り、念仏を唱えながらタイムリミットを迎え、安らかに死んだそうな。
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Entry No.6 保明親王(やすあきら)
延喜23年3月21日(923年)。21歳。
醍醐天皇の第二皇子で、皇太子。
朱雀天皇・村上天皇の同母兄にあたり、父帝に先立って夭折されました。
この時点で道真の死から20年が過ぎてます。というか、保明親王の生まれた年が道真が亡くなった年という…。
母親が、藤原穏子。道真を追放した時平の妹。
父親は、醍醐天皇。道真が左遷された当時の天皇。
そして、立太子に推したのが、藤原時平。
病気らしい病気もしてない中での突然死だったので、醍醐天皇の衝撃も相当だったみたい。
余談も余談ですが、この2年前の延喜21年に陰陽師「安倍晴明」が誕生しています。
いや、伏線でもなんでもなく、ホンマに全く関係ない話。さっき「戻橋」の話を出したので、一応触れておこうかと…ね(^^;
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Entry No.7 慶頼王(やすより)
延長3年6月19日(925年)没。4歳で死去。
さっきの保明親王の皇子。つまり醍醐天皇の嫡孫。
母は、時平の娘・藤原仁善子。
時平の妹を母とする保明親王の急死で「もしかして菅原道真の…?」と朝廷がざわついた、その2年後に時平の娘を母とする王の夭折で、「やっぱり!」と確信を抱かせたみたい。
醍醐天皇は「道真追放の宣旨」を破棄。さらに道真の官職を「右大臣」に復して、生前より一階昇進の「正二位」を追贈。
ここに来て、ようやく菅原道真の「無罪」が確定したわけです。
これらの動きは、新たに立太子した慶頼王を守るための「厄除け」と見ることができるのですが、しかし道真公は許してくれませんでした。
「時平の血筋に皇位は与えないからな」という恨み言葉が聞こえてきそうです。
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Entry No.8~14 清涼殿落雷事件
延長8年6月26日(930年)。
「日照り続きによる水不足」を閣議するため、左大臣・藤原忠平(時平の同母弟)以下が御所の清涼殿に集合。
「神泉苑の水でも開放せねばなるまい」「雨乞いではダメなのか?」なんてワイワイ言っていると、午後1時ごろ、突如として暗雲がたちこめました。
「おっ、ひと雨くるかな」と期待を寄せて外を覗き込むと、つんざくような雷鳴が轟いて、稲妻が藤原清貫を直撃。
衣服は破れ、胸は「ざくろ」のように裂け、黒焦げになった変わり果てた姿が地面を転がったのでした。
巻き添えを喰らった公卿・官人も多数。
平稀世(たいら の まれよ。右中弁)は顔面に直撃を喰らって重傷。
美努忠包(みぬ の ただかね。右兵衛佐)は髪が炎上。
紀蔭連(き の かげつら。右兵衛佐)が腹部にダメージ。
安曇宗仁(あずみ そうじん)も膝に負傷。
近衛兵も2人、大怪我をしました。
そして、次々にショック死。
後に「清涼殿落雷事件」と呼ばれる大惨事が瞬く間に起きたのでした。
もろに直撃をくらった藤原清貫(きよつら)は、63歳。正三位大納言民部卿。
道真が左遷された後、宇佐八幡宮に遣いとして参詣したついでに、大宰府に立ち寄って道真に会ったのですが、その様子を「反省してないみたいだよ」と醍醐天皇に報告。
「だから祟られたんだね」と噂されたみたいです。
ちなみに、藤原清貫は藤原南家 豊成流。参議・藤原保則の四男。
母は在原業平の娘・美子なので、業平の孫にもあたります。
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Entry No.15 醍醐天皇
延長8年9月29日(930年)崩御。46歳。
「清涼殿落雷事件」で、公卿たちが天罰を受ける様を御簾越しに目撃していた醍醐天皇は、すっかり気が動転してしまって、事件から2ヶ月後に崩御。
この後、醍醐天皇は地獄に堕ちた…という伝承が残っています。
一般には、醍醐天皇は「延喜の治」といって、聖君として讃えられているんですが、それとは正反対ですなぁ(聖君だからこそ、後醍醐天皇が「あやかりたい」と名乗りにしたわけですから)
先程も触れたとおり、醍醐天皇の生前、皇太子の保明親王が親に先立って亡くなっています。
そのため、保明親王の異母弟にあたる寛明親王(ゆたあきら)が立太子していました。
「今度こそは守りきらねば!」と、3歳になるまで昼夜問わずに灯を燈して、幾重にもめぐらせた御張台の中で育てたとか。かなり神経質になっていますな。
その甲斐があったのか無事に育って、醍醐天皇の崩御時には、わずか8歳。
「朱雀天皇」として即位しました。
この方の在位中は、「平将門の乱」や「藤原純友の乱」などが起こり(「承平・天慶の乱」)、富士山も噴火したりしています。
