『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』の深掘り企画。

 

今回は藤原北家の祖・房前から数えて6代目(来孫)にあたる基経(もとつね)について、やっていきます。

 

 

日本史上初の皇族以外での摂政となり、人臣のトップリーダーとなった平安時代前期の巨人・藤原良房

 

最強最大にも見える彼の最大の弱点は「跡を継ぐ子に恵まれなかった」こと。

そこで、兄・長良の息子を養子に迎え入れて嫡男としました。

 

その養子に迎え入れられたのが、今回の主役…のはずの、藤原基経。

 

基経は長良の三男で、承和3年(836年)生まれ。

上に国経(くにつね)と遠経(とおつね)という2人の兄がおりました。

 

なぜ兄2人を差し置いて基経が養子に選ばれたのか?

 

「優秀だったから」とは、よく言われているみたい。

そこに付け加えて「出自」も要因だったんだろうな…と、ワタクシは思います。

 

国経と遠経は、基経にとっては異母兄

つまり母が違っていて、彼らは「難波淵子」という女性の所生でした。

 

難波淵子…って誰?というと、まったく分かりません。

 

2人も男子を生んでいるから、行き摺りの女だったわけではなさそう。

もしかしたら上賀茂神社系の誰かだったのかなぁ…と勝手にワタクシは思っているけど、さて…。

 

ともあれ、その一方の基経の母はというと、藤原乙春(おとはる)という藤原総継(ふさつぐ)の娘でした。

 

総継は魚名流(房前-魚名-末茂-総継)の出身で、従五位下の官人。

 

叔父・良房の妻が嵯峨上皇の娘だったのと比べると、かなり見劣りしてしまうんですが、しかしこれは錯覚というもの。

 

たとえば、前回にも登場した長良・良房の同母弟である良相(よしみ)の舅は大枝乙枝(おおえ の おつえだ)で、位階は従五位下。

なんだったら、長良・良房・良相たち自身の母方の祖父である藤原真作は、藤原南家の人で、従五位上でした。

 

こうやって見ると、基経の祖父は(当時の藤原北家の)舅としては妥当なラインだったことが分かります。

良房の伴侶がとんでもなくぶっ飛んでいただけなんですねー(皇女様だもんなぁ)

 

同じく総継の娘で、基経にとって伯母にあたる沢子は、正良親王の女御となっています。

 

正良親王は、嵯峨天皇の皇子で、淳和天皇の皇太子。天長10年(833年)に即位して、仁明天皇となる御方。

皇子も産んでいて、宗康親王(828年生まれ)・時康親王(830年生まれ)・人康親王(831年生まれ)ら3親王の母でした(3人とも基経より年上ですね)

 

基経の母方祖父は、独自の天皇・皇族との「繋がり」を持っていたことになります。

 

父の位階さえ伝わってない兄たちとは違い、基経の祖父は同じ藤原北家に連なり、従五位下の官人で、皇族とも縁を持つ人物。

 

この出自も重視されて、長良の長男・次男ではなく、三男の基経を、良房は養子に選んだのかもね…と、考えられるわけです。

 

(たぶん基経は長良にとっても「嫡男にしよう」と考えていた子だと思うのですが…これを譲ってもいいと思ったくらい長良と良房は関係が良好だったってことなんでしょうかねー。まるで戦国時代の立花宗茂みたいなお話ですな)

 

 

 

文徳朝が始まった翌年の仁寿元年(851年)頃、基経は元服。

 

この頃に、基経は良房の養子になったと考えられているみたい。

 

良房は47歳、正二位・右大臣。さらに、文徳天皇の皇太子・惟仁親王(後の清和天皇)の外祖父でした。

 

元服の時、なんと文徳天皇自らによる加冠を受ける厚遇を受けています。

 

ちなみに、文徳天皇は天長4年(827年)生まれなので、御年24歳。

意外と若い…?まぁ、加冠親の文化がこの頃のお公家さんにあったかどうか、ちと忘れましたが…。

 

こうして、若くして最強権力者の後継者になった基経ですが、ライバルがいなかったわけではなかったようです。

 

基経のライバル

 

それは、長良・良房の同母弟で、自身には叔父にあたる藤原良相だったのです…というと、意外に思います?

