らんまるの街道歩きブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

年始から間もない1月10日()に、千人同心街道の最終区間である東行田から、この街道のゴール=栃木県佐野市にある、例幣使街道との合流点までを歩いた記録の12弾です。今回が千人同心街道のグランドフィナーレとなります。

 

当日の歩行地図は↓の通り。歩いた距離は寄り道を含めて27~28㎞くらいでしょう。

 

その11では、佐野市中心部に近づくに従い、素晴らしい古民家が次々と現れて、「狂喜乱舞の大フィーバー!(≧∇≦)」的な気分になったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

こちらは出桁造りではないですが、昭和の雰囲気の漂ったいい感じの旧商店。

Googleマップのストリートビューでは2013年まで遡れましたが、一回右端の戸袋がまだ壊れていないこと以外は殆ど現状と一緒で、残念ながら過去の業態などは分かりませんでした。

 

その先で街道は右にカーブして、先ほど分岐した車道(↓再掲)と再合流します、、が

 

その右カーブのところでY字路になっている部分にこんなものが↓。

おおっ道標⁉と遠くから見つけてダッシュしましたが、これ、前面コンクリなので、いわゆる「いけず石」の一種と思われます。ダッシュして損した気になりますが、こういう無駄な動きも含めて街道歩きと言えましょう、うん!むしろ自分としては20km以上歩いてきてなお、ダッシュする元気があることを喜びたいと存じます( ̄ー ̄)。

 

下の地点がその合流点ですがいい感じの建物が見えていますね。

 

こちらも一階が全面店舗だった元商家ですが、先ほどの元商家と同じく2013年5月まで遡っても、元の業態は分かりませんでした。

 

そこから少し北に進むと、、おおっ!何だこの建物!!出桁造りの商家の右端に会社の社屋ぽい構造物が付けたしになってますね。

残念ながらこちらも2013年5月から全く変わっておらず手掛かり無しでした。

 

上の写真にも写っていますがそのすぐ左隣は真ん中で折れ曲がってしまった「月星靴」の看板があるので、靴屋だったのでしょうね。

一階二階とも右端だけ建て増ししたような感じです。ちなみに左端に見切れている「飯塚玉泉堂」はこの建物の左隣の文房具屋です。

 

「全集中 古民家の呼吸!」的な感じで激写しまくりますが、ちょくちょく建物を壊したままになっているような更地も目立っています。↓は看板が切れてしまいましたが、山岡酒店。こちらも実に立派な出桁造りの商家です。

寂れ方が少な目だし、一応たばこの自販機はまだ営業しているようだな、と思ってやはりストリートビューを見ると、こちらは2023年時点ではまだ現役だったようです↓。

両側の更地が無残で痛々しい感じがしますね。

 

こちらは超太い破風板のある、かなり立派な出桁造りの商家ですが、軒に残った看板にはNEW LIFE YOKOZUKA」と書かれていました。大きな看板のライトアップもあったようですね。

こちらも2013年当時はこのような姿だったことが分かりました↓。

看板がスカスカになったおかげで本来の古民家の姿がよく見られるようになったのは実にめでたいですが、2013年時点でも、店舗部分がクルマ置き場になっているので、随分前に廃業してしまったことが分かります。

 

常々ブロ友さんとも「生存率が高い」と評している眼鏡屋も廃業ということで、立派な建物は多数残っていますが、現役の店がかなり少ないことが気になります。町の中心部が近くなってきたせいか更地は気持ち減ってきたような。。

 

同じく生存率の高い床屋も、ほんの一瞬新しいポスターで「現役か?」と思いましたがよく見ると、以前与党の一部だった某政党のそれですね。こちらも少し前に廃業されたのでしょう。

 

その先でもしっかりした造りの商家が次々とみられ、本来の、恐らく平成初期頃までは、この近くの佐野大師の参詣客もあって、ものすごく賑わった商店街だった頃の姿が想像できます。

 

こちらは天明宿の並みいる古民家の中でも白眉と言えるであろう、和菓子の金禄本店。どら焼きが有名なお店のようです。

屋根付きの看板に、歴史ある老舗の風格を感じます。建物もめっちゃ立派ですね。

 

と思えばこんな洋館が現れてビックリ!カッコいいなあ。門扉の感じから考えると民家ではなく瀟洒な社屋かと推察しました。

 

街道と交わる道の左(西)側にものすごい規模の冠木門付きの立派な厨子二階構造らしき建物があったので、ちょっと寄ってみて激写しました。

何の建物だろうと思ってGoogleマップのマークをクリックすると、何と「JOYパソコンスクール佐野中央校」と出てきました(;゚Д゚)!。うーんそうかあ、この構えでパソコンスクールというのも意外ですが、建物を活用せずに壊してしまうよりは、軽く見積もっても2億倍くらい良いと思います。末永く残ってください(*´∀`*)。

 

その先も怒涛の古民家ラッシュが続きますが、ちょっと説明手抜きで進めます。

 

↓は古民家を一度リノベしたようですが、現役かどうかちょっと微妙ですかね。

そして後方の木がめっちゃ立派!

 

こちらの園芸・農業関連らしい「やまもと」さんも廃業でしょうかね。

 

そして建物に目を取られているうちについに、例幣使街道との合流点=千人同心街道の終点に到着!これで街道踏破43本目くらいかな?交流のあるブロ友さんも多数例幣使街道を通過しておられますが、直近だとhiroakiさんが、この交差点を向かって左(西)から右に通過されてます。

ちなみに右側、交差点奥に写っているのは「富士エベレストレストラン&バー」というものすごいインパクトの名前の店です。ストリートビューにいい感じの全景があったので、載せておきますね(^^)。↓

 

こちらが例幣使街道の西側(出発点方向)です。例幣使街道は比較的近々歩く予定です。

最近は少々北関東も市街地でクマの出没が増えているので、「出没マップ」など参照しながら気を付けて歩かないといけませんね。

 

あとは例幣使街道に沿って東に向かった後、左折して佐野駅に向かって帰宅するのみ!にしてもさすがに街道筋だけあって、古民家がやはり多いですね。

 

都心部では絶滅危惧種と言える、個人商店のおもちゃ屋!何か買って売り上げの協力を!、とちょっとだけ思いましたが、買って使えるものは少なそうでした(^-^;。2000年生まれの娘もおもちゃって年ではないですしね。

何か他のことに気を取られでもしたのか、ちょっとカメラに収める範囲が下振れしました💦

 

そして気になるのはそこかしこに見える更地。

 

やや唐突に「お話し」というオブジェが現れます。すぐ向こうは渋滞真っ盛りで少々不思議な光景でした。

 

こちらの↓看板建築のキクヤ薬房も左右とも更地。

 

↓の地点で左折して、北方向の佐野駅に向かいます。余り遠からぬうちに例幣使街道でここを通りたいものです。

 

↑の写真の左側は佐野市役所でした。

 

地方都市の駅前って閑散としているイメージも多いのですが、佐野駅前は若者も多く賑やかでした。

 

