今年は「後白河天皇の系図」に関して検索して来られる方が結構多いのです。
当ブログの検索アクセスの3分の1ほどが、この関連になっています。
これはやはり、『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』、そして『平清盛』配信スタートが関係あるんでしょうか。
ご訪問ありがとうございます!
お暇な時にでも読んでやってくださいね♪
で、ご到着されるページが、こちらになっているわけなんですが…。
系図で見てみよう(天皇家/後白河帝以降)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11311062916.html
一応、系図は紹介しています。でも、内容的には「平治の乱」の後、時代がどううねっていくか?について語っているだけで、系図の中身についてはあんまり解説してないような。
これで、検索で来られた方の満足度を得られているかなぁ。
コレジャナイ感しかない方もおられるのではなかろうか。
と、ずっと気になっていまして。
今日は後白河天皇(上皇・法皇)の子や孫たちが、どんな人なのか?について、系譜的な解説をしていこうと思います。
その都合上、ちょこっと系図を作り直してみました。
『鎌倉殿の13人』もありますし、もうちょっと先の、南北朝時代の前哨戦・両統迭立の直前まで俯瞰できるようにしたかったのでねw
後白河天皇こと雅仁親王は、鳥羽天皇の第四皇子。
第一皇子・崇徳天皇の同母弟となります(系図では省いちゃいました。ごめんちゃい)
母は藤原璋子(たまこ。待賢門院)。いずれも、大河ドラマ『平清盛』でお馴染みですねw
待賢門院/藤原璋子@檀れいサン
大河ドラマ『平清盛』より
後白河帝の生い立ちの話は、以前に紹介したのでそちらに譲るとして。
MY「後白河天皇」人物考(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11238217897.html
待賢門院璋子は閑院流藤原氏の娘。
閑院流藤原氏は、白河天皇の母を輩出した運で新興勢力となり、「汝は結婚せよ」とばかりに天皇家と婚姻を結んで権勢を保ってきた、まるで平安後期のハプスブルグ家。
彼らは、雅仁親王にも娘を出しています。
雅仁親王は人物的に問題視されている上に、兄弟関係上でも皇位を継ぐ可能性が皆無。
天皇になれるなんて誰も思っていないダークホースの閨閥になっていただなんて、この布石は「さすが」の一言(笑)
璋子の姪にあたる藤原成子(しげこ)は、雅仁親王との間に2男4女をもうけています。
中でも重要なのは、やはり以仁王(もちひと)。
少年時代は延暦寺で僧侶修行をしていたのですが、子供がいない八条院(美福門院の娘で、広大な荘園を相続した当時のフィクサー)に才覚を見初められて猶子となり、皇族に出戻り。
しかし、時は平家全盛期…。「親王宣下」さえ認められない不遇ぶりに加えて、後白河院が院政を強制停止させられると連座して財産を没収され、怒り爆発。
「以仁王の挙兵」で反平家の狼煙をあげたことが、平家を滅ぼす源流になっていったのは、御存知の通り。
以仁王には何人か子供がいて、長男の北陸宮(ほくろくのみや)は「源平合戦」の時に木曽義仲に推戴されていたことは、『鎌倉殿の13人』にも描かれましたし、以前にも触れました。
アサヒをつくった軍師(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11327771966.html
その弟・道尊は、父の敗死後、謀叛人とはいえ旧皇族の子ということで助命され、仁和寺で出家しました。
後に伯母の殷富門院の養子となって、蓮華光院の開祖になりました。
この蓮華光院は、現在の安井金比羅宮。前身は崇徳院の御影堂で、以仁王の息子が開基で、源頼政も祀っているという、敗者に彩られた、ちょっとヤバげなやしろです(笑)
以仁王の兄に当たる守覚法親王は、出家して仁和寺に入っていました。
『平家物語』では、「平家都落ち」の時に平経正(清盛の甥。経盛の長男)が、賜っていた琵琶銘器『青山』を返上するため仁和寺に訪ねて行った時の門跡として描かれています。
高倉帝の第一皇子・言仁親王(安徳天皇)が誕生した時は、出産の祈祷も行っています。
平家がゴリ押しした高倉天皇と、ほかの後白河院の皇子たちは疎遠なイメージが(根拠もなく)ありますけど、子供の誕生に政治や確執なんて関係ない。やはり子供は人類の宝です。
