今日は、こちらの記事からネタを引っ張ります。

 

名前は超有名だけど...小倉百人一首の「蝉丸」っていったい何者?(外部リンク)
https://shuchi.php.co.jp/article/9184

 

「蝉丸」というインパクトがある名前。

リズミカルで小難しい言葉を使わない覚えやすい和歌。

 

「百人一首」の中でも、トップレベルの知名度も人気もある歌なのではなかろうか。

 

 

これやこの 行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関


蝉丸/後撰集 雑 1089

 

 

蝉丸…知ってはいたけど、深く調べようとはあんまり思わなかった…。ワタクシにとって意外性の人物(笑)

 

とはいえ、ワタクシも、名前と和歌は知ってますが、それ以外は全く存知ない人です。

 

で、記事の中で注目したのは、この部分。

 

『今昔物語集』巻第24第23の説話では、蝉丸は宇多天皇の第八皇子・敦実親王の雑色(雑役をつとめる下人)で「賤シキ者」と記されている。

敦実親王はきわめて優れた管弦の才能をもっており、蝉丸は敦実親王の演奏を聴いているうちに、いつのまにか、世に並ぶ者のいないほどの琵琶の名人になり、親王から秘曲を伝授されるに至った。しかし、盲人になってしまったため、蝉丸は逢坂の関に庵を設けて暮らしていたという設定である。

説話では、管弦の道を極め、琵琶の名手であった源博雅(第60代醍醐天皇の第一皇子・克明親王の子)が、蝉丸の琵琶の評判を聞き付け、その演奏を聴きたいと思った。しかし、蝉丸の家があまりに粗末であったため、使いをやり、「どうして、そんなところに住んでいるのか。都へ来てはどうか」と伝える。

蝉丸は、返事の代わりに和歌を詠んだ。

世の中はとてもかくても過ごしてむ宮も藁屋もはてしなければ

(この世の中はどのように生きても、しょせんは同じこと。豪華な宮殿も粗末な藁屋も、いつまでも住みとおせないのだから)

こちらも無常観が漂う歌である。

その後、源博雅は蝉丸のもとへ夜ごと通いつめ、3年目の8月15日の夜、琵琶の秘曲である『流泉』『啄木』を伝授されたと、『今昔物語集』ではなっている。

鎌倉時代に成立したとされる『平家物語』の「海道下り」には、源博雅が風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、蝉丸のもとに通い続けて、秘曲を伝授されたというエピソードが登場する。

 

ほほう、源博雅

 

源博雅といえば、映画『陰陽師』で、安倍晴明に「面白い奴」とか言われてた、あの若武者(史実では武者ではなかったみたいですが…)

 


映画『陰陽師』より(左側が源博雅)

 

蝉丸は源博雅とも関係があった(とされている)んですか。

 

 

安倍晴明は、村上天皇から一条天皇あたりに活躍した平安時代中期の人。

映画『陰陽師』でも、藤原師輔(道長の祖父)なんかが出てきてましたね。

 

蝉丸って百人一首が「10番」で、小野小町小野篁の間にいるから、てっきり平安時代はじめの人だと思っていたんですけど、摂関期に差し掛かる頃の人だったんですね。

 

 

そして、蝉丸が仕えていたという「宇多天皇の第八皇子・敦実親王」。

 

ワタクシ、ちょこっとしか知らない人だったんですが、調べてみたら結構おもしろい人でしてw

 

今回は、これ口実にして(笑)、敦実親王を掘り下げてみたいと思います。

 

 

敦実親王は、宇多天皇の第8皇子。醍醐天皇の同母弟に当たります。母は藤原胤子(勧修寺流藤原氏)

 

このあたりを系図で確認すると、このようになります。

 

 

宇多天皇は、かつて源氏姓を賜り、源定省(さだみ)として臣籍降下しておりました。

 

ところが、時の実力者・藤原基経の思惑のために、父の時康親王が55歳で皇位を継ぐことになる(光孝天皇)と、状況は一変。

父の即位から3年後、光孝天皇が病のために重態に陥ったため、これまた基経の思惑で、定省は皇籍に戻されて後継者となり、仁和3年(887年)に宇多天皇として即位することになりました。