ほどなく佐野駅に到着。ここから両毛線で小山まで出て、小山からは上野東京ラインで帰宅しました。

 

八王子から佐野まで続く千人同心街道、これにて終劇です!!ここまでお付き合い頂きありがとうございましたm(__)m。

 

次は例幣使街道、、ではなく、少々毛色を変えて西浦賀街道で、戸塚から浦賀に向かいます。

年末年始休み明け後、ようやく労働ベースに戻った矢先、嬉しい3連休でまた休みダレをしてしまった1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、その11です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は寄り道を含めて27~28km前後だったかと思います。

 

その10ではゴールの佐野駅に向かってかなり近づきつつ、水路のカモを愛でたり、法雲寺という桓武天皇の頃創建のお寺で日光桜の見事な枝ぶりを見たところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

日光桜から更に北方向に進むと、ほぼ地続きのようにそのまま東光寺に入ります。さっきの法雲寺とともに伝教大師が延暦の昔に創建したと伝わります(前回記事でも書いた通り、法雲寺は臨済宗という記事も存在します)。

扁額の漢字って独特のデザインですよね。異体字なんでしょうね。

 

こちらの東光寺には、江戸時代の算額(江戸時代に和算家や愛好家が数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した絵馬)が残されているとのことで、説明の標柱がありました。

むっ、私の二十歳の誕生日に文化財指定されたんですね!奇遇ですなあ(≧∇≦)!

 

こちら↓東光寺の中門は、かつての堀田佐野城の大手門を移築したものだそうです。

そう言われるとお寺というより城門っぽいかな?

 

説明板も激写しましたが、インクの薄れ+影で読めませんね(^^;)。

 

旧城門を額縁的に使わせて頂き、本堂を激写!

 

お参りしたら西方向に進んで暫くルートから外れてしまっていた街道筋に復帰します。ここからじわじわと古民家が増えていきますよ。

 

とは言え暫くの間は普通の車道が続きます。

 

今は向かって右側に建て増しがされていますが、かなり昭和な感じの瓦屋根の平屋を見つけて、しっかりとカメラに収めます。

木製の戸が昭和だなあ。

 

その先で車道は右に緩くカーブして街道から分岐してゆきます。千人同心街道は直進方向。

真冬なので日の落ちるのが早くて、もう影が長くなってますね。男ですがちょっと八尺さまっぽいシルエットになってます(^^)。

 

おお、民家は新しめながら、旧街道っぽい感じの道幅と雰囲気だ。

 

少し進んだところの右側にあるのは普門院というお寺。こちらは銅造の地蔵菩薩半跏像がご本尊で「鏡延命地蔵」として有名なんだそうです。

 

解説板。こちらは東光寺中門のものより読みやすいですね。

 

おっ、そろそろ古い建物が出て来そうな雰囲気ですなあ。楽しみ、楽しみ(≧∇≦)!

そろそろ天明宿にも入っているはず。

 

言ってるそばから!こちらは木塚薬舗。雨戸も締めたっきりに見えるし、小さな赤ポストもボロッぼろなので、廃業だろうと思うのですが、、

 

ググると、、

これを書いているのは4月下旬の土曜日朝10時半過ぎですが、「現在営業中」になっとる!

Googleマップってよくこういうことありますよね。もちろん現在営業中ってことももあり得ますが、どちらかというと「廃業が確認されていない」みたいな感じなんでしょうかねえ。

 

そしてこの辺りから古民家祭り!みたいな状態になってきます。

こちらはお休みなのか廃業なのか判断しきれませんが、店舗っぽいですね。二階の木製の戸袋と高欄がシブくていいなあ。

 

こちらは擬タイル状の金属板を使った「永瀬縫製」さん。小規模な縫製の作業場でしょうね。

 

こちらの吉田屋製菓は暗くて見づらいですが、出桁造りの商家でした。

いや、佐野市、すばらしいですね!

 

なんか古民家天国的になってきましたね。。

関東は街道歩きで割と知ってるつもりになってましたが、まだまだですなあ。

 

こちらは元ガソリンスタンドと思われます。敷地内に大きな木と古い蔵があるので、旧家の人が土地と資本を使って経営してたのかな、と想像しました。

 

蔵だけちょっとアップで見たいな、これ。

ガソリンスタンドの塀に出入口があるので、スタンドの倉庫にしてたんでしょうね。

 

うわあ、格子戸のある、黒漆喰塗の、出桁造り商家だ!

気分はもうすっかりクリスマスプレゼントをもらった子供のようなはしゃぎ状態になってきましたが、今回の記事はここまでとして、残りの行程はその12でご紹介します。

 

次回千人同心街道のフィナーレです。

つづく!

年末年始休み明けでまだ少々ダルさを感じてしまう1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、その10です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は寄り道を含めて27~28km前後。

 

その9では、足尾銅山鉱毒事件のために奔走した田中正造の足跡が今も色濃く残るエリアを抜けて、福地氏が築いた平城、椿田城趾に今も残る、福地氏後裔の邸宅を遠目に見て、そのサイズ感にビックリしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

その後椿田城跡を辞して、推定福地家の周りをまわるように進んでいきます。↓の建物ももちろん全部再掲した豪邸と同じ敷地です

 

この辺りは蔵とか納屋的な建物でしょうかね。叱られて閉じ込められると怖そう(llllll゚Д゚)。

 

その先で水路、、いや何だか堀っぽいですね、に沿って敷地を回り込むように左折して、その先でまた右折、という曲尺手のようなルートを抜けます。

 

左右に建物が無くなり、寂し気な景色の中を進みます。

 

上の写真の左奥に見えている住宅ですが、一定以上の期間無住のようです。

この家のすぐ手前を水路が入っていましたが、それこそ椿田城が堀として利用していたのではないかと推察しました。

 

椿田城趾の辺りでは街道筋から離れていましたが、この辺りから街道に復帰できている様です。

 

街道筋とは言え、古い橋がちょっとあるだけで少しホッとするような寂し気な風景です。

 

その後県道を渡ったら、そのまま先に見えている東武佐野線の踏切を渡ります。

 

踏切を渡ったら道なりに左カーブして進むと、県道7号と概ね並行した道筋に入ります。

左側は水量豊かな水路になっています。

 

こういうトンネル(高架下)はどうしてもこんな感じで撮ってしまうなあ。

 

この水路はカモのよい泳ぎ場になっているんですね。いい景色だ。

 

巧く写せなかったですが、小魚もたくさん泳いでいるのが目では見えました。

 

1枚上の写真を撮ったあたりで、ここまで街道と並走してきた水路は西の方に離れてゆき、街道自体は再度東武佐野線の踏切を斜めに越えます。

 

工場(こうば)が並んでますが、そういったものを脳内フィルターで消去すると、道筋は旧街道のそれっぽい感じで曲がってくれてます。周りにこんなに建物が無かった頃、八王子から来た千人同心が歩いたかと思うと感慨深いなあ。

 

こちら↓は何かの社屋のような感じの建物ですが、火災で中が焼けてしまってました。

 

その後もしばらく工場がありましたが、やがてまた関東平野っぽい風景に変わります。

 

さっき斜めに交差した後、自分から見て右(東)側を並走する東武佐野線の電車が走ってきたので、反射的に激写します。

「ロケハンしていい場所で撮った」、とかではないので、思ったより枯草が入ってしまった。。

ちなみに電車と自分の間には、秋山川という渡良瀬川の支流が流れています。渡良瀬川は利根川の支流なので、この川の水もやがては太平洋まで行くわけだ。

 

ちょっと民家が増えてきました。向かって左側(西)を並走する県道7号がちょっと、街中に入りつつあるためでしょうね。

 

その後の信号交差点で東西に走る県道270号を横切ったら右折方向に進んで秋山川を渡ります。渡る際に前方を見るとシラサギが水と戯れていたので、望遠いっぱいにして激写!

