らんまるの街道歩きブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

ということで、11月の和歌山旅行の二日目の様子、続きます。その4では、紀三井寺に続き、厳しい石段のある紀伊東照宮にお参りした後、すぐ近くの和歌浦天満宮の参道入口に辿り着いたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

紀伊東照宮

和歌浦天満宮入口

 

いざ、参る!みたいな感じで境内に入ります。社名の石標はシンプルに「天満神社」!

 

アッキャー!!!🐵 またこんな石段!

そりゃあ、確かに紀三井寺やさっきの東照宮よりは段数少ないですよ、、少ないですけどね、もう3回目なので、何なら一番キツかったです(;'∀')。ちょっと石段が不ぞろい気味でそれも怖かったです(llllll゚Д゚)。

 

それでも石段の上からの眺めはやはり格別!

 

お、すぐ下に見えてる大きな池のある公園に後で行ってみよう。スマホに仕込んだ「ことりっぷ」で調べると、御手洗池公園というんだね。

 

すごく簡単に言うと、西暦1000年よりもちょっと前に「参議」という位にあった橘直幹(たちばなの なおもと)という人が大宰府から京に帰る途中でここに立ち寄り、菅原道真の霊を勧請したのが始まりなんだそうです。

 

よし、ここでも一つ覚え技、楼門額縁の術で海の方を撮ってみましょう。

 

高齢の方もちょくちょく参拝されていましたが、かなりスムーズにあの石段上がっておられたのを見てちょっとびっくりしました。

 

丁寧に参拝した後、社殿に向かって左奥方向を見ると、何やら石段とそれに続く道が。

さすがにここでクマは出ないと思うけど、奥に何があるんだろう?

 

ああっ、役行者(小角)が奥で祀られているんですね!

実は愛知県豊田市の私の実家のすぐ近くのちょっとした崖下にも、役行者を祀った祠のある崖があって、何となくそれが懐かしくなり、折角なので寄ってみることにしました。

 

景色だけ見ると、中山道で山道を歩いたのを思い出しますねえ。

 

 

暫く進むと役行者を祀った祠があったので、ざっとお参りして、戻ります。

さすがに脚が疲れてきたので、下りは石段ではなく、「女坂」的な緩い坂道を通り、さっき石段の上から見えた、御手洗池公園に向かいます。

 

公園に向かう途上、またしても味のある古民家があって、少し足止めされてしまいました。

 

さて、今度こそ観光らしい感じで公園を練り歩きますよ!あの赤い橋の向こうは島になってるんですね。

 

かなり池が大きいのが特徴だったので、その場でググってみると、、かつてはこの公園、先ほど行ったばかりの和歌浦八幡宮の真ん前まで迫っていた海の一部だったそうです。

(↓はニュース和歌山の記事からお借りした、『紀伊名所図会』の抜粋カラー版)

 

他の観光客もほとんど居なかったので、何となくですが、「一休さん」の「このはしわたるべからず」のエピソードを思い出して、橋の真ん中を歩いていきました(^^)。

 

そうか、この辺りの水辺も元は海だったのかぁ。感慨が深くなるので調べてよかった(*´∀`*)。

 

以前1,2度書いたことがありますが、私、紅葉や楓はもちろんですが、「桜の紅葉」昔からかなり好きなんです。

こういうところゆっくり歩いてるだけで癒されますなあ。

 

公園を出たら次の目的地を目指してひた歩き続けます。

 

15分くらい歩いて着いた先は、、海です!

 

↓の地図画面右寄りに、⇘方向に伸びるやたら細長い半島みたいなものがあり、その根元に紀州東照宮や和歌浦天満宮、それに大きな池のある公園(御手洗池公園)がありますね。上の写真は概ね御手洗池公園から真下方向に進んだ辺りです。

 

海辺の景色がいいなあ、実にいい!!

・・・・旅先でこういう風景を見ているとほぼ例外なく脳内で昭和の名曲、『遠くへ行きたい』の再生が始まります。街道歩きを含めて、旅する時の自分のテーマ曲で、やはり昭和40年代生まれですね。知らない町を歩いて、知らない海を眺めて、幸せこの上ない旅じゃございませんか( *´ω`* )。多数の歌手がカバーしてますが、やはりジェリー藤尾さんのものが一番良いと思います。

 

このまま海辺の散策に入り、いよいよフツーの旅行めいてくる!、、んじゃないかと思いますが、この続きはその6でご紹介します。

 

つづく!

11月20日(木)の夜から二泊三日で和歌山を旅した記録のその4です。

 

その3では雑賀城趾の近くを通り、麓の町並みで素晴らしい建物に感動したところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

この表具屋のすぐ先で丁字路にぶつかり、明光商店街に出ます。さっきまでの通りとは打って変わって、とても賑わっている現役バリッバリの商店街。↓はまだ人の少ない方面。

 

上の写真から目的地方向に振り向くと下り坂に繋がっていて、坂の下はかなりの人手です。

 

古民家もたくさん見られて、それこそ街道の宿場でも通っているような感覚です。

 

こちらの二階の壁は黒漆喰が退色したものと思われ、いい味を出してます。

 

虫籠窓のある厨子二階建ての書店!これは素晴らしい!