 

 

良相は、弘仁4年(813年)生まれなので、基経にとっては23歳年上の叔父。

 

「承和の変」では良房の意を受けて兵を率いて恒貞親王の邸宅を囲み、良房待望の惟仁親王(良房の孫。後の清和天皇)が生まれると「春宮大夫」を任されるなど、良房の腹心として活躍。

 

基経が良房の養子となった頃、良相は「従三位・権中納言・左近衛中将」にありました。

 

文徳朝を終えて清和天皇の頃になると「従二位・右大臣・左近衛大将」にまで出世。

太政大臣の良房を支えるツートップの一角。藤原氏ではナンバー2の地位です。

 

貞観6年(864年)、良房が流行り病にかかって半ば引退状態となると、政務を委任されます。

 

皇太后の順子(五条后。良相の同母姉。清和天皇の祖母)とも親密で、順子の腹心でもあった朝堂4位・伴善男とともに三頭体制を敷いて事実上の朝堂トップとなっていました。

 

ということは、ポスト良房の座は良相が獲っていた…と取れなくもありません。

 

 

そもそも、平安初期の頃の「権力」は、父から子へと継承されるものではなかったみたい。

 

基経の曾祖父・内麻呂の頃、天下は桓武帝を擁立した藤原式家のものでしたが、平城天皇が目をかけてくれた(たぶん、伊予親王の外戚を優遇したくなかった気持ちもあって)恩に十分に応える形で出世を遂げました。式家に譲ってもらったわけでも、父の真楯から譲り受けたわけでもありません。

 

基経の祖父・冬嗣も、父である内麻呂から権力を譲り受けたのではなく、「薬子の変」という危険で苦難な局面を自力で乗り越え、嵯峨天皇の信任を実力で掴み取ったからこそ、権力者にクラスアップしています。

 

基経の義父・良房だって同じ。偶発的に舞い込んだ幸運「承和の変」を逃すことなく利用してトップの地位を切り開きました。父の冬嗣から直接、権力を継承したわけではないのです(そんなことができたのなら、長男の長良が権力者になっていたかもしれません)


大体の話、朝堂の上下関係は律令の規定によるヒエラルキーで決められています。

 

権力者が自分の子供に権力を移譲したくても、権力が「位階」によって定められる制度に依っているのでは、どうしようもありません。

 

これを無視して我が子に権力の移譲をするなんて、到底無理というもの。

「時の権力者」は本人1代限りで、次に権力を手にするのは、その後を勝ち獲った者なのです。

 

親ができるのは、自身が出世して「蔭位」という形で、子供の昇進の参考材料をより良くすることと、邸宅や領地などの経済基盤を構築して譲り渡してあげるくらい。

 

自分がどのポジションにいて、さらに上に上がるには、どうしたらいいか…?

その世渡りの手腕は、権力者になりたい者自身の手腕に問われます。平安時代初期まで、日本は緩やかな能力主義なんです。

 

「時の権力者」が政界を去った後、誰が次の権力者の座につけるのか?を決めるのは、位階と天皇の意向と貴族社会の支持。

 

基経と同じくらいに、良相にもチャンスはあって、右大臣でさらに良房との仲も悪くなかった彼は、そこに一番近かったわけ。

 

良相の動き如何では、今後の「摂関家の道」は、良相の家にこそ開かれていくかもしれません

 

 

そこで注目なのが、藤原常行(ときつら)

 

藤原良相の子で、承和3年(836年)生まれ。

基経とは同い年の従兄弟にあたります。

 

常行は、基経と競い合うように昇進を重ねていた人物として知られます。

 

仁寿4年(854年)、18歳の時。

基経は「左兵衛少尉」。対する常行は「右衛門少尉」。

 

斉衡2年(855年)、19歳の時。

基経は「左兵衛佐」、常行は「右衛門佐」。

 

天安2年(858年)、22歳の時。

基経は「左近衛少将・蔵人頭」、常行は「右近衛権少将・蔵人」。

 

「左」と「右」、「少将」と「権少将」、「蔵人頭」と「蔵人」で、基経の方がなんとか一歩前。こんな風に武官の道を一緒に昇っていきます。

 

ところが、天安2年(859年)に良相が「正二位」に上がった頃から、ちょっとずつ様子が異なってきます。

 

