年明けの1月10日(土)に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の6回目です。
当日の歩行ルートは↓
寄り道も併せた全行程は27~28㎞くらいだと思います。
その5では利根川を渡り、川俣宿を通過した後、旧道部分に入ってのんびりした心持で歩いていたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
その先で四つ辻を通り過ぎると街道左側に、、
長良神社と東光寺の参道入口が見えてきましたので、立ち寄ることにします。
2枚上の写真で鳥居の奥に見事な松が見えていますが、参道はあの松のところで、90度右に曲っているようです。
見事な松!はあまり高さがなく、身長170㎝にちょっと足りないくらいの私でも、少し避けたり屈んだりする必要がありました。
庚申塔などおの石標が多数集められてします。石標、石塔の向こう側は駐車場でしょうね。
参道の正面から長良神社の正面を見たところ。
あっ、左端に見切れっているのが東光寺ですが、この後激写しようとしていたのに、うっかり忘れてしまいました。年のせいにしたいけど、生来のうっかり者が原因だと思います(;'∀')。
街道筋なので、元のメインルートでしょうが、付近に太い国道が出来て町が寂れたと見えて、街道沿いには時折更地がありました。
上の写真の右寄りに写っているひときわ白っぽい電柱の後方に、白い柱のようなものが見えていますが、それがこちら↓。「阿弥陀三尊像板碑」と書かれています。
が、実物は見えず!先達の人の記録によると、近くの民家の庭先にあるそうですが、入っても差し支え無さそうな範囲には見つからず、止む無く先に進みます。どんだけ貴重な文化遺産でも、庭先に入って来られたら家の方も嫌ですよね(^^;)。その辺りのルールは厳守せねば。
その割とすぐ先の矢島公民科にの敷地にはかなり多数の石仏・石塔がズラッ!と並んでいました。
その先で小さな四つ辻を越えた先の左側に、子供時代を思い出すような商店があります。食品、飲料、酒のほかちょっとした身の回りのものが全部買える店だったと思いますが、今は自販機営業オンリーのようでした。
その斜向かいにまた、長良神社があるので立ち寄ってみることにします。
社殿手前の階段の右側は公園になっていますが、寒い日でもあり、子供などの姿はないです。
何か長良神社多いなあ、と思いながらお参りします。
その場でググってみると、祭神は藤原冬嗣の長男、藤原長良で、長良神社は館林を中心に多数あるようでした。かつて藤原長良がかつて上野国の国主としてこの地を治め、没後に春日大社の末社として、藤原長良を主祭神として祀ったのが長良神社ということのようですが、リンク先の長良さんのWikipediaを見ても、上野国の国主、という記載は無いので、そういう伝説なのかな、と推測しました。
街道に戻ります。用水のような水路の脇に街道っぽい、いい感じの松があります。そんなに古木ではないようにも思えますが、こんな松が一本あるとそれだけでH.R.I(Hisitorical Road Index:My造語)=街道指数が上がる気がします。
んん?ちょっと登り坂になってますね。ということは、さっき用水だと思った水路は自然の川でそれが作った谷間なんだろうと思います。
ずっと平たい平野を通って来たので、地形の凸凹は歓迎しますよ(*´∀`*)。
坂を上がったら↓の地点で右折して県道の方に向かいます。この辺りは旧道の痕跡が消えてしまっているようなので、適当でも大丈夫だと思います。
県道に出るとすぐに信号交差点があり、その左奥にあるコンビニでちょっと休憩したら、街道筋からちょっと外れてのどかな農道を通ります。
明治初期の古地図で見てもこの辺りも概ね道は通っていたようなので、「脇道の旧道」とも言えるかも。
その先で谷田川にぶつかってやむなく県道に出て橋を渡りますが、古地図を見る限り、脇道の旧道も何がしか川をそのまま渡って先に続いていたようにも見えました。
谷田川を渡ると館林市に入ります。
千人同心街道はここから先は概ね県道と同じルートだった筈ですが、こちらは古いものが残ってなさそうなので、寺その他のある細道に進むべく、↓の地点で左折して、その後道に沿って右折します。
おー、これはこれで古くからありそうな道筋に見えます。
シュロの木と噴水のある、瀟洒なお宅などを拝見しつつ先に進むと、、
街道右側に、、おおっ、道標なのか?正面以外はだいぶ風化が進んで確認できませんでしたが、正面右側は「安永三年申午十一月吉祥日」(たぶん)、左側がちょっと読みづらいですが、「導師現慶陣施主〇〇敬白」かな?「慶」は自信なく、〇〇は読めませんでした。
道標では無いのでこれを以て「こちらの細道が旧道!(≧∇≦)」という結論づけはできないけど、安政三年(1774)の石標が残っている以上、移築でなければかなりの古道っぽいですね。それに明治初期の古地図で見た道が明治以降の新道でこっちが古道という可能性もあるかも知れませんね。
そこから数分進むと、左側に龍積寺の参道があったのでそちらに行ってみます。
上の写真右側に写っていたのは元々民家とその物置か何かのようなうですが、今は損壊状態。
元は何で、どれくらい放置されているのか分かりませんが、まあ先に進みましょう。
八徳山 龍積寺の山門。この土地には永享(1429-1441)の頃、赤井勝元が青柳城という城を建てたとされている場所です。
山門左側のお地蔵さんは麻疹地蔵とされていますが、かつてこの近くにあった処刑場で「首切り地蔵」と呼ばれていたのが、こちらに移されてきたんだそうです。穏やかな呼び名になってよかったですね(^^)。
こちらが本堂。比較的新しそうですね。お参りしてコースに戻ります。
街道?に戻ったら↓の地点で右折して県道の方に戻ります。
県道の途中にこんな↓建物があって反射的に激写します。これは母屋では無さそうですが、金属板を使った擬ブロックの平屋看板建築と考えていいのかな?
などと考えながら県道方向に戻り館林市の忠臣に向かって進みますが、この続きはその7でご紹介します。
つづく!





















































































































































































































































