新潟では昨晩から雪が降り始めて、積もるまではないものの、寒さが冬らしくなっております。

 

毎年「ホワイトクリスマスになるかどうか」が関心事だったりするんですが、今年はどうでしょうかねぇ…。ちょっとは白くなっちゃいそうかな。

 

 

さて、「勧修寺流藤原氏」、前回は紫式部までと、夫の宣孝・弟の惟規の子孫をご紹介しました。

 

系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html

 

今回は、宣孝の兄たちの系統(つまり、紫式部の義理の兄たちの子孫)を中心にやってみたいと思います。

 

 

…と始めておきながら、その前に。


『百人一首』と来年の大河『光る君へ』関連の繋がりの、やり残しをやっておかないとね…と(前回の続きみたいな)

 

 

紫式部の祖母系の曾祖父で、宣孝の直系の曾祖父である「三条右大臣」こと藤原定方には、朝忠(あさただ)という五男がいます。

 

彼は『百人一首』44番歌の詠み人。

 

あふことの 絶えてしなくば なかなかに
人をも身をも恨みざらまし


中納言朝忠/拾遺集 恋 678

 

詞書に「天暦の御時の歌合に」とあって、天徳4年(960年)に村上天皇が清涼殿で催した女房歌合わせ、いわゆる「天徳内裏歌合」という歌合戦の時に、勝負の歌として繰り出された和歌。

 

左方と右方に分かれて和歌の20番勝負。

朝忠は左方で7つの勝負に出て6勝1敗。

 

結果は11勝4敗5分で左方が勝ったというので、半分以上が朝忠の勝ち点による勝利。まさしく朝忠はこの歌合のMVPですなw

 

百人一首に採られたのは、19番のお題「恋」で、藤原元真(もとざね。藤原南家)に勝った時の和歌。

 

和歌は「もう二度と会うことはないと分かっていたなら、あの人のつれない態度も自分の切ない気持ちも、こんなにつらいものではないのに」…のような意味。

 

相手取った元真の和歌の方は、『後拾遺和歌集』に収められています。

 

君恋ふと かつは消えつつ ふる程を
かくても生ける身とや見るらむ


藤原元眞/後拾遺集 恋 807

 

「あなたへの恋しい思いを隠すため、息をひそめ存在を消したように過ごしている、そんな私を『生きた身』だとあなたは思うのですか」…のような意味。

 

紹介しておいて何ですけど、どっちがどう優れているのやら、ワタクシにはサッパリ分からねぇだ(投げた)

 

ちなみに、元真の母は紀名虎(き の なとら)の娘。ということは、惟嵩親王や、『百人一首』詠み人の在原業平(17番)・藤原敏行(18番)の妻らの従兄弟にあたりますねー→「をとこありけり」(関連)

 

 

余談になりますが、同じ「天徳内裏歌合」で繰り広げられ「伝説の名勝負」となったのが、20番手のお題「しのぶ恋」

 

この戦いで打ち合った和歌は、どちらも「百人一首」に採られています。

 

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は
ものや思ふと人の問ふまで


平兼盛/拾遺集 恋 622

 

★ ★ ★

 

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ思ひそめしか


壬生忠見/拾遺集 恋 621

 

「恋しい思いを誰にも知られまいと忍び隠していたのに、隠しきれずに顔色に出てしまったようで、どうしたんですか?と問いかけられるほどになってしまった」VS「私が恋をしているという噂が世間には広がってしまったようだ。誰にも知られないように密かに思い始めたばかりなのに」の戦い。

 

『百人一首』では、それぞれ40番(平兼盛)と41番(壬生忠見)と並んで採用されています(元ソースになっている『拾遺集』とは何故か順番が逆になっていますな)

 

判者(=藤原実頼)が勝敗つけがたく悩むと、村上天皇が「しのぶれど…」とつぶやいているのが耳に入り、兼盛の勝ちとした…と、「百人一首」の解説本では必ず紹介されているお馴染みのエピソード。この歌合の時だったんですねー。

 

 

負けた方の壬生忠見(みぶ の ただみ)は、それが悔しくて悶死した…なんて言われたりするようですが、実際にはまだまだ長生きしていたみたい。

 

幼少から和歌の才が知られていて、「参内せよ」とのお召しに「貧しくて乗り物がないので…」と断ったところ、「竹の馬に乗ってでも参内せよ」と仰せがあった…というほど(この話から「竹の馬に乗った童」という姿で描かれることが多い)

 

負けたこともあってか、身分が低いまま歴史から消えてしまったので、詳しい系譜は不明なままなのですが、父の壬生忠岑(みぶ の ただみね)も『百人一首』の30番に和歌を採られています。

 

有明の つれなく見えし別れより
暁ばかり うきものはなし


壬生忠岑/古今集 恋 625

 

忠岑は、定方の兄である定国の随身(=従者)を勤めていた人でした(これを紹介したいがために、ここまで話を引っ張りました…!)