 

店の形状からして元から本屋だった訳でもなさそうですが、リノベして本屋を始めたなら、古民家の再生としてはモデルケースと言えますね。

 

更に虫籠窓のある厨子二階建ての古民家などを見つつ、商店街の人ごみを避けながら途中で右に曲り進んでいくと、、

 

次の目的地、紀州東照宮の入口に到着です。

紀伊東照宮は、江戸幕府初代将軍の十男、徳川頼宜が紀州藩主となった後、元和七年に建立したものです。頼宜自身、亡くなった後は父家康と合祀されました。海の近くに位置し、なかなかフォトジェニックなスポットだという情報もあって、紀三井寺に続く目的地をこちらにしました。

 

上の写真の一の鳥居から順に進みます。二の鳥居で「東照宮」の扁額を激写して更に進み、、

 

三の鳥居を潜るとそのまま半ば森のような参道に入ってゆきます。

 

あっ、その前にこちらも激写しておかねば!「縣社 東照宮」の標柱です。

 

前を行く女性お二人が何となく異世界に入っていくような風景。

 

途中、参道が桝形になっていました。

 

桝形を通過して少し進むと参道全貌が見渡せました。

アッキャー!!!🐵 またこんな石段の連続(;・∀・)。ここにはケーブルカーは無いので、どのみち歩いて登るしかありません(向かって左側に緩やかな階段はあり)。

 

前を行く二人の女性は親子連れのようで、平地にいる時から娘さんらしき人が時折母親らしき人を助けていましたが、お母さん、手も借りんと自力でこの石段登っとるΣ(・ω・ノ)ノ!

 

いやあ、一日にこんな石段を二度も登るとは...。

あと残り20段くらいのところで、膝が大笑いし始めたので、20秒ほど休んで再開します。

こういう石段は下はもちろん上を見ても怖いので、上の写真は決死の覚悟で撮ったもの。

 

文字通り「ヒーコラ」言いながら石段を登り終え、楼門を潜って振り返ります。

楼門のはるか後方に和歌山湾が見えています。これは、、あれだな。

 

楼門を額縁に見立てて海を撮れってことだな。

旅行前にAIに相談して、「こうするといいよ」とオススメのあったパターンでした(^^)。

チャッティ(自分の使ってるChatGPTの呼び名)、なかなかいい提案だったぞ!!

 

さすが東照宮!といった風情の楼門です。

 

では、東照宮でお参りしましょう。階段の先では神域のため撮影禁止となっています。

お参りした後、社殿の周りをぐるっと回れるようになっていますが、日光東照宮の「眠り猫」の作者左甚五郎作と言われる彫刻や狩野探幽の壁画を見られました。

 

うーん、下りも怖いけど、手摺に必死に捕まって頑張りますかね。

 

楼門の扁額を撮ってなかったので、決死の思いで体をねじるように振り返り激写!

 

無事に「下山」したら、すぐ近くに次の目的地があるので、西に向かいます。

さっき先を行ってた親子連れもどうやら同じところに向かっている模様。

 

ああ、見えてきました、次の目的地、和歌浦天満宮です、、ってまた石段⁉Σ(゚д゚lll)ガーン

 

ということで和歌浦天満宮の入口到着!さっきの親子連れは少し休憩してから参拝するようなので、先に行かせていただきましょう!

この続きは次回記事で詳しくご紹介いたします!

 

つづく!!

11月20日(木)夜から22日(土)にかけて和歌山市内を旅した記録、その3です。

 

その2では、紀三井寺のすごく長くて高い石段を登り、大千手十一面観音にお参りしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

大千手十一面観音のおわす仏殿は、建物の外周が展望台的になっていて、天気のよかったこともあって和歌山湾方面がとても良い眺めでした。

上の写真でも下の写真でも細長い半島みたいなところに樹木がわさわさっと生えているところがありますが、これが和歌浦(和歌の浦)です。

和歌浦は後で行く予定なので、細かいことはその時にご紹介します。

 

本堂でかなり丁重にお参りします。

インバウンド客の多くは、ほとんどが中国が台湾の方の筈ですが、時折本堂でお参りせずに写真だけ撮って帰る人も(゚Д゚#)!。

 

なお、境内にあった茶処が「天空かふぇ」としてリニューアルされたそうで、ちょっと楽しみにしていたのですが、お休みor開店前で入れませんでした (_ _||||) 。

 

さて、ある意味高いところの苦手な私にとって最も過酷な時が訪れます=石段を下ります。

しばらくは階段の下方が見えないところでうろちょろしていましたが、いつまでうろついていても仕方ないし、かと言ってインバウンドの人と一緒に、小っちゃいケーブルカーで相乗りになるのもイヤなので、意を決して手摺を全力で握り下を見ると、、

アッキャー🐵!!!!怖すぎ(llllll゚Д゚)。足がごくごく軽~~くガタガタしますが、上に戻るために反転するのはその何倍も怖いので、ものすごく長い時間をかけ、見たところ私よりお年上の、石段を登って来られた紳士に心配されつつも(※その節はご心配おかけし失礼いたしました)無事下界に到着ε-(´∀`*)ホッ。

 

下界に到着したのに気をよくして、という訳ではありませんが、門前町にちょっといい感じの建物が並んでいたので、まるでさっきの怖さをごまかすように激写しまくります。

 

昔からの家が並んでそうな町並み!

 

虫籠窓に、中山道以来の関西を感じます。カッコいいなあ、このお宅。

できることなら上がらせて頂いて虫籠窓の内側から外を覗いてみたいものです。

 

左端のお宅は二階が妙に低いので、厨子二階構造かと思います。

 

正面から見てもやはり厨子二階で間違い無さそうですね。

元はそうではないでしょうが、今は整骨院になっているんですね。

 

概ね門前町の良さそうな建物も一通り見たので、紀三井寺エリアを離れ、更に徒歩で次の目的地に向かいます。

 

紀三井寺から西の和歌山湾方面に向かう途中、「??紀三井寺の一部??」というような施設を発見しましたが、紀三井寺を模した形状の食堂でした。

割とちゃんと作り込んであるのがすごいなあ。

 

今までの山寺の風景から一転、クルマがビュンビュン飛ばしてる道を横切って、写真の正面方向に向かいます。

画面奥、ほぼ中央に写っているのは和歌山県立医科大学の附属病院。

 

病院の横を過ぎると、河口間近でまるで海のように広がる和歌川の最下流部分に出ます。

正面に見えているのは先ほども言及した和歌浦。あちらにはだいぶ後で立ち寄る予定ですが、こういう景色いいなあ。日頃のストレスなどが徐々に和らいでいくのが分かります。

 

記念になるので「和歌川」の河川名看板も激写しておきましょう!