24歳となった貞観2年(860年)、11月16日に基経は正五位下に昇叙。しかし、常行は半年前の4月25日に正五位下となっていて、日付では後れを取っています。

 

さらに、常行は11月16日に「従四位下」と進むのですが、基経が「従四位下」になったのは翌年の貞観3年…。

 

貞観4年(862年)4月7日、常行が「右近衛権中将」に昇進。

貞観5年(863年)2月10日、基経が「左近衛中将」に転任。

もはや、常行を基経が「追いかけている」感が否めない感じ。

 

良相は兄の養子に遠慮しながら我が子の昇進を進めていたけれど、正二位に昇った所で、その遠慮をやめたということでしょうか。

 

貞観6年(864年)、この年に清和天皇が元服。

1月16日、基経・常行が両者揃って「参議」となり、議政官の仲間入り。

 

貞観8年(866年)1月7日、これまた両者揃って「従四位上」に。

さらに3月23日、これまた両者揃って「正四位下」へと昇ります。

 

なんとか常行と肩を並べている基経ですが、実は違う場所で、基経の未来は大ピンチに陥っていました。

 

基経の清和天皇の後宮対策に問題が起きていたのです。


清和天皇が14歳で元服した貞観6年(864年)。

良相は、娘の多美子(たみこ)を、清和天皇のもとに入内させました。

 

多美子は生年が不詳なので、いくつだったのかは分かりません。

異母兄の常行(当時28歳)の妹だとすると20歳前後でしょうかね(清和帝は14歳ですし、姉と言うのはなさそう…)

 

以前にも触れた通り、良房は娘の明子1人しか子供がおらず、その明子は文徳天皇に入内して清和天皇の生母となった人なので、清和天皇の後宮対策の手駒がありません。

 

そこで、基経の同母妹にあたる高子(たかいこ)も養女として引き取り、天皇に入内させる「后がね」として育てていたようです。

 

高子は「承和の変」があった承和9年(842年)の生まれ。

基経と同じ頃(851年)に良房の養子になったとしたら、まだ9歳の少女だったことになります。

 

清和天皇の即位にともなう大嘗祭が執り行われた貞観元年(859年)。

高子は「五節舞姫」を務めました。

 

「五節舞姫」は「将来の后妃候補のお披露目」のような意味合いがあって、貴族たちはみな「良房殿はあの子を清和天皇に入内させるんだな」と理解したはず。

 

しかし、貞観8年(866年)現在、高子は入内すらできていませんでした。

 

参考までに、冬嗣の娘・順子は18歳で道康親王(文徳天皇)を、良房の娘・明子は21歳で惟仁親王(清和天皇)を産んでいるので、それまでに入内しています。

 

大体、18歳くらいで後宮に入ると仮定すると、高子だったら貞観2年(860年)くらいが時機。

 

その年には清和帝は10歳なので、早過ぎるからやらなかったのかな?と思わなくもないんですが、多美子が入内した年には14歳。貞観8年なら16歳。なのに入内していなかったのです。

 

一体何が…?というと、「醜聞があったから」とされています。

 

高子の素行が良くなくて、入内させたくても天皇や貴族たちの評判が気になってできなかった…ということ。

 

物語的には、これは「在原業平にキズモノにされた」というお話がよく知られています。

 

平安のプレイボーイ・業平は、「高嶺の花をさらう」タイプの色好み。

 

業平が仕えていた惟嵩親王は、清和天皇の異母兄で父・文徳天皇の寵愛深かったのに、清和天皇のために皇位に就けなかった人でした。

 

清和天皇を強引に立太子させたのは良房で、良房秘蔵の「后がね」だったのが高子。

 

つまり、業平が高子をキズモノにしたのは、惟嵩親王に代わって復讐を遂げたということ。

 

…というストーリー。面白過ぎなので、史実だったら盛り上がるんですけど、実際にはどうだったんかなぁ…というのは、以前触れたとおり。

 

をとこありけり(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html

 

※ただし、先のリンク先の通りワタクシは「キズモノにはしてないけど心は奪っていた」と思っている派。なので、完全否定はしませんのでねー。

 

ともあれ、ここで大事なのは「高子よりも、多美子の方が先に入内していた」こと。

 