 

ある夜、酔っ払った定国が突然、夜中にも拘わらず左大臣(藤原時平)の邸を訪問するという「珍事」を起こしたことがあって、その時に即興で和歌を詠んでご挨拶し、驚いて動揺していた時平を感心させた…なんてエピソードもあったりします。

 

ちなみに、定国は「菅原道真の祟りで亡くなった」…という噂の人物。

それは、以前に触れたことがあるので、そちらをどうぞー。

 

四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html

 

 

のっけから盛大に脱線かましてしまいましたが…。

 

朝忠の娘・穆子(あつこ)は、源雅信(まさざね)の妻となって、何人かの子をもうけています。

 

雅信は時の左大臣。宇多天皇の孫にあたる人物です(宇多源氏)

 

系図で見てみよう(宇多源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12734496370.html

 

彼女たちの子女たちの中でも重要なのが、倫子(ともこ)

 

『光る君へ』の最重要キーパーソン(むしろ本来の主人公?)藤原道長の正室となった女性です。

 

ゆえに、穆子も倫子も『光る君へ』に登場!配役も発表されております。

 

(ここから先は、前回に引き続き「盛大に来年大河のネタバレ」をやっています。気になる方はこちらまで読み飛ばす(ページ内リンクです)といいかもしれません)

 

 

 

上:源倫子@黒木華さん
下:藤原穆子@石野真子さん

2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

「源倫子」と「藤原穆子」、母子で姓が異なっていますが、穆子の「藤原」は「勧修寺流の藤原」ってことになりますねー。

 

倫子は康保元年(964年)の生まれで、道長の2歳年上

 

左大臣で朝堂トップだった父・雅信は、この長女を当初は「天皇の后に…」と考えていたみたい。

 

しかし、年齢の釣り合っていた花山天皇(968年生まれで4歳年下)は、寛和2年(986年)に「寛和の変」を起こして(起こされて)退位。

 

替わって即位した一条天皇は、天元3年(980年)生まれで、倫子とは年齢差16…(即位時は6歳)

春宮に立てられた居貞親王(一条帝の従兄弟。後の三条天皇)にしても、天延4年(976年)生まれなので一回りも年下です(立太子時で10歳)

 

「むむむむ…」という雅信の難しい顔が見えてきそうな歴史の悪戯で(笑)、本望は遠のいてしまいました。

 

そこに求婚相手として急浮上してきたのが、道長。

御年22歳の好青年ですが、政敵でもあった摂政前右大臣・兼家の五男坊でした。

 

「なんであの青二才に、うちの娘をやらにゃいかんのだ」

「上に道隆・道兼の兄がいるのだから出世の望みも薄いではないか」

 

難しい顔がさらに渋くなっていく雅信を、あっけらかんと諭したのが妻の穆子でした。

 

「もう天皇家に入内させるのは無理!道長は若いのだから将来性は未知数でしょう?いい顔した青年じゃない…彼に嫁がせましょう!ハイ、決まり!」

 

「生真面目な夫に決めさせたら、決まるもんも決まらなくなる」とでも言いたげな強引さ(笑)

 

ともあれ、穆子の「鶴の一声」で道長と倫子の結婚は、あっさりと決まってしまい。

 

朝廷で長らくバチバチの緊張状態だった雅信と兼家は、その関係を「婿と嫁の父同士」という親密状態に一気に改善されて、あんぐり唖然としてしまった…といわれています(その顔を大河で見られるなんて本当に嬉しい限りw)

 

こうして倫子は道長の正妻となり、生まれた娘の彰子は(雅信が倫子を嫁がせようと一瞬悩んだ)一条天皇の中宮となって、後一条天皇・後朱雀天皇の生母となりました(紫式部が仕えたのが、ここのサロン)

 

他にも、次女の妍子(きよこ)は三条天皇に入内(生まれた娘・禎子内親王は後三条天皇の母)。四女の威子(たけこ)は後一条天皇に入内。

いずれも立后して一家立三后(いっかりつさんごう)」を達成し、その祝賀の席で詠まれたのが、あの「望月の歌」

 

此の世をば 我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば


藤原道長/小右記 寛仁2年10月16日条

 