時は経って寛平9年(897年)、宇多天皇は第1皇子の敦仁親王に譲位(醍醐天皇)。

敦実親王は「天皇の弟」となります。

 

敦実親王は、醍醐天皇の8歳年下の寛平5年(893年)生まれなので、兄の即位はまだ童だった頃です。

 

ちなみに、敦実親王の祖父にあたる光孝天皇は、「百人一首」15番歌の詠み人ですねー。

 

 

きみがため 春の野にいでて若菜摘む
わがころも手に雪は降りつつ


光孝天皇/古今集 春 21

 

 

敦実親王の母(ということは醍醐天皇の母)は、藤原胤子。勧修寺流藤原氏の娘です。

 

勧修寺流は、藤原良房の弟・良門(よしかど)の家系で、摂関家となる藤原氏本流から見ると分家筋の家柄でした。

 

和歌や音楽に秀でた風流な人が多く、後には紫式部もこの家系から輩出されています(…が、それは別のお話ということで後日に…)

※追記:アップしました→系図で見てみよう(藤原氏勧修寺流/紫式部関連)

 

胤子の弟で、敦実親王の叔父にあたる藤原定方(さだかた)は、別名を「三条右大臣」。百人一首26番歌の詠み人です。

 

 

名にし負はば 逢坂山のさねかづら
人に知られで来るよしもがな


三条右大臣/後撰集 恋 700

 

 

蝉丸と同じく、百人一首の中で「逢坂」を詠んでいる3つの和歌の1つ(あと残り1つは清少納言)

 

「名にし負はば」は、在原業平がモデルの「伊勢物語」に出てくる書き出し「名にし負はば いざこととはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」から来ている、当時流行りの上五だったみたいです。

 

定方は873年生まれ。定方の姉・胤子が定省と結婚したのが11歳の時。宇多天皇(義兄)に即位したのが16歳の時。醍醐天皇(甥っ子)が即位したのが21歳の時。

 

藤原時平が権力闘争の末、菅原道真を大宰府に左遷して勝利した時(昌泰4年=901年)、定方は28歳。従五位上・左近衛少将。

 

上に定国(さだくに)という兄がいたのですが、延喜6年(906年)に40歳で急死しています。

一説には「菅原道真の祟り」なんて言われたりもしていますが、さて…(^^;

 

四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html

 

道真を追い落とした時平が薨去してしまった延喜9年(909年)、参議となって公卿に列しました。

 

こうして順調に昇進を重ね、51歳の時に右大臣にまで昇りました。

(ちなみに、左大臣は藤原北家筆頭の藤原忠平。「貞信公」として16番歌に選ばれている詠み人です)

 

 

同じく百人一首の27番歌の詠み人・藤原兼輔(かねすけ)は、定方の3つ年下の従兄弟。

 

加茂川近くに邸宅があったため(現・廬山寺)、別名を「堤中納言(百人一首では「中納言兼輔」)

 

この邸宅は、当時の新進気鋭な歌人だった紀貫之凡河内躬恒たちが集うサロンの場で、兼輔は彼らのパトロンでもあったとされています。

兼輔の曾孫にあたる紫式部は、この邸宅で生まれ育ったそうで、「源氏物語」ではこの周辺の風景がよく登場するとか。

 

醍醐天皇に娘の桑子を嫁がせて、章明親王が生まれています(系図では省略しちゃいましたごめんちゃい)

「娘の桑子が寵愛されているか心配です。私も人の親ですから」と醍醐天皇に歌を送って共感されたり(人のおやの 心は闇にあらねども 子を思ふみちにまよひぬるかな)、崩御された時に哀悼の歌を捧げたり(桜散る 春の末にもなりにけり あやめも知らぬ ながめせし間に)、醍醐天皇との関連が深い人。

 

百人一首には、27番歌の詠み人として和歌が採られています。

 

 

みかの原 わきて流るる泉川
いつ見きとてか恋しかるらむ


中納言兼輔/新古今集 恋 996

 

 

「みかの原」は、奈良時代に聖武天皇が行った遷都の1つ「恭仁京」(くにきょう。元明天皇の離宮でもあった)が置かれた地。「いづみ川」は木津川の古称だそう。

 