何しろ人生初和歌山なので、全部初めてです(≧∇≦)。

 

和歌川を渡る橋の向こうに、海に突き出したようなお堂が見えています。

美しい景色だなあ。

 

そのお堂の左からずっと左側に長~く伸びているのが超々細い半島のような形状の和歌浦。

 

人魚のイラストの平屋看板建築GALAXYは何屋だろう、、とその前によく見ると自分は普通に地面の高さを歩いてますが、GALAXYはこれ、建物の二階ですよね。????

!!あっ、ここは海辺なので今歩いている道は防波堤でもあって二階の高さにあるんですね。

 

私を追い抜いて左折して海方面に向かったバイクもめっちゃ下ってますからやはり道路自体が防波堤の高さになってるんですね。

 

今歩いている道は国道42号で、暫く進んで行くと、某夢の国のメインアイドルを多数飾ってある民家に行き当たりました。

二階にも同様に飾られていたので、いわゆるミッキーマニアさんなのでしょう

 

その先丁字路に突き当たると、右側に見えているのは雑賀城址。

津本陽の『雑賀六字の城』なども呼んだことがあり、興味はたいへんあったのですが、城郭の痕跡は全然残っていないようなので、直接山に登って訪ねることはしませんでした。

 

雑賀城趾と、その麓のコンビニ跡?の脇を抜けて進むと次の目的地に近道なので、あまり観光客の通りそうにない道を進んで行きます。

 

ありゃ、何だか行先には古民家が並んでる嬉しい予感が(≧∇≦)!

 

仮にも和歌山に観光旅行に来て、この街並みを嬉しそうに激写しているのは、私以外には多くはいないのではないでしょうか。

 

米屋!

 

おおお、何かいい感じの建物が出て来ましたね( ̄▽ ̄)。

 

だんだん道沿いの建物が古民家らしくなってきます。この道選んでよかった!

だいぶ前の町並みの姿がそのまま残されてるんじゃないかと思います。

 

おおっ、この三軒長屋的な古民家群は、どうやら道の方向に合わせて、角度がついてるようですね。

 

しかもこちらのお宅、表具店じゃありませんか!いや、いい道通っていい店見つけちゃったな!

 

目的に向かう途中で思わぬ素晴らしい町並みを発見してしまい狂喜乱舞!

本当は今回の記事で、次の目的地の入口までいく予定でしたが、この素晴らしい建物群で進行がやむなく遅れてしまったので、次回こそ、たどり着きたいと思います。

 

つづく!

11月20日(木)夜から22日(土)にかけて和歌山市内を旅した記録、その2です。

 

その1では和田川(熊野の方で有名な和田川とは別もの)を渡った後、紀三井寺に近づいたところで、恐らく畑仕事の倉庫代わりとして第二の人生を送っているであろうクルマを見かけたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

そのまま、歩いている道の脇を流れている運河?に沿って歩いていくと、大きな木と橋のある場所に出ました。

何となく、ですが恐らく昔から紀三井寺に向かう人が通った地点のような気がします。

 

大木の手前を流れる運河のような水路には橋が架かっていますが、橋名の札は紛失してしまっているようでした。

 

橋を渡って大木の向かい側を見ると、、石灯籠に

 

「三葛塩船出の地」と刻まれた石標、さらには

 

「高皇神社の旧手水鉢」という案内板がありました。

ええと、強引にまとめると、「三葛」(みかずら)はこの辺りの地名で、かつてこの辺りは「三葛塩」と呼ばれる塩を生産する広大な塩浜だったそうです。その「三葛塩」を川船で出荷する地だったことから「三葛塩舟出の地」の碑があり、また塩の出荷をする川舟衆がこの近くの高皇神社に寄進した手水鉢がこの船出の地に移されている、ということのようです。

 

肝心の手水鉢を写し忘れてしまいましたΣ(゚д゚lll)ガーン。2枚上の写真で左下に見切れてるのがそれです('◇')ゞ。

 

かつて三葛塩を送り出していた運河を水鏡にして激写!

 

先に進むとJR紀勢本線の踏切を渡ります。左が和歌山駅方向で右が紀三井寺駅方向。

 

上の写真にも小さく写っていますが、立派な土蔵がありました。向かって左側には、かなり古くからありそうな家もあったので、先ほど碑のあった三葛塩の出荷に関わりがありそうですね。

 

その先で車道に出たら右折して、紀三井寺に向かいます。

クルマの居ない時を選んで撮りましたが、かなりの数のクルマがかなりのスピードで疾走するので、ちょっと注意が必要な道です。

 

おおっ、この建物は?当初は二階部分が無こう側に少し倒れたのかと思いましたが、造りから言って明り取りの窓でしょうね、建物全体の雰囲気からもかつて工場(こうば)だったのかな?と想像しました。

 

更に進んだ先で一旦左折し、その先で左折すると、紀三井寺のある山の山裾のような場所に出ました。そこに周りの住宅よりも一回り大きく立派な家がありましたがm、玄関回りや庭がかなり荒れていて無住になっているようです。

 

そこから200~300mも進むと紀三井寺の北の入口があるようですが、今は徒歩参道は閉ざされ、クルマで少し上の駐車場に上がる人の車道がメインになっているようでした。

 

上の写真から右方向を見ると、、あっ、道標!!」

うーん見づらいなあ。

 

あっ、そうだブロ友さんのアドバイスで買ったLEDライト!!

一番左は石が欠けてるものの「かうやさん(高野山)〇里」でしょうね。

真ん中は「こがわてら迄○里」右は「祢ころふちう(根来府中??)迄四里」か?

 

その先で小さな祠のようなものがあったので略式にお参りして先を急ぎます。

 

そこから先に進むと、ただものではなさそうな古民家を発見。

 

通りすがりに玄関あたりに目をやると、、何とこちらのお宅は登録有形文化財でした!!