この兄弟の同母姉にあたるのが、亮子内親王(あきこ)。後白河帝御世の伊勢斎宮。
以仁王の敗死後、安徳天皇や後鳥羽天皇(どちらも甥っ子)の即位時に准母となり、「殷富門院(いんぷもんいん)」の院号宣下を受けました。
以仁王の子・道尊を養子としたのは、先に触れたとおり。
道尊は伯父(守覚法親王)のもとで出家して、伯母(殷富門院)のもとに養子に入ったわけですね。
彼女に仕えていたのが、殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。
百人一首90番歌詠み人の女流歌人ですねー。
(ちなみに、殷富門院大輔は勧修寺流藤原氏の人)
見せばやな 雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変らず
殷富門院大輔/千載集 恋 886
「見せてあげたいものです。雄島(松島)の蜑(あま…漁師)の袖でさえ色は変わっていないのに、つらい恋で流した涙で私の袖は色が変わってしまいました」みたいな意味。
「しょっちゅう濡れる漁師の袖より、私の袖は濡れて色が変わったよ=涙が枯れ果てて血の涙を流しています」というブラッディな和歌ですが、「血の涙」は『韓非子』が由来になっている言い回しみたいですね。
殷富門院大輔は、一説には先ほど紹介した道尊の母ではないか、とも言われているようです。もし本当なら、以仁王とは夫婦だったことになりますね。
(そこから、この和歌を深読みすると…いや、きっと全く関係ないのでやめておきましょう・笑)
もう1人、式子内親王(のりこ)は、二条天皇の御世の賀茂斎院(二条天皇は式子にとって6歳年上の異母兄)。
百人一首89番歌の詠み人ですねー。
玉の緒よ 絶えなば絶えね長らへば しのぶることの弱りもぞする
式子内親王/新古今集 恋 1034
「私の命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。命を長らえてしまえば、しのぶ恋を隠そうとする意思が弱ってしまうから」という、中々に激しい和歌。
十代の少女の頃に賀茂斎院となり、10年ほど勤めた後に体調を崩して退職。
その後の彼女は、流謫…とまではいかないものの、安住の地を得られない時間を長く過ごします。
始めは母の実家「高倉三条第」に住み、母が亡くなったので払って「法住寺殿」に移住して父・後白河院と同居。
その後、兄・以仁王を猶子としていた八条院を頼って移り住むと、「式子内親王が八条院と三条宮姫宮(以仁王の娘)を呪詛した」という噂が立ってしまいます(何故呪詛したことになったのかは、よく分かりません。財産相続に関連して追い落とされた…とも)。
これでは気まずくて八条院のもとにはいられない…。そこで父帝が所有していた「白河押小路殿」に居を移すのですが、後白河院が崩御すると、この館は「殷富門院(式子の姉)に譲る」という遺言があったために退去します。
ただし、同じく遺言によって「大炊御門殿」を受け継ぐことができました。
なのですが…ここには先に九条兼実が住んでいました。突然やって来た皇女さまに住居の所有権を主張されて、兼実もビックリ仰天(笑)
でも、最大の後ろ盾である父帝を亡くした式子内親王は、政界の実力者・兼実にとって無視できるほど弱い立場の皇女。
そのままスルーされて居座られてしまい(事実上の横領ですな)、兼実が失脚してから、ようやく住むことができたという有様でした。
(その間は、後白河院の同母姉・上西門院に仕えていた、吉田経房の邸で暮らしたようです)
「大炊御門殿」で羽を伸ばす頃になると、和歌に関心を寄せる後鳥羽院が治天の君となっていました。
後鳥羽帝は、和歌が得意な伯母の式子内親王を尊敬して、色々と便宜を図ったみたい。
しかし、式子内親王は、どことなく「薄幸の王女様」という雰囲気のまま、53歳で亡くなってしまったのでした。
それにしても、彼女の住まいの推移が、よくもこんなにも細かく分かるもの。
実はこれ、百人一首の撰者・藤原定家が日記『明月記』に細かく書き残したから…みたいです。
定家は後世、「生きてよも 明日まで人も つらからじ この夕暮を とはばとへかし」という和歌を式子内親王から賜ったと、西園寺実氏(定家の正妻の甥。系図の西園寺通季の曾孫)にポロっとこぼしています。
「恋しい人につれない仕打ちをされて、明日まで生きられる心地がしません。もし訪ねてくれるのなら、どうか夕暮れまでに来てくださいね」という恋の歌。つまりラブレター(?)
