『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』シリーズ。

此度も、冬嗣から数えて6代目にあたる藤原基経について語っていきます。

 

ただ…今回が…ですね…。

タイトル「藤原の兄弟たち」なのに、藤原氏の兄弟が出てこない…ナンテコッタ。

 

どうしょうかなーと思ったのですが…まぁそういう回があってもいいかなって(いいのか?)

 

そういうわけで、今回は基経の単独譚になってしまいます。

 

ただ、「応天門の変」から一歩も進まなかった前回(苦笑)と違って平安藤原氏のお話はグンと進みますので、そこはご安心を。

 

予めご了承くださいw

 

 

良房・基経の二代は、どちらも日本史の教科書に大々的に掲載されているので、数多いる藤原氏の中でも有名な部類に入るお二人。

 

藤原良房=史上初の摂政に任ぜられた人臣(貞観8年=866年)

藤原基経=史上初の関白に任ぜられた人(貞観18年=876年)

 

良房の「摂政」と基経の「関白」を、藤原氏が世襲していくことで日本の中央政権を牛耳る「摂関家」が誕生。

 

400年続く平安時代の中での大きなエポックがここに発生するわけですなー。

 

権力者が自分にとって都合のいい制度を自分でつくるのだから、すんなり完成したのでは…と思ってしまうのですが、実際には大変な難産に見舞われました。

 

それは、つまりこういうことです。

 

「摂政・関白って、つまり何ぞ?」←ここが分からない、決めてくれない、認知されない。

 

摂政と関白は、実は律令にはない「令外官」でした。

ゆえに、何をするのが職務なのか決まってなく、立場も曖昧

 

「摂政・関白」というと、後世の藤原道長や兼家(道長の父)のように、兄弟叔父甥で「争って奪い合う唯一無二の大事なもの」…というイメージですが、初期はソレジャナイかんじだったようです。

 

このあたりの変遷は、平安時代を知るには、ちと役立つ補助線になるのではなかろうかと思うので、今日はそこをやってみたいと思います。

 

まぁ、ワタクシも理解が半々なんで、どこまでいけるんだか…なんですけどね(笑)

そこは、いつものようにまったり49%与太話で…ということで。

 

 

その前に、前提となる現状の整理を。

 

貞観8年(866年)、義父・良房のはからいで「七人越え」の昇進を果たし、「従三位・中納言」に昇った基経。時に31歳。

 

その年に同母妹の高子が、無事に清和天皇に入内して、翌々年の暮れ(貞観10年)には待望の第一子・貞明親王(さだあきら。後の陽成天皇)が誕生します。

 

順風満帆…と思われた中、貞観14年(872年)に良房が流行していた咳逆病(インフルエンザ)に罹患してしまい、齢70にして帰らぬ人に。

 

良房は「忠仁公」と謚され、基経は葬儀を盛大に執り行うことで、最高権力者の名実ともに後継者として存在感を示すことになりました。

 

良房薨去の直前、基経は「右大臣」に昇ります。

同日、嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる。百人一首の「河原左大臣」)が「左大臣」に就任。

 

このツートップ体制で、清和天皇の譲位から始まる政治問題に入っていくことになります。

 

 

天安2年(858年)に9歳で即位してから、恃みの良房が亡くなって以降も、清和天皇の治世は災害が頻出するような大変な難治でした。

 

貞観16年(874年)、台風によって桂川や賀茂川が氾濫。内裏や京中に甚大な水害が生じ、さらに淳和院が火災に遭ってしまいます。

貞観17年(875年)には大旱魃。冷然院が焼失し、貴重な記録の類が失われてしまいました。

 

当時「天変地異は帝に徳がないことの顕れ」と考えられていたので、清和天皇も自責の念でノイローゼ気味になっていったようです。


貞観18年4月(876年)、今度は大極殿が焼亡。

平安京遷都以来初の出来事に、清和天皇のショックは隠しきれません。

 

ついに堪えきれなくなり、貞明親王に譲位すると言い出しました。

 