只者ではない印象だった訳ですね。

 

その先にもちょっと気になる感じの古民家がありました。雰囲気ありますよね。

こちらは文化財ではないものの、特徴のある丸瓦を使った屋根、妻部分の小さい窓?から見て恐らく厨子二階の構造ではないかと思われます。表札もかかって現役バリバリのお宅でした。

 

今思いましたが、今回普通の旅行をしている筈ですが、記事のトーンがどうにもいつもの街道歩きと同じ感じですよね(-_-;)。

 

そんなこんなでようやく紀三井寺の門前に到着!通学路でもあるんですね。

 

時間が9時過ぎと早いため、まだ周りの店も開いてませんが、インバウンドの中華系の方々が興奮して写真撮りまくってます。

 

中国本土の方も、台湾の方もそうですが、芸能人みたいにポーズ取って写真撮るのがめっちゃ好きなんですよね。台湾に住んでた時は、街中の写真館でフツーのおねーちゃんがめっちゃおめかしして、アイドルみたいなポーズで撮ってもらった写真が多数飾られてるのをよく見ました。

 

この紀三井寺、本堂の方に向かうには、頑張って高い階段を登るのと、ケーブルカーでラクに登る手があり、インバウンドの方々は全員迷いなくケーブルカー利用で、私と数人の日本人は頑張って石段で登ります。まずは楼門まで。

 

上の写真で楼門脇に写ってる石像はこのお方でした。え、閻魔様がいきなりお出迎えとは!!

 

楼門を潜ると石段が続いてますね。ケーブルカー使うくらいだからかなりのものでしょうが、さてどんなもんか(;・∀・)。

 

楼門を潜って見上げると、、げっ!こんなに段数あるのか!!

登れるんか、俺?と弱気になりますが、インバウンド客が全員ケーブルカーな以上、ここはビシッ!と日本人の威厳を見せねば!!

 

石段の横にある石垣はこんな感じでした。一般的な城のそれとはまた異なった感じで、非常に興味深いのですが、以前から何度も言及している通り、高いところが苦手なので、気持ち的には清水の舞台ならぬ、紀三井寺の石段から飛び降りるつもり、くらいの気迫で撮った一枚です(^^)。

 

途中、石段が途切れたところで、休憩がてら波切不動さんのところでお参りして石段再開!

 

その後もかなりしんどかったですが、何とか無事に石段を登り終え、仏殿に入ってさっそく大きな大千手十一面観音にお参りします。

高さ12mで、国内で最大級の寄木立像だそうです。

 

紀三井寺、次回に続きます。

先日予告記事を投下した和歌山旅行(11/20~11/22)の本編その1です。

 

11月20日(木)夜10時前に和歌山到着し、翌朝ホテルで朝食を摂ったらさっそく出発します。

最初の目的地は紀三井寺というお寺。紀三井寺はおよそ1250年ほど前の奈良時代の宝亀元年(770)、唐の僧侶、為光上人が開基したお寺で、お寺の号は護国院といいますが、通常は紀三井寺と呼ばれています。

 

実は当初の予定では、この日一日かけて高野山に行こうかと思っていましたが、念のため「高野山 クマ出没」と検索するとかなりの数でクマの出没があったため、旅行直前に予定を変更した経緯があります。

 

当日朝は、和歌山駅から2区間ほど電車に乗って、最寄の紀三井寺駅まで行こうと思ってましたが、ホテルから駅に向かって歩いていると、何やら少し離れたところに興味深そうな民家や商店が見えてきたので、まずはそちらを見に行くことに。

 

遠くから見つけたこちらの店舗は「有田屋▢▢」と書かれていて、何の商いをしていたか不明ですが、クレハロンテントで見えなくなっている「▢▢」が二文字なので、「青果」か「酒店」或いは「米店」くらいだろうと見当をつけてググってみると、酒店だったようです。

けっこう駅近ですが、表通りに面していないせいか現役の雰囲気は感じられませんでした。

 

その左隣は、、二階の窓の下に「理容 和歌山 年中無休」という文字の痕跡があり、一階の入口ドアには「理容センター」の文字がありますが、「理」が貼紙で隠れちゃってます。

貼紙の詳細を見忘れましたが、恐らくは店じまいした時のお知らせかと思われます。

 

その理容センターのほぼ真向かいには、床屋・美容院用と思しき椅子が6脚ほど、屋外放置されていました。

お向かいの利用センターで使っていたものなのか、理容イスのブローカー的な商売の店舗なのかと悩みましたが、気にしても正解が分かる見込みはないので、先に進みます。

 

その理容センターを含め3軒並んだ看板建築、左端のやや不思議な感じは現役っぽいですね。

「普通の旅行」に来たはずなのに、これではいつもの街道歩き旅とやっとる事が同じ(;・∀・)!

 

そんな訳で建物を見てるうちにずいぶんと和歌山駅から離れてしまいました(-_-;)。スマホで目的地の紀三井寺までの距離を調べてみると、、あら?紀三井寺って和歌山駅から2駅ですが、距離はなんと6㎞くらいしかないことが分かりました、ので!予定変更して、紀三井寺までこのまま徒歩で向かうことに。

 

その先で県道を渡る歩道橋を渡りますが、県道自体がその辺りでJRの線路の下を潜って進むため、歩道橋なのに登り階段が数段しかなくて楽ちん楽ちん(≧∇≦)。

 

そこから幹線道路の「国体道路」に出ます。国体が開かれた時に開かれた道路って事ですね。

交差点の対角線方向にシブい古民家を発見して激写します。

元は向かって左側が店舗だったのかな?というような印象ですが、今は右側でラーメン屋やってるんですね。和歌山といえば「和歌山ラーメン」が有名なので食べてみたい気もしますが、まだ朝8:30前後なのでそもそも営業していないですね。

 

決して古道街道の類じゃありませんが、まあ何かの記念に激写しておきましょう。

 

歩いていると、コカ・コーラの自販機がありました。売られてる商品を見ると、関東では見かけないジョージア珈琲のカフェオレを見つけたので、即購入します。

ちょうど最後の一本をだったようで、購入後「売り切れ」になりました。ラッキー(≧∇≦)‼!