この日持っていたのはさほど望遠の利かないキャノンのPowerShot G9 X Mark IIという、小さいカメラだったので、解像度はイマイチです。

 

右カーブ⇒左カーブの道を進みます。

 

明治初期の頃の古地図が、アプリ「古地図散歩」で見つからなかったので、やむなく少し先の明治終盤の地図で見ると↓のの辺りを歩いているようです。

何とな~く上の写真と似ていることがお分かりいただけるでしょうか。

 

その先で少し街道コースを外れてみることにします。↓の写真は亀の子山古墳という古墳で、元々上に上がってみようと思っていましたが、写真を見るとお分かりのようにてっぺんに親子連れがいらして、遠目にもお母さんのことが大大大っ好きなお子さんが大事な時間を過ごしているようだったので、ここは遠慮することにしました。

幼少期のこういう時間、大事ですからね。

 

暖かい気持ちになった状態で、古墳の正面にある天台宗の法雲寺に暖かくお邪魔します。

(※ググると一部では臨済宗とも書かれていますが、この後尋ねる東光寺とともに伝教大師が創建、という記載もあったので、私の記事では天台宗説で進めます)

立派な楼門!延暦年間(782-806="鳴くよウグイス平安京の頃ですね)の創建で、徳川家康の遺体を日光山に移葬する際に、仮安置をしたこともあるそうです。名刹だ!

 

薬師堂です。お参りして先に進みます。

 

薬師堂の脇(だったと思いますが少し記憶が朧げ)にある「日光桜」。

完全な冬枯れ状態ですが、枝ぶりから見て春の盛りは見事でしょうねえ。

 

この後、地続きのように現れる東光寺というお寺に立ち寄って、佐野の古い街を見ながらラストスパートに入っていきますが、このつづきはその11でご紹介します。

あと2回くらいつづく!!

年末年始休みから間もない1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、のその9です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は寄り道併せて28km前後になるのではないかと思います。

 

その8では渡良瀬川を渡っ手栃木県に入った後、足尾鉱毒事件で活躍した、田中正造の葬られている雲龍寺に向かったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

まずは本堂でお参りしましょう。

 

終ったらそのまま田中正造の墓に向かいます。お墓といってもこちらは分骨したお墓であり、ほかにも惣宗寺(佐野厄除け大師)などにも納骨されています。元々、こちらのお寺は足尾銅山鉱業停止請願事務所が置かれていたご縁なのでしょうね。

ここから直接東京に出向いて政府に訴えようとした農民たちと警官隊が衝突したのが、以前、川俣宿を通過した時にご紹介した川俣事件です。

 

常よりもちょっと丁寧にお墓にお参りしました。

 

こちらの↓「救現堂」は足尾鉱毒被害者の救済施療所にあたるそうです。

ずっと日本で育っていれば小学校の歴史でも学ぶ、まさにあの足尾鉱毒事件の舞台の一つなんだなあ、と少々しみじみしながらこちらでもお参り。

 

雲龍寺を辞したら、渡良瀬川を渡ってから雲龍寺まで向かった道を下り、そのまま渡良瀬大橋の延長戦上にある、県道7号を潜って渡良瀬大橋の東側に抜けます。

 

県道7号を潜ったら、↓の地点で左に曲りそのまま進みます。

 

すぐに「田中正造終焉の家」の看板が見えてきます。ここにある庭田家で倒れそのまま帰らぬ人となりました。

 

中が余り写らない程度に庭田家の外観も激写しようと思ったのですが、たまたまそのタイミングで、現庭田家の方々が庭先の、私も明らかに視界に入る場所で何がしか急な用をお話しの様子だったので、無理に激写して怪しい奴になるのは避けて、先に進みます。

 

さっきの看板にあった、田中正造の無くなった部屋が残っているのはあちらに見えているお宅でしょうね。

 

 

「庭田工務店」さん、田中正造の支援者だった庭田さんのご子孫の会社な訳だ。

 

その先、街道の左側に、街道から見て斜め左方向に鳥居があります。

本来、この先には椿田稲荷神社があり、というか今もあるのですが、鳥居の向こうに見えている水色のコンテナみたいな物の後方は 街道に代わるべく敷設された県道7号で、かなりの道路幅のため、神社とこの鳥居が完全に分断されてしまってる、という訳です。

 

この明り取りのような越屋根のある建物を通り過ぎると、千人同心街道も信号で県道7号を渡ってその向こうへ進むことになります。

 

上の写真の建物の反対側には、「水場 見守る 道祖神」という解説板があり、よく見ると、、

渡良瀬川上流の足尾銅山絡みの乱開発と、ずっと下流の利根川に関わる、千葉県関宿の江戸川減幅工事などが原因で、鉱毒の混じった水が氾濫してたいへんな問題が起きた、ということのようですね。

 

こちら↓がその道祖神ですね。割と新しそうなので、上の写真の解説と同時期のものでしょう。

 

そのすぐ近くには田中正造翁終焉の地の大きな碑がありました。

この地で起きたことを考えれば当然でしょうが、こうして田中正造の事績がしっかり伝わっている感があります。今でもたしか銅山の工程で出る沈殿物とか残っていた筈ですしね。調べるとこちらのWikipedia「鋼滓ダム」に足尾銅山のそれも紹介されていました。

 

県道を渡ると、今は裏道のようになってしまった千人同心街道と思われる、才川沿いの道が続きます。

 

進んでいくと更に道はちょっと心細い感じになります。

 

こうやって舗装道路の真ん中を草が突き破って自己主張の強い中央分離帯っぽくなっているのを見かけるのも、まあ街道歩きならではの風景と言えるかな。

 

その先で車道にぶつかったら右折します。本来の街道筋は、古地図で見る限り直進のようですが、見たいものがあるので、ちょっと寄り道します。右折した後、ブーメラン状に進みます↓。

 

で、折り返して暫く進むと右折する道があるので、そちらに進みます。

 

ちょっと寂しい感じの道ですが、左前方に見えている住宅の所まで進むと、、

 

昭和三十八年十月一日付の「椿田城跡」という標柱が立っていました。

椿田城の詳細はこちらの佐野市のHPに解説がありますが、すごく砕いて言うと、16世紀、この地を収めていた佐野氏の佐野盛綱が客将として招いた福地氏が築いた平城で、佐野氏の唐沢山城の出城だったそうです。

 

佐野市の教育委員会の解説板もありました。

 

ちょっと敷地に入りにくい雰囲気ではありますが案内の標柱などもあるので、入って行くと、、この冠木門はいかにも入ってはいけない感じですね。椿田城を築き、後に帰農した福地氏のご子孫のお宅のようです。大きな邸宅のようで、あれこそがほかならぬ椿田城跡でしょう。

 

で、上の写真でいうと向かって左奥の方に進むと、椿田十一面観音福地堂があるので、こちらは堂々とお参りに行きます。

ちなみに本来の街道筋はこのお堂の後方を通っているはず。

 

お参りして右側を見ると椿田城跡の邸宅が見えます。ん~、さすがの大邸宅!

