らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

今とはほぼ正反対の季節にあたる今年2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの記念すべき第一回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間をはらりと歩いた旅の記録その8です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15km前後でした。

 

その7では、㹨川(いたちがわ)という珍しい名前の川のほとりで道標を見て、その先で如何にも上り坂が先に控えてる感じの住宅街に差し掛かったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

少し進むと、街道左側にある横浜市立西本郷小学校の敷地の前に大きな石が。

こちらは街道筋の神社などでよく見かける「力石」で、これは三十貫(3.75kg x 30=112,5kg)もあるそうです。

 

 

そこからさらに進むと予想通り登り坂に差し掛かりますが、行く手に京浜東北線の高架が見えてきた辺りの街道左側に鳥居のある神社と石標群がありました。

神社はお稲荷さん、仏像の方はお地蔵さんに馬頭観音、庚申塔などが並んでいました。

 

その先で京浜東北線の高架を潜って進むと、、

 

高低差のあるY字路に出ます。鎌倉街道中道の順路は左の登り道なんですが、この左側の家に、

 

この付近では珍しいんじゃないかと思われる長屋門が残っています。

 

道幅も狭いし、角度も取りにくく、全体像は諦めましたが、、あれ、、の門扉脇の通用口みたいなところって、、

 

にゃん!(*´∀`*)。何となくバタ臭い感じの風貌のネコでした。

写真を撮ろうが声をかけようがおかまいなしで、何かの境地に達しているようでした(^^)。

 

暫く登り道が続きます。この辺りは一応旧道を歩けているはず。

 

坂を一通り登ったところで公園があったので、おやつ休憩を取ります。

本郷台滝の前公園、、元々付近の高低差のある所に水の流れる滝でもあったような地名です。

 

今回の旅のお供はコレ↓。こしあん派です(つぶあんも好きですが、つぶあん≦こしあん)。

 

ガイドブックとして参照している『旧鎌倉街道探索の道Ⅱ』(芳賀善次郎)の復刻版によれば、この辺りで旧道は真ん前の住宅に突っ込むような進路をとってグルーっと左にカーブしていったようですが、今は住宅街で道が変わっているので、何となーく近いところを歩きます。

 

しばらく歩いていくと旧道ルートに近づいてきますが、まだ住宅を突っ切ってます。

この先を左折して再度右折するとそこから旧街道が復活しているようです。

 

左折して、、横浜市立小菅ケ谷小学校を回り込むように右折すると旧道(赤矢印)に合流!

 

合流したところで振り返ってみると、、まあだいたいこんな感じ。

 

小学校を通り過ぎてさらに進んでゆくとかなり高い鉄塔があったので激写しておきましょう!

 

その先で鎌倉街道中道は、谷間を走る環状3号道路に阻まれて、向こう側と泣き別れになってしまいます。

正面に見えている駐車場と建物の方が本来の進路。

 

やむなくいったん右側に迂回して跨道橋を渡ります。

 

「見晴橋」!フツーの跨道橋の割にいい名前貰ってるね、君!!

 

当然渡ったら環状3号を挟んで、さっき来た方向を振り返ります。

4枚上の写真を撮ったのは金網のある駐車場の左端一番手前の角っこでした。

 

こうなるとカシミール3Dで地形も見なければ!!

本来の旧道ルートはオレンジの線状に進んでいて、最初の環状3号跨ぎショットを撮ったのは〇の地点、真上の写真は〇の地点で撮ったものです。

 

その先がなかなかの細道&かなりの急坂。

そういえば鎌倉街道ってこんな感じな事が少なくない気がします。

 

ずんずん登って見晴らしの良いところに出ました。

 

再び高低差のあるYというかU字路に出ますが、ここは左の高い方を進みます。

鎌倉街道って尾根とか崖っぷちを通ることが多いですね。

 

住宅街ではあるものの、まあ見晴らしはいいですね。

細かい高低差が無数にありそうな地形が続いている感じですね。

 

その先で、門扉から階段を上がるのも幼児には少したいへんそうな「とつかふたばようちえん」の前を通り過ぎたら、、

 

再び跨道橋で今度は桂町戸塚遠藤線という車道を渡ります。

この辺りでは自分のいる所と、写真に写っている跨道橋の中間あたりを鎌倉街道中道が横切っていたと推定されているようです。さっきの環状3号もそうですが、掘って谷間を作ったところに道路を通したのですね。

 

その先で再び登り坂にさしかかり、そろそろ疲労も感じて来たところですが、この旅の残りはその9でご紹介します。

 

あと1回つづく!

ずいぶんと前、冬真っ盛りだった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間をてれてれと歩いた旅の記録その7です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmくらい。

 

その6では、柏尾川の支流の小さな川が形作ったと思われる河岸段丘をひた走る鎌倉街道中道を進み、大船駅付近で山蒼稲荷神社という神社にお参りしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

街道に戻りそのまま進んで行くと、小さな水路の向こうに聳える「芝浦メカトロニクス」という会社のビルにぶち当たって街道がぶった切られていました。

 

仕方がないのでビルの直前の水路の所で右に曲って迂回します。

 

暫くすると車道(前回の記事で横切った松竹離山通りがぐるっと回ってきたもの)に突き当たるので、そこで左折し少し進んだ辺りで鎌倉街道中道に復帰できました。

 

そこから数分歩いて信号交差点を越えると、街道右側に伸びる路地の先に次の目的地が。

ものすんごい高さの階段の上にある青木神社。

 

ええぇ、これ登るのか?どうしようかな、などと考えましたが、遠征してかなりの距離を歩く旅ではなし、合計で15㎞くらいの旅ならあまり体力セーブも要らないと判断し頑張ります。

 

ちなみに、カシミール3Dで見ると、今私が登っている階段がの部分。

すごくないですか、この高低差⁉。

 

「マジで疲れてきたなぁ、おい」などと感じて来た頃合いに現れたのがこちら↓。

「お前、疲れたとか言ってるけど、まだ120段のうち50段しか登ってないよ~( ̄ー ̄)ニヤリ」

みたいな表示です。ここから降りるのも癪だしもう行くしかないでしょう(゚Д゚)。

 

息を切らして120段完遂!お疲れ、>>俺!