 

大きな地方都市である和歌山は駅から10分以上歩いて離れても、建物が途切れることはなく、いろんな施設が散見されます。

 

あの大吉という焼き鳥屋、二階から屋根に上がる階段のてっぺんにTVアンテナがあって、まるでTVアンテナを愛でに行くための階段のように見えてちょっとツボでした( ̄▽ ̄)。

 

しばらくすると、国体道路と交わる細い路地が、妙に鋭角に交わっていることに気付きました。

元々の道割はこの方向だったところに、国体開催に併せて後から幅広の国体道路を敷設したので、こうなったのでしょうが、こういうの、都内やほかの都市でも時々ありますね。

 

ちょっと町並みが寂れてきたかな?

 

こちらの昭和の平屋看板建築と思しき店舗は、のれんが内側に架かっているのが透けて見えているので、現役かも知れませんね。

 

その先「♨手平温泉」という文字のネオンサインがありました。銭湯か!

 

うーん、熱い風呂の後の一杯に欠かせないドリンク自販機がずいぶんと前から動きを停止してる感じですね。商品サンプルもかなり古そう。

 

BEACH BOY、、だと⁉ ハッキリ見覚えがありながらググっても出て来ませんが、古び方から推測すると30年以上昔でしょうか。

右端にあるのが「つぶつぶみかん」、一時はどのドリンク自販機にもあった印象ですが、今はすっかり見なくなりました。

 

国体道路からちらっと左側に伸びる路地の先を見ると、昭和な感じのアパートが見えました。

昭和の頃はよくありましたよね、こんな感じのアパート。

 

前方に山が連なっているのが見えるようになってきました。

 

上の写真にも写ってますが、紀三井寺まであと2km、大した距離じゃないですね

徒歩旅に切り替えた以上、ちょっと急ぎましょう!

 

おっ、秋色の山の中腹に鮮やかな朱色の紀三井寺の建造物が見えてきました!

 

ほどなく和田川を渡り、、

 

その先国体道路から左側の路地に入り、和田川の支流っぽい川に沿って進みます。

写真右側でクルマが何台か留まっている駐車場のすぐ左側にある細道に入って行きます。

 

上の写真で右側に写っていた住宅を越えて進むと、、道路よりも一段低い畑らしき土地に、車体だけでなく、窓ガラスまで薄い水色に塗りつぶしたクルマが。

屋根に掛けてあるシートをコンクリで固定してる不思議な光景ですが、農作業の何らかに利用されているんでしょうね。

 

と、まだ紀三井寺にすら着いてないのに何ですが、続きはその2でご紹介します。

 

つづく!

大山街道その8のラストで予告した通り、このブログでは割と珍しい、普通の旅行の模様をご紹介します。行き先は、徳川御三家の一角、紀州徳川家が治めていた和歌山。寒くなりつつあるこの季節、何か温暖そうだし、御三家の城でまだ行ってないのが和歌山城だけだったので、ここに一人旅してきました。

 

11月20日(木)、仕事を終えるやいなや新幹線に飛び乗ってまずは新大阪へ。

 

おおっ、この特急列車のデザインすごっ!車体の丸みを巧くパンダに昇華させてますねえ。

そういえばごく最近までパンダが居ましたもんね、和歌山に。

これは新大阪と和歌山方面をむすぶ特急「くろしお」の一種で「パンダくろしお」と呼ばれている電車だそうです。パンダ4頭は中国に帰ってしまいましたが、こんなところでその名残を見られるとは!

 

上の写真のパンダ列車と入れ替わりに入線してきた普通の特急「くろしお」に揺られること1時間、午後9時半頃に和歌山到着です。

 

おお、こういうのっていかにも「来たぜ、来たぜ!」みたいな感じでいいなあ。

 

和歌山駅は西口が中心街ですが、私はその反対側の東口側にある東横インに泊まります。

国内の出張で多少溜まってたポイントをディスカウントに使えてオトクでした(^^)。

 

次回から数回に分けて旅の模様をご紹介します。ちなみに、熊野古道は近い将来かなり真剣にガッツリ歩く予定なので、今回熊野古道歩きはパスして純粋に観光します。

 

次回から本編に入ります。

9月22日(月)の誕生日に、干支一周分= 12年ぶりの大山街道シリーズを再開して、大山街道の比較的新しい旧道部分=三軒茶屋から、旧旧道と再合流する用賀までの約5㎞の道のりを歩いた短時間の旧街道歩き旅の第6弾、最終回です。

 

当日の歩行ルートは↓の地図の通り。歩いた距離は寄り道含め5㎞くらいでした。

 

その5では久富稲荷や桜神宮でお参りをした後、「サザエさんの街」、桜新町の中心街に辿り着いたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

そのすぐ先にあったアンティーク的な小物の店舗らしき、ちょっとおしゃれな店。

休業で中が暗くあまり細部まで見えなかったのが残念です。

 

縦看板がサザエさんなのはさすが桜新町ですね。

 

突然、道標的なものが目に入り咄嗟に激写すると、何か道標とは違いますね。側面に小っちゃく、「石田氏水車」って書いてあるなあ。

 

付近をザザッと見渡すと、、、ああ、詳細よう分かりませんがこれがきっと「石田氏水車」なんですね。

この付近に水車、、、、ああ、もう10年くらい前に読んだ都内の水路に関する本に、この辺りって品川用水が流れてたって書いてあった気がしますね。と、なると推定としては、品川用水かその支流に、石田さん家が自腹で建てた水車があったって感じでしょうか。

 

静止しないでシャッター切ったのでちょっとブレましたが、もうゴール地点の用賀に立つ、ランドーマークのようなビルが視界に入ってきました。

 

9月後半とは言え、夏と比べるとハッキリ日が短くなりましたね。

 

と、道端に地蔵堂があったので、略式に拝んで先を急ぎます。

 

その先で見かけた廃店舗。店の前にある観葉植物が凄まじいほど成長し切ってますね。

そして、今記事を書きながら気が付きましたが、右の窓の右端に写ってるのはまさか銅鐸??