「美人と噂の若狭守の娘に会ってみたい」という動機で詠まれた歌と、検索すると出てくるんですが、この若狭守とは誰なのかはよく分かりませんでした…。

(もっとも、これ本当は「詠み人知らず」で「兼輔の和歌じゃない」説があるくらいなので、背景なんて分かるよしもないんでしょうね…)

 

兼輔と定方とは従兄弟同士で、定方の娘が兼輔に嫁いでいる舅婿の関係ですが、かなり仲が良かったと言われています。

 

兼輔が定方の婿になったのは延喜3年(903年)頃なので、兼輔34歳、五位蔵人だったあたり。この官暦をもって有能かどうかを見定めるのはムリっぽく、それよりも人柄の方を評価していたのでしょう。

 

定方には「三条右大臣集」という、全35首の和歌が収められている家集があるのですが、そのうち16首が藤原兼輔との贈答歌(定方8首、兼輔8首)。

半分近くが従兄弟との贈答歌って、結構目を惹くのではなかろうか。ここからも、何だか仲のいい関係性が見えてこようというもの。

 

そもそも年齢が4歳差で、お互いに和歌や音楽が得意という共通点もあって、親友としてつきあっていたのだろうなと思わされます。

 

 

さて、敦実親王のほうに話を戻して。

 

敦実親王の同母兄には、醍醐天皇の他に、敦慶親王がおりました。

 

敦慶親王は父帝・宇多帝の崩御後に、その愛人だった「伊勢の御」の再婚相手となり、「中務(なかつかさ)と呼ばれる娘をもうけています。

 

中務は有名な女流歌人ながら『百人一首』には選ばれていません。

母の伊勢は採用されています。19番歌の詠み人ですねー。

 

なにはがた 短きあしの ふしのまも あはでこの世を すごしてよとや
伊勢/新古今集 恋 1049

 

百人一首の中で「難波」を詠んでいる3つの和歌の1つ(他は元良親王と皇嘉門院別当)

 

伊勢は、元々は藤原温子(よしこ。宇多天皇の中宮。基経の娘)に仕えていたのですが、宇多帝とも結ばれて、親王も生んでいます(8才で早逝。このショックもあって、宇多院は出家したとも言われます)

 

父帝の奥さんだった女性と再婚して娘をもうけるとか、「平安時代の宮廷はかなりおおらかだなー」という、よく語られる話の一例。

ですが、敦実親王自身も似たようなことをやっているフシがあって、なんと相手は兄・醍醐天皇の女御(正式な妃)だったといいます。

 

 

その話の前に、もう1人。敦実親王の同母姉に、柔子内親王(やすこ)という皇女がおりました。

 

平安時代、「斎宮」という役目(天皇家の祖神が祀られる伊勢神宮に、未婚の内親王や女王が巫女として奉仕した)があったのですが、歴代斉宮の中で「在任期間の最長記録」を持っているのが彼女

 

同母兄の醍醐天皇の即位とともに伊勢の斎宮に卜定され、醍醐天皇の崩御と共に役目を終えました。

 

つまり、897年~930年の足かけ34年、6歳から39歳までの女性としても大事な期間を、役目に捧げた人なのです。

 

敦実親王らの同母兄妹たちはもとより、叔父の定方や親戚の兼輔たちの勧修寺流の人々とは大変仲が良かったようで、『大和物語』にはいくつかのエピソードを垣間見ることができます。

 

柔子内親王の斎宮は、伊勢の多気(たけ)の地にあったので「竹の都」とも呼ばれていました。

 

長奉送使として柔子を、伊勢に送ってきた兼輔が和歌を贈ります。

 

勅使にて 斎宮へまゐりてよみ侍りける

くれ竹の 世々の宮こと きくからに
君はちとせの うたがひもなし


藤原兼輔/新勅撰集 453

 

[呉竹の節が幾重にも連続しているように、神代から代々の聖地である伊勢に仕える貴方が千歳にも長生きすることは疑いもないでしょう]

 

斎宮に到着した柔子内親王を励ました歌とされ、柔子内親王は返歌をしなかったようなのですが(そりゃ6歳の童女ですからな…)、兼輔おじさんの好感度はきっとアップしたはず(笑)

 