息も整わぬままお参りします。

 

階段の登りって目の前の段しか見えませんが、下りって全部見えるので、高い所が苦手なものとしてはビビらざるを得ません。

手摺をとても強く握って無事に下界に生還しました(*´∀`*)。

 

街道に戻るとそのまま登り坂に差し掛かります。

 

上の写真の道路左側には、、庚申塔、地蔵尊、青面金剛碑などが並んでいました。

 

3枚上の写真に写っているモルタル壁の横長住居と、その隣の二階建て住宅がザ昭和!な感じで激写しました。

 

この家の背後は切り立った崖。

この崖が先ほどの青木神社の対面の高低差になるので、鎌倉街道中道は、谷戸の低いところを歩いていることが分かります。

 

2枚上の写真で見られるように、この付近は道幅も狭く、路肩もわずかな幅な道ですが、ひっきりなしにクルマ、自転車そして歩行者が双方向に行き来するので難儀をしながら進んでゆくと、街道右側に「浄土宗 法安寺」というお寺がありました。

 

参道に入るとすぐの左側には、創建以来ここにあるらしい、法安寺の入口石塔がありました。

調べてみると文安二年(1445)の草創とのことなのですごい歴史のあるお寺です。

 

 

敬意をもってざざっとお参りして街道に戻ります。

 

法安寺を出てすぐの街道左側を振り返ると、今泉村不動が祀られていました。

供えられている花も新しいし、大事にされているのですね。背負っている炎は元々紅蓮に塗られていたように見えますね。

 

暫く進むと、県道203号と同23号、それに笠間第139号線という大きめの道路が複雑に交差する場所に差し掛かり、歩道橋を利用してそのエリアを越えます、

 

しかも工事中だったりして、運転免許取り立てで、土地勘も無い人がここに来ちゃうと色々たいへんそうです。

 

その先、新橋という橋で、細い川を渡ります。

川の名前は「㹨川(いたちがわ)」。リンク先のWkipediaによると、動物の鼪(いたち)ではなく、鎌倉街道の出発点(出発点なのか?)に当たる場所なので「いでたち川」の転訛という説が書かれています。

 

川を越えたところには「従是 とつ加道」と彫られた道標が!

 

別の面には「從是 ぐミやうじ道」と刻まれているのですが、葉っぱで読みづらかったです。

 

で、そのぐミやうじ道(右折方向)が鎌倉街道中道なので、そちらに進みますが、分岐点には延命地蔵尊もあるので、素早く激写してから向かいます。

 

と、ここで「"ぐミやうじ"に何か覚えがあるんだよなあ・・ぐみょうじ、ぐみょうじ」、、と思っていたのが、10秒後に記憶に繋がりました。5年前の鎌倉街道下道歩きでお参りしたあの弘明寺だ!

(↓2枚再掲)

あ~、思い出してスッキリした(≧∇≦)。

 

その先は住宅街の入口って感じで、言われなければ誰もこれが古道などとは思いますまい。

 

ん~、前方に丘が見えるってことは、また坂道になりそうですね。

 

とやや疲れを感じてきたところに上り坂が予見されてしまいましたが、この続きはその8でご紹介します。

 

つづく!

 

今は昔、まだ真冬だった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その6です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmくらい。

 

その5では円覚寺を見物した後、鎌倉街道中道に戻り、付近の地形を作った小袋谷川の後ろ姿を見送ったところまでをご紹介しました(↓再掲)

 

少しずつ大船方面行きのクルマが増えてきました。

 

これまたブロ友さんも紹介されていたものですが、電柱に貼られている地名が「台」!

とってもストレートな印象の地名ですが、特に台地っぽい地形でもないのに由来が気になります(ちょっとググったくらいでは由来が発見できませんでした)。

 

ホンダ系の廃店舗(と思います)。二階が錆っび錆びなのと、よく見かけるパターンでHONDAの「H」が落ちてしまって「オンダ」になってしまっているのも趣深い( ̄ー ̄)!

 

これまたブロ友さんも紹介されていたシブい二階建木造の出桁造り商家。

破風も太いし、かなり立派な商家です。クルマが多いんで、これを撮るために反対側に渡ってクルマが切れるのを待つのもなかなかの一仕事。

 

その先の信号交差点を越えて進んで行きます。正面に地味~な橋が見えていますが、鎌倉街道的にはあの辺りは史跡ポイント。

 

その橋の名は水堰(せいしく)橋。鎌倉の出入口に当たる橋です。橋の名前は「水の堰」だからそういうのかな?と思うとさにあらず!

なんでもその昔、源頼朝の軍勢がここで隊列を整えたことから「勢ぞろい橋」と呼ばれたのが、訛って「せいしく橋」、と伝わっているそうですが、私の個人的な感想を言うとですね、、「訛り過ぎやろ(゚Д゚)!

 

橋の名前の由来の不思議さはともかく歴史のある橋なので、享保12年(1727)の「せゐ志くはし」碑が残っています。

ここで鎌倉街道中道は今までの進行方向から右折して進みます。

 

そのすぐ先にも道標があり、えーと、右とつか 左藤さわ  道」かな、これ?

觀音さまの道標、ちょっとありがたい感じでした。

 

その先で横須賀線の踏切を渡ります。

 

ちょうど快速電車が通りかかったので例によって反射的に激写します。

ちょっとだけ切れちゃった(^^;)。

 

踏切を越えたところでそのまま街道から数メートル右に外れると見事な茅葺の山門のお寺が!

こちらは鎌倉で唯一の浄土真宗のお寺、成福寺。境内には、「男はつらいよ」で"御前様"を演じた笠智衆が眠っているそうです。

 

せっかくなのでちゃんとお参りします。

 

境内奥を見ると、房総半島の街道沿いでよく見かけた、岩をくり抜いて倉庫・物置的に使っているのが見えました。鎌倉街道下道でも時折見かけたものです。

他の地方にも例はあるのかも知れませんが、私自身の街道歩きの経歴上は房総半島と、鎌倉付近でしかこれが多数あるのを見たことがないので、ブロ友さんが「房総スタイル」と名付けた住宅の様式と共に、海路ならば至近距離と言ってもよい房総との何がしかの文化的なリンクを感じます。

 

街道に戻ってさーっと歩くと、何やらひどく懐かしいものが目に入った気がして5歩ほど戻ってじっくり見てみると、、

おお、あべ静江さんのコンサートのポスターでしたか。ググってみると今は70歳を超えているようですが、まだ現役で頑張っておられるんですね。失礼ながらイメージよりも自分との年齢差が少なかったです('◇')ゞ。