その後、六女の嬉子(よしこ)も後朱雀天皇に入内して、結果として4人の娘を天皇に入内させています。まぁ、このあたりは、またおいおい語る機会もあるかと…。

 

 

雅信は、孫の頼通が産まれた翌年、正暦4年(993年)に没したので、孫娘たちの栄達を目にすることは叶いませんでしたが、穆子は曾孫の後一条天皇の即位にも立ち会い、長和元年(1016年)まで長寿を保ちました。

 

道長は義母の穆子に一生頭が上がらなかったと言われています(それを大河で見られるなんてry)

 

ともあれ、穆子は紫式部とほぼ同族の人。そして倫子は紫式部にとっては「祖母(定方娘)の兄弟(朝忠)の孫」なわけで…近いような遠いような。『光る君へ』では、どのような関係性で描かれるんでしょうかねー。

 

 

 

と、「百人一首」と「大河」関連の前回の続きはここまで。

 

ここから、本題の紫式部の夫・宣孝の兄たちの系統について。

 

 

藤原定方の孫にあたる為輔には3人の男子がいて、宣孝は三男坊にあたります。

 

長兄・惟孝(これたか)は、従五位上・駿河守。

 

この系統は、息子の惟憲(これのり)が「正三位・太宰大弐」、孫の泰憲(やすのり)が「正二位・権中納言」となりましたが、以降は受領にもなれない下級貴族に落ちぶれてしまったみたい。

 

惟孝の6世子孫にあたるのが、敦頼(あつより)。

後に出家して道因法師(どういん)」。『百人一首』82番歌の詠み人です。

 

思ひわび さても命はあるものを
きにたへぬは涙なりけり


道因法師/千載集 恋 818

 

俗世の頃は「ケチ」の極みだったようで、給料を出し渋ったことを部下たちに咎められ、儀式の最中に追い回されて着ぐるみ剥がされてしまうという…。

 

右馬助(うまのすけ)という軍馬を管理する職だったので、「裸馬助(はだかうまのすけ)」と渾名を付けられた…なんてエピソードが語られています。

 

出家したのは承安2年(1172年)というので、高倉天皇に平清盛の娘・徳子(後の建礼門院)が入内した年。「道因」と号し、前後10年ほど歌合せに参加したり主催したりしています。

 

つまり、82歳で出家して「道因法師」となり、70歳から90歳くらいの間を熱心に歌道に励んだということ。スーパー大器晩成型ですな(大器になれたかどうかはアレですが^^;)

 

老いてから入ったとみられる歌道には、みっちりとハマってしまったようで、和歌の評論をする判者のすぐ側に陣取って、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた…といわれています。

 

勅撰和歌集『千載集』に18首も選ばれ、撰者の藤原俊成の夢枕に現れて感謝の涙を流し…その心意気に感動した俊成が、さらに2首増やして20首を採用した…なんて伝説も語られています。『百人一首』に採られた和歌は、そのうちの1首ということになりますね。

 

和歌は「うまくいかないことに思い悩んで、それでも命はあるものなのに、つらさに耐えきれないで落ちてくる涙であったなあ」みたいな意味。

 

長寿を誇った老人が、老境にあってツラかった人生を振り返った歌なのかな…と思いきや、種別が「恋」

 

え、これ失恋や片想いの歌なの…?とキョトンとすること請け合いですw

 

 

次兄・説孝(ときたか)は、正四位下・播磨守。

 

妻が光孝源氏・信明の娘の明子(あきらけいこ)で、通称「源典侍(げんのないしのすけ)」。

 

紫式部の義姉にあたる彼女は、『源氏物語』に登場する「源典侍」のモデルではないか…と言われているそうな(繰り返しになりますが、ワタクシは『源氏物語』読んだことないので検証は控えますよー)

 

来年の大河にも登場するんでしょうか…。道長の側室の明子と名前が同じだから、ややこしくなりそうではありますが…。

 

さて、没落していった長兄の系統に対し、次兄の説孝の系統は、次第に武門化して軍事貴族となっていったみたい。

 

説孝の孫・憲輔は、桓武平氏の棟梁・直方(なおかた)の娘を娶って、朝憲(とものり)をもうけています。

 

直方は、熊谷直実や北条時政が「我が祖先」と称している人物。

 

系図で見てみよう(桓武平氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233864292.html

 

「平忠常の乱」(1030年)の時、追討使に任ぜられ、頑強に抵抗する忠常に対して長期戦を持ちかけるのですが、「手ぬるい」と朝廷に判断されて、河内源氏の源頼信と交替させられてしまいます。