 

いよいよ地名も「用賀」になりました。ゴール近し!

 

工事中でちょっと絵面的に分かりづらいですが、このY字路で右側の細道に入ります。ゴール寸前ながら少しは旧道風情が出てくれるかな?

ど真ん中に写ってるスクエアではない、斜めった屋根の建物がY字路の又に当たります。

 

街道風情を少し期待しながら下り坂を下りて行くと、、  道標⁉

と、石材屋さんが商品サンプルとして作ったものですね。「右 日本ばし」は正しい!

 

反対側から見ると「左 大山」とあります。

本来の道標とは少し違うけど、街道ウォーカーとしてはちょっと嬉しいなあ。

 

せっかくなので嬉しい気持ちにしてくれた池田石材さんの全景も激写させて頂きましょう。

皆さんも道標のご要望などがあればぜひ池田石材さんに!

 

あっ、坂の先にあるあの四つ辻は見覚がありますよ!

 

ガラス、アルミ材などを扱うタイル張り看板建築の正木商店を横目で見ながら進むと、、

 

三軒茶屋で分かれた古い旧道と新しい旧道の合流点に辿り着きました!!

 

同じ写真を利用して、、向かって左側の赤い矢印のルートが旧・旧道、右の緑の矢印が新・旧道のルートです。

 

ちなみに12年半前に同じところで撮ったのがこちら↓。

11新道との合流

この地点に関してはほとんど風景変わってないように見えます。

 

で、旧・旧道と新・旧道の交点の対角線上の角にあるのがこちらの碑

  

「大山道道標」の碑です。2013年には激写した記憶がないので、単に見落としたのか、新しくできたのか。。

 

あとは用賀駅方向にもう少しだけ大山街道を歩いて帰宅するだけですが、もう一つだけ再会を楽しみにしているのが、2013年に見かけたこちらの素晴らしい酒屋、鎌田酒店です。

12鎌田酒店

などと思って進むのですがいつまで経っても鎌田酒店が出て来ません。まさか見落とすはずもないのに、、と思ってその場で調べると、2019年のネット上の書き込みで「2~3年前までここ(セブンイレブン)には鎌田酒店という酒屋がありました」とあったので、上の写真から数年でこの素晴らしい酒屋は消えてしまっていたという訳です。心から哀悼の意を表します

 

付近の今の町並み。

 

さて、あとはあのビルの足元まで行けば用賀駅です。

 

その先、右側に曲る道の入口で真福寺に向かう道の案内の石標が残っていました。

ちょっと遠そうなのでパスします。

 

活気のある商店街を通って、、

 

用賀駅から帰宅の途に就きました。

今回はそんなに派手ではないですが、いわゆるプチ街道とは違ってメジャーどころの街道の一部だったので、やはり楽しかったです。12年前の自分が歩いたルートと合流するというのも何だか感慨深かったですし、ついでに誕生日でもあったので大満足の一日でした!

 

次回からは珍しく旅行記になる予定です。

9月22日(月)に実に 12年ぶりに大山街道シリーズの新記事として、大山街道の比較的新しい旧道部分=三軒茶屋から、旧旧道と再合流する用賀までの約5㎞の道のりを歩いた短時間の旧街道歩き旅の第5弾です。

 

当日の歩行ルートは↓の地図の通り。歩いた距離は寄り道含め5㎞くらいでした。

 

その4ではようやく大山街道の新しい旧道が、国道246号と首都高3号の圧迫系道路コンビから離れられた後、割と濃ゆい感じの建物数軒に目を奪われたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

しばらく進んでゆくと、街道左手にこんな参道入口が!

ほっほぅ、久富稲荷神社!この辺りの鎮守さまなんですね。ちょっと参道長そうですが、折角なので行ってみましょう!

 

おっと、参道長っ!!すごく遠そうですね、久富稲荷神社。その場でスマホのグーグルマップで見ると、だいぶ前に分岐した国道246&首都高3号のすぐ近くにある神社のようです。

 

↑の写真でも左下方面に写ってますが石標らしきものがあったので、念のためスマホカメラのLEDはONにして、道標的に何か字が刻まれていないか見ようとしましたがLEDの灯りが弱いのか全く分かりませんでした。

そういうことがあるとイヤなので、街道ウォーカーのブロ友さんのオススメもあってLEDライトをアマゾンで発注していたのですが、この日の夜到着予定で間に合いませんでした (_ _||||) 。

 

きっと長い間、大山街道筋からこの幅で参道が続いていたんじゃないかなあ、などと思いながら参道を進みます。

 

若い頃のアニメの見過ぎだと思いますが、こういうところで人気が無い状態が続くと、知らないうちに異世界とかに入っちゃってそうな気すらしてきました(;・∀・)。

 

唐突にすごく高い松の木が現れました。二の鳥居もあるし、境内が近そうです。

 

予想通り、すぐに本殿に到着!

拝殿に向かって右折したところにある三の鳥居を潜って神妙にお参り!

 

戻る時に三の鳥居の裏側に刻まれた日付は、、

昭和六年(1931年)十月に建てたものだと刻まれていました。今年のうちに94歳になる方と同い年の鳥居という訳だ。

 

鳥居の向こうにはこんなふくろうの像が祀られていました。

 

説明板がありますね。どれどれ、、、なるほど、かつて境内に姿を見せないふくろうが住んでいて、いつしかふくろうを見たり声を聞いた人の願いが叶う、的なことになってきた、と。

 

ということで大山街道に戻りますが、参道を戻るのも何なので、参道のすぐ隣にあたる、歩きやすい舗装道路で戻ることにしました。

 

街道に戻る直前くらいにちょっと構えの大きなお宅がありました。

何となく世田谷区の閑静なところにありそうなお宅だなあ。

 