 

ただの住宅街の道と言ってしまえばそれまでですが、まあ道幅や曲がり具合はなかなか鎌倉街道らしい気がします。

 

この道幅に歩行者、自転車、そしてクルマが通るので時たま、凹んだところでやり過ごしたりしながら進みます。

 

その先で鎌倉街道中道は「松竹離山通り」を横切りますがその交差点の右奥にこんな道標が。

五街道のように比較的近世の街道なら例えば宿場の本陣や旅籠、それに道中の一里塚など、遺構がそれなりにありますが、鎌倉街道はそうした遺構も少なく、また道も分断されていることも多いので、こうしたモニュメント的なものは、歩いている身としては有難い限りです。

 

その道標の背後にはちゃんとしたお堂に安置された「離山富士見地蔵尊」が大事に祀られていました。

「離山富士見」とあるので、元々ちょっとした丘の地形で富士山が見えたのでしょう。

丁重にお参りして先に進みます。

 

その先では明らかに街道の右側だけが高い地形になっています。鎌倉街道は「尾根道」を選んで通っているイメージですが、河岸段丘のどてっ腹かな?

 

などと考えてGoogleマップを見てみると(当日はスマホで)、、がおおむね私のいるところ、その左下の地図マークがさっきの離山富士見地蔵尊です。

で、やはりというか歩いている通りの左側に平行するように川が流れていますね。この川は、大船駅の近くで前回まで見かけていた小袋谷川に合流し、その先で柏尾川に流れ込みますが、やはり、河岸段丘だったようです。

 

時折のんびり走る自転車や歩行者と行き交います。

 

おお、民家の庭先に井戸のポンプがありますねえ。

街道遺構という訳ではないですが、今も現役のようで何かいいですね。

 

街道の左右でこれだけ高低差があるので、切土、盛土をけっこうしたんでしょう。

 

街道左側にくねった下り坂があります。この写真で見るよりももう少し急坂だった印象です。

 

大船駅にほど近い交差点。横切るのは「芸術館通り」。大船市の美術館的なものが通り沿いにあるのかな?

 

暫く進んだ後、街道右側に少しコースアウトすると「山蒼稲荷神社」があるので、立ち寄ってざっとお参りして先に進みます。

 

その7につづきます!

今は昔、まだ真冬だった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その5です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmといったところ。

 

その4では不思議な形状の古民家「かまくら陶芸館」を見た後、円覚寺見物を始めたところまでをご紹介しました(↓再掲)

 

この時点でかなり予定していた行程よりも遅れてしまっているし、神社仏閣巡りが主目的ではないのでこちらの円覚寺もかなり駆け足で巡ることにしました。こちらは仏殿。

 

仏殿のすぐ左わきにあった小さめの建物が選仏場というんだそうです。梅を正面に置き過ぎました(^^ゞ。

選仏場というのは座禅の修行をする僧堂で、大変重要な場所なんだそうです。こちらは元禄十二年 (1699) の建立で、伊勢長島城主 久松松平氏松平忠充が大蔵経を寄進すると共に、それを所蔵する場所と僧堂を兼ねたものを建立したんだそうです。

 

ものすごく奥行きのある境内。

 

右側奥にある唐門を通って方丈と庫裏の間にある庭に入ります。

 

ずらっと並ぶ石仏類。

 

真夏寸前の今だとピンと来ませんが、この時期の梅は良かったなぁ。

 

庭を出て、方丈(写ってる建物)の向こう側に進むと池のある庭園に出るのでここで冬景色を激写します。

お寺って冬の景色は結構似合う気がします。

 

奥まで続く参道に戻って進むと、左側に妙高池がありますが、季節柄なのか手入れ中なのか、池の水が半枯れでした。冬で降水量が少なく、谷戸から湧き出す水も少ないのかも知れませんね。

水が満ちているとかなり風情がありそうですが、残念!

 

ちなみに有名な舎利殿は、通常は一般公開していないので、立ち寄っていません。

さて、その気になればまだ見るところは幾らでもありそうですが、そろそろ街道に戻りましょう。

 

あれ?この岩の崖は削ったものですね、、、

してみると少し岩盤を削って境内のスペースを作ったということか。重機の無い時代のそれはたいへんだったことでしょう。

 

境内に案内の道標が!

鐘のある方向を示しているのですね。超ローカル道標だ(^^)。行ってみましょう。

 

・・・と、思ったけど遠そうなのでパス!

鎌倉近辺の鎌倉街道はアップダウンが多いイメージなので、弱気な私は体力保全優先!

 

鐘の代わりにゃなりませんが、大きな切り株など激写して境内を辞します。

 

北鎌倉駅入口辺り。鎌倉方向の道路が完全に渋滞になってきました。車が多いのもそうですが、信号の場所とタイミングが悪いようにも感じました。

まだこの頃9時そこそこくらいなんですがもう渋滞とはいろんな意味でさすが鎌倉。

 

暫くは道沿いに戦後の看板建築などが並びます。

真ん中辺りに写ってる看板建築はファサード 

てっぺんがちょっと段差になっています。

 

さて、ここらで漸くちょっと楽しみにしていた物件にたどり着きました。半年くらい前にブロ友さんのPIASさんが取材していたコーヒーショップ「ジャンヌダルク」。

 

アップで!

そのブロ友さんの記事の頃と全く変わらず、入口上部のテントはボロッボロ。廃業しているようにしか見えませんが、Googleマップで見ると(↓)現役的な表記になってますが、まあそれはないでしょう。

中央右下にオレンジの地図マークがついているのがジャンヌダルク。看板建築の母屋部分はけっこう古そうな住宅ですね。しかも店の後方にはかなりの樹木や、L字型の家屋や、茅葺被せ屋根っぽい大きな家屋が幾つも見えています。

 

ジャンヌダルクの前から20mほど進むと、小さな水路を越える橋に差し掛かります。その名も「十王橋」(鎌倉方向を振り返って撮ったもの)

この十王堂橋、2枚上のGoogleマップのキャプチャを見ると、画面左側中央に「十王橋(鎌倉十橋」とあり、それがこの橋なんだそうです。

 

十王堂橋の下を流れる水路。

この水路は奥まったところで右に曲っているように見えたので、ちょっと街道から外れてその先を見に行きます。

 

おお、My橋に近いレベルのコンクリ橋がいいじゃないですか(^^)。

 