それにウンザリしたのか、後に同母弟の成明親王(後の村上天皇)に譲位して、仁和寺で出家。まぁ、道真公の祟りではないんだろうけども…。
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Entry No.16 藤原保忠(やすただ)
承平6年7月14日(936年)没。47歳。正三位大納言近衛右大将。
藤原時平の長男。父が長生きしていれば、藤原氏本流の有力な次期候補でしたが、父が早逝してからは、家運は衰退の一途。
「これも道真公の…」と気が気でなかったようで、病床に伏せた時、僧侶を招いて加持祈祷を行わせたのですが、薬師如来の読経中に「宮毘羅大将(くびらたいしょう。薬師如来の眷属)」の名前を聞いて、過剰反応。
「く、くびれ大将!?大将をくびるだとッッッ!?!?」
自分(保忠は右大将)をくびる呪文と聞き間違えて、恐怖のあまり悶絶。頓死してしまったのでした。
空耳で亡くなるなんて、相当ノイローゼだったんですな…。
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Entry No.17 藤原敦忠(あつただ)
天慶6年3月7日(943年)没。38歳。従三位権中納言。
藤原時平の三男。美男子で、詩歌管弦の名手。
四十にならずに亡くなったことから「北野(道真)のお嘆き(恨み)」が原因と、歴史物語『大鏡』で言われています。
容姿も才能も優れ、神は多くの宝を彼に与えたもうた…けれども、寿命だけは与えてくれなかった…。
そもそも、幼い頃から自分の一家が道真公の怨霊に殺されてきたのを見て育ったせいか、「自分は長生きできないだろう」と最初から諦めていたみたい。
恋と風流に生きる道を選び取って、人生を謳歌しました。
具体的には、高嶺の花を摘み取るような恋。
これって、どこかで…?
そう、在原業平と同じ。破滅型の恋です。
をとこありけり(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html
実は敦忠、業平のひ孫。
業平の孫娘が美人で、藤原国経というジジイの所に嫁いでいたのを、惚れ込んだ時平が略奪婚(時平にとって、国経は伯父サン)。そして生まれたのが敦忠というわけ。
業平の美貌と歌の才と恋に生きる素質を受け継いだ貴公子なんですねー。
ちなみに、藤原敦忠は三十六歌仙の1人で、「百人一首」の詠み人にも選ばれてます。
それについては、ここでは本来の趣旨から大外れしてしまうので、余談で触れますね…ということで。
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ワタクシの調査では、デスノートに名を書かれていた人は以上。
さらっとやるつもりだったんですが、長くなってしまいました…。
40年に渡って呪い続け、ここで挙げただけでも15人(巻き添えの近衛兵を入れると17人)を葬り去るとは、道真公の執念・怨念は恐るべし…といったところです。くわばら、くわばら…。
しかし、ここで冷静に考えてみると、2つの疑問にぶち当たります。
- はたして「菅原道真」という人間は、ここまで執念深くて慈悲のカケラもない、濡れ衣に怒り狂うようなタチの人間だったのだろうか?
- こんな恐ろしげな悪霊が、なんで後に『学問の神様』なんていう、急にポジティブな存在になったのだろうか?
そこで、道真が大宰府に流されてから、どんな気持ちでいたのかを、彼が詠んだ詩から読み取ってみると。
「不出門」
- 一従謫落就柴荊
- [流されてあばら家に入ってからは]
- 萬死兢々跼蹐情
- [万死にあたる罪を恐れてひたすら謹慎している]
- 都府楼纔看瓦色
- [都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけ]
- 観音寺只聴鐘声
- [観音寺も鐘の音を聞くだけで行ったことはない]
- 中懐好逐孤雲去
- [心は雲を追って都へ向かうけれど]
- 外物相逢満月迎
- [外から私を迎えにくるのは満月の光ばかり]
- 此地雖身無検繋
- [私を縛るものは何もないけれど]
- 何為寸歩出門行
- [この門から出てゆくなど寸歩でもできようか]
「九月十日」
- 去年今夜侍清涼
- [去年の今夜は清涼殿に伺候して]
- 秋思詩編独断腸
- [「秋思」のお題で「痛切な哀しみの詩」を詠んでおりました]
- 恩賜御衣今在此
- [その時に帝から賜った御衣は今(配流先の)ここにあって]
- 捧持毎日拝余香
- [捧げ持っては日々残り香を聞いております]
月のあかき夜に
海ならず 湛へる水の底までに
清き心は月ぞ照らさむ
[海よりも深き水を湛えていても水が清ければ水底は照らされるように
自分の清い心も月が照らしてくれるだろう]
恨み辛み・残念無念…というよりも、諦めや観念に近い心境のような?