延喜13年(913年)、柔子内親王が病に伏した時には、当時中納言だった定方が、お見舞いのためにはるばる伊勢まで訪ねてきています。

 

それ以外にも頻繁に文を交わしていたと言われ、それは斎王として赴任している間も、退下して都に戻った後も同じだったみたい。

 

風流な親類縁者たちに囲まれて、結構楽しく暮らしていたという柔子内親王の周囲を見ると、勧修寺流藤原氏のこういうアットホームな雰囲気って、いいなぁってほっこりしてしまうんですw

 

2番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』には、こんな話が載っています。

 

式部卿敦実の親王しのびて通ふ所侍りけるを のちのち絶え絶えになり侍ければ 妹の前斎宮の親王のもとより この頃はいかにぞとありければ その返事に 女

白山に 雪降りぬれば 跡絶えて
今はこし地に 人もかよはず


後撰集 冬 470

 

MY意訳:敦実親王がこっそり通っていた女性の所に通わなくなった頃、姉の前斎宮から、「この頃の弟との仲は如何ですか?」と便りが来たので、和歌で返事をしました。
「雪が降り積もった越の国からは誰も通わなくなるように、あの人も来なくなりましたよ」

 

「妹の前斎宮」は、敦実の姉の柔子内親王のこと(「妹」は男兄弟からすると「女性の姉妹」であって、年下って意味は薄いみたい)。

では、和歌で返した女性は誰なのか?『大和物語』に似たような話が載っていて、それによると、

 

おなじ右のおほいどのの御息所 帝おはしまさずなりてのち 式部卿の宮なむすみたてまつりたまうけるを いかがありけむ おはしまさざりけるころ 斎宮の御もとより 御文奉りたまへりけるに 御息所 宮のおはしまさぬことなど聞こえたまひて 奥に 白山に降りにしゆきのあとたえていまはこしぢの人も通はず となむありける 御返りあれど 本になしとあり

 

「おなじ右のおほいどの(=右大臣)の御息所(=娘)」、つまり右大臣・藤原定方の娘の藤原能子(よしこ)が相手だったということになります。

 

藤原能子は、醍醐天皇の女御(正式な妃)。

敦実親王は醍醐天皇が崩御した後(帝おはしまさずなりてのち)、亡兄・醍醐天皇の女御と交際していたというわけです。

 

同母兄の敦慶親王が娶った伊勢は、父帝の愛人とはいえ無位無官の人だけど、能子は完全に天皇の妻(身分も従四位下)。いいのかそれ…って、いいんでしょうね(ううむ)

 

でもって、この「あれからどうなりましたか」と聞いた相手が、実の弟ではなく従兄弟のほうだったのって、もしかしたらすごく重要なことなのではなかろうか。

 

 

これはワタクシの勝手な想像なんですけど、敦実親王、柔子内親王、能子とその周辺の、何となく明るくて柔らかいような、一体感があるような雰囲気って、当時の勧修寺流の雰囲気が現れているんじゃないかな…と思っています。

 

それは、大変仲が良かったという定方と兼輔、どちらも音楽と和歌が得意な風流人のお二人が作っていたのではなかろうか。

 

そして、醍醐天皇の御世は「延喜の治」と呼ばれて、平安時代終盤には懐かしんで振り返る時代になっていたのですが、そこには政治よりも文化教養の美点・原点というポイントがあったのだそうな。

 

延喜の治=雅で風流な時代。これもまた、定方・兼輔の「勧修寺流」を中心に作り出されたものなんじゃないかなーと思うんですが、どうでしょうかねー。

 

 

でもって、冒頭でも言いましたが、百人一首でも人気の蝉丸の和歌もまた、何ともリズミカルで弾むような感じさえあるのは、仕えていたという敦実親王を通じて、勧修寺流のにおいが移っているから…なのかもしれませんねー。

 

 

なお、余談ですが、勧修寺流藤原氏は『平清盛』でもお馴染み、「保元の乱」で敗者となった”悪左府”藤原頼長の母方の一族にもあたります。

 

系図で見てみよう (「保元の乱」始末図)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11270602959.html

 

(系図の中で触れなかった人たちについては、またの機会に…ということで ^^;)

 

【関連】系図で見てみよう(宇多源氏)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12734496370.html