今も椿田城趾をしっかりと守られています。さっき掲載したリンク先の佐野市のHPではまだ茅葺の頃の姿が写っていましたね。

 

ちなみに椿田十一面観音福地堂の燈篭の足元を見てみるけっこう新しいものでした。

残すところあと3回くらいで、ラストスパートに入っていきますが、この続きはその10でご紹介します。

 

つづく!

年末年始休みのだらけも抜けきらない1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、のその8です。

 

当日の歩行ルートは↓

寄り道も併せた全行程は27~28㎞前後だと思われます。

 

その7では千人同心街道が館林徳川家のあった館林の中心部に近づく中、良い感じの建物を多数見たものの、中心部の館林宿は本陣跡の痕跡も無く一人寂しい想いをしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

館林駅前交差点の先から暫く坂道を登って、昔からありそうな石山精肉店の看板建築などを見ながら更に進んで行くと、

 

その先にも「川魚 ふかわ」という料亭のような店がありました。表側は蔵の妻側に看板建築をくっつけたような形になっていますが、、あれ?

この立派な二階建ての木造母屋に蔵が横付けされてる構造って、前回記事で私が「旅館か料理屋のような」という印象を持った↓の建物と造りが似てますね!(↓再掲)

ということはこちらも料理屋さんだという可能性がグン!と高くなりました。

 

そんなことを考えながら進んでいくと、今の館林の中心地=館林からはそこそこ離れた地点に館林郵便局があります。

関西の街道ウォーカーのブロ友さんがよく、郵便局は旧道に残っていることが多いと記事で書かれていますが、それと似たパターンで、今の街の中心地=鉄道駅付近ではなく、昔の中心地=宿場に郵便局がある訳ですね。

 

比較的唐突に「台宿」(だいじゅく)というイラスト付きの史跡案内が現れます。後方は更地。

まだここは館林宿で、坂を登った先の高台にあるので「台宿」なんですねえ。

 

タバコと酒と雑貨を売ってたのかな、という印象のこちら↓のお店も、今現役なのはドリンクの自販機のみのようでした。

 

こちらの特徴的な木造の建物、側面が明り取りっぽくて、かつて工場(こうば)だったような印象を受けました。

Googleレンズに意見を聞いて見ると「窓を見ると織物工場だった可能性が高い」とのこと。

 

こちらの↓昭和の頃によく見かけた、洋風瓦を高角度に張り付けた感じの、廃業したらしき建物は「喜楽寿司支店」とあります。

これはよくブロ友さんとコメントをやり取りしてる本店・支店問題(=「本店と書いてあるが、果たして支店はあるのか?」、およびその逆)ですね。

 

ほとんどの場合、情報が得られないのですが、今回の場合はこちらに情報があり、すでに喜楽寿司全体が閉店していること、本店が伊勢崎で、館林のほかに桐生や太田に支店のあったことが分かって、ちょっと満足!(4月初旬に予約投稿で描いているのでリンク先が公開時までに無効になっていた場合はご容赦下さい)

 

その先、下り坂で台宿から下りてゆくと宿場も終わったと見えて、店も疎らになり、だだっ広い駐車場の薬局などがありました。

この手前に、館林城の佐野口御門跡碑があった筈なのですが、撤去されてしまったのか、単に見落としたのか、素通りしてしまったので、ストリートビューからのキャプチャーを見ると、、

ああ、こんなところにあったのか。これで気づかないってことはなさそうだから撤去されてた可能性もあるかな?2枚上の写真と同じドラッグストアが後方に写っているので、ロケーションもバッチリ分かりました。

 

薬局のすぐ先で信号交差点を越えると、Y字に分岐した道の左側(街道は右側)の脇に道標が二基立っています。

 

左側のそれには「らいでん道」とあります。

これまたAIに聞いて見ると、「館林市周辺にある板倉の雷電神社へ続く道であろう」と答えるので、「館林、板倉の雷伝神社」でググると確かに、さっき渡った交差点から東方向に進むと板倉雷伝神社がありました。道路拡張か何かの時にここに移されたんでしょう。

 

右側の道標は正面が馬頭観音さまで、左側が道標になっています。

よ、読めん(;・∀・)!先達の記録にお縋りすると「道標の左側には『右 さの とちぎ 道』と刻まれている、と書かれているそうです。こういうとこ、まだまだだなあ。研鑽が足りない!

 

この道標から先は完全に館林の市街地から出てしまうようで、少しずつ寂しい景色になります。

そんな中 非常に昭和な平屋の住宅に目が行きますが、ロープも張ってあるし無住でしょうね。

 

しばらくの間、いかにも「私、郊外の道ですよ(*´ω`)」といった感じの風景が続きます。

歩道橋手前左側の戸建て平屋住宅も懐かしい昭和の雰囲気。

 

その先で東武佐野線の踏切を渡ります。左側のすぐ向こうに渡瀬駅があります。

 

この辺りも建物が少なく、関東平野の広さを全身で感じます。

 

その先で、旧街道にはよくある、歩道も路肩もありゃしないゾーン!に入ります。

暫くの間は、建売住宅建設予定地なのか?というスペースがあったのでそちらを歩きますが、左側に見えているガードレールの向こうも一部歩けますが微妙に歩道じゃなかったりします。

 

やがて街道左側に池なのか、休耕田に大量の水がたまったのかよく分からないエリアがあり、水門が何基かありました。

 

優雅に浮かんでるのはシラサギじゃなくて白鳥か!シラサギはあんな風に泳げないですもんね。

 

遠景で見るとこんな↓感じで不思議なところでした。

 

あ、また男体山と女峰山が見えています。手前に見えているのは渡良瀬川の堤防。

 

街道沿いには時折雰囲気のある旧家がありました。

 

ここを通り過ぎたらそのまま進んで堤防に上がります。

 

あっ、これは三角点??、、いや、「+」印が無いから三角点ではなくて、水準点か。

 

堤防に上がったら渡良瀬大橋で渡良瀬川を渡ります。

 

渡良瀬大橋ですが、まず最初に渡るのはこのすぐ下流で渡良瀬川に合流する矢場川。

木の構造物にアオサギが止まってますが、こういう目的のものなのかな?