「いやしかし、貞明親王はまだ9歳でございます…」

「私も9歳で即位した。同じではないか」

「あれは我が義父の良房が摂政として立ったから可能だったわけで…」

「ならば、基経が貞明の摂政となればよい」

「しかし、私は右大臣。上には左大臣がおりますのに、それを飛び越えて摂政なんて…」

「彼には務まらない。私の意思は、基経にこそある」


「保輔幼主 摂行天子之政 如忠仁公故事」
(『日本三代実録』貞観18年11月29日条)

 

忠仁公(良房)の時のように、摂政となり幼主を輔弼せよ。

 

この時、基経は固辞する上表を行うのですが、その断り方が興味深いんです。

 

臣謹検前記 太上天皇在世 未聞臣下摂政 幼主即位之時 或有太后臨朝 陛下若宝重社稷 憂思幼主 臣願公政之可 驚視聴者 将聞勅於 陛下庶事之無妨施行者 又請令於皇母

(菅原道真著『本朝文粋』巻四)

 

上皇がいるのに臣下が摂政を行う例は聞いたことがない。幼主であれば皇太后(母親)が代わることはあった。

願わくば、もし陛下が国家を重んじ幼主を憂えるならば、天下の大事は上皇に勅を仰ぎ、他の小事は皇太后に令を請うようにして頂きたい。

 

「臣下に過ぎない私が出しゃばらなくても、幼主には父帝(清和上皇)と母后(藤原高子)がおられるではありませんか」

 

この言い分から見えてくるのは、

 

「摂政」=「上皇権」を代行できる人

 

これが当時の(平安時代初期の)「摂政」だったのかもしれない…ということ。

 

清和天皇は、先代・文徳天皇(清和帝の父)の崩御を受けて即位したので、清和朝には上皇が不在でした。

 

だから、良房が外祖父として「摂政」に立って「上皇の代わり」をできたし、それに違和感はあまりありません。

 

でも、貞明親王に譲位しようという今、清和天皇は健在

 

「上皇」がいるのに、上皇権を代行する摂政が立つ…。

 

「そんなことできないでしょ…」という基経の言い分はごもっともながら、もちろん清和天皇はこれを許しません。

 

「譲位後は国庫の負担を憂い『太上天皇』称号と付随する服御物を辞退する」と詔を下して、自身の「上皇権の放棄」を明言。社会通念的「上皇不在」状態を作ることで、基経が「摂政」をお断りしている理由を潰し、「摂政」へ就任させた…というわけ。

 

貞観18年11月29日(876年)。

清和天皇は在位18年にして、念願の譲位。御年26歳。

 

貞明親王は即位して陽成天皇となりました。

 

 

ところで、日本史上初の「人臣摂政」となった、基経の義父である良房。

 

彼は、清和天皇の外祖父で、妹が文徳天皇の母で、嵯峨上皇の婿。

天皇家にとっては「ミウチ要素」が強い人物でした。

 

それだけで足りなかったのか、これまで「藤原仲麻呂」と「弓削道鏡」の2人の例外を除いて、皇族しか就任しいない別格の官職「太政大臣」にも、清和天皇即位の直前に就任させられています。

 

良房は、これで準皇族という存在になったとも言えるかもしれません。

天皇家のミウチ=準皇族とするなら、彼は「初の人臣摂政」ではなく、「初の人臣上皇」だったかもしれませんな。

 

ともあれ、じゃあ基経は…?というと、一応、良房存命中に人康親王の娘(仁明天皇の孫娘)と忠良親王の娘(嵯峨天皇の孫娘)という、2人の王女を嫁に迎えています。

 

しかし、清和天皇からすれば「后の兄」に過ぎず、これから即位する陽成天皇としても「母方の伯父」でしかありません。

 

 

自分は良房の養子で、ただの右大臣。基経がそう自認していたのは清和上皇も理解していたようで、ならばと「太政大臣への就任」を促しています。

 

基経を太政大臣にすることで準皇族とする…良房の経歴を踏襲させる…という清和上皇の叡慮というわけ。

 

しかし、基経はこれを固辞します。天皇の伯父に過ぎない自分が「太政大臣」って重過ぎです…というのが理由でした。

 

元慶4年12月4日(881年)。

仏道修行や遊興などで余生を送っていた清和上皇は、苦行をやり過ぎたのか体調を崩してしまい、31歳の若さで崩御してしまいます。

 