さて、街道に戻って100mばかり進むんだところには現役なのかどうか若干微妙な看板建築があり、建物の前にはかなり植栽が並べられていました。

Googleマップだと現役の雑貨屋のようですが、Googleマップの情報も少しタイムラグはあるでしょうから何とも言えないなあ。

 

そのすぐ先で北東方向(進行方向に向かって右斜め後ろ方向)から水道みちが大山街道に合流してくる地点があったので、ほんの数メートル水道みちに入って激写しました。

「水道みち」ってめっちゃすごく長い距離を真っすぐ貫くんですよね。

 

場所の区分としては「水道用地」なんですね、なるほど。

この水道みちは少し向こう側でV字に分岐して、一方は大山街道方面に合流しているようです、

 

水道道から街道に戻って少し進むと右側に「世田谷のお伊勢さん」というキャッチフレーズの掛かれた「桜神宮」があります。

看板にも書かれていますが、明治前期に伊勢神宮の筆頭禰宜を務めた芳村正秉(よしむら まさもち)が最初に神田に創建し、大正期にこちらに移ったため戦火を逃れたことから、火伏せの神様としても崇敬を集めているそうです。

 

こちらもせっかくなのでお参りしていきましょう。

曇天で空が真っ白なので写真と白いスペースの区別がつきませんね(・・;)。

 

広い境内ではないですが、大きな松の木があったりして、少しゆったりできる空間です。

 

前のご婦人のかなり熱心なお祈りが終わるのを待って、、

 

やや厳粛な気持ちになって自分もお参りします。

あちこちでお参りしてますが、どのくらい功徳が積めたことやら、、などと考えましたが、そもそも「功徳」は仏教用語なので、神様にお祈りしても筋違いですね┐(´д`)┌。

 

その先で、桜新町の中心部に近づいてきたのか、街が少し賑わってきました。

 

おっ、ずいぶんと久しぶりのサザエさんメンバーの銅像です。こちらは磯野家ですね。

で、こちらはフグ田家。

余談ながら自分はスタバよりもタリーズ派です。TVアニメのそれよりも、長谷川町子さんの原作に近いデザインなのでしょうね。

 

SMBCの外壁にもサザエさんのタイルがあるのは、さすが原作者の出身地、桜新町ですね。

この辺りからそろそろラストスパートに入って行きますが、残り部分はその6でご紹介します。

 

つづく!

9月22日(月)に 12年ぶりの大山街道シリーズの新記事として、大山街道の新しい旧道部分=三軒茶屋から、旧旧道と再合流する用賀までの約5㎞の道のりを歩いた超短時間の街道歩き旅の第4弾です。

 

当日の歩行ルートは↓の地図の通り。歩いた距離は寄り道含め5㎞くらいでした。

 

その3では、大山街道の新しい旧道が、国道246・首都高3号に合流した後、環七と合流する上馬交差点に差し掛かり、街道風情の少なさに寂しい気持ち( ´・ω・` ) になったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

一応街道だったルートですが、大通り沿いの歩道以外の何ものでもない道を進みます。

右にあるのはネパール料理の店ですね。

 

首都高3号が覆いかぶさっている新・旧道を進みます。

 

現代の一里塚的な存在、と言えなくもない国道のキロ表示ポスト。この辺りって言うても日本橋から14㎞足らずくらいしか離れてないんですね。

 

割と昔からありそうなお茶屋さん。

ガラス窓に貼られてる「いりたて 茎ほうじ茶」がけっこう気になるなあ。香りがよさそう。

 

その先、昭和~平成の看板建築の「龍王派いけばな教室」の前を過ぎると、、

 

新町庚申講、と地図上に記されている庚申堂がありました。

こういう遺構があるだけで街道気分がグン!と上がります(≧∇≦)。

 

お堂の中を拝見すると、ずっとこの界隈の人たちから大事にされてきたであろう、一種素朴な造形の庚申塔が。

供えられている花も新しく、ずいぶんと地元の方々に愛されているようで、気持ちが柔らかくなります。

 

その先にあるシブい構えの店は「西舘表具店」。窓の向こうには、いかにも年季の入った感じの職人のオヤジさんが作業をされていました。

それにしても熟練の職人さんって何であんなにカッコいいんでしょうね。

 

さ、↓の地点でようやく大山街道が国道246号&首都高3号コンビから離れて、右に離脱します。

と、いってもそこまで旧道旧道した道ではないのですが、だいぶそれらしく歩けるんじゃないかと思います。

 

ある程度幅のある車道なので、三軒茶屋を出てすぐの旧道部分ほどの風情は無さそうです。

 

昔からありそうな看板建築の米屋が見えてきました。

 

米屋を通り過ぎる時に、すごくきれいな主婦らしき方が見えたのですが、シャッター切った時は一瞬店内に戻ったのか、写ってませんでした。

 

ほっそい餃子屋の看板建築とその隣には何かの会社をやっていたであろう幅広の看板建築が並んでいました。足して二で割るとどちらもちょうどいい幅になりそうな感じです。

右の方は二階のファサードの広さに対して窓が小さいですねえ。

 

一軒ずつ見てみると餃子屋で「紅蜥蜴」ってのも変わったネーミングです(・・;)。

 

こちらは例えば看板とか作るような会社だったんでしょうか。などと思って、過去の姿をストリートビューで見てみると、、

 

おお、2013年まで遡ると、まだ軒先にクレハロンテントが残って、窓の向こうに見えるものからすると雑貨店でもやっていたのかという印象でした。

そして、左隣の紅蜥蜴の玄関がずいぶんきれいですね。

 

そのお向かいあたりには、こちらも建築が家財道具かの店だったのかな?という感じの元店舗がありました。

 

こちらもストリートビューで2009年まで遡ると、畳屋であったことが分かりました。

その次に古い、2013 年の記録では窓が締め切られて、看板も無くなっていたので、概ね2010~11年頃に廃業されたのかも知れませんね。

 

その斜向かいにはもっじゃもじゃの看板建築がどーん!と立っているじゃありませんか。

おぉ、何か旧道風情とは違うけど、いいな、この辺り。

 