少なくとも、「絶対無実を勝ち取ってやる!見ておれ時平!」という、捲土重来を期して帰京し政敵を倒す!というような気配は見受けられません。
あの悪霊のやりたい放題と、生前の道真公の人物像は、あまりにもかけ離れている。そんな感じがします。
となると、新しい疑問が出ます。
- 何故このような彼の人柄から、あんな恐ろしげな悪霊が生まれてしまったのか?
怨霊信仰は後世の人々が作る迷信だとしても、あそこまで怪異に富んだ存在にする必要が、どこにあったんでしょうか?
そこで浮上してくるのが、藤原忠平(ふじわら の ただひら)。
時平の9歳年下の同母弟です。
忠平は時平の実弟ですが、実は菅原道真と親しい仲。
何せ、妻が道真の孫娘・源順子(異説もあり)
この女性は宇多天皇の養女として嫁いだとも言われ、忠平は「宇多天皇の廷臣グループ」ということになります。
つまり、宇多天皇の側近だった菅原道真とは親しい仲となり、「醍醐天皇の廷臣グループ」だった時平とは係りが違う…というわけです。
(時平による道真の追い落としは、宇多法皇―藤原忠平ラインに対する牽制だとも取れます)
政敵・時平が亡くなった後、忠平は藤原の氏長者となり、摂政・関白を歴任して、いわば時平の家系を乗っ取る形になりました。
時平の急死で権力を握れた忠平にとっては、時平の子供・孫たちや、それを廷臣として抱えている醍醐天皇がタンコブになっています。
そこで、「時平の一族は道真公の怒りに触れて、祟られている」と言いふらし、政敵の自信や命運を縮めたのではないか…。
つまり、忠平が道真を利用して、ライバルを蹴落としたのではないか?というわけです。
ワタクシも、この説は「一理あるな」と思うのですが、でも最初から道真を利用しようと思っていたのではなく、忠平も「道真公の怨霊に狙われているのでは」と恐れていたのではなかろうかと思います。
となると、いつ「道真公の怨霊の政治利用」を思いついたのか?
延長3年(925年)、道真を右大臣に復し、正二位を追贈したのは、さっき触れたとおり。
慶頼王を立太子するための厄払いのためですが、これは自身の厄払いでもあったのかもしれません。
というのも、翌年の延長4年、忠平は左大臣に昇進しているから。
「兄と同じ左大臣になる前に、自分の厄払いを…」も目的の1つとして、道真公の名誉を回復したのではないかと。
そして、延長8年(930年)「清涼殿落雷事件」の時。
忠平は左大臣として事件を間近で目撃したわけですが、場内の公卿・官人が恐怖で混乱する中、
「自分には祟りはなかった…。ああ、道真公の名誉を回復しておいて良かったなぁ」
と、一人胸を撫で下ろしていたのかも。
その後に亡くなったのは、醍醐天皇と、時平の2人の息子(保忠と敦忠)
醍醐天皇以前と保忠の死に方は、どこか違う属性を感じます。
醍醐天皇以前は、無実の道真に濡れ衣を着せて追放したことに対する、良心の呵責に耐えかねた「罪意識の告白」という面が見られます。
けれども、保忠の死に方は「恐怖からくるノイローゼ」ですから、それが感じられません。
それもそのはず。道真が亡くなったのは、保忠が4歳の時。
むしろ、彼の死が「なんで道真と関係するの?」と不思議に思ってもおかしくないくらい、彼自身の人生は祟りとは関係がないです。
ここから考えられるのは、忠平が「清涼殿落雷事件」で自分の前途に自信を持ち、邪魔な時平の息子たちを潰すために、道真の祟りを殊更に吹聴するのを思いついた…ということ。
そのためには、怖いぞ怖いぞと、クローズアップせねばなりません。
「人柄のいい菅原道真から恐ろしい悪霊が生まれてたのは何故か?」の答えは、忠平が政治的に利用するために、道真公の怪異は膨らみ続け、実体を越えてしまった…というあたりだと思います。
となれば、「恐ろしい怨霊が学問の神に変貌したのはなぜか?」の答えは多分、祟り神としての利用価値がなくなったから。
時平の子が権力に手が届かない状態になれば、道真公が怨霊である必要がありません。
北野天満宮が創建されたのは、天徳3年(959年)。
忠平の息子・師輔が右大臣になった(天暦元年=947年)、随分と後。
