先の記事で、敦実親王のことを「ワタクシ、ちょこっとしか知らない人」と紹介しました。

 

蝉丸のにおい(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12733609648.html

 

ちょこっと知っているというのは系図上のことでして。

というのも、敦実親王は宇多源氏の代表的な祖にあたる人なのです。

 

「源氏」というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝の家系「河内源氏」や、酒呑童子退治で知られる源頼光や鵺退治知られる源三位頼政の家系「摂津源氏」が有名で、他は何だかぼんやりした印象。

 

ですが、宇多源氏はその次か、その次の次か、その次の次の次くらいに、長きに渡って名を見せる源氏一族。

 

なので、今回は宇多源氏の始まりの方を系図で紹介してみようと、そういう試みです。

 

 

…っていう始まり方をしておいて、のっけから脱線ですが、敦実親王の末裔はちょっと後回しにして。

 

斉世親王(ときよ)という、歴史的にも注目の皇子さまから。

 

仁和2年(886年)の生まれなので、醍醐天皇(885年生まれ)の1つ下の異母弟。

母は橘義子。左大弁・橘広相(ひろみ)の娘でした。

 

宇多天皇が即位した当初。父・光孝天皇、そして自分を立て続けに皇位につけてくれた功労者・藤原基経を、関白に任じようとします。

 

しかし、その詔の文書中に「阿衡(あこう)という、本来は敬称ながらも深読みすると「地位は高いが職務を持たない」という意味の言葉が入っていたことで、大問題化。

基経は一切の職務をボイコットしてしまい、政務は滞って、宇多朝はスタートと同時にコケるハメになってしまったのです…という、いわゆる「阿衡の紛議」

 

橘広相は、問題となった「阿衡」という字が入った詔を起草した人物でした。

 

基経は執拗に「広相を遠流に処せよ」と求めるのですが、讃岐守として現地に赴任していた菅原道真が、基経に意見書を提出して仲裁したこともあって、事件は(表面上は)収まりました。

 

「阿衡の紛議」は何故ここまで大きくなったのか分からない謎の事件でもあるのですが、その年(仁和3年=887年)に斉世親王の同母兄にあたる斉中親王が生まれていたのが原因では…という説があります。

 

つまり、基経が「橘広相が外戚になって自分を脅かす可能性を、早めに潰そうと考えて難癖をつけた」というわけ(なお、斉中親王は後に7歳で夭折)

 

「阿衡の紛議」の後、天皇家と藤原氏の関係修復を図って、基経の娘・温子が入内していることから、このセンは結構あり得そうだなーという感じもあるんですが、どうなんでしょうねw

(なお、温子と宇多天皇の間には均子内親王のみで皇子は生まれず、基経の没後になると全く子を産んでいないので、宇多天皇の本意は「藤原北家嫡流との間に子は望まない」だったかもしれない…とも言われます)

 

ともあれ「阿衡の紛議」の時に、外野からの援護で広相を助けてくれた菅原道真に感謝したのかどうか。広相の孫にあたる斉世親王は、道真の娘・寧子を娶りました

 

しかし、これが道真にとってアダになってしまいます…。

昌泰4年(901年)。左大臣・時平の讒言により「菅原道真が醍醐天皇を廃して斉世親王に譲位させようとした」という嫌疑をかけられ、道真は右大臣から大宰員外帥として大宰府に左遷(昌泰の変)。

延喜3年(903年)、大宰府で没してしまうという悲運に見舞われてしまったのでした。

 

岳父の転落を目の当たりにした斉世親王は、仁和寺で出家。真寂と名乗り、その後は欣求修行に励んだと言われています。

(道真の怨霊伝説との関係は、よく知りません…。何かしらのアクションを取っていそうな気はしますが、ねぇ)

 

 

さて、敦実親王に話を戻して…。

 

敦実親王は、道真を左遷して追いやった藤原時平の娘を妻として何人かの子をもうけ、いずれも宇多源氏として臣籍降下しています。

 

中でも重要なのは、三男の源雅信(まさざね)

藤原兼家(道長の父)が右大臣だった頃の左大臣です。

 

近侍していた村上天皇「仕事中は仕事の話しかしない堅物」と言われたという、生真面目人間(笑)

 

兼家の覇権にとって目の上のタンコブだったのですが、この生真面目さのせいか隙がなく、藤原氏が菅原道真(昌泰の変)源高明(安和の変)でやってきたように、雅信を政争で追い落とすことができませんでした

結局、兼家が右大臣を辞して「ただの摂政」になることで「左大臣よりも下位」の立場を解消するしかなかった…という。強い。

 

そんな雅信は、自慢の娘・倫子(ともこ)を天皇家に嫁がせたいと願っていたのですが、年齢の釣り合う花山天皇が退位してしまったために適齢の皇嗣がおらず、兼家の五男・道長と結婚することになってしまいました。

 

倫子は道長との間に、後継者となった頼通教通、そして天皇家に入内した4人の娘をもうけています…が、こうした孫たちの栄光は正暦4年(993年)に雅信が亡くなって以降のお話。