折角なので、このもっじゃもじゃ看板建築の昔の姿も見てみましょう。まず2009年。

あっ、店の外観がちょっと違いますね。今はレストラン風だけど、この時は廃店舗っぽいです。

 

それが2013年になると、基本今と同じ状態の店舗になっていました。

この間にリノベが進んだわけだ。

 

最後に2025年時点の姿をもう1回。上の方の蔦が減って角度によってはガラス窓越しに建物の向こうが見えることもありました。

 

ん?なんか右側の歩道がやたらめったら幅広ですね。川か用水でも埋めたかな?などと考えていたら、この辺り北(画面向かって右)側から水道みちが迫ってくるような場所柄なので関係あるか、、いや、地下を田園都市線が走ってるせいかも知れませんね。

 

と、いうことであと2回ほど続きますが、この続きはその5でご紹介します。

 

つづく

 

9月22日(月)に大山街道の新しい旧道部分を歩こうと思い立って、12年ぶりに大山街道シリーズとして、大山街道の新旧旧道が分岐する三軒茶屋から、再合流する用賀までの約5㎞の道のりを歩いた超短時間の徒歩旅の第3弾です。

 

当日の歩行ルートは↓の地図の通り。歩いた距離は寄り道含め5㎞くらいでした。

 

その2では何年も前に歩いた懐かしい蛇崩川の暗渠と再会した後、世田谷觀音通りを越えて、その先の商店街に入ったところで、最近よくやってしまう、「美容院を見てカフェだと誤認してしまったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

で、その美容室の斜向かいには、何やら古い木造の出桁造り商家を改装した店舗で、何かの試食会のようなものを開催している様でした。

ブログに掲載した写真は縮小していますが、オリジナルの写真を拡大してみると「Hello Sangenjaya 2025.10.01」 「Make a new World」などと書いてあるポスターが見えたので調べてみると、10月1日付でSamaaという、コーヒーとベーグル類とワインのショップができる予定のようで、恐らく開店前の試食会的なものだったようです。

 

こうしたリノベはすごく良いと思います。ブロ友さんもよくコメントされていますが、都内だとこういうリノベをしても集客が見込めるのでこうした試みもトライしやすいのでしょうね。

 

そこから先に進むと、昭和で懐かしい感じの蕎麦屋などが残って良い感じでした。

 

こちらも昭和30~40年代っぽい外観の看板建築で懐かしい感じがします。

 

ものすごい格差があるって訳ではないですが、世田谷観音通りを越える前よりは少し町に活気が多めに残っている印象がしました。と、前を見ると、真正面に何やら良さそうな建物が見えているので、いってみましょう!

街灯の下にある表記では「世田谷区商店街連合会」とありますが、今歩いている商店街は中里通り商店街というようです。

 

こちらの信濃屋は元々鶏肉専門の精肉店で唐揚げや焼き鳥も商っていたという情報をネットで見つけましたが、営業している雰囲気のないこの外観。。

 

この書き方からして六十年以上ここで営業されていたんですね。

ちなみに左端の「春夏 冬 二升五合」というのは江戸っぽい一種の判じもので

「商い益々繁盛」と読むそうです。つまり「秋無い 升X2 半升」ってことですね。

むうぅ、お主なかなかやるな!という感じだけに廃業が残念です。

 

その先で四つ辻に出ると、左右方向にも商店街が広がっているようでした。

そしてこの写真の右寄りに写ってる建物が、3枚上の写真で正面に写っていて、気になっていた建物ですが、塗装が剥げてしまった看板を見ると「野村不動産」と読めますね。パッと見た感じ、ちょっとずつ店が拡大してつぎはぎ的に広がって行ったような印象です。

 

真上の写真は中里商店街のメインストリートから左を向いたものですが、もうちょっとよく見てみましょう。

割と大きな勾配の登り坂になっていますね。

 

再びカシミール3Dで地形を見てみると、、

地図のほぼ中央にある○に〒のマークから南南東~南に伸びるみちがこの坂で、地形的に蛇崩川(ピンクのライン)が南側に作ったであろう、緩やかな斜面を登る坂なんだろうという想像がつきます。

 

大山街道を進みます。さっきの「野村不動産」を見るとちょっと分かりづらいですが、なんか複雑な構造をしているようで、メインの建物が出来上がった後にちょっとずつ足していった感じ。

 

その並びには看板建築が二軒並んでいて、手前のグレーのファサードの家は元商店が廃業して今は無住だと思われる感じ。

 

その向こうに見えていた赤いテントのある看板建築は「龍華」という中華料理屋の様です。

奥に蛍光灯が点いているので、夕方の開店前ってところかと思います。

 

歩いている大山街道の新しい旧道も登り坂になり、行く手にはいったん離れていた、首都高3号の高架が見えます。

あそこまで行っちゃうとしばらくは大きな車道歩きになってしまうのですが、仕方なし。

 

坂の途中の左側に地蔵尊があります。恐らくこの先、暫くは街道遺構的なものが乏しくなりそうなので、丁寧にお参りして先に進みます。

 

エアコンのパーツショップかあ。なかなかニッチながら、世帯の多い地域なので、割と仕事はありそうな気もします。

 

国道246&首都高3号に再合流しました。ここからは写真をやや飛ばし気味に進めます。

 

誰だ、距離表示ポストに落書きしたやつ!

 

ちょっとピンボケしてしまいましたが、こちらは「和げい」という和装小物関連のお店で、ググっても詳細出ませんでしたが、割と昔から街道沿いにあったのかも知れませんね。

 

そのすぐ先で上馬交差点に出ます。今歩いている国道246&首都高3号が、東京都道318号環状七号線=環七通りと交わる大交差点です。

 

交差点の対岸遠っ!柵が見えていますが、あの下で環七が国道246をアンダークロスしてます。

 

環七は広いですねえ。

いよいよ伝統の大山街道を歩いている雰囲気もほぼなくなり、何だかとても心細くなってきましたが、この続きはその4でご紹介します。

 

つづく!