先述のブロ友さんも記事で書かれていましたが、この川は小袋谷川という名前で、こんな細い川でも長い時間をかけて地面を削り、北鎌倉付近の谷間地形を作った偉い?川です。

 

街道に戻ると、生け垣がきれいに整った、しぶーい平屋の住宅があります。

屋根や壁は古いままながら玄関は劣化したのかサッシに変わっていますね。大事に住まわれているのでしょう。

 

街道左側の電気系の工務店のような会社の看板建築を見ながら進みます。

 

その先にまた街道から逸れて、先ほどの小袋谷川を跨ぐ橋が見えたので行ってみます。

手前右側の倉庫がシブいなあ。

 

小袋谷川はもう少し先で川幅が広がり、やがて大船駅近辺で柏尾川に合流します。

ゆくゆくは立派な川になるんだぞ(´;ω;`)ブワッ。

 

そろそろいわゆる「鎌倉圏」から離れててゆきますが、この続きはその6でご紹介します。

 

つづく!

冬真っ盛りだった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その4です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmといったところ。

 

その3では鎌倉五山第一の建長寺で、釈迦如来像を拝んだり、重文の唐門を見たところまでをご紹介しました(↓再掲)

 

鐘楼をちゃんと見ていなかったので、行ってみましょう。

 

歴史の重みを直接感じるような外観の梵鐘。

それもそのはず、こちらの梵鐘は、建長寺創建当時の数少ないい遺品で、建長七年(1255)、鋳物師物部重光作なんだそうです。

 

今回は寺社見物が主眼ではないので、これで建長寺も一通り見た事にして、境内を辞そうとすると、入って来た時に気づいていなかったさざれ石が参道脇にあったので、通りすがりに激写。

 

時間が経てばこの辺りはクルマの渋滞で一杯になりそうだし、この先にはまだ円覚寺もあるので急がねば!

 

急ごうとしているそばから、街道右側に傷んだ房総スタイルの平屋住宅を見つけました、

屋根も破れて、玄関辺りも傷みまくっているのに、手前右側の塀だけが妙に新しいなあ。

 

傷んだ房総スタイル住宅の斜向かい=街道左側にある第六天社という神社にお参りしようとしましたが、石段が傷んでいるためか、立ち入り禁止。

それよりも鳥居のすぐ左後ろの「安部清明大神」という碑の方が気になります。夢枕獏の小説でちょっと認知度が上がり今年の大河ドラマにも出演中の安倍晴明とはちょっとずつ字が違いますが、鎌倉では数か所同じ碑があるようで、一説には安倍晴明が鎌倉に赴いた事のある証左だ、とも言われるそうですが、どうなんでしょう。

 

更にその先の街道左側に入口のある長寿寺、の手前にある登り坂は、Googleマップでは○に∴の「史跡」マークのある亀ヶ谷坂。

前を行くおっちゃんの佇まいが何やらシブいなあ、などと思いながらちょっと登ってみます。

 

へえ、この亀ヶ谷坂は、『三丁目の夕日』で有名な漫画家、西岸良平のまんが、『鎌倉ものがたり』で取り上げられていたんですね。ほんわりした不思議・軽いホラー的な内容で大学時代によく読んでいた作品です。

 

亀ヶ谷坂の途中で、ついでに長寿寺にお参りしようなどと調子のいい事を考えましたが、こちらからは立ち入り禁止。

 

柵の外からざっと覗いてみます。

 

坂に戻ります。鎌倉時代にここを人力で切り通すのはたいへんだったでしょう。

 

更に進むと道幅も狭くなって、往時の雰囲気が漂ってきました。

先も急ぐし、まあここら辺りまでにしておきましょう。

 

さて、参道正面から長寿寺にお参りしましょう、、と思いましたが、結局入れないんか!

見事な茅葺の山門、潜ってみたかったのでちょっと残念!

 

「湘南クッキー」自販機と、時々見かける自称「豪華な品が当たる」の1000円ガチャ。

何度か「今日こそ一度だけやってやるぞ!」などと思ったこともありますが、そのたび胡散臭くてやめた経緯があります。

 

まだクルマの少ない鎌倉街道中道。ジョギングや鎌倉見物の人たちは減ってきました。

自転車はけっこう双方向で見かけます。もう少し進むと北鎌倉駅のすぐ近くに円覚寺があるので、また人だかりができそうです。

 

さきほど乗って来た横須賀線の踏切を渡ると、、

 

その先の左側にこんな建物が。Googleマップでは何の表記もありませんが、「ごくフツーの家」って訳も無さそうなのでカフェか例えば「ビール+料理」の店とかだったのかな?

 

フジカラーの看板のある、、これは看板建築どころか、プレハブの小屋ですね。

右に見えている家の方がフィルム販売と現像をしていたんでしょうか。現役感はゼロで、自販機営業もやめてしまってます。

 

こちらは房総スタイルの屋根に玄関などの破風がくっついたタイプですね。

半月ほど前にブロ友さんが蓮沼アスリート通りにあるうなぎ屋で、ちょっと近いスタイルのものを紹介されていました。

 

こちらは、、何と表現すればいいんでしょう。こちらから見る限りでは茅葺被せ屋根の住居が通りににじり寄って長屋門にめり込んだような不思議な姿の古民家です。

向かい側斜線のクルマが掃けた瞬間を狙いましたが、右下隅にクルマが見切れている通り、かなり道路が渋滞して、向こう側に渡るのもままならず詳細確認できませんでしたが、帰宅後調べてみるとこちらは「かまくら陶芸館」という施設であり、家の向こうには庭園のあることが分かりました。

 

円覚寺が近づくともう、人とクルマでめっちゃくちゃ。

 

途中で右に曲って、横須賀線の踏切を渡り、円覚寺に向かいます。

こちらは先ほどの建長寺に続く、鎌倉五山の第二位。

 

階段の途中で激写したくなる気持ち、よく分かります!

 

中学・高校の頃、社会科の資料集でも見かけた山門です。

 

圓覺興聖禪寺(えんがくこうしょうぜんじ)が正式な名前なんですね。山号は瑞鹿山(ずいろくさん)です。

 

ここからショート円覚寺見物に入りますが続きはその5でご紹介します。

 

つづく!