この直後、陽成天皇から、清和上皇の御遺志であるとして、基経に対して「太政大臣」宣下。

 

しかし、基経は、これを固辞。もう、何度も何度も固辞

 

当時、太政大臣などは一回では引き受けず、何度か断ってから、「そういうことでしたら不束者ですが」と引き受けるのが慣例でしたが、どうもマナーとして断っているのではなく、本気で断ろうとしていたみたい。

 

その本気度アピールのためか、自邸に引き上げてしまったので、政務は完全に停滞。

 

しかし、1ヶ月に及ぶボイコットの末、基経は引き受けることになりました。

 

なんでこんな頑なに断ったのか…?

だけど、なんで結局は引き受けたのか…?

そこは、よく分からないみたい。

 

基経には、こういう「よく分からない頑固さ」が、至るところに見受けられます。

 

 

元慶6年(882年)、陽成天皇が元服。

すると、基経は辞表を提出し「摂政」を辞めたいと言い始めました。

 

「もうあなたは幼主ではありませんから、私の上皇権は必要ないでしょう」

「いやいや、伯父上が万機を見てくれなくては困る!」

 

陽成天皇は辞任を許さなかったのですが、これまた基経は自邸に引き籠もり、今度は1年半に及んで出仕拒否(2回目の引き籠もり)

 

またもや政務は盛大にストップしてしまい、太政官の弁官が基経の堀河第まで出向いて決裁を求める事態に陥ってしまいました。

 

何故にここまで出仕拒否したのか…やっぱり理由は不明。

なのですが、基経は実妹である陽成天皇の母・高子と仲が悪く、その延長線上で陽成天皇とも折り合いが悪かったので、陽成天皇を退位に追い込むための威嚇&嫌がらせだったのではないかとも言われます。

 

慣例に則って、3回目の辞表提出をしていた最中の元慶7年11月10日(883年)、源益(みなもと の まさる。嵯峨源氏)が宮中で死亡する「事件」が起こりました。

 

殺害なのか過失なのかは不明なのですが、源益は陽成天皇の乳母子。腕っぷしが強かった陽成天皇に近侍していたこともあり、天皇自身の関与(直接・間接拘わらず)が疑われる風聞が流れたそう。

 

その直後、陽成天皇が「禁中に厩を作り、卑位の馬飼に世話をさせて馬を飼っていた」ことが発覚し、基経の耳に入りました。

 

宮中の殺人事件という未曾有の異常事態に加えて、看過できない陽成天皇の乱行と宮中軽視。

 

11月16日、基経はついに参内。その強権をもって「宮中庸猥の群小」を放逐したことは、陽成天皇に強い衝撃を与えたといいます。

 

元慶8年(884年)、陽成天皇は基経に書状を送り、病気を理由に退位する意思を伝えます。

 

在位8年。よく「基経によって退位に追い込まれた」と言われますが、一応、自分の意志で退位したことになっています。


陽成天皇が譲位する…となると、その後継者が問題。

 

ここで、基経が当時54歳だった光孝天皇を選んだのは、よく知られている通り。

光孝天皇(時康親王)は、天長7年(830年)生まれ。陽成天皇にとっては、39歳年上の大叔父(祖父・文徳天皇の異母弟)という等親の離れ具合でした。

 

基経の母・乙春は、藤原氏末茂流の総継(ふさつぐ)の娘でしたが、その姉妹にあたる沢子が、仁明天皇に嫁いで生まれていた皇子の1人が時康親王。

 

つまり基経にとっては従兄弟で、嫡男・時平の伯父にもあたる人物だけど、何もそんな高齢者を持ってこなくても…という人選。

 

 

ところが、基経は最初、「承和の変」で廃太子された恒貞親王を考えていたようなのです。

恒貞親王は淳和天皇の皇子で、天長2年(825年)生まれなので御年59歳。親王は丁重にお断りしたようなのですが、基経は2回も老齢の者に声をかけていたわけです。
 

陽成天皇には、この時はまだ子はいませんでしたが、1歳年下の同母弟・貞保親王がいました。

 

基経と仲が悪い同母妹・高子の所生を避けたいなら、基経の娘・佳珠子が産んだ清和天皇の皇子・貞辰親王(さだとき)もいます。

 

貞観16年(874年)生まれの御年10歳の少年なので、清和天皇と陽成天皇が即位したのと、大して変わりはない年齢。

即位させれば、幼帝を担ぎ上げて自分が外戚になることができます。普通だったら、この子を天皇に選びそうなもの…なのに、選びませんでした。

 

外戚チャンスを棒に振ってでも、時康親王を選んだのは何故だったのか?