すでに摂関家の嫡流は、忠平の系統で定着していました。
「もう、祟り神としての役目は要らないよな…これからは我が家に障りのないように、ポジティブな存在になってもらおう」
と思い立って、北野天満宮を創建し、「守り神」に属性が変わったことを世間にアピールした…。
それが、「怨霊」から「学問の神」に変貌するきっかけになったのではないかと、ワタクシは思います。
道真公の怨霊は、忠平が政治的に利用するために膨らみ、利用価値がなくなったから守り神に祭り上げられた。
これがワタクシの暫定的結論ですが、これを生前の道真が聞いたらどう思うかなぁ…。
「んー、下の下」と落第点を喰らいそうな気が、かなりします(笑)
余談、その1。
時平が道真公に狙われたのは、実は2回。
1回目は、御所にいる時に道真公が登場したのです。
この時の時平が勇ましい。
「道真殿、あなた前右大臣ですよな?私は左大臣。貴方より格上です。敬意をもって接しない道理が、貴方にあるのか?頭が高い!!」
と一喝して、退散させています。
もっとも、これは時平の勇猛さに恐れをなして…ではなく、天皇の御前だったから引き下がったんだよ、と歴史物語『大鏡』には書かれています。
うーん。時平を褒めてあげてもいいのに…(^^;
余談、その2。
なんとなく。
道真に「アナタの死後、日本最大級の怨霊にされたんですけど、どう思います?」って聞いたら、
「その手もあるね。だけど私のサイズにあった服ではないようだ」
って答えるかな…と、ふと思いました。
いや、「銀河英雄伝説」という小説に登場するヤン提督の台詞ですけど(笑)
(敵の親玉が出張って来た決戦で圧勝したのだから、政府の停戦命令なんて突っぱねて敵の親玉の首を取れば良かったのに、との問い詰めに対する答え)
前回、道真はタフガイだった…と書いたけれど、これは「芯が通った」「反骨の」という意味。
「政策はできるけど政局は苦手」そうな面といい、なんかヤンを思い出してしまうんだよなぁ。
どの辺まで似ているのかって考察を…そのうちできたらいいな(何)
余談、その3。
時平の三男にして、在原業平の孫にあたり、百人一首43番歌の詠み人でもある藤原敦忠。
あひ見ての 後の心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり
中納言敦忠/拾遺集 恋 710
[あなたと愛し合った後に起きる、もっと愛したいと求める心の苦しさに比べれば、それまでの恋しいという思いなど大したものではないですよ]
「祖父に似て高嶺の花を摘み取るプレイボーイ」と紹介しましたが、その代表的な相手といえば、雅子内親王と右近が挙げられます。
雅子内親王は、醍醐天皇の皇女。母は嵯峨源氏・唱(となう)の娘・周子。
「安和の変」(969年)で失脚した源高明の同母姉に当たります。
ちなみに読みは「がし ないしんのう」。
がし…なんか花の部位みたい(それは「がく」)
相思相愛(『大和物語』談)の恋愛関係にあった所を、雅子内親王が伊勢斎宮に卜定されてしまったことで、関係は引き裂かれてしまいました。
百人一首に採られた和歌は、こうして引き裂かれる前の雅子内親王への想いを吐露したもの…とも、彼女との恋が終わった後の想いを詠んだもの…とも言われています。
まぁ、この辺は系図的にもちょっと興味深く広げられるので、今日はこのあたりにしていずれまた取りあげます…ということでw
もう1人の相手右近は、「百人一首」38番歌の詠み人ですねー。
忘らるる 身をば思はず ちかひてし
人の命の惜しくもあるかな
右近/拾遺集 恋 870
この和歌には「男の忘れじと よろづのことをかけて誓ひけれど 忘れにけるのちに 言ひやりける(「君のことは忘れないよ」と神に誓ったのに、すっかり忘れ呆けている男に対して言ってやった)」と詞書があるので、意味は「私のことを忘れたのは別にいいけど、忘れないって神様への誓いを破った罰が当たらないかと心配なんですよ」のような意味。
こちらの歌のお相手は、一説によると藤原敦忠その人。
『大和物語』によると、この和歌に続いて「かへしは えきかず(返事があったとは聞いていない)」とあるので、敦忠は何も言い返せなかったようです。言葉の軽い男の末路だわね。