ライバルの常行の妹(姉かもしれないけど)は2年前に後宮入りしているのに、基経の妹はスキャンダルを気にしてそれができない状態。

 

常行の上を行くためにも、良房の後継者として地位を固めるためにも、「天皇の外戚」の座を手に入れたいのに、高子に入内できない事情があるのでは八方塞がり…。

 

苦悩と焦燥が基経の胸中を駆け巡る…そんなさなか、「応天門」が炎上する、あの事件が起こります。

 

 

貞観8年閏3月10日(866年4月28日)。

大内裏の朝堂院の正門にあたる「応天門」が炎上・焼失。

 

応天門の炎上は、おそらくは「ただの火事」だったのですが、大納言にあった伴善男(とも の よしお)が「これはチャンス」とばかりに、「政治事件」に発展させました。

 

右大臣・藤原良相の所へやってきて、「左大臣・源信が放火したものである」と告げると、事態は一気に不穏な事態へと発展。

 

その後の展開を、前回にも引用した『吏部王記』逸文で確認して見ると。

 

※この話は基経の孫にあたる実頼(さねより。当時参議)が、父である忠平から聞いた昔話として語られたのを、第三者(重明親王)が記録したもの…とされています。

ということは、忠平から聞いた話=基経が息子(忠平)に語った本人の体験談の可能性が高そうですね…ということ。念のため、ここでも追記。

 

時後太政大臣爲近衛中将兼参議 良相大臣急召之 仰云 應天門失火 左大臣所爲也 急就第召之 中将對云 太政大臣知之與 良相大臣云 太政大臣偏信佛法 必不知行如此事 中将則知太政大臣不預知之由報云 事是非軽 不蒙太政大臣處分何輙承行 遂辭出到職曹司令諮太政大臣 大臣驚令人奏曰 左大臣是陛下之大功之臣也 今不知其罪忽被戮未審 因何事 若左大臣必可見誅 老臣先伏罪 帝初不知 聞大驚恠報詔 以不知之由 於是事遂定矣

 

後の太政大臣(基経)は、この時「近衛中将」「参議」の地位にありました。

 

それを、右大臣・良相が緊急で呼び寄せて命じます。

 

「応天門の失火は左大臣・源信の所為であることが分かった。中将として兵を率い、急ぎ召し出してくれ」

 

これに、基経が尋ねます。「太政大臣は御存知なのですか?」

 

「いや、太政大臣は仏法行事でお忙しいようなので、知らせには行かせてない」

「なんと…義父上はご存じないのですか…」

 

基経はその場を辞すと、職曹司(大内裏の建物。良房はここに詰めていたみたい)にいる良房のもとへ事の次第を知らせに向かいました

 

「こんな重大事、太政大臣を仰がずに処断するのは、どうかと思いましたので…」

 

基経からの報告を聞いた良房は、あの失火事件が左大臣を呼びつける事態にまで悪化していることにビックリ仰天。すぐに参内して清和天皇に拝謁します。

 

「左大臣は陛下にとって大功のある臣下でございます」

「いま嫌疑をかけられて罰せられようとしています」

「もし左大臣を罰するのであれば、この老臣を先に罰してからにして頂けないでしょうか」

 

すると清和天皇は「私も初めて聞いて大変驚いている。その処分は不当である」と詔して勅使を派遣したので、ついに源信は沙汰を受けずに済んだのでした。

 

…というのが、『吏部王記』逸文で語られている、「応天門の変」のあらまし。

 

源信の逮捕を命じたのに、天皇と太政大臣によって阻止されてしまった良相の面目は丸つぶれ。

 

さらに、同年の9月。告発者であった伴善男が、良房の裁定により放火の真犯人とされて流罪となると、良相・善男・順子の三頭体制は崩壊。

 

良相の時代は、ここに終わりを迎えました

 

良相は政治的影響力とともに気力そのものも失ってしまったみたい。

 

再三に渡って辞表を提出するようになり、右大臣は慰留されましたが、左近衛大将は意思を許されて同年12月、辞任することになりました。

 

翌年の貞観9年(867年)10月、直廬(議政官の控室)で倒れてしまい、55歳にして薨去。心労が相当に応えていたんですかね。

 


貞観8年(866年)12月8日。

良房の引き上げにより、基経は「従三位・中納言」に昇進。

 