冬真っ盛りだった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その3です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmといったところ。

 

その2では鎌倉街道中道の旧道が残る巨福呂坂が途切れるところまで登っていた後、千葉県は房総半島によく見られる、ブロ友さん命名の「房総スタイル」の住宅を見つけたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

現代の街道=県道21号、横浜鎌倉線に戻ります。歩きながら目にしたのが曹洞宗の開祖、道元の顕彰碑。一応実家の宗派が曹洞宗なので敬意を表して激写します。

 

その後方は崖になっていて、あの崖の向こう側にさっき歩いた、旧道の巨福呂坂があります。

 

この日の靴はここ一番のDanner Field。長い歩きでも、足元が悪い時でも安心!

 

巨福呂坂のトンネル(実際は落石防護施設)の入り口ですね。この左上方を本来の街道が通っていた筈です。

 

おっ、岩石が露頭していますね。鎌倉だし、ぱっと見た感じからも凝灰岩なんでしょう。

 

おや、こんなところに史跡案内?と思ったらトンネル=落石防護施設を作った時の碑でした。

平成五年=1993なので比較的新しいもののはずですが、史跡チックになりかけています。

 

散歩なのかご同業(街道ウォーカー)なのか?と思いましお多が颯爽と足早に歩かれていたのでご出勤かもしれませんね。

 

このトンネル状の落石防護施設を抜けたら、まず前回記事からの持ち越しでやることがあります。はい、水路隧道の反対側を確かめるのでした!

 

細かい金網で撮りづらいのですが何とか鉄製の扉の端っこから。。

向こう側が確認できました。前回記事の写真と対になるものです。

 

そしてもう一つ、巨福呂坂の坂上で、刀研ぎ師さんのお宅あたりで途切れていた旧道の続きの推測ですが、、崖を切り通す前はざっくり言って右の電柱の辺りを通ってもう少し江戸寄りのあたりで今の道路の高さに下りて来ていたんではないかと思います。

 

では巨福呂坂周りで観察したかったことも一通り終えたので、先に進みましょう。数分歩くとすぐに街道左側に円応寺(えんのうじ)というお寺があります。

こちらはご本尊が閻魔さまで、さらに「三途の川の渡り賃の六文銭が払えない亡者の服をはぎ取る」と言われる奪衣婆(だつえば)の像もあり、何となく地獄オールスター的な感じです。

 

拝観してみたかったのですが、まだ9時(開館時間)前だったので、ここで軽くお参りして去りましたが、柵も無いしホントはもう入れたのかな?

 

深くは立ち入らずに茅葺のお堂を激写して次の目的地に向かいます。

 

次の目的地はこの斜向かいにある建長寺鎌倉五山中 第一位の名刹です。

五山全てに行きたいのは山々ですが、あくまで今日の目的は街道歩きであって鎌倉見物ではないので建長寺とこの先通過する円覚寺(五山第二位)のみ立ち寄ることにしましょう。

 

鎌倉幕府第五代執権の北条時頼が開いたお寺なので、これでもかというくらい、北条家の家紋、三つ鱗がバーンと目に入ります。

そういえば、けんちん汁は「建長寺汁」が訛ったものだとよく言われますが、どうなんでしょう?けんちょうじじる→けんちょんじる→けんちんじる、的な経緯?音声学的には少し不自然な気もしますが細かいことはいっか!

 

境内の規模感が尋常ではないですね。さすが!

 

巨大な山門。左下に写ってる方々との比較で大きさがお分かりいただけるかと。

 

こんなでっかい扁額、あるんだ!というのが率直な感想です。

 

ささっと横に移動して鐘楼を激写。歴史の重み感がすごいです。

 

ちなみに山門にはおびんずる様(賓頭盧尊者)が座しておられます。釈迦の弟子の一人。

本来は「ピンドーラ・バーラドヴァージャ」さんでこの「ピンドーラ」を中国で漢字にしたのを後に日本人が読んで「びんずる」になったんですね。

自分の体の悪いところに相当するところを撫でると良くなる、と書いてあったので腰のほか、アタマを撫でさせて頂きました(≧∇≦)。

 

仏殿!冬の休日の朝早くだったので比較的空いているのが幸いです。

 

円覚寺では、商用でなければ撮影は禁止されていないので、フラッシュなどは使いませんが、宝冠釈迦如来像の尊いお姿を激写させて頂きました。

 

目を惹かれてフラフラと激写しに行ったのがこちらの唐門。国の重要文化財です。

この時は何も知らないまま「何か日光東照宮にありそうな、江戸っぽいデザインだなぁ」と感じていたのですが、今記事を書きながらググってみると、「東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人(お江の方)の霊屋(おたまや=墓のお堂)の門として建てられました。」(のが寄付されてこちらに来た)とあったので、そりゃ似てる訳ですね。

 

仏堂を横から見ると「かっぽれ」という文字がやたら目に入ったので思わず激写!

 

建長寺めぐりはもう少しだけ続きますが、つづきはその4でご紹介します。

 

つづく!

冬真っ盛りだった2月3日()に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その2です。

 

今回歩いたルート地図は↓。

歩行距離は寄り道含めて15kmといったところ。

 

その1は、街道のご紹介どころかモタモタしているうちに、鶴岡八幡宮の境内入口の鳥居にたどり着いたところで終わってしまいました。

 

こちらの常夜燈は、1862年(文久2年)に江戸と大坂の砂糖問屋それぞれ砂糖を輸送する船たちの無事な航海を祈って奉納したもので、こちらは江戸側のもの。反対側には大坂のものがあったのですが、撮り忘れてしまいました('◇')ゞ。

 

本殿に向かう参道の様子。今日は何かお祭りがあるのですね、きっと。

 

いきなり体力使いそうですが、頑張って旅歩きの無事を祈りに行きましょう。

 

5年弱ぶりの鶴岡八幡宮でお参りします。

 

参道を少し戻ると、西方向(参道から本殿に向かって左方向=前回歩いた下道とは逆方向)に出る道=流鏑馬馬場があるので、ここを鎌倉街道中道の出発点として、スタート!!

