らんまるの街道歩きブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その12です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その11では行田市の中心部近くに入って、あちこちに残る足袋蔵や、古いオフィスなどを見たところまでご紹介しました(↓再掲)。

 

 

今歩いているところは両側アーケードの商店街で、かなり以前から残っていそうな店舗もちらほらありますが、自分の居る、向かって左側の方は少し先でアーケードの屋根が無くなっているように見えます。

 

アーケードが途切れた先で、街道筋から少し外れた所に見たいものがあるので、↓の地点で左に曲ります。

 

目的地に向かう途中で、廃墟になって久しそうな木造二階建てを見かけます。

何やら玄関回りに色々貼ってありますね。

 

建設大臣が許可した社団法人日本鳶工業連合会会員証に、昭和47年(1972)4月1日付の労災保険関係成立票、上の方には日本赤十字社の正社員標などがあります。鳶の会社だったんですね。

 

曲尺手っぽいところを抜けて進んで行きます。

 

複雑な道筋を進んで行くと、やっと目標のものが見えてきました。黄色で囲った場所です。

と言っても暗い色の壁が日陰になっているところにあるので、ほとんど見えませんね。

 