加えて、定家は式子内親王の動向をこんなにも細かく日記に記しているのに、彼女が亡くなった日、そのことを日記に記しませんでした。
彼女のことが日記に表れるのは、一周忌の記事。1年も書けないほど、彼女が亡くなったことを直視できなかったのか…?
そんなことから、定家は式子内親王に恋していたのではないか(あるいは人目を忍ぶ恋仲だったのではないか)と言われています。
はたして定家は、13歳年上の皇女さまと恋仲だったのか?真相は分かりませんが、もしかしたら「玉の緒よ~」の相手は定家…?なんて深読みが出来て面白いですねー。
で、順序が逆になりますが、成子が嫁ぐ前に、雅仁親王には懿子(よしこ)が嫁いでいます。
懿子は、大炊御門家(花山院流藤原氏)と、公子(璋子とは親子ほども年の離れた妹)との間に生まれた娘。ちなみに、後白河帝より11歳上の姉さん女房。
雅仁親王と懿子の間に生まれた守仁親王が、後の二条天皇。
この聡明な守仁親王を天皇に即位させる。そのためだけに父の雅仁親王は中継ぎの天皇となり、そのゴタゴタが「保元の乱」を招いたんでしたよねー。
懿子の弟は、藤原経宗(つねむね。またの名を大炊御門経宗)。後白河院と二条天皇が反目していた時「二条親政派」として活躍し、「打倒信西」を成し遂げ、二条天皇を六波羅邸(清盛宅)に連れ出して「平治の乱」を生き残った公家です。
以前にも取り上げましたし、大河ドラマ『平清盛』でも登場していましたねw
二人の側近(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11290078272.html
後白河院と仲が疎遠だった二条天皇は、父の院政を拒むかのように息子の順仁親王(六条天皇)に譲位して、二条院政を敷きます。
六条天皇は歴代最年少の即位(生後7ヶ月)となりますが、父帝の早過ぎる崩御によって後ろ盾を失ってしまうと、平家が推す憲仁親王(高倉天皇)に譲位させられて、歴代最年少の上皇(3歳4ヶ月)となりました。
六条天皇の外祖父である伊岐致遠って誰?という話は、以前に触れました。
ことはなのさやけさ(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12699338839.html
安元2年(1176年)、11歳で崩御。閑院流藤原氏の野望は一旦、潰えることになってしまうのでした。
二条院-六条帝のラインを押し退けて皇位に登ったのが、高倉天皇。
ブイブイ言わせていた平家の秘蔵っ子。応保元年(1161年)生まれ。
母は平滋子(建春門院)。これまた『平清盛』ではお馴染みですねw
左:建春門院/平慈子@成海璃子サン
大河ドラマ『平清盛』より
高倉天皇は、清盛の娘・徳子(建礼門院)をめとって、治承2年(1178年)、言仁親王(後の安徳天皇)をもうけました。
治承4年(1180年)、高倉天皇は譲位して、安徳天皇が2歳で即位しました。
この時、高倉天皇18歳。
「幼帝を即位させて後見として裏で実権を握る」が常態化していたとはいえ、高倉天皇は平家の血を引く、初の平家方天皇。
あまりにも早過ぎる交代なんじゃないの…?と思ってしまうのですが、高倉天皇は後白河院と建春門院の間の子…つまり、後白河院-平家の協調路線を象徴する天皇。
しかし、高倉天皇が即位してから(1168年)、後白河院を平家に引っ張り込んでいた母の建春門院が早死にしてしまうと(1176年)、後白河院の反平家が抑えきれなくなり(1177年「鹿ヶ谷の陰謀」)、それでも調整役として破綻を回避させていた平重盛が没し(1179年)、ついに清盛と後白河院が決裂。「治承三年の政変」(1179年)が勃発して後白河院が幽閉。
後白河院政が停止されたため、新たな院政を行うために高倉天皇が上皇になった…というわけです。
とはいえ、「平家の傀儡だった」といわれる高倉院政ですから、別に上皇になる必要は、そんなになかったのではなかろうか。
それでも譲位した(させられた?)のは、後白河院との協調路線が終わった、このことが高倉帝の立場を苦しくさせのかな…と思わされます。
こうして即位した安徳天皇ですが、その年の5月に「以仁王の挙兵」が発生。