雅信の目の黒いうちは、道長は兄の道隆や道兼に隠れた、将来性の薄そうな青年でしかありませんでした。

 

道長から「倫子さんを嫁に欲しい」と言われた時、雅信が「なんでクチバシの黄色い青二才に大事な娘をやらにゃいいかんのだ…」と渋っていたっていうのも、兼家の政敵という立場とともに、こうした道長の強みのなさもあったと言われます。

(ワタクシは、それ以上に村上天皇に呆れられたっていう「生真面目さ」がよく表れているようにも見えます・笑)

 

このように娘と道長の結婚を渋る夫とは反対に、「未知数だから期待できるでしょ」とよく分からない理由(?)で押し切って2人を強引にくっつけてしまった、倫子の母・穆子は、藤原朝忠の娘にあたります。

 

 

倫子の異母兄にあたる扶義(すけのり)は、子孫が近江国佐々木庄に居住するようになり、近江源氏・佐々木氏の祖となりました。

 

鎌倉末期~室町時代に足利尊氏の盟友として猛威を振るった(?)佐々木道誉の先祖ですね。

枝分かれして、南北朝~室町~戦国時代によく見かけることになる京極氏六角氏なども輩出されます(越後人的には、新発田氏も挙げとかないと…ですw)

 

 

雅信と並んで、彼の弟・重信(しげのぶ)は、兄・雅信が左大臣だった時に右大臣となり、兄弟で朝堂を指導しました。

重信は宇治に別荘を構えていて、重信の没後、姪の婿である道長に買い取られ、道長の子・頼通によって寺院に作り替えられ、今では平等院となっています。

 

重信の孫にあたる経信(つねのぶ)は、「百人一首」71番歌の詠み人ですねー。

 

夕されば 門田の稲葉おとづれて あしのまろ屋に秋風ぞ吹く
大納言経信/金葉集 秋 173

 

白河天皇から堀河天皇にかけての人で、有職故実や政治・学問に通じ、管弦や蹴鞠までこなす、「三舟の才」藤原公任にも比される多芸多才な人

 

白河天皇は、「後拾遺和歌集」(1086年)「金葉和歌集」(1126年)の2つの勅撰和歌集を編纂させています。

 

「後拾遺集」の時。撰者には経信が選ばれると、誰もが思っていました。

なんといったって、経信は白河朝の代表的歌人にして、堀河朝では数々の歌合の判者となり重きをなした、当代一の歌壇の重鎮。

 

ところが、選ばれたのは経信(1016年生まれ)よりも30歳近くも年下の藤原通俊(みちとし。1047年生まれ。小野宮流藤原氏)

通俊は妹が白河天皇の典侍を務め、覚行法親王を産むなどして寵愛を受けていた繋がりをもつ、白河天皇の側近でした。

 

若輩者に栄誉ある撰者の任を持っていかれたのが面白くなかったのか、経信は「後拾遺集」に対して「難後拾遺」なる歌論書を出して猛烈批判(通俊はそれなりに経信に気を使っていたんですが…)

 

この時、経信は70歳近く。若手の後輩に譲ってもいいと思うんですが、プライドが許さなかったんですかねぇ…(^^;

(ちなみに、「後拾遺集」は応徳3年(1086年)9月16日に完成。白河帝は応徳3年11月に譲位しているので、ギリギリ「上皇」になる前に一応の完成をしたんですねー)

 

百人一首に採られた和歌は、詞書に「師賢の朝臣の梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへることをよめる」とあるので、源師賢(同じく宇多源氏で雅信の玄孫。経信の琵琶の師匠である資通の子)の別荘があった梅津の山里(京都市右京区)に集まって、「田舎の秋風」というお題で詠んだ歌。

 

「夕方になると、門前の稲の葉を揺らす音をたてながら、粗末な家まで秋風が吹きこんでくるよ」という、素朴な歌。

 

しかし、秋なのになぜ「門田の稲葉」を「稲穂」にしなかったのか?「おとづれて(音擦れて)」という聞きなれない言葉を使っているのは何故か?を疑問視する見方があります。

 

実は経信は、晩年に何故か大宰権師として大宰府に左遷され、その地で没しています。

 

そこから深読みすると、夕されば(年も取って斜陽の年代になりながら)」門田の稲葉(田舎の地方=大宰府に)」おとづれて(下向していく)」あしのまろ屋に(白河帝に冷遇されている私は)」秋風ぞ吹く(憐れな姿に見えるだろう)」と、白河院の冷遇を嘆く暗喩にも解釈できたりします。

 

これはこれで面白いけれども、実際にはどうなんですかね…。実際に風景を見ながら詠んでいる、って詞書にもあるわけだし…ねぇ(うーん)

 

 

さらに、経信の子・源俊頼(としより)もまた「百人一首」に歌を採られた、74番歌の詠み人です。

 

うかりける 人を初瀬の山おろし 激しかれとは祈らぬものを
源俊頼朝臣/千載集 恋 708

 

堀河天皇から鳥羽天皇にかけての、まだ平家が新興勢力になりかけだった時代の人。

若き日の藤原忠通とも交流があったそうな。

 

父・経信が80歳にして大宰府へ左遷になった時(嘉保2年=1095年)、俊頼も同行。

承徳元年(1097年)に経信が大宰府で没すると帰京を果たし、その後は堀河院歌壇の中心人物として活躍しました。

 

先程、白河天皇は「後拾遺和歌集」(1086年)「金葉和歌集」(1126年)の2つの勅撰和歌集を編纂させたと紹介しました。

 

このうちの後者「金葉集」の撰者に、俊頼は選ばれています(ちなみに、白河帝は1096年に出家しているので、当時は「白河法皇」

 

父が選ばれなかった栄誉を、息子は見事に取り返した…!