この時、基経は上位者7人を飛び越える昇進を果たしています。

 

「七人越え」は、承和2年(835年)に良房自身が参議から権中納言に昇進した時以来のこと。

 

細かく突っ込めば、良房は32歳で権中納言だったのに対して、基経は31歳で中納言なので、良房は自分より高いレベルで猷子に「七人越え」を踏襲させたことになります。

 

ここに、良房の意思は「後継者は基経」であると、周囲にハッキリと示されました

 

先程、「平安時代初期は制度の構造上、権力者は権力を父子継承できなかった」と述べましたが、良房は自身が嵯峨上皇から受けた恩恵を基経に再び与えることで、常識を打ち破りました。

 

型破りな昇進…これが「父から子へ」権力を継承していく「摂関政治」に繋がっていく萌芽となっていくのでした。

 

 

ところで、よく「応天門の変」の結果は「良房の一人勝ち」と結論されます。

 

確かに「朝堂トップ4」のうち、2位の源信は引きこもりになり、3位の良相は力を失ってやがて死去、4位の伴善男は失脚して姿を消したので、変後に残ったのは良房だけ。彼が勝ち残ったように見えます。

 

でも、良房はこの政変以降、朝堂にはあまり姿を見せなかったみたい。

 

それもそのはず。元々体調が悪くて引退していた所を、基経の知らせによって急遽参内する事態になっただけ。

 

この時に出しゃばってしまったばかりに、その存在感がアピールされ、後に伴善男が告発された時、事件解決の困難さから清和帝をして「摂政になって、また難局を解決して…お願い…」と頼られて、強権発動を行うハメになったとも言えます。

 

事変が収まったら、元の隠居暮らしに戻るのは当然のことだったのかもしれません。

 

これを「一人勝ち」っていうのは、実態と符合しているんですかね?

 

 

気になるのは、先程の実頼が聞いたという昔話に出てくる、「応天門の変」の始まりの時のこと。

 

基経に「太政大臣は御存知なのですか?(太政大臣知之與)」と聞かれて、良相が答えた、この部分。

 

「太政大臣偏信佛法 必不知行如此事」

 

太政大臣(良房)はひとえに仏法を信じているので此の事を知らせには行かせてない。

 

「仏法を信じている」は「病気平癒祈願」のことだろうと思うので、「病気療養中の人に知らせて心配させるのは忍びない」のような意味なんでしょうけど、だったら「療養中の身だから」とか言えばいいのに、わざわざ「ひとえに佛法を信じているから」って言っちゃうのがね…。

 

「いや、知らなくてもいいっしょ…良房兄上はお経読んだり護摩焚いたりして忙しそうだし(笑)」みたいな、軽んじているような、そんな雰囲気がするんですよなー。

 

そして、清和天皇の所へ飛んで行った良房の、この台詞も気になります。

 

「左大臣是陛下之大功之臣也」

 

左大臣(源信)は陛下にとって大功のある臣下。

 

良房がわざわざ参内してまで源信をかばう、この大功って具体的には何だろう?というと、「惟嵩親王に譲位したかった文徳天皇を阻止して惟仁親王(清和帝)に皇位を継がせた」ことではないか…というあたりは、前回触れました。

 

良房は源信に感謝している。そこに良相は気づいていない

 

源信を蔑ろにしている三頭体制に、内心では不満を持っているに違いない。

 

基経にとって良房は義父ですから、半ば引退状態とはいえ彼の存在を重視する傾向は、もちろんあったでしょう。

 

でも、良房の源信に対する気持ち、良相や順子、伴善男らに対する気持ち、そこをちゃんと理解していた。

 

だからこそ、基経は良房に急ぎ報せることができたわけ。

 

この情報収集能力、この判断、この行動、それがあってこその「良房の担ぎ上げ」であり、その結果としての叔父の良相を追い落とせた「結果」。

 

そう考えると、「応天門の変」の真の勝者は、良房よりも基経だったのかもしれないですなー。

 

 

同年、藤原高子は入内できる運びとなり、基経の懸念はようやく解消。

 

貞観10年12月16日(869年)、貞明親王(後の陽成天皇)が誕生し、基経は天皇の外伯父になるチャンスを得ることができる、その種を撒くことができました。

 

最高権力者への道が大きく開けた基経。

しかし、彼はまだ中納言に過ぎず、そして妹の高子の存在が、基経の行く末を大きく左右してしまうのです。

 

その続きは、また次回以降に…ということで。

 

 

…今回、「応天門の変」の話だけになってますね。

ということは、前回から全く時間が進んでいないことに…?