 

新任としてやって来た頼信は、あっさり忠常を軍門に下します。手柄は頼信のものだけれど、それは直方が忠常を弱らせていたからこそ挙げられた戦功では…?とも言えそう。

 

後に、頼信の嫡男・頼義と、直方の娘が婚姻を結び、八幡太郎義家(頼朝や新田氏、足利氏らの先祖)、新羅三郎義光(武田氏や佐竹氏らの先祖)らが誕生。直方の血筋は河内源氏にも流れ込んでいきました。

 

系図で見てみよう(清和源氏/河内源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233863885.html

 

ともあれ、朝憲は頼義の相婿ということにもなりますなー。

 

そんな朝憲の曾孫に、宮仕えをした"とある女性"がいます。

後白河天皇の娘・亮子内親王(殷富門院)に仕えた、通称殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)」

 

百人一首90番歌詠み人の女流歌人です。

 

見せばやな 雄島のあまの袖だにも
濡れにぞ濡れし色は変らず


殷富門院大輔/千載集 恋 886

 

以前に殷富門院を紹介したついでに、彼女についても軽く触れました。

「もしかしたら以仁王と結ばれていたのでは」とも言われております。

 

系図で見てみよう(後白河天皇御後)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12746774741.html

 

先の和歌について「ブラッディ」と紹介しましたが、曾祖父由来の桓武平氏の血がそう詠ませたんでしょうかね(さすがに飛躍が過ぎるかw)

 

なお、彼女の特技は「即興の早詠み」。あっという間に和歌を詠めることから「千首大輔(せんしゅたいふ)」と呼ばれていたなんて言われています。

 

晩年は主人の殷富門院とともに出家し、「和歌サロンの姐御」として親しまれたそうな(藤原定家もお世話になっていたようです)

 

 

顕憲の異母兄(母は小野宮流・経通の娘)・盛実(もりざね)は、摂津源氏・頼綱の娘・盛子を娶っています(なお、頼綱は『平清盛』や『鎌倉殿の13人』にも登場した源三位頼政の祖父にあたる人物)

 

その間に生まれた娘は、藤原摂関家の忠実(ただざね)の妾となり、あの男が生まれています。

 

藤原頼長(よりなが)

 

『平清盛』にも登場した、「悪左府」と呼ばれし中ボスの1人ですw

 


藤原頼長@山本耕史さん
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

清盛率いる平家が大きく飛躍していくきっかけの1つとなった「保元の乱」(1156年)

 

頼長は、その敗者側に回って不慮の死を遂げてしまうのですが、頼長の母方の実家である勧修寺流の人々が多く流罪に処されている…というのは、以前にも紹介しました。

 

系図で見てみよう(「保元の乱」始末図)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11270602959.html

 

従兄弟の盛憲、憲親、経憲、従姉妹の婿の成隆、頼長を看取ることになった叔父で般若寺の僧・千覚…。

 

摂関家の家司を勤める職業柄、連座してしまったんでしょうけど、是非とも「従兄弟の頼長を見捨てられず協力した」ということにしておきたい(笑)

 

ともあれ、罪人となってしまったことで、説孝の系統は「平家全盛期」に雌伏の時を送ることになったのですが、実は1人だけ例外がいました。

 

それが、能円(のうえん)。保延6年(1140年生まれ)なので、「保元の乱」の時は16歳。上記の系図でも単独で流罪を免れていることが分かります。

 

彼は他の兄弟たちとは母が異なり、なんと清盛の正室・時子(二位尼)の異父弟で、養子として迎えられていたのでした。ゆえに「保元の乱」では勝者の側にいたわけです。

 

僧侶の身ながら、藤原範兼の娘・範子(のりこ)と結婚し、娘の在子(ありこ)が誕生。

(範兼は藤原南家の人。ちなみに、範兼は母が高階氏で紫式部の玄孫にあたります)

 

範子は尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母となり、在子は後鳥羽天皇の後宮に入り、第一皇子の為仁親王が誕生。

為仁親王は、鎌倉時代に即位して土御門天皇となったので、能円は「天皇の外祖父」に数えられる人物となります。

 

 

しかし、能円はその栄光を手にすることはありませんでした

というのも、「平家の都落ち」に従って西国で捕えられ、流罪となってしまったから。

 

配流先から帰京した時、妻の範子は村上源氏の通親(みちちか。別名「土御門通親」。『鎌倉殿の13人』にも登場していました)と再婚していて、復縁はかなわなかったのです。

 