 

矢場川を越えると渡良瀬川の本流に差し掛かります。足尾銅山鉱毒事件があったんだなあ。さっき通って来た川俣宿にも関連する石標がありました。

 

渡良瀬川を渡ったら、堤防を向かって左側(西北西)に進んでいくと、その足尾鉱毒事件の解決に奔走した田中正造の葬られている寺があるのでそちらに向かいます。

 

田中正造の墓のある雲龍寺が見えてきました。

この辺りからそろそろ旅の終盤戦に入ってきますが、この続きはその9でご紹介します。

 

つづく!

年明け間もない1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の7回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

寄り道も併せた全行程は27~28㎞前後。

 

その6では本来の千人同心街道かどうかちょっと不明ながら古道らしいところで石標に出会った後、龍積寺に立ち寄った後、しぶい建物などを眺めながら県道≒街道筋に戻ろうとしていたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

県道に戻ると、表現は何ですが、「地方都市の県道沿い!」といった感じの町並みで、二階建てアパートの一階が店舗になっている一連の並びの中で「カラオケBAR GOGO!Cherry」がなかなか頑張っている感じでした。

その左隣はFITNESS GYMとドアに書かれていますが、すくなくともこちら側からは明かりが入らないように見えますが、中はどんな風になってるんでしょう。

 

 

その先でY字路に出ます。右側が千人同心街道の進路の県道7号、左側が旧国道122号。現在の国道122号はだいぶ西の方を進んだ後、ここから北の地点でこの旧122号と合流しています。

 

しばらく信号待ちをして県道7号に入ります。館林市の中心に近づきつつあるせいか、ちょっと道路沿いに各種の店が増えてきました。

 

ちょっとおしゃれな装いの店があるな、と思ったら「菓子工房 Kona Hana(粉花)」というお菓子屋でした。「粉から生まれる花のようなケーキを各種ご用意しております」というキャッチフレーズのようです。

街道歩き中にケーキは買えませんが、何だかよさそうなお店でした。

 

その先から、館林の中心地周辺の古い建物が増えてきます。こちらは数年無住なのかな?といった雰囲気の廃屋らしき古民家。木造のしっかりした造りのためか、放置されていてもしっかり立っています。

 

その先で東武伊勢崎線の踏切を斜めに横切ります。

ピントを合わせていたら突然警笛が鳴り出すと同時にバーが上がり始めてΣ(・ω・ノ)ノ!。

 

街道沿いの小さな平屋建てはガラス戸の感じから見て元は何か商いをやっていたのかな?

 

屋根が新しく補修されていますが、入口周りは元々の木枠のガラス戸の残った元商家。

館林、いい建物が残っていますねえ。クルマ通りが多いので、建物を撮る待ち時間がちょっと長くなります。最近はそういう時間も含めて自分の街道歩きのスタイルなんだろうと思うようになってきました。

 

その先、↓の地点で右折してちょっと寄り道をします。

 

蔵のあるちょっと雰囲気のあるエリアを通っていくと、、

 

遍照寺という真言宗のお寺に出ます。こちらは建久九年(1198)に、源氏宗家から分岐した新田氏初代の新田義重(=新田義貞の先祖)の開基。

 

大きく立派な本堂でした。後に館林藩主となった榊原氏の祈願所だったことなどもあって、こうなったのだと思われます。

丁重にお参りした後、石のベンチで十分ほど休憩させて頂いたら街道に戻ります。

 

街道に戻るとすぐにこんな↓見事な元商店を見かけました。一階の戸袋は銅板、二階はお多福窓で元はかなり立派な商店だったことが分かります。後方には新しい二階建ての母屋があるので、建物の手入れはされているようで小ぎれいでした。

 

その先で「器のみせ あかさかすとあー」という、大胆なネーミングというか字面の店舗を見かけました。

 

そこから暫く進んだ右側に龍泉寺というお寺がありました。元々立ち寄りの予定はなかったのですが、街道から2枚下の写真の石仏石塔群が見えたので、立ち寄らせて頂きました。

 

その先の信号交差点を渡ったら、館林の中心地はすぐ近く。館林は後に江戸幕府の五代将軍となる綱吉が寛文元年(1661)から延宝八年(1680)まで藩主を務めた館林徳川家ゆかりの街です。

当時は、尾張徳川家、紀州徳川家に次ぐ家格、つまり水戸徳川家よりも家格が高かったということになりますが、その後 子の徳松が夭折したため、館林徳川家は廃藩になってしまいました。

 

その先で渡った小さな「つるうだばし」は、館林城の堀の役目を果たしていた城沼(じょうぬま)から流れだした鶴生田川に架かっている橋です。

 

そろそろ館林城趾のすぐ近くまで来ると、街道右奥にこんな立派な建物が。

入口と母屋だけ見ると何だか旅館とか料理屋のようにも見えますが間口が狭い気がします。左側の大谷石の蔵が元々こうだったのか、元は右側と同じような建物だったのか。

 

古くからありそうなむさしや小間物店。そもそも「小間物店」という業種自体が今では貴重だと思います。

 

それはともかく、この辺りが館林城の江戸口御門=江戸から続く街道筋に出る門ってことかと思いますが、その跡らしいのですが、まったくそれらしいものが見当たりません。

帰宅後調べてみると、この地点から南西にある宵稲荷神社が「江戸口門跡」としてGoogleマップで紹介されていたので、その神社の風景を転載します。

 

その先の館林駅入口交差点を越えた左奥にも何やらかなり大きな蔵付きのお宅がありました。交差点からこっち辺りが館林の宿場だったので、その名残なのですね。

 

宿場の中心部らしく、商店街の街灯などもありますが、こちらの↓大きな商店も自販機以外は廃業して久しいらしく、全体的にちょっと寂しい感じを受けました。

 

何となく出迎えてくれてる感じの狸の置物。

後方に工事用の柵が見えていますが、今は道路の拡幅工事の真っ最中の様子でした。↓

埼玉や千葉の街道筋って道路を拡張すると、人が左右に行き来できなくなるので、結果人が出歩かず、クルマだけがビュンビュン通り過ぎるようになっちゃうんですよね。日光街道の宿場だった草加や越谷が良い例だと思います。一義的に悪いことだと言ってる訳ではなくて、どうしてもそうなってしまう、という話です。

 

この辺りが推定本陣跡だと思うんですが、石碑などもなく特定はできませんでした。

やや寂し気な心持で館林宿を一人進みますが、続きはその8でご紹介します。

 

つづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の6回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

寄り道も併せた全行程は27~28㎞くらいだと思います。

 

その5では利根川を渡り、川俣宿を通過した後、旧道部分に入ってのんびりした心持で歩いていたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

   

 

その先で四つ辻を通り過ぎると街道左側に、、

長良神社と東光寺の参道入口が見えてきましたので、立ち寄ることにします。

2枚上の写真で鳥居の奥に見事な松が見えていますが、参道はあの松のところで、90度右に曲っているようです。

 

見事な松!はあまり高さがなく、身長170㎝にちょっと足りないくらいの私でも、少し避けたり屈んだりする必要がありました。

 