 

いやぁ、このシリーズ…長くなりそうですねぇ(苦笑)

 

 

以下、余談。

 

 

 

余談、その1。

 

 

藤原良相は、かつて死して冥土に行った際、小野篁に救ってもらった…という物語が『今昔物語集』に掲載されています。

 

小野篁が学生だった頃、朝廷によって罰せられたことがあったのですが、当時参議として朝堂にいた良相が弁護してくれたので、篁はそれに恩義を感じていました。

 

やがて良相が右大臣となるのですが、病の末に亡くなってしまいます。

 

三途の川を渡り、閻魔大王の前に引きたてられた時。

その隣には、なんと小野篁が座っていたのです。

 

唖然とする良相を横目に、篁は杓を手にすると、閻魔大王に申し上げます。

 

「大王、私は昔、この方に助けて頂いたことがございます。この方は心清き者です。どうか私に免じ、罪を許して頂けないでしょうか」

 

すると閻魔大王は「いいだろう」と承諾。良相は蘇生し、現世に戻ることができました。

 

後日、朝堂で2人きりになったので、「冥土でお会いしませんでしたか」と尋ねたら、「ほかの人にはナイショですよ」と口止めされて、「あれマジだったんかよこいつタダモンじゃねぇな」と思った…というお話。

 

小野篁は『百人一首』11番歌の詠み人でもありますねー。

 

 

わたのはら 八十島かけて漕ぎいでぬと
人には告げよ あまの釣舟


参議篁/古今集 覊旅 407

 

 

小野篁は、延暦21年(802年)生まれなので、良相の兄・長良と同い年。

 

藤原良相が参議になったのは承和15年(848年) なので、「篁が学生時代に助けてくれた参議」になるのは年代的に難しそう(篁、46歳の時に学生だったの…?ってなりますもんね)

 

そして、良相が右大臣になったのは天安元年(857年) ですが、その時には篁は故人(853年没)なので、蘇生した後に雑談を交わしたくても無理。

 

というわけで、物語の時代考証は盛大に失敗しています(笑)

 

小野篁が閻魔大王の側近だったというのは、有名なお話のようで、これを由来にした伝説や創作物が、あちこちにあります(確か長野善光寺の界隈にもありましたな)

 

もう1つ、篁で有名なのは、小野篁が遣唐使のサブリーダーに選ばれた際、故障歴があった船に乗せられそうになってボイコットした…というお話。

 

承和2年(834)の「第19回・遣唐使派遣」の時のこと。

基経が生まれる1年前のことですな(兄の遠経が生まれた年で、良房が「七人越え」を果たして従三位・権中納言に上った頃)

 

乗船拒否の挙句、この出来事を風刺した漢詩を作ったことから、嵯峨上皇の勅勘を蒙って、隠岐国へ流罪。

この「島流し」の際に、宮廷の人々に送った和歌が、百人一首に採られている、あの和歌なんですねー。

 

隠岐への島流し=「遠流」は、「処刑はやらない」を慣例化していたこの時代、「死罪」に等しいくらいの重い罰。

 

生きて帰って来れないだろう…と皆が思っていたところを、2年で許されて帰京を果たしたので、都の人たちには「黄泉帰り」に見えただろうな…というのも、あながち誇張というわけでもなさそう。

 

「小野篁が冥土で閻魔大王の補佐官をやっていた」という伝説は、こんなところから生まれたんでしょうねー。

 

ちなみのちなみに、前回紹介した伴善男が一躍有名人になった「善愷訴訟事件」(846年)の判決後、篁は権左中弁に任ぜられ、弁官局の勤務となります。

 

判決には拘わっていなかったのですが、「やっちゃいけないことをやったんだから、これは処罰を受けるべきだ」と善男の弾劾に賛意を示したそう。

 

これを後に悔んだと言われているそうですが、筋の通し方といい、上司に媚びない姿勢と言い、「ああ、篁だなぁ…野狂といわれただけのことはある」という感じがしますなー。

 

