大河ドラマ「平清盛」、来週は「保元の乱」の戦後処理。

 

見るのがつらい展開になることを覚悟せねばなりませんが・・・・。

 

崇徳院 頼長
平忠正 源為義

 

崇徳上皇@井浦新サマ
藤原頼長@山本耕史サマ
平忠正@豊原功補サマ
源為義@小日向文世サマ

2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

 

そんなタイミングなせいか、同じく大河ドラマを見ている職場の人から、「誰が処分を受けるのかを知りたい」という質問(?)を受けたので、いそいそと系図を作ってみました。

 

そうしたら、知ってるようで知らなかった、というか把握していなかった色々が見えて面白かったので、今日のブログのネタにしてしまおうかと。そういう試みですw

 

なお、余計なことだとは思いますが、ちょっとした解説も載せます。

 

(平氏は忠正と息子4人が処刑されただけみたいなので、系図は省きました。ごめんちゃい)

 

 

■源氏の場合■

 

源為義の子供たちを、母親も込みで描いてみました。

 

(義賢の母方の祖父「六条大夫重俊」と頼賢らの祖父「源基実」については、誰なのかよく分かりませんでした・・・・)

 

この中で八男の「鎮西八郎」為朝は、ご存知の通り「保元の乱」に参加。
敗戦からは逃れたものの後に捕まってしまい、「二度と弓を持てないように」と腱を切られた上に、八丈島に流されています

 

なので、名のある中で生き残ったのは、義朝を含めて3人ほど
河内源氏棟梁家の子供たちは、義朝と一部を除いて、「保元の乱」で壊滅状態になったことがわかります。

 

河内源氏の嫡流は、藤原摂関家に寄り添いながら生きてきた一門。
なので、摂関家が大ダメージを受けた「保元の乱」では、自分たちのダメージも大きかった・・・・ということなのでしょう。

 

ちなみに、三男の「志田三郎」義広は、当時は坂東にいた(らしい?)ので、乱に巻き込まれていません。

 

十男の「新宮十郎」義盛(のちの行家は、15歳と若かったからか、それとも熊野にいて巻き込まれなかったのか、罰を受けていません。

 

「乱を勝ち残った」という意味では源氏では義朝のみで、他はみんな処刑されてしまった・・・・という感じになっています。

 

となれば、「なぜ義朝だけが勝ち残れたのか?」というのが大きな疑問なわけで。

 

それについては・・・・に触れると、長くなってしまうので後日に譲りますw

 

※追記:アップしました☆

 

MY「源義朝」人物考
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11282393817.html

 

 

 

■摂関家の場合■

 

ブログやツイッターなどの感想をみていたら、「頼長は公家たちから見捨てられて孤立していた」・・・・なんて声が見られました。

 

実際、彼は厳罰主義に走り過ぎてしまい、公家から見放されていたと言われます。

 

鳥羽法皇が彼を疎んじたのも、彼の「苛烈さ」を嫌がった結果でした

 

※これについては、頼長が藤原家成の屋敷を襲撃したのが大きな原因ではないかと、考察してみました。詳しくはこちらをどうぞ

 

諸大夫の男(再掲)
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11246872428.html

 

 

でも、系図を見てみると「孤立していた」というのは言い過ぎじゃないのか・・・・と。

 

というのも、彼の母方の一族(勧修寺流藤原氏に、流罪となった人が多いのです。

 

勧修寺流は、はるかはるか昔、人臣として初めて摂政となった藤原良房(よりふさ)の弟(良門)から枝分かれした中流貴族の家系の一派

 

平安時代末期には、摂関家の家司をやっていたそうな。

 

なので、摂関家の家司として勤めた結果・・・・かもしれませんが、ここは是非とも「従兄弟の頼長の味方についた」と解釈しておきたいです(笑)

 

 

なお、頼長から見ると大叔父の子にあたる藤原教長(のりなが)は、歌人・能書家としても知られる人物。

 

大河ドラマで崇徳院のそばにいつもいたので、それで印象に残っておられる方も多いのではなかろうか。

 

頼長の味方・・・・というより、崇徳院の味方だった方なんでしょうな。

 

彼は常陸国に流されてしまいますが、やがて都に還り、その後は崇徳院と頼長の御霊を祭るように主張したそうな。

 

そして、村上源氏の源成雅(なりまさ)なる人物も流罪になっていて、この人は頼長の妻の兄弟でした。

(頼長の息子の中で唯一、流刑地から生きて帰る師長(もろなが)の伯父(叔父?)にあたる人物ですね)

 

最後に、頼長の叔父に当たる「千覚」は、僧侶。

 

首に矢を受ける重傷を負い、奈良で父から門前払いを受けた頼長は、千覚の僧坊(興福寺の一坊)を訪ねて、そこで息を引き取ったと言われています。

 

父・忠実から泣く泣く見放されたものの、叔父さんに看取られて亡くなったわけですね。

 

このことで千覚は領地を没収された上で流罪となってしまうのですが、覚悟の上だったのかな・・・・と思ってしまうのは、僧侶だからそうであってほしいと、ワタクシが思っているだけなのかな。

 

というわけで、頼長の最期は決して孤独ではなかったんだよ・・・・と言いたいだけの、結論ありきという、やってはならない動機でまとめてみました(笑)

 

あれだけ最強な雰囲気を出していたのに、最期は雑魚みたいに死んじゃうからさ・・・・。

 

あまりにも不憫なので、救えるネタが欲しかったんだよ・・・・(;w;