庚申塔などおの石標が多数集められてします。石標、石塔の向こう側は駐車場でしょうね。

 

参道の正面から長良神社の正面を見たところ。

あっ、左端に見切れっているのが東光寺ですが、この後激写しようとしていたのに、うっかり忘れてしまいました。年のせいにしたいけど、生来のうっかり者が原因だと思います(;'∀')。

 

街道筋なので、元のメインルートでしょうが、付近に太い国道が出来て町が寂れたと見えて、街道沿いには時折更地がありました。

 

上の写真の右寄りに写っているひときわ白っぽい電柱の後方に、白い柱のようなものが見えていますが、それがこちら↓。「阿弥陀三尊像板碑」と書かれています。

が、実物は見えず!先達の人の記録によると、近くの民家の庭先にあるそうですが、入っても差し支え無さそうな範囲には見つからず、止む無く先に進みます。どんだけ貴重な文化遺産でも、庭先に入って来られたら家の方も嫌ですよね(^^;)。その辺りのルールは厳守せねば。

 

その割とすぐ先の矢島公民科にの敷地にはかなり多数の石仏・石塔がズラッ!と並んでいました。

 

その先で小さな四つ辻を越えた先の左側に、子供時代を思い出すような商店があります。食品、飲料、酒のほかちょっとした身の回りのものが全部買える店だったと思いますが、今は自販機営業オンリーのようでした。

 

その斜向かいにまた、長良神社があるので立ち寄ってみることにします。

 

社殿手前の階段の右側は公園になっていますが、寒い日でもあり、子供などの姿はないです。

 

何か長良神社多いなあ、と思いながらお参りします。

その場でググってみると、祭神は藤原冬嗣の長男、藤原長良で、長良神社は館林を中心に多数あるようでした。かつて藤原長良がかつて上野国の国主としてこの地を治め、没後に春日大社の末社として、藤原長良を主祭神として祀ったのが長良神社ということのようです、リンク先の長良さんのWikipediaを見ても、上野国の国主、という記載は無いので、そういう伝説なのかな、と推測しました。

 

街道に戻ります。用水のような水路の脇に街道っぽい、いい感じの松があります。そんなに古木ではないようにも思えますが、こんな松が一本あるとそれだけでH.R.I(Hisitorical Road Index:My造語)=街道指数が上がる気がします。

 

んん?ちょっと登り坂になってますね。ということは、さっき用水だと思った水路は自然の川でそれが作った谷間なんだろうと思います。

ずっと平たい平野を通って来たので、地形の凸凹は歓迎しますよ(*´∀`*)。

 

坂を上がったら↓の地点で右折して県道の方に向かいます。この辺りは旧道の痕跡が消えてしまっているようなので、適当でも大丈夫だと思います。

 

県道に出るとすぐに信号交差点があり、その左奥にあるコンビニでちょっと休憩したら、街道筋からちょっと外れてのどかな農道を通ります。

明治初期の古地図で見てもこの辺りも概ね道は通っていたようなので、「脇道の旧道」とも言えるかも。

 

その先で谷田川にぶつかってやむなく県道に出て橋を渡りますが、古地図を見る限り、脇道の旧道も何がしか川をそのまま渡って先に続いていたようにも見えました。

 

谷田川を渡ると館林市に入ります。

 

千人同心街道はここから先は概ね県道と同じルートだった筈ですが、こちらは古いものが残ってなさそうなので、寺その他のある細道に進むべく、↓の地点で左折して、その後道に沿って右折します。

 

おー、これはこれで古くからありそうな道筋に見えます。

 

シュロの木と噴水のある、瀟洒なお宅などを拝見しつつ先に進むと、、

 

街道右側に、、おおっ、道標なのか?正面以外はだいぶ風化が進んで確認できませんでしたが、正面右側は「安永三年申午十一月吉祥日」(たぶん)、左側がちょっと読みづらいですが、「導師現陣施主〇〇敬白」かな?「慶」は自信なく、〇〇は読めませんでした。

道標では無いのでこれを以て「こちらの細道が旧道!(≧∇≦)」という結論づけはできないけど、安政三年(1774)の石標が残っている以上、移築でなければかなりの古道っぽいですね。それに明治初期の古地図で見た道が明治以降の新道でこっちが古道という可能性もあるかも知れませんね。

 

そこから数分進むと、左側に龍積寺の参道があったのでそちらに行ってみます。

 

上の写真右側に写っていたのは元々民家とその物置か何かのようなうですが、今は損壊状態。

元は何で、どれくらい放置されているのか分かりませんが、まあ先に進みましょう。

 

八徳山 龍積寺の山門。この土地には永享(1429-1441)の頃、赤井勝元が青柳城という城を建てたとされている場所です。

山門左側のお地蔵さんは麻疹地蔵とされていますが、かつてこの近くにあった処刑場で「首切り地蔵」と呼ばれていたのが、こちらに移されてきたんだそうです。穏やかな呼び名になってよかったですね(^^)。

 

こちらが本堂。比較的新しそうですね。お参りしてコースに戻ります。


 

街道?に戻ったら↓の地点で右折して県道の方に戻ります。

 

県道の途中にこんな↓建物があって反射的に激写します。これは母屋では無さそうですが、金属板を使った擬ブロックの平屋看板建築と考えていいのかな?

 

などと考えながら県道方向に戻り館林市の忠臣に向かって進みますが、この続きはその7でご紹介します。

 

つづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の5回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

寄り道も併せた全行程は27~28㎞くらいだったかと思います。

 

その4では新郷の宿場で須永家本陣門を見た後、愛宕神社参りをして、勘兵衛松と呼ばれる松並木を眺めながら利根川越えを目指しているところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

  

 

前回記事の最後にご紹介したお堂(再掲写真の4枚目)から先は、利根川の堤防に向かう右カーブの登り坂が続いています。

冬のせいもあるでしょうが、どうにも殺風景な印象。

 

ストリートビューで2012年に遡って見ると、この付近はまだ緑豊かで左奥には門や越屋根のある古民家が見えていますが、下方のサムネイルを見ると2017年にはもうはげ山状態でした。

歩道も無ければ路肩もほぼ無い、街道ウォーカーには怖い道ですが、風景的に限って言えばこの頃歩きたかった気がします。この辺りには関所の跡碑もある、と地図を作っていた頃には表示されていましたが、坂道を上がってから辺りを見回しても見当たりませんでした。こういうのがあるから、街道ってなるべく早く歩いちゃっておきたいんですよね。

 

坂を上がるとこれから利根川越えで渡る昭和橋が見えています。

上の写真で言うと、一旦右方向に進んだ後、橋の袂の交差点を左折して昭和橋に行くのですが、その交差点で「道の駅はにゅう」という看板が見えました。しかも交差点のすぐ近く。こうなると現金なもので、俄然トイレに行きたい気がして、立ち寄ってしまいました('◇')ゞ。

 

道の駅ってこういう時、徒歩の旅人にはすごく有難い中継基地のイメージです。

 

トイレ後カロリーの高そうなドリンクと「糖分補給カプセル」という名目のグミをゲット!