 

余談、その2。

 

 

有名な童話のひとつに『一寸法師』がありますが、このお話、なんと良相が登場するんです

 

とはいえ、『一寸法師』ってどんな話だったっけ?となる人もいるかと思うので、かいつまんで紹介すると、こんなかんじ。

 

むかしむかし、ある老夫婦(といっても四十代)が子供が欲しいと住吉大神に祈ると、小さな子供を授かります。

 

その子は小さく、身の丈が1寸だったので、「一寸法師」と呼ばれました(僧侶じゃないのに「法師」なのは、「影法師」とか「つくつく法師」とか、そういう言い回しの仲間ですかね?)

 

しかし、何年経っても身の丈が伸びないので、老夫婦は「モノノケではないか?」と気味悪がりました。

 

「親にモノノケと思われるのも残念だ。追い出されるくらいなら自分から出て行こう」

 

一寸法師は針の刀を藁の鞘に納め、箸の櫂を取り、お椀の船に乗って住吉の浦を出立。鳥羽を経て都へと上ります。

都に上った一寸法師は、いろいろあって三条の宰相殿の知遇を得て、その邸に召し抱えられることになりました。

 

三条の宰相殿には美しい娘がいて、一寸法師は策略を巡らせて姫を孤立させ、一緒に旅立つ算段を果たします(これはひどい)

 

2人は船に乗って旅立つと、不気味な島に流れ着き、2人の鬼と出遭ってしまいます。

 

「あの女を頂いてしまおう。邪魔な小さいのはひと呑みにしてしまえばいい」

 

しかし、一寸法師がお腹の中で針をブスブス差すので、たまらず吐き出して逃亡(呑まれては目から飛び出して飛び回るので鬼たちは恐れをなした…とも)

 

鬼が落としていった「打ち出の小槌」を使ってみると、一寸法師の背が伸びて若き青年に早変わり。

さらに「打ち出の小槌」で出した金銀を携えて都へ帰ると、帝に少将に叙任されて「堀河の少将」と呼ばれ、娘と結ばれて暮らしましたとさ。

 

…というあらすじ。

 

この「三条の宰相殿」が、「西三条第」に住んでいた右大臣・藤原良相だというわけ。

ちなみに、童謡「一寸法師」にも「京は三条大臣殿に かかえられたる一寸法師 ほうし、ほうしとお気に入り」と歌詞にも出てきます→

 

となると、一寸法師に見初められた娘って誰…?というと、多美子だったのかな?となって。

するっていうと、最後に結ばれる一寸法師は清和天皇ご自身ですか?となるわけです。

 

清和天皇は日本史上初の「幼帝での即位」になってしまった人で、「小さい一寸法師」と重なります。

 

さらに、別バージョンでは、一寸法師が老夫婦に「武士になりたい」と願い出て都へ上っているんですが、そういえば清和天皇の後裔は、源頼朝や足利尊氏らの軍事貴族や武士を輩出した清和源氏

 

こんな所にも繋がるんですか…と、飛躍話としては面白いかなw

 

でも、そうなると一寸法師を呑み込んだのに逆襲に遭って吐き出した鬼って…誰なんですかね?

 

※一寸法師は、日本神話の「スクナヒコ」がモデルというのが本当のところっぽいです。この話はあくまで戯れ言ですからね!と言っておきますね。

 

 

余談、その3。

 

 

良相には、清和天皇に入内した多美子という娘がいた…というのは、このページでも取り上げましたが、実はその先代・文徳天皇にも嫁いだ娘がいました。

 

その娘の名は藤原多可幾子(ふじわら の たかきこ)

 

生年不詳。嘉祥3年(850年)、文徳天皇の女御となり(ちなみに、惟仁親王=清和天皇の生後)、天安2年(858年。清和天皇が即位した年)に死去。

 

多可幾子も多美子も皇子をもうけなかったので、良相は外戚になることはできませんでした。

 

 

ところで、「多可幾子」…この名前ってすごく特徴的じゃないですか。

 

この時代、四文字の名前を女の子に付けることもあったのか…と、ハッとすること請け合い。

それと同時に、「たかきこ」って、なんか…変な名前、というか…?と引っかかることも請け合い。

 