 

それは、もしかしたら「陽成上皇」を警戒したのではなかろうか。

 

貞保親王も貞辰親王も、陽成天皇より年下。

即位したら、陽成上皇が家長のようにして上皇権を振るうことができます。

 

しかし、老練で好々爺とした天皇が立ったら、孫のような年齢(陽成天皇は当時で16歳)の若者がそれに対して上皇権を振りかざすのは結構ツラい。これが基経の狙いだったんでしょうね。

 

そこで問題になってくるのは、光孝天皇は未熟な幼帝ではなく老成者なので「上皇権の代行者」は必要ないと、少なくとも周囲からは見られてしまうこと。

そうなると、基経によって即位できた光孝天皇は、大功臣・基経の立場を明確にしておかなければなりません

 

おそらく基経にとっての最大の関心事も、そこにありました。

 

そこで、光孝天皇は基経の恩義に最大限報いるべく、渾身の詔を下します。

 

自今日官庁坐就万政領行 入輔朕躬出総百官 応奏之事 応下之事 必先諮禀与 朕将垂拱而仰成

(『日本三代実録』元慶8年6月5日条)

 

全官庁を統轄し、天皇をたすけ、百官を統率し、すべての上奏・宣下案件を基経に諮るように。

 

「奏すべき事、下すべき事、必ず先ず諮禀せよ」とは、「機務奏宣権」を基経に与えるということ。

 

機務奏宣権は、現在では内閣総理大臣が持つような強大な権限。この後世には、いわゆる「関白」の職掌になるので、この詔は事実上の「関白宣言」とされています(関白って言葉は出てこないけど)。

 

つまり、基経(と光孝天皇)の理解では、以下のようになっていたわけです。

 

摂政=上皇権の代行者

関白=機務奏宣権の委任者

 

この文言から分かるのは、天皇が幼少か成人かで職掌に違いがあって、これを主上と王佐が理解していなければ天下は危うく、光孝天皇と基経はその事実を互いに了解していた…ということ。

 

基経は、光孝朝では一度も政務をボイコットしていないことでも知られます。

それどころか、朝廷行事を復活させたい天皇のために「年中行事障子」を献進するなど、積極的に国政参加している様子すら見受けられました。

 

光孝天皇が名君だったと誉れ高いのは、何も今上天皇に連なる祖だから…ってだけではないんですね。あの基経を使いこなした一点でも偉大ですw

 

さて、先の「関白宣言」についてを、慣例に従って詔による下命と基経の辞退が繰り返される中で、基経が(マナー上)お断りする返答に、こんな文言が出てきます。

 

如何 責阿衡 以忍労力疾 役冢宰以侵暑冒寒乎

(『日本三代実録』元慶8年7月8日条)

 

暑さに侵され寒さに冒されようとも職務の役目を果たそうとも、私に阿衡の責任を全うできるかどうか分かりません。

 

「阿衡」という言葉がここで使われていて、後年これが大トラブルの元になってしまいます(と同時に、基経はこの言葉を知っていたというわけですな)

 

 

仁和3年(887年)、在位3年にあって、光孝天皇が崩御。57歳。

 

臣籍降下していた光孝天皇の皇子である源定省(みなもと の さだみ)が皇族に復帰し、即位しました(=宇多天皇)

 

宇多天皇は御時21歳。「臣籍降下した者を皇族復帰」「立太子の翌日に践祚」という異例尽くしの即位は、基経が尽力してくれた結果。その恩は海より深く山より高いといって過言ではありません。

 

しかし、基経にとって宇多天皇は従兄弟の子…。かなり疎遠な天皇です。

ゆえに、宇多天皇が基経の立場をどう理解し、どう立てるのか?が重大事になっていました。

 

付け加えるなら、「関白」は太政大臣であることによって定まっているのではなく、光孝天皇の勅命によって与えられたものでした。

 

光孝天皇が崩じた今、宇多天皇が再度認めなければ、継続できるものではなかったわけです。

 

この肝心要のことに、宇多天皇は気づけるか?