梅がきれいで良い出発になりました(^^)。

 

鳥居を出ると右方向に進みます。すぐに鎌倉を囲む丘に差し掛かるせいかすでに登り坂。

 

八幡宮の北西方面の鳥居の前を通り過ぎたら、、

 

左に曲がって、旧道の残る巨福呂坂(こぶくろざか)に入ります。ここは切通しが残り、昔の雰囲気が味わえる部分です、、が、、いきない工事中の看板が、、。

ま、とりあえず行けるところまで行ってみましょう。

 

工事は切通しの崖の工事のようで特に障害は無く先に進むことができました。その先に、、

左側に閉じられたトンネルっぽい構造物と、右側に見るからに旧道の香りのする道があります。

もちろんまずトンネルを覗いてみますよ。


鉄格子の隙間からレンズを入れてみると、、カマボコ状の真っ直ぐで上り坂になったトンネルの反対側にちょっと明かりが見えていますね。Googleマップを拡大してみると「巨福呂坂送水管路隧道」という遺構のようで、横須賀の海軍が横須賀まで水を引いていた水路の跡です。

まあ戦争遺産ですね。できれば後で反対側からも覗いてみましょう!

 

ここでカシミール3Dからキャプチャした画像で地形を見てみましょう。黄緑のラインが現代の鎌倉街道(車道)、ピンクのラインが巨福呂坂の旧道、丘の中腹で途切れています。

そして真っ直ぐに高低差を無視して真っ直ぐ突っ切っているオレンジのラインがその

黄緑のラインが送水管路隧道です。どうやら新道で巨福呂坂の向こうに出るとトンネルの反対側が見られそうですね、これ。それにしても何ちう複雑な谷戸地形なんでしょう。

 

トンネルを離れて旧道方面に向かうと勾配が厳しくなり、向かって左側に青梅聖天社という神社の参道入口が見えました。

ほっほう、風情がありそうですね、どれ鳥居から見上げてみると、、

 

うん、これはパス!

この後あちこちで、神奈川県特有の長い階段を上り下りするので、ここでこれ以上体力削るのはやめておき、階段したからお参りしてそそくさと先を急ぎます。

 

お、水仙ですね。

 

なんか後ろに萎れたのが入ってました(^^;)。

 

水仙の向こうには石仏石塔群がありました。庚申塔や道祖神が多数。

 

旧道を歩けるところまで歩き、もしも可能なら多少無理してでも旧道のまま巨福呂坂の峠を越えたいものですが、はたして、、

 

現代風ですが、なんか「ビシッ!」っとした感じのお宅が。

 

何と!刀研ぎさんのお宅でしたかΣ(゚Д゚)。

さすが鎌倉というところでしょうか。

 

もうちょっと道が続いているので進みます。旧道そのまんまな感じ。

前方にロープが張ってあるので、行けるのはあそこまででしょうね。

 

刀研ぎさんの物置らしきところで行き止まりになったので、この先も気になりますが引き返しましょう。

 

坂を下りる途中で、ブロ友さんの以前のシリーズ記事と呼応するように、房総スタイルのお宅が!

房総と鎌倉は陸路だと鎌倉街道ー房総往還で繋がってなくもないですが、海路だとすぐなので、文化伝播した可能性が高いと時々盛り上がるやつです。

 

記事2回も使ってまだ鶴岡八幡宮を出てから僅かしか進んでおらず何ですが、痕跡の少ない鎌倉街道のこととて、おそらく鎌倉近辺を離れると急に進行が早くなることを期待して、続きはその3でご紹介します。

 

つづく!

もう4か月以上も前、まだ寒かった2月3日(土)に、鎌倉街道中道歩きを始めました。

もう何年も前に鎌倉街道下道の内、自宅最寄の松戸から鎌倉までの区間を歩いたことがありましたが、それがコロナ前の2019年8月だったので、4年半ぶりの鎌倉街道シリーズ第二段です。

 

鎌倉街道中道は、埼玉県の川口辺りまで行くと、以前歩いた日光御成道と重なってしまうので、今回は川口まで5,6回かけて歩く予定です。

 

今回歩いたルート地図は↓。歩いた距離は寄り道含めて15kmくらいです。

 

当日は朝かなりの早起きをして、8時前にJR鎌倉駅に到着。さ、寒っ!!

あまりの寒さに体がバリッバリになってしまったので、すぐにホットの缶コーヒーで暖を取ってから、まずはいったん若宮大路を由比ガ浜方面に向かいます。

 

記事としてはこのあたりで一度、カシミール3Dを使って地形ごとラフに鎌倉の全体を見ておきましょう。

画面中央からやや左下向きに広がる、細めの扇状地が鎌倉です。扇状地の周辺は小さな谷津が入り組みまくって、ものすごく複雑な地形になっている事と、海方向以外は全部山に囲まれていることが分かると思います。

ちょっと主要なものを上の地図に足すと、、

ライム色のが鶴岡八幡宮、赤い直線がその若宮大路、その下に見切れている海が由比ガ浜、鶴岡八幡宮から左上にひょろっと伸びているピンクの線が(現代の)鎌倉街道中道です(もちろん実際はもっと遠くまで続いています)。

 

鎌倉駅(赤い若宮大路の真ん中辺りの左側あたり)から若宮大路に出て、一旦海方向に向かいます。以前ブロ友さんが鎌倉散策で紹介されていたものをチラッとだけ見たいからです。それが:

これら!鎌倉市農協連即売所と、鎌倉中央食品市場です。まだ8時くらいなので完全にシャッター閉まっているかと思いきや、もう活動開始されていました。

冬の朝のこうした風景は雰囲気があっていいなあ、とにかく寒いけど。

 

一旦駅の方に戻り、小町通りの方に進みます。「八幡宮近道」の鳥居。

 

昼間だと、人ごみが苦手な私は絶対に通らないような人の密度になってしまう小町通りですが、朝8時過ぎはまだ人出も少なく、スタスタ歩けました。

和牛にぎり寿司、、興味ありますが店が開くのは何時間後でしょう(^^;)。

 

わざわざ小町通りに行ったのも、これまた以前ブロ友さんが紹介されていた風景が見たいからで、それがこちら↓。

小さな橋とその下を流れる川の風景を激写したかったのです。

 

うーんいい風情ですね。石を組んでちょっとした滝みたいになってるのもいいなあ。

 

ここから、一旦鶴岡八幡宮でお参りをしてから街道歩きに入るので、若宮大路に向かいます。

上の写真の川の下流に当たる部分は暗渠化されていて工事中でした。

畳が敷いてありますね( ゚Д゚)。クッションには廃畳が便利なんかな。。

 

せっかくなので若宮大路の鳥居を潜っていきましょう。

 

冬景色ですねえ。

 

やはりブロ友さんが紹介されていた建物をいくつか拾っていきます。こちらは元ラルフローレンの店舗だったものが三井住友銀行の鎌倉支店になっていた、、のですが私が歩いたこの日には入口が封鎖されて銀行の看板が無くなっとる( ゚Д゚)!