 

その他、土産品なども売っていたので、「そういえばこれも旅の一種だよなあ」などと考えて、地元の土産用お菓子の軽量小パックを家族の土産用に購入しました(^^)。

 

前回の旅での荒川越えに続いて、同じく関東の超メジャー級大河、利根川を渡ります。

 

おっ、男体山ですね。軽くガスっているのでちょっとおぼろげですが激写!

 

利根川を渡ったらそのまま右折して、利根川北岸の堤防道に入ります。↓は出発点の八王子や江戸方向を振り返って撮った河川名の看板と昭和橋のコラボ。

 

堤防道はすぐに堤防の上をずっと歩く道と、堤防から下りる道に分岐するので、下りる道に入ります。

 

↑の写真の坂を下り切ったら、そこで左折するとそのまま利根川北側の川俣宿に入ります。

↓はあくまで堤防エリアと住宅エリアを分けるものでしょうが、何となく宿場の木戸の名残っぽいイメージになっていて、色気には欠けますが悪くないです( ̄▽ ̄)。

 

その「仮想木戸口」を通過すると最初に左側に見える大きなお宅が、かつて本陣を務めていた塩屋家です。

建築物は全部現代のものでしょうが、立派な門があり敷地も建物も大きく、往時の雰囲気の名残り的なものを感じます。

 

塩屋家以外はあまり宿場だったことを伝えるものは残っていませんが、敢えて言えばド真っ直ぐな道と、向かって右側の細かい土地割りがそれっぽいと言えなくもないですかね。

 

途中、街道左側に粟嶋神社の長い参道入口がありましたが、この先まだかなりの距離があるので、ここは遥拝に留めて先に進みます。

 

しばらく進んでゆくと、街道右側に「川俣事件記念碑」があります。

川俣事件というのは、社会で習った足尾銅山の鉱毒事件に関連したもので、明治33年(1900)に鉱毒の被害を受けた農民などが多数で、銅山の操業停止をお願いするために東京に向かったところ、この辺りで警官隊と衝突して、逮捕者や怪我人が出てしまったものです。(詳細こちら

足尾銅山鉱毒事件と言えば、やはり教科書に出て来た田中正造を思い出しますが、後に関連史跡も登場します。

 

おっ、こういうのがあると嬉しくなりますね(≧∇≦)。

 

あっ、明和町教育委員会の解説もありました。

 

元々商店(酒屋っぽい印象)などもあったようですが、今は街道の一本向こうに昭和橋から真直ぐ続く国道が伸びていることもあり、廃業されてしまったようです。

 

さっき罪な紅茶飲んだばかりですが、いわゆる「格安自販機」的なものに大好物の「月桂冠」の甘酒があったので迷わず購入!

個人的には、街道歩き時の「体力回復の王」と思っています(次点がしるこ)。特に飲料メーカーではなく、酒造会社のこれは味も素晴らしいです。

 

その先で旧街道と、今の国道の合流点が近づくと、興味深い建物が見えました。

「和洋食 味処 いしづか」。店舗の裏側すぐ向こうが国道です。

二台停まっているクルマの奥には「閉店しました」の貼紙が見ていました。推理するまでもなく、街道側に広い駐車場も確保して、ずっと食堂を続けてきたものの、店の裏側スレッスレに国道が開通し、客も入りづらくなって廃業となったのでしょう。

 

その先に道路改修で、ものすごく複雑になってしまった交差点に出くわします。どこが旧道の続きだか分かります?

 

同じ写真にルートを描き込むと、こんな感じ↓

やむなく一旦左側の国道に出て信号を渡り、またこちら側に戻ってくる必要があります。

しかも信号も長い!

 

なんだかんだ言って4,5分かけてようやく反対側に渡り、やってきた川俣宿方向を見ると、、

街道筋が真直ぐ繋がっていたのがよく分かり、軽く「おおっ!」などと感嘆してみます。

 

国道を渡る時のクルマ通りの多さが嘘のように無くなり快適な街道歩きができますが、今歩いているところ、やけに白線の外側が広いので、きっと下に暗渠というか水路がありそうです。

 

あ、やっぱり!

しばらくはこんな感じで自動車レスの快適な歩きが続きますが、続きはその6でご紹介します。

 

つづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の4回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は街道から外れた立ち寄りも含めてざっと27~28㎞前後になるはず。

 

前回の記事では、関東平野の広さを感じた後、花陽浴(はなあび)という手に入れにくい日本酒を作る南陽酒造で列をなして花陽浴を買わんとする人たちを見てすぐに、新郷宿に入ると意外に寂しいその景色に驚天動地の想いだったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

その先の街道右側にある和菓子の「あらい」は、ブロ友さんが通った時にはたしか現役かどうか微妙な様子だったものの、こうしてみるとしっかり現役で営業中なことが分かりました。

 

そのすぐ先の街道左側にこんな昭和な二階建ての建物があり、こちらは、、

 

自分のシルエットが余計ですが、「山田医院」という個人の医院のようですが、ちょっと建物は寂れた印象です。

 

そこから少し進むと、山田医院のすぐ先にはこんな洋館がありました。

これはまあ位置的にも先ほどの山田医院の院長のお宅ということで間違い無さそうです。右側の鋭角屋根といい、左側のマンサード屋根といい、瀟洒な洋館風でカッコイイなあ。

 

更にその先に半円の凸型のファサードのついたこちらの平屋看板建築は、ブロ友さんも「山田医院に付属した薬局」と推察されてましたが、現地で実際の位置関係を見ると、120%合意です。

 

その「元薬局」と思しき建物の先には新しい病院施設が!!

画面外では「山田クリニック」の看板が立っていたので、恐らく院長の代替わりか何かの折に、広いクリニックを建てて、病院業はこちらに移したのでしょう。さっきの二階建て医院が寂れた印象なのはそういうことなんですね、きっと。

 

こういう宿場の街などで、とても頼りになるバス停を見ると、、

「宿中」!宿場の中ほどってことですね。街道筋だとよく「上宿」「中宿」「下宿」という表現はバス停などで見かけますが、「宿中」というのは珍しい気がします。

 

その先、こちら↓が街道ウォーカー的観点からこの宿場のメインイベントとなるものです。

恐らく街道歩きをされる人にはピンと来るであろうこちらは、旧須永家本陣の門です。

 

それらしい外観を保っていますが、現存するのは門のみで、本陣の建物は無くなっています。

 

いろんな指定文化財が残されているようで、羽生市教育委員会の看板には徳川斉昭の和かなどが紹介されています。

 

本陣門も脇から見ると木材で支えてようやく立っているような感じでした。

 

須永家本陣跡の敷地を後にする際に後ろを振り返り、「上新郷のシイノキ」という樹齢400年の古木を激写して先に進みます。本陣門はシイノキの真後ろ方向にあります。

 

宿場風情、とまで言えるかは別として街道筋には古くからありそうなお宅が散見されます。

 