 

即位から4日目の11月21日。さっそく、宇多天皇から基経へ詔が下されます。

 

其万機巨細 百官惣己 皆関白於太政大臣 然後奏下 一如旧事 主者施行」

 

大きなことから小さなことまで、百官は太政大臣に相談して、旧事(光孝天皇の時代)の如く政務を執るように。

 

「太政大臣にあずかもうし」という、この文言が「関白」の初見。

 

しかし、表題が「賜 摂政太政大臣関白万機 詔」と書かれて、基経は「摂政太政大臣関白…????」と、混乱したかもしれません。

 

内容にも「清和・陽成・光孝三代の摂政であった基経」と呼び掛けていて、これでは基経は困惑しても仕方がありません。

 

「確かに私は清和帝、陽成帝の御時は摂政であったが、光孝帝の摂政になったことはない…。それなのに旧事(光孝帝の摂政)の如くせよ?陛下は何を仰りたいんだ??」

 

ともあれ、1ヶ月後の閏11月26日、慣例通りに基経から辞退の上表文(作は紀長谷男)が提出され、これに対して11月27日に慣例通り詔が下されるのですが、ここに問題の文言が含まれていました。

 

宜以阿衡之任為卿之任

 

宜しく阿衡の任を以て卿の任と為せ。

 

「『摂政』に加えて今度は『阿衡』…。新天皇がこの程度の認識では、新しい関係を構築するのは至難であろう…」

 

すると、学者の藤原佐世(式家)が「古代中国の『阿衡』は実権を伴わない官でありました。天皇の真意は貴方の執政をやめることにあるのではありませんか」と進言。

 

ここに至って、基経はすべての政務をボイコット

基経の1年に及んだ第三次引き籠もり…「阿衡の紛議」が起きてしまったのでした。

 

 

「阿衡の紛議」の経過については、以前ちらっと触れましたが、宇多天皇は「阿衡の詔を撤回し、再度関白の詔を下す」という妥協を図ったことで、和解に至りました。

 

スミレとウメのタフガイ(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788586757.html

 

「綸言汗の如し」と言われた天皇の詔をやり直させた…という点で、「天皇家が藤原氏の傀儡になった象徴的事件」とされます。

 

そのきっかけは、「阿衡」という言葉の使い方。でも、言わんとしていることは伝わっているはずで、先述した通り、基経自身も「阿衡」の言葉を使って返答しているので、意味は分かっているはず(むしろ、だからこそ執筆者は「阿衡」の文言を詔に入れてきたとも言えます)

 

結局は「言葉の選び方」を人質に取って天皇を威嚇しているだけの、難癖以外の何者でもない出来事。本当に基経って、陰湿と言うか、器が小さいと言うか、性格悪いなぁ…と、ワタクシも思っていました。

 

でも、詔の内容を見てみると、宇多天皇側の出す勅詔は「摂政」と「関白」を混ぜこぜにして記載した挙句、その違いを理解した気配がありません

 

基経の立場になってみて…もしも上司から、このような辞令を与えられたとしたら、アナタはどう思いますか。

 

「右の者に後見人として、管理者の職務を与えるものとする。名誉職の責務を引き受けてくれるように」

 

「え、どういうこと?自分は後見人なの?管理者なの?名誉職の責務って何なの?」と、何が言いたいのかサッパリ分からない…となるはず。

 

これはこれで「摂政と関白の違いがハッキリした後世の入れ知恵」ですけど、基経の言い分も理解できるような…そんな気がします。

 

でも、「摂政」と「関白」の違いは、光孝天皇の御世では互いに理解されたもの。

 

それを、臣籍降下して皇位継承とは無関係になっていた定省(宇多天皇)に、いきなり理解して詔せよと言うのも結構な無理筋でもあった…と思います。

 