また何かに変わるのかもしれませんね。こちらは重厚な古い建物「風」のよくできた建物です。

 

デザイン、佇まいが実に素晴らしい「物産貝細工製造卸湯浅商店」。こちらはテントにある通り「登録有形文化財」。

これまたテントにある通り今は物産館として第二の人生を送っています。

 

そしてこちらが現役の酒屋の三河屋。サザエさんに出てくるのとは大違いです。

建物のすばらしさは言うに及びませんが、細部を見たいところがあるので、参道を離れて店舗に寄ってみます。

 

うっはぁ、カッコいいなあ。

あ、店舗右側の、これもまたブロ友さんが紹介されていたものは必ず見なくては!

 

商品運搬のための自家用トロッコのレール!!

またちょっとクランク上に曲がっているのがいいなあ。10mくらいでいいから乗ってみたい!

 

さらに見たいものがあるので、この自家用トロッコとは逆方向=三河屋の左側の方に回ってみます。小池小路、ゲートがあって小路の名前が書いてありますねえ。

 

自家焙煎珈琲「玄」。「玄人的な趣でやらせて頂いています」的な感じでしょうかね。

こだわりのコーヒーが飲めそうで入ってみたいですが、開店は2時間後くらいでしょうか。

 

さて、こちらが見たかったもの。

大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で、「トキューサ」の愛称で人気を呼んだ、北条義時の弟で、連署(執権と連盟で署名をする、ナンバー2)を務めた、北条時房の屋敷跡の碑です。

 

(トキューサ近影)

 

三河屋の、若宮大路を挟んだはす向かい辺りには、私の愛してやまぬ英国の名探偵の姿が!

英国アンティーク博物館という施設だったようです。

 

緑青の吹いた銅板葺きの戸袋のある店舗などをしげしげと眺めながら、、

 

鶴岡八幡宮の境内入口まで到着。常夜燈の下で撮影中のおねーさんとコラボ的になりました。

この15秒後にはお互い姿も見えなくなりましたが、まあこれもご縁と言えるでしょう。

 

この後、八幡宮でお参りをして街道歩きスタートですが、意外に長くなったので続きはその2でご紹介します。

 

つづく!

昨年12月9日に、旧東海道の関宿から、前回シリーズの伊勢参宮道の津宿までを結ぶ伊勢別街道をねり歩いた記事のその13です。

 

当日歩いたコースは↓。

歩いた距離は寄り道含めて20kmちょっとくらいだったと思います。

 

その12では、伊勢参宮道との合流点にほど近い地点で大乃己所神社や慈眼寺のお参りし、ブロ友さん命名の「入母屋城」を愛でたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

自然な緩いカーブになっているのが街道っぽいと言えなくもないですが、遠くに大きな建物も見えているしだいぶ都市圏近郊にやってきた感がありますが、、

写真右側、電柱の奥の建物はちょっと良さそうですねえ。

 

寄ってみました。屋根も下屋もちょっと歪んでしまってるし、屋根は右端の瓦が欠損しています。

当初奥に見えている住宅と同一世帯かと思いますが、Googleマップの空中写真で見ると別世帯のようだったので、今は無住になってしまった空家と思われます。

 

その先で近鉄の踏切を渡ります。スピードから言っても津駅が近そう。

欲を言えばもうちょっと踏切近くで激写したかったです。

 

踏切を渡ると街道は自然に右側にカーブし、何となく「見覚えのある場所の延長線上」的な雰囲気になりました。陸上競技で言えば「最終コーナーを回りました!」的なやつですね。

そして歩きながらだったので写真思い切りブレとるΣ(゚Д゚)!

 

だいぶ現代風にリノベされていますが元々は連子格子+袖壁+(恐らく虫籠窓)+幕板仕様であったろう住宅があったので激写します。

 

ああ、左に見えるのが、2か月前の4日間の伊勢詣での旅で見た記憶も新しい、伊勢参宮道と伊勢別街道の追分の常夜燈だ!

 

安永六年(1777)の常夜燈。

 

そして常夜燈の足元の道標。

伊勢別街道としてはここでゴール!!!です。おめでとう>>俺。

 

ここまでやってきた伊勢別街道を振り返ります。左に見えているのがさっきご紹介した袖壁+幕板物件。

 

せっかくなので、この追分で二つの街道が合流する様をじっくり眺めます。すごく広角にしたいので、ここからはしばらくスマホ写真になります。

正面から志登茂川を渡って交差点で左折(画面では右側に曲がる)しているピンクの線が伊勢参宮道。左方からやって来て伊勢参宮道に合流するオレンジの線が今回歩いた伊勢別街道です。

 

逆アングルから

今更ながら感じたのが、なんか、伊勢参宮道の道幅広すぎない?という点でした。

 

ブロ友さんがよくGoogleストリートビューの過去写真をタイムマシン的に使っているので、同じ手法を使うと、、やはり元々道幅拡張する前はビルが立っていて、常夜燈や道標ももっと手前側にあった訳だ!

 

で、少し後の写真はすでにビル取り壊し+道路拡張中+常夜燈と道標大幅移設してます。

2枚上の写真で左側に見えていた茶色い塀のお宅は立ち退きしたのですね。

 

本来の追分は交差点の真ん中近くくらいにあったということになりますね。

 

さて、伊勢別街道はゴールしましたが、津から特急に乗って名古屋に向かうのでここからは、前シリーズと同じ道を歩きます。津宿に入っていくところですね。

 

寛永年間創業の酒造店、阿部喜兵衛商店ももちろん健在です。相変わらず見事な建物。

 

前回道路工事で通行止めになっていた部分は、、工事は終わっていないものの通行可能なようです。進みましょう!

 

ああ、これこれ。前回工事で見られず、ストリートビューだけで見た袖壁物件。

2か月越しでようやく見られました。虫籠窓に連子格子、ちょっと破れた幕板とフルスペックの見事な佇まい。

 

逆側からも。うーん素晴らしいですが、人の住んでいる気配が薄い気がしますがどうでしょう。

 

小丹(おに)神社でちょっとしたお礼参り。無事に歩けました、有難うございます!