これに関することで、「平安時代の女性の名前の読み方を今に伝えているのではないか」という説(というか余話)があります。

 

つまり、この時代の女性の名前は「淡き恋」「青き空」「白き雲」の「き」のような単語で「子」と繋いで「**き子」と呼んでいたのではないかと。

 

「定子」だったら「さだきこ」、「超子」だったら「とおきこ」、「安子」だったら「やすきこ」みたいなかんじ。

 

なので、「多可幾子」は「たかきこ」と呼んでいた名前の正式表記が分からず(あるいは書き残したくなくて)、適当な漢字を当てたものが、そのまま残ったのではないか…というわけ。

 

これはこれで面白いお話なんですが、もうそうだとすると、もっと興味深いことが起きます。

 

「たかきこ」ってことは、元の漢字は「たかこ」と読めたわけで、もしかしたらそれは「高子」って表記だったかもしれず。

 

これって…基経の同母妹で、清和天皇の女御となり、陽成天皇の生母となった藤原高子と同じでは…。

 

でも、「多可幾子」は文徳天皇の女御だったことも、従四位下に叙されたことも、没年も記録されていて、明らかに藤原高子とは別人じゃない…?

 

ってことで、「なんだ結局は同名だけで同一人物ではないんじゃん」ってことで終わりなります。

 

それはそうなんですが、もう1つ「高子」には大事なことがありますよね

 

つまり、言いたいことを順番すっ飛ばして全部ぶっちゃけ言っちゃうと、こういうことになります。

 

在原業平と恋仲が噂された「高子さん」って、本当は「多可幾子さん」のことだったんじゃない?

その名の本当の漢字表記を録るのを憚られて「多可幾子」って当てられたんじゃない?

「たかきこ」を噂話で口伝するうちに「高子さん」と勘違いされていったんじゃない?

 

業平は天長2年(825年)年生まれ。もしも多可幾子が、良相(813年生まれ)が若い頃にもうけた娘だったら(830年過ぎ頃とか?)、高子(842年生まれ)よりも年齢的には釣り合いそう。

 

さらに、以前「業平は文徳朝(850年~858年)では昇進が止まっている」と紹介しました。

これを「藤原氏の娘と噂が立ったために、左遷されて東下りしていた」という物語の匂わせと重ねるには、高子だと無理(文徳天皇即位時はまだ8歳だし、成人後は昇進が再開した清和朝と重なるので)

しかし、文徳天皇の女御になる予定だった多可幾子なら、時期が重ねられます

 

業平のお目当てが多可幾子だったなら、高子だと無理だった年代的符合が色々と繋がって都合がいいなぁ…となるんです。

 

ただ、無事に文徳天皇に入内できているあたり、業平の恋心は多可幾子には迷惑なことで、父や伯父に「あいつ追い払って!」と怒りをぶつけた結果が「東下り」だったかもしれません。

 

業平の昇進が再開する清和朝では、多可幾子はすでに故人。だから許されて帰京できたのかも。

 

(「承和の変」の時にも触れましたが、業平の父・阿保親王はかつて「上野太守」「上総太守」と東国を知行していたので、「業平殿には申し訳ないがほとぼりが冷めるまで父君ゆかりの東国に居て下さい」だったとか)

 

そして、そんな業平のことを、多可幾子は一回りくらい年下の従姉妹の高子に、面白おかしく悪口としてしゃべったのかもしれない…って考えると、面白いなぁと。

 

高子にとって業平は「和歌が得意な色好み」なだけでなく「従姉妹から聞いた面白そうなおじさま」という付加価値もあって、余計に興味がそそられて、「五節舞姫」の時に見かけて、我慢しきれずにコンタクトを取ってしまった?

 

「たかきこ」のゴシップが広まる過程で「たかいこ」が混ざって、京雀たちの話題を呼び、この醜聞のために入内が遅れた…?

 

業平が惟嵩親王に仕えたのは、親王の父・文徳天皇に対する謝罪の気持ちもあった…?

 

などなど、どんどん妄想が捗るんですわね(笑)

 

というわけで、以前に残した宿題を、ここぞとばかりに語ってみました。

 

まぁ、これもまた当然、話半分に是非是非…ということで。

 

 

 

【関連記事】

 

『藤原の兄弟たちシリーズ』