両者ともに、互いに無茶を言い合って起きた事件。

「阿衡の紛議」とは、そうしたものだったのかもしれません。

 

 

仁和4年6月2日(888年)、基経は関白に復し、宇多朝の政務を開始。

 

同年、基経の娘・藤原温子(よしこ。母は操子女王…嵯峨天皇の孫娘)が16歳にして宇多天皇の更衣になりました。

 

温子との間には女子(均子内親王)しかおらず、基経の没後は1人も子が産まれていないことから、宇多天皇の意思は「基経との外戚関係は望まない」だったかもしれない…というのは、以前にも触れた通り。

 

「阿衡の紛議」で、宇多天皇は完全に藤原氏への愛想を尽かせてしまったかのよう

 

これは巡り巡って、基経の子・時平を不名誉な場所へ追いやってしまうのですが、それはまた次回に…ということで。

 

 

 

以下、余談。

 

 

 

余談、その1。

 

 

光孝天皇へと皇統が移った、一連の出来事のキーワードは「基経と高子の兄妹仲」。

 

これさえ険悪でなかったら、陽成天皇が外されて光孝天皇に皇統が移ることもなく、「阿衡の紛議」へ至る「いばらの道」もなかったのに…となる案件。

 

なんで基経と高子の仲が良くなかったのか?

そこはよく分かっていません。

 

ただ、1つの理解として「清和天皇の人格」があったのではないか、とも言われているみたい。

 

幼帝として即位して、良房・基経父子に頼りきりの治世を送り、天変地異のノイローゼに悩まされ、仏道に熱中して、31歳の若さで亡くなってしまった清和天皇。

 

なんとなく「線の薄そうな…」という感じがあるんですが、ところがどっこい結構な子だくさんパパだったりします。

 

清和天皇は氏姓を問わずに、数多くの女性を後宮に入れていて、結構な色好みでいらっしゃった模様。

皇后1人、女御13人、更衣10人、宮人2人…あわせて26人の女性に、23人の子を産ませています。

 

基経は、頼子と佳珠子の2人の娘を清和天皇の後宮に入れているのですが、実は2人とも母の素性が伝わっていない、出自の低い女の子だったとされています。

このうち、佳珠子は貞辰親王を生んで、基経に外戚チャンスをもたらしました…というのは、本編でも触れた通り。

 

出自の低い女を送り込んで独自の外戚関係を築こうとしている。

皇后だった高子が、これに反発を覚えて、不仲になったかもしれない…という説があるそうです。

 

基経、コミュニケーションで妥協点を形成したり新案を構築したりするの苦手そう…っていうのは、清和天皇や宇多天皇とのやり取りでも感じられるところ。

何故そうしたのかを高子に説明しなくて不仲になった…は、あるかもしれないかな…という感じも(^^;

 

一方で、この反対に「高子の後宮政策に基経が反発して不仲になった」説もあります。

 

清和天皇には在原文子という更衣も入って、貞数親王を産んでいるのですが、この子は在原行平の娘でした。

 

在原行平は、業平の7歳年上の異母兄(母は不明)

『百人一首』16番歌の詠み人ですねー。

 

たち別れ いなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む


中納言行平/古今集 離別 365

 

在原文子が清和天皇の女御となるのを、基経は反対していた…という説があります。

 

もしかしたら、文子は皇子を産むかもしれず(実際に貞数親王を産んでます)、それをきっかけに在原氏が外戚になるかもしれず…とでも思ったんですかね。

 

在原氏と言えば、妹の高子と噂があった因縁の家。おかげで高子の入内が危機に陥った…そういう苦い思い出も脳裏を過ったのかもしれません。

 

その文子が産んだ清和天皇の皇子・貞数親王。

実は「高子四十賀の祝い」で陵王を舞う「栄誉」を受けています。

ここからも、文子の後宮入りは高子の手引きだった…と言われているみたい。

 

何かと在原氏と関わりたがる高子と、在原氏と関わりたくない基経。

不仲の原因が「在原氏」にあったとしたら、これはこれで面白いですが…どうなんですかねぇ。

 

ちなみに、『百人一首』の和歌は、因幡へ赴任した…その時に詠んだもの。時代は文徳天皇の御時なので、今回のお話とは関係ありません(^^;