通りに面した部分は古びていますが、立派なお宅で造りがしっかりしているのが分かります。

 

上の写真の古民家の先辺りから少しずつ民家が途切れ、宿場の外れ近くになってきました。

↓の写真の交差点は「愛宕神社前」といい、正しい「+」の形よりもちょっと崩れた感じでした。

そして交差点名の通り、向かって右前方の角には愛宕神社がありますので立ち寄ることに。

 

愛宕神社の参道入口は↑の交差点をちょっとだけ右折方向に進んだところにあります。

この鳥居を潜ったらその先で左折→右折をして本殿に向かう、やや複雑なルートを進みます。

 

本殿に正対したところ↓。

実はこの愛宕神社本殿があるその下は愛宕塚古墳という古墳だったりします。

 

下が古墳で両脇に巨木があると、何となく神様的なものを感じてしまいます。古代の人が山や巨木、巨石などに神性を感じたのと同じような感覚なんだろうと思いました。

 

愛宕神社を辞して街道に復帰すると、街道筋のバス停名は「勘兵衛松」。

この先、長距離に渡って街道筋に松並木があり、その名前が勘兵衛松、な訳です。

 

そこから視界に入るのは、街道筋を長らく歩いていてもめったに見ないような見事な松並木!

 

おっ、解説がありますね。なるほど、歴史の中でどんどん本来の松は減っていき、今、オリジナルの松で残っているのは一本だけなんですねえ。

並木が見事なのは近年になって新たに植えたものが多いからというのもある訳だ。

 

こちら↓は昭和三年建立の勘兵衛松碑。詳細がビッシリ書かれてしますが、光の加減もあって、よっ、読めん( ;∀;)!!

 

碑を読みたかったはやまやまですが、諦めて進むと、その先の街道左側の柵に「賽神社跡」の説明板があったらしいのですが、全く覚えておらず、恐らくカメラの設定か何かに気を取られ、華麗にスルーしてしまったようです。

賽神社、というのはこの先にあった、利根川を渡る関所破りを試みて死罪になった人たちの弔い目的で建てられた神社です、というようなことが解説板に書かれています。

 

その少し先で見かけたお堂には、庚申塔・如意輪観音・地蔵尊三体が治められていました。

 

この先で「坂東太郎」という別名を持つ利根川を渡っていきますが、この続きは次回記事でご紹介します。

 

その5につづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた歩き旅の記録、の3回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

 

歩いた距離は街道から外れた立ち寄りも含めてざっと27~28㎞前後。

 

その2では行田市内で、武蔵用水や見沼代用水を渡った後、激渋な廃墟を発見し、ストリートビューでその変遷を追ったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

暫く歩道がなく路肩の狭い道を歩いて休憩したくなった頃、折よく荒木天満天神社という神社が街道右側にあったので、休憩がてら立ち寄ってゆっくりめに境内をぶらぶらして街道に戻りました。

 

道沿いは空家も多くやや寂しい印象もあるなか、かねがねブロ友さんと生き残り率が高いとやり取りしている床屋が早朝から絶賛営業中で、何となく元気をもらいました(^^)。

 

その先でかなり良さそうな古民家が見えてきました。

 

平屋看板建築の後ろに二階建ての母屋がくっついた構造ですが、、店舗部分が重力に逆らいきれず下に湾曲しているようです。

 

「粉屋 森田商店」元々小麦粉などを挽いて売る店だったんでしょうか。左端には今や懐かしいタバコ販売のカウンターもありますね。昭和文化遺産として残って欲しいものです。

その場でかなり気に入ってしまったので、都合10枚以上撮ってしまいました(≧∇≦)。

 

廃店舗が目立ちます。元々街道筋で商店なども多かったのが、県道になってクルマの通行が増え、歩行に向かない通りになって寂れてしまった、的な経緯を想像します。

 

その先、荒木の交差点で館林方面に向かって右折をします。

 

右折して暫く進むと、街道筋の左右とも広大な田畑が続き、ものすごく見通しが良くなってきました。まだちょっと赤い日光を浴びた「荒木土地改良竣工記念碑」、の向こうにもだだっぴろい平地が広がっているのが見えます。

 

「俺は!今!関東平野を!歩いてるぜ!!」と強く感じる風景です。

育った実家はすぐ近くに低山があって遠くの見通しの効かない地形だったので、何度見ても斬新な、圧倒的な広さ!

 

その先で羽生市に入ります、、が!

 

上の標識のちょっと手前で、県道から右に分岐するのが千人同心街道の旧道なので、そちらに進みます。

 

今はちらほらと住宅がありますが、元々田畑の中を一本、街道が突き抜けているような場所だったのではないかと思われます。

 

しばらく歩いていくと街道は左カーブに差し掛かり、まもなく県道に再合流するのだと分かりますが、↓の写真で道の両側にオレンジ+白のポールと、その外側に白い柵があり、そこには、、

 

柵の外にはこんな用水らしき水路が流れており、地図で見ると見沼代用水から分流しているので、この辺りの農業用水で間違い無さそうです。

 

おっと、ここでほぼ左折するように左カーブをして、県道に再合流するんだな。

 

上の写真でも見えますが、進行方向に小山みたいな緑の塊があります。神社でもあるのかな?

 

などと思いつつ脇を通ると、この林に恐らくは通りがかりのクルマからゴミを捨てる輩が多いとして羽生市役所から警告が出ていました。

市が管理している土地で手つかずになってるということのようですね。

 

上の写真の真後ろ方向の、街道脇からかなりけっこう離れたところには、今度こそ神社の森が残り、浅間神社の社域ですが、ちょっと街道からは距離がありすぎのためパスします。

 

その少し先で急に住宅街に入り、祥雲寺というお寺の横を通り過ぎると、、

 

何やら何かの工場とその先にある大きな店舗のところに大勢の人が列を作って並んでいます。

ああっ、これは前にブロ友さんが別のアメブロガーさんと散策してたエリアですね。してみると奥に見えている交差点を左折する街道ルートの先が新郷の宿場、右折すれば新郷駅方面だ。

 

すんごい人ですね。ここは南陽酒造と言う造り酒屋です。GoogleのAI解説によるとこの南陽酒造は「花陽浴(はなあび)」という、入手困難な幻の銘柄の日本酒を家族経営で作っていて、私の歩いた1月10日前後は新酒の仕込みと出荷の最盛期に当たるのだそうです。

一番前の方は何時に来たんでしょうね。飲食関係その他「レアな商品を得るために並ぶ」、というのは、少なくとも自分自身のためには取らない行動なので、寒い中頭が下がる思いです。

 

その先、上の写真で言うと右方向にある信号交差点を左折して新郷の宿場に入っていくと、元々宿場の商店が並んでいたであろう通り沿いは割と寂しい感じでした。

この2店舗は外観からしても廃業して長そうです。うーん、まあ街道筋にはままあることですが、それにしてもさっきの南陽酒造の賑わいと比べると、宿場に入ったのに寂しい感じだなぁ、などと感じつつ、この続きはその4でご紹介します。

 

つづく!