翌年(1182年)には、父帝の高倉天皇と大黒柱の清盛が相次いで亡くなり、そして「平家の都落ち」で西国へ(1183年)。
平安京に帰ることは叶わず、「壇ノ浦の戦い」(1185年)で海の底の都にお隠れになってしまうのでした。
高倉天皇には、建礼門院徳子の他にも、何人か妻がおりました。
中でも重要なのは、藤原殖子(たねこ)。後に号して七条院。
父は藤原信隆(坊門家の祖)。後妻が清盛の娘だったので、坊門家は親平家の家でした。
その縁で、殖子は徳子に仕えて宮中に入ります。
やがて高倉天皇に召されて、守貞親王と尊成親王をもうけました。
守貞親王の乳母は、治部卿局という清盛の四男・知盛の正室でした。
守貞親王は知盛の家で養育されていた関係上で、「平家都落ち」の時、安徳天皇と共に西国に連れていかれました。
一方、弟の尊成親王は平家の手を逃れ、都に残りました(尊成親王の乳母は藤原範子・兼子の姉妹で、九条家の家司をしていた藤原南家の人)
これが運命の分かれ道。
安徳天皇が連れ去られてしまった都は、さぞ騒然としただろうと思われる…のですが、それが後白河院にとって都合が良かったか不都合だったかは、意見が分かれるところ。
でも、安徳天皇が連れ去られた後、次の天皇を決めるのに抵抗感はなかったのではなかろうか。
というのも、思い出して頂きたい…安徳天皇は、後白河院が幽閉された「治承三年の政変」の直後に即位しています。
つまり、安徳天皇の即位には、「治天の君」だった後白河院の意思は反映されていないのです。
確かに、立太子はまだ「治承三年の政変」の前なので、「次はこの子」という予定は後白河院も共有していましたし、清盛の死後、一時的に「安徳天皇-後白河院制」が敷かれた時期もあります。
でも、「安徳天皇は平家が勝手に即位させた天皇」とも言えるのです。
「朕は認めておらん。現世に天皇は不在。よって改めて新帝を即位させる」
こうして後白河院は、安徳天皇が存命であるにも拘わらず、都に残っていた尊成親王を次の天皇に指名。
この子こそが、後鳥羽天皇。御時4歳。
「三種の神器」は、安徳帝とともに平家が持ち出してしまったので、「神器なしでの即位」となりました。
「源平合戦」は後白河院側の勝利で終了。安徳天皇は帰らぬ人となりましたが、守貞親王は無事に生き残って帰京を果たします。
しかし、同母弟が天皇になっている以上、守貞親王に皇位が巡ってくるチャンスはありません。
悲嘆したのか、守貞親王は出家してしまうのでした(行助法親王)
ところで、後鳥羽帝といえば、鎌倉三代将軍・実朝に好意的だったことは有名。
当時「千幡」と名乗っていた12歳の彼に将軍宣下をし、「実朝」の名を授けたのも後鳥羽帝でした。
そして、母の実家である坊門家の娘・信子(後鳥羽帝の従兄妹)を実朝の正室にさせています。
東国へ下ったとき、坊門信子は11歳(実朝は12歳)。実朝はこの幼妻を大層大切に愛し、鶴岡八幡宮への参詣や歌会、舟遊びなどによく連れていったといいます。
さて、後鳥羽天皇から仲恭天皇までの4代に渡る皇位のバトン渡しについては、別の機会に譲るとして…。
「承久の乱」で討幕を企てた事件で、後鳥羽院の一家(順徳院・土御門院・仲恭天皇)が処分されると、後継者がいなくなってしまいました。
そこで鎌倉幕府は、討幕に関与しなかった守貞親王に目を付けます。
守貞親王はすでに出家していたので、彼の皇子の中で唯一、まだ出家していなかった第三皇子の茂仁王(ゆたひと)が皇位に選ばれ、承久3年(1222年)に御年10歳にして即位する運びになりました(=後堀河天皇)
この時、守貞親王43歳。太上天皇号を贈られ、名目上の法皇となりました(後高倉院)
即位したことがなく出家もしている守貞親王が、いきなり上皇(法皇)になるのは前例がないですが、異常事態なので仕方がありません。
なお、後堀河天皇は平家とも鎌倉将軍家とも血縁関係にある、スーパーサラブレットな少年でもありました。
鎌倉将軍と繋がっていることが、そして平家の子孫(何より、頼朝の助命嘆願をした池禅尼の子孫)だったことが、次期天皇として鎌倉幕府が推せた、最大級のきっかけだったのかもしれませんね…?