 

とまぁ、本当の本当に基経の単独譚になっちゃうのもアレなので、兄弟…高子との関係も駄弁ってみましたw

 

 

ちなみのちなみに、『伊勢物語』114段「翁さび」には、この行平と、なんと光孝天皇が登場します。

 

仁和2年12月14日(886年)、光孝天皇は伏見で鷹狩を行いました(「芹川野行幸」)

 

この行幸に在原行平が供奉していて、天皇に和歌を献上している様子が描かれています。

 

鷹飼にて狩衣の袂に鶴の形かたをぬひて書き付けたりける

翁さび 人な咎めそ狩衣 今日ばかりとぞ鶴も鳴くなる

在原行平朝臣/後撰集 雑歌 1076

 

こんなに年寄りじみた私を、みなさん咎めて下さいますな。鷹狩で獲られる鶴も今日が最後と鳴くように、鶴模様のこの狩衣を着てご奉仕する私も今日が最後でございますから。

 

この時、行平69歳。この老齢を活かして「翁さび」と詠んだのですが、光孝天皇は「自分のことを年寄り扱いして詠んだ」と疑って機嫌が悪かった…と、物語は綴られています。

 

光孝天皇は翌年に亡くなるので、自分の「老い」に敏感になっていたかもしれないなーと思ってしまうお話。

なんですが、陽成天皇から皇位が移る時、その選択肢の1人には行平の孫・貞数親王の存在もあったことを考えると。

 

「あの年寄りがさっさと引退してくれていたら、『鶴の一声』は我が孫を選んだかもしれないのに」

 

と、行平は案外本気で詠んでいたかもしれない…?それを光孝天皇は察知した…?なんて思ったりなんだったり…ねぇ?

 

 

 

余談、その2。

 

 

今回はメインではなかったですが、即位から退位までを、ざっくり紹介した陽成天皇。

 

彼は『百人一首』13番歌の詠み人でもありますねー。

 

つくばねの 峰より落つる みなの川
恋ぞ積りて淵となりぬる


陽成院/後撰集 恋 776

 

「陽成院」なので、退位した後に詠んだ和歌。

 

「筑波山から湧き出た清水が、やがて幾つもの流れを合わせて深い淵になっていくように、貴女への恋心も積もりに積もりましたよ」のような意味。

 

詞書は「つりどののみこにつかはしける」とあり、「釣殿の皇女」に宛てて詠んだ恋の歌と言うことになります。

 

「釣殿の皇女」とは、実は光孝天皇の皇女・綏子内親王(やすこ)のこと。

光孝天皇から「釣殿」という邸を譲られていたので、こう称されていたそう。

 

余談その1で触れたように後宮が大きかった父や、業平はじめ流した浮き名の華やかな母と違って、陽成上皇は交際関係が落ち着いているようなかんじがあります。

 

これは、両親の乱倫さ(?)を反面教師にしたのかなぁ…とも考えてしまうんですが、この和歌を見るに、素直に女性を愛せなくなったほどでもなかったのかな…という気がします。

 

この恋歌はやがて成就して、綏子内親王は陽成上皇の妃となりました。

 

綏子内親王は母が班子女王なので、宇多天皇の同母妹。

「臣籍降下していた者が皇族復帰して即位する」という「異例」を遂げた宇多天皇は、寛平3年(891年)に基経が薨去した後、かつて退位させられた「正統」な陽成上皇が復活するのではと警戒していたとも言われます。

(ちなみに、陽成上皇は貞観10年(869)生まれ。宇多天皇は貞観9年(867年)生まれなので、実は宇多天皇の方が年上)

 

なので、2人が結ばれたのは宇多天皇による融和政策だった説もあったり。実際にはどうだったんだろう。

 

延喜7年(908)、綏子内親王は「陽成院四十賀の祝い」を主催しています。政略結婚だったとしても、仲は良好だったようですな。

 

延長3年(925年)の醍醐天皇の御世に、綏子内親王はこの世を去りました。陽成上皇が崩御される24年前のこと。

 

この時、上皇が和歌を詠んだかどうかは伝わっていません。