(通親は範子と結婚することで「後鳥羽天皇の乳母夫」の地位をゲットしています…おそらく、そのための婚姻だったのでしょうが、2人の間には3人の子が産まれているので、夫婦仲は良かったようです)

 

平家のミウチであることで「保元の乱」を生き抜いたものの、「平家滅亡」とともに人生が暗転してしまったわけですな。

 

孫の土御門天皇が即位した翌年の正治元年(1199年)、寂しく死去。

 

 

一方、流罪になってしまった成憲の系統では、息子の清房(きよふさ。能円の甥)が、従姉妹の在子が後鳥羽天皇の後宮に収まったのを好機に、後鳥羽天皇に近侍。「保元の乱」で没落した家運の回復に全力を尽くしておりました。

 

従姉妹の子「土御門天皇」が即位して、醍醐天皇以来、300年ぶりに勧修寺流から天皇が出たのは、感動もヒトシオ。

(まぁ、本当は範子の夫・通親の養女として入内したので、村上源氏系の天皇…となるんですが、でも血統というリアルを重視すればそうなりますからねー)

 

ところが承元4年(1210年)、父の後鳥羽院に迫られ土御門天皇は在位12年にして退位。土御門帝の異母弟にあたる順徳天皇が即位することになりました。

土御門天皇は温和な性格で、父帝から「鎌倉幕府と対峙するには心許ない」と思われてしまったのでした。

 

承久3年(1221年)、後鳥羽院と順徳院が鎌倉幕府を討伐しようとして失敗(「承久の乱」

隠岐へ流罪となった後鳥羽院に、清房は付き従って、家運回復という念願は露と消えてしまいます。

 

しかし、土御門上皇が「退位させられ、治天の君でも何でもない、ただの上皇」となって「承久の乱」に拘わっていなかったことが、後に運を開いてくれることになります。

 

「承久の乱」の後、皇位に立ったのは、後堀河天皇(後鳥羽院の同母兄の子)

 

後堀河天皇の後は、藤原摂関家(九条家)の娘を母とする四条天皇が即位。

この頃には、鎌倉の将軍も九条家から迎えられ「摂家将軍」の時代になっていました。

 

朝廷と幕府、両方の外戚となっている九条家は、飛ぶ鳥を落とす権勢。

鎌倉幕府の首脳部は危機感を抱きます。

 

「京と鎌倉から九条家の影響力を排除する妙手はないものか…」

 

そんな折りの仁治3年(1242年)、四条天皇が不慮の事故で崩御。

わずか12歳で崩御したため皇子女はおらず、皇位継承問題が浮上しました。

 

幕府が注目したのは、在子の元で養育されていた土御門上皇の皇子・邦仁王(くにひと)

 

土御門上皇が「承久の乱」に関与しておらず、それにも拘らず「父が流罪なのに自分が何もないのは忍びない」と自ら配流を望んだことが幕府の心証を良くしていたのが、利いたみたい。

 

この時、「承久の乱」で没落していた在子は、清房・重房の親子に「邦仁王が皇位を継げるように手を尽くして欲しい」と頼み込んでいたのではなかろうか。

 

九条家と鎌倉のせめぎ合いの末、邦仁王が皇位継承者に選ばれ、「後嵯峨天皇」として即位することになりました。

 

と、ざっくりと紹介しましたが、後嵯峨天皇即位までの水面下については、以前にも余談で語ったことがあるので、宜しければそちらもドウゾ。

 

系図で見てみよう(四条家/藤原氏善勝寺流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12768347270.html

 

建長4年(1252年)、鎌倉幕府は5代将軍・九条頼嗣を京に送り返して、宮将軍を迎えることになりました。

 

鎌倉6代将軍に選ばれたのが、後嵯峨天皇の息子の1人・宗尊親王(むねたか)

 

宗尊親王の鎌倉下向に供奉して、清房は関東にやってきます。

そして丹波国の上杉庄を賜り、以降「上杉氏」を称することになりました。

 

この清房が、室町時代の関東管領、そして戦国大名~江戸大名として名を残す上杉氏の祖。上杉さんは勧修寺流藤原氏だったのですねー。

 

こうして見ると、上杉氏が関東に来たのは、偶然や成り行きというより、在子と縁続きで後嵯峨天皇の即位に加担する運命の結果だった…ということになりそうですね。

 

 

というわけで、勧修寺流の今後も、吉田家や葉室家、そして上杉氏の物語に乗って、どんどんお話は広がっていくのですが、今回はここまで。

 

紫式部から始まったとは思えない終わり方になっているような…(^^;

まぁ、それも歴史の奥深さってやつですよね…ということで。