 

津駅近くは道路拡張で前回同様風情が無くなっていますが、、

 

元は歩道のあるところいっぱいまで商家が並んでいたのでしょう。

 

お、現代の「伊勢参宮街道」の標識ですね。最後にいい記念になりました。

 

前シリーズの初日で歩き旅を切り上げた地点でこの日の徒歩旅終了!

街道としてはここからは、伊勢参宮道の旅、二日目に続きます。

 

右折して津駅に到着!

 

食べていなかった昼食と、家族への土産を買いこんで、近鉄の切符を買おうとすると、ちょうどタイミングよく以前から乗りたかった「特急ひのとり」に乗れそうなので迷わずその切符を購入、これで名古屋まで帰ります。

ちょっと反射しちゃってますが、画面中央から少し左上に微かに見えている火の鳥のエンブレムがカッコいい(≧∇≦)!!

 

大満足で帰途に就いたのでした。

 

これにて伊勢別街道の一日歩き旅終了です<m(__)m>。

前回シリーズと今回の旅でかなり出費をしてしまったので、しばらくは関東近郊の街道を歩くことにしました。次回からは近郊の街道、鎌倉街道中道シリーズに入ります。

昨年12月9日に、旧東海道でもトップクラスに街道情緒のある関宿から、前回シリーズの伊勢参宮道の津宿までを結ぶ伊勢別街道を歩いた記事のその12です。

 

当日歩いたコースは↓。

歩いた距離は寄り道含めて20kmちょっとくらいだった筈。

 

その11では津市中心部近くの、真宗高田派本山専修寺にて、写真では表現しかねるほどスケールの大きすぎる建造物を見た後、しばらく離れていた旧道ルートに復帰したところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

旧道は再び住宅街の中を進みます。道幅がまさしく旧道の頃のままだろう道をかなり多くのクルマが通行するので、ちょっと注意が必要。

 

蔵付きで門も塀も立派な旧家などをしげしげと眺めながら進みます。

 

上の写真の旧家の左側にあったコンクリの大きな蔵。

 

!片側長屋門?と思って激写したらこちらは切妻屋根の横長の民家でした。

一種の職業病的なやつですね。職業じゃないですが(^^;)。

 

伊勢参宮道の前半でよく見かけた、切妻屋根+袖壁+虫籠窓+幕板+格子の古民家。

わずか2か月ぶりですが、前回の旅は色々思うことも多かったので色々懐かしいなあ。

 

実はこちらの古民家は、江戸時代に創業した白井織布という会社で、この一身田を中心に百軒ほどあった木綿屋のうち、最後に残った一軒です。

 

古くからの物を思われる、縦長の札がいいですねえ。

 

旧街道らしい道筋の両側には現代の住宅と古そうな住宅が併存しています。

現代にそのまま移行した街道筋の町並みですね。

 

おお、黒漆喰と連子格子、それに二階右側の高欄が良い感じですね。

ある程度リノベされていますが、玄関のサッシの引き戸なども色合いのバランスは考慮されていて、こういうリノベは好感度MAXです。

 

おお、これは入母屋造りの屋根の横広物件ですね。二階の色褪せた黒漆喰や側面の錆びたトタン板壁もしぶい、幕板付きの古民家です。

 

こちらの平屋も破風の様子などからするとそこそこ古そうですが、かなり荒れています。

 

その先で伊勢鉄道の高架を潜ります。

この辺りになると、さらに交通量は激しくなり、歩きにくくなってきました、、あれ?高架の下に何やら見覚えのあるシルエットが。

 

あなたは、四次元ポケットから何でも出して何でも叶えてくれるあの、、、

って、黒目がほとんど消えてしまってちょっと怖いかも!!

 

旧道は↓の地点のY字(実際は変則的な五叉路)を右に進みます。

 

暫く進んだところで、五六川に架かる五六橋を渡ります。クルマ通りがだいぶ少なくなって助かります。

 

こちらの蔵付きのお宅はかなり古そうですね。下方がちょっと石垣になってますが、かつて五六川が氾濫したりしたのかな。

 

おや、最近大好きな左右非対称の長屋門じゃありませんか。旅の終盤で良いものが見られて嬉しいなあ(*´∀`*)。

 

ここは元々駄菓子とか売っていたような雰囲気の旧店舗ですね。

小っちゃくて見えないですが、コカ・コーラの看板は「Enjoy」ではなく「Drink」なので割と古そうです。

 

今どき貴重になりつつある公衆電話と赤ポスト。

 

多重屋根の立派な塀のお宅は庭木が茂ってこの角度からしか真価が分かりませんでした。

 

その先で、街道右側の路地を進みほぼ最後の寄り道をします。左側が大乃己所(おおのこそ)神社。右側が慈眼寺です。慈眼寺が大乃己所神社の別当寺なのでしょう

 

まずは大乃己所神社からお参りしましょう。、

こちらは見初大明神のご神体と言われる獅子頭を祀っているそうで、何でも伊勢國に悪疫が流行った時に、一本の大ツバキから三十三体の獅子頭を造り、各所の神社に分け与えて舞を舞ったところ悪疫が平癒したのだそうです。見初大明神のご神体の獅子頭すごっ( ゚Д゚)!

 

右側の慈眼寺は本尊の十一面観音菩薩像が、伝教大師(最澄)作と言われているそうです。

日本史の授業だと「最澄と空海」みたいに並んで紹介されますが、私が以前からよく言っている「古代過労トリオ」(現代に伝わる言い伝えが多すぎて、それが全部本当なら過労死レベルで忙しかったであろうお三方)の横綱、空海と比べると伝わる事績は、少なくとも街道筋ではずいぶんと少ないですよね。(↓古代過労トリオ)

 

まだ残っていた紅葉がなかなかの風情だったので激写してから街道に戻りましょう。

後ろのブルーシートが入っちゃったのはちょっと色彩的に失敗でした(><)。

 

その先の丁字路で左折した先はだいぶ現代的な街並みになってきましたね。

 

玄関がすごく高い位置にあって実質三階建てくらいになっている民家があったので激写。

こちらも私が師匠と仰いでいる関西のブロ友さん命名の「入母屋城」ですね。

 

あとは伊勢参宮道との合流点を目指して突き進みグランドフィナーレとなりますが、旅日記の残り部分はその13でご紹介します。

 

あと1回つづく!!