 

しかし、「金葉集」は歌人たちの評価がボロクソ(笑)

 

「以前の勅撰集に選ばれた和歌は採らない」という約束事を守らず、しかも巻頭に持ってきてしまったり、同時代の歌人がずらずらと並んだり、編纂態度が杜撰だと思われてしまったみたい。

奏上しても白河院に2回も却下されるなど、なんだか傷のある勅撰集になってしまったのでした。

(なお、俊頼は1055年生まれなので「金葉集」の完成は70歳を過ぎた頃)

 

ただ、歌人としては間違いなく優秀。

「金葉和歌集」の次の次に編まれた「千載和歌集」(1188年。撰者は藤原俊成)では、最多の和歌が選ばれる歌人。

 

革新的な歌風で知られ、「百人一首」撰者の藤原定家の祖父・俊忠とは昵懇の仲で、俊成(定家の父)や定家の歌風に大きな影響を与えたとされます。

 

百人一首に選ばれた歌も「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時 祈れども逢はざる恋といへる心をよめる」とあるので、俊忠の屋敷で「祈れども逢わざる恋」というお題で詠んだもの。

 

歌は「つれないあの人が私に振り向いてくれるようにと初瀬観音にお祈りしたのに、初瀬山から吹く山おろしの風も、あの人も、冷たく当たるのですね」のような意味の、女性が詠んだっぽい雰囲気。

 

初瀬観音は、奈良の長谷寺(桜井市)の十一面観音菩薩で、恋のご利益祈願として有名。平安時代も女性たちがしばしば訪れたというパワースポット(まさしく)

清少納言(62番の詠み人)の「枕草子」や藤原道綱母(53番の詠み人)の「蜻蛉日記」、菅原孝標女の「更級日記」にも、その様子が描かれています。

(俊頼の歌、つれない兼家を道綱母が詠んだ歌にも見えますね…)

 

 

そして、俊頼の子・俊恵(しゅんえ)もまた、「百人一首」の詠み人。

 

こちらは85番歌。経信・俊頼・俊恵と三代に渡って選ばれているのは、すごいですな。

 

よもすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
俊恵法師/千載集 恋 766

 

「日本三大随筆」の1つ「方丈記」を著した、鴨長明の師匠(和歌の)。

 

永久元年(1113年)の生まれなので、俊頼(天喜3年=1055年生まれ)58歳の時の子。

祖父・経信の没年は承徳元年(1097年)。生まれる16年前に亡くなっていて、お互い会ったことはない計算になります。

 

父・俊頼は大治4年(1129年)、俊恵17才の時に死別。

若くして後ろ盾をなくしてしまったことがあるのか、その後は東大寺の僧侶となって俊恵法師と呼ばれるようになります。

 

30年ほど東大寺で修行を積んだのち、辞して洛西の福田寺の住持となり、歌道結社「歌林苑」を主催。

 

洛北の白河に自坊を開いて移り、盛んに歌会や歌合せを開いて、当時ちょっと元気がなかった界隈に活気を呼び込んだと言われています。

 

藤原清輔平経盛といった多子(二条帝皇后)に仕える歌人たちが主催した歌合などにも参加。源頼政二条院讃岐の父子、道因法師藤原俊成などとの交流も知られています。

 

歌は「夜通しつれない貴方を思っていると、明け方の光が中々差し込んでこない夜の寝室の隙間さえも、私につれなくしているように感じます」みたいな意味。

 

17歳で出家してからずっと僧侶として暮らしてきた、恋愛の世界とは程遠い俊恵の和歌…?と思ってしまうけど、こういうところが歌は面白いんでしょうねー。

 

 

と、ざっくりですが宇多源氏の始まりの方を、「百人一首」も交えてご紹介して見ました。

 

雅信の子・扶義の子孫は佐々木氏の祖となったとご紹介しました。

 

宇多源氏が長きに渡って名を残すのは、この佐々木氏があったことが大きいです。

 

これについては、長くなったし別のお話ということで…

 

としたいところなんですが、佐々木秀義とその息子の四兄弟は平安末期~鎌倉時代初期の人で、今年の大河『鎌倉殿の13人』にも登場する重要な人たち。

 

というわけで、次回予告ではないけれど、系図だけ載せておこうかなーと。

 

佐々木氏の続きについては、いずれまた…ということで。ではではー。