そして、前時代の歴史が描かれた『平家物語』が完成したのは、後堀河天皇の時代だったと言われます。
当初『治承物語』と呼ばれていたのが(「治承」は源平合戦時の元号)、敗者の「平家」をタイトルに戴いたのは、新帝が平家の血を引いていた影響が大きいのではないかと言われているようです。
あと、藤原定家が撰者を務めた勅撰和歌集『新勅撰和歌集』は、後堀河天皇の勅によって編纂されています。
(ただし、完成したのは後堀河院没後の四条天皇の御時)
さて、後白河法皇が晩年寵愛した女人に、高階栄子こと「丹後局」がおりました。
『鎌倉殿の13人』にも登場されていますねー。
丹後局/高階栄子@鈴木京香サン
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より
丹後局との間に生まれた覲子内親王(きんしないしんのう。後に院号を得て「宣陽門院(せんようもんいん)」)は、後白河院から広大な王家領「長講堂領」を相続しました。
母は後白河院の寵愛を借りて、娘は経済力をバックに。
政界に影響力をもってブイブイ言わせた、中々のアクの強さを見せる(笑)母娘については、以前にもちらっと触れました。
系図で見てみよう(高階氏)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12691477064.html
宣陽門院は、近衛長子(ながこ。関白・近衛家実の娘。忠通の四世孫。鷹司院)を養女にして、後堀河天皇のもとへ入内させました。
これはもちろん「天皇の外戚」の地位を手に入れるためでしたが、所持する「長講堂領」を、長子が生む皇子に相続させようという魂胆もあったみたい。
しかし、後堀河天皇は九条竴子(よしこ。九条道家の娘)との間に生まれた秀仁親王(四条天皇)に譲位すると、2年後に23歳の若さで崩御。
四条天皇も、「女官に悪戯しようと自分で敷き詰めた滑石に足を滑らせ頭を強打」という事故で、12歳で崩御。
後堀河院の皇統が2代で絶えてしまったことで、宣陽門院の目論見は立ち消えになってしまいました。
その後、後嵯峨天皇が即位すると(彼の即位に関しても、長くなるので別の日に譲りますね←こればっかりですな)、「第一皇子の宗尊親王(後の鎌倉幕府6代将軍)に長講堂領を相続させたい」と、鷹司院(近衛長子)の養子にしようと画策したのですが、そうはさせじと宣陽門院は先手を打って鷹司院を出家させます。
紆余曲折あって、最終的には父・後白河院と自身の追善をしてくれることを条件に、後深草天皇(後嵯峨天皇の次代)に譲渡されることになりました。
以降「長講堂領」は、南北朝時代を通じて「持明院統=北朝」の経済基盤となっていったのでした。
というわけで、後白河天皇の系譜がメインテーマだったはずですが、なんだか大幅に脱線してしまったような…(笑)
とりとめがなくなってしまいましたが、でも後白河院の子供・孫たちについては、大体語れたような感じがするので、本日はこれまで。
また機会があったら、細かいところまで触れてみたいと思います。