もしくは、右近は藤原南家・季縄の娘で、中級くらいの貴族の出自だから、「高嶺の花」狙いの敦忠には興味がなかったからスルーした…ってとこなんですかね(^^;
系図で見てみよう(藤原南家)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11281600559.html
余談、その4。
時平の子孫は、道真の祟りで絶えてしまったように見えますが、女系では意外な所に繋がっています。
所生不明の娘が1人、忠平の長男・実頼(さねより)に娶られているのです。
このページでも取り上げたように、忠平は道真の孫娘・順子を妻としているのですが、その間に生まれたのが、実頼。
祖父は宇多天皇(史料的には。年齢的に無理があるので、本当は宇多帝の養女かね)。嫡男で、藤氏長者も継いだのですが、入内させた娘が皇子を生まず、天皇家の外戚になれなかったのがイタかった…。
結局、実頼の子や孫たちの世代も外戚にはなれず、天皇の外祖父になれた異母弟・師輔(もろすけ)の系統に本流を持っていかれ、実頼の系統は「小野宮流藤原氏」として、後世に伝わっていくことになりました。
まぁ、これも道真の祟りではないんだろうけれども(そもそも道真の子孫でもあるわけで)
あと、宇多天皇の皇子・敦実親王(醍醐天皇の同母弟)にも時平の娘が娶られていて、こちらは宇多源氏として繁栄を見せることになりました(系図では省略しましたごめんちゃい)
そちらは以前にも取り上げたことがあるので、宜しければどうぞー。
系図で見てみよう(宇多源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12734496370.html
小野宮流藤原氏については、いずれまた…ということで、もしかしたらオタノシミニ。
余談、その5。
冒頭の百人一首、詠み人の貞信公とは、藤原忠平のこと。
詞書に「亭子院 大井河に御幸ありて 行幸もありぬべき所なり とおほせ給ふに 事の由奏せむ と申して」とあるので、宇多法皇(=亭子院)が「大井川御幸」(延喜7年=907年))の時、「キレイだなー。これ息子(醍醐天皇)にも見せたいねー」と言ったのを受けて、詠んだ歌
[小倉山の紅葉よ、もし貴方に趣きを理解する心があるなら、帝の行幸まで散るのを待ってくれないか]
「上皇様のご期待通り、御子息(醍醐天皇)が来るまで、散らないでいてくれよ」っていうことなんですね。
菅原道真の左遷にも表れているように、宇多天皇と醍醐天皇は、あんまり仲がしっくり来ていなかったみたい。
醍醐天皇は12歳で即位して、そんな多感な時期に、あれやこれやと政治に口を出してくる父がウザくて仕方がなかったらしい。
そしてさらに、時平・忠平の同母妹にあたる穏子が醍醐天皇へ入内するのを、宇多天皇が反対していて、それでさらに疎ましく思った…ともいう説もあるみたい。
そんなギクシャクしていた親子の間を取り持とうと、こんな和歌を作った…と考えると、忠平ってけっこういいヤツw
(いや、忠平は「寛厚の長者」と呼ばれて人当たりはかなりいい人だったらしいので、「道真を怨霊として利用した」ってやってる当ブログの方がオイタが過ぎるんですが・笑)
そういえば、「百人一首」に選ばれている菅原道真の和歌も「紅葉」が入っていて「宇多上皇のために」詠んだものでしたな(「吉野宮滝御幸」の時は、まだ出家してないので上皇)
道真と忠平…気が合うのか、百人一首の撰者が狙ったのか。
ちなみに、反乱を起こして敗れ、道真とともに最大級の怨霊に数えられる平将門(たいら の まさかど)は、忠平の家臣。
忠平の家臣だったから訴訟に勝つことができたとも言われ、このために故郷に戻ったら英雄扱いのカリスマを光らせることができました。
これが、めぐりめぐって反乱の首魁になる遠因となり、討ち取られて怨霊となったのはご存知のとおり。
忠平。なんとも、怨霊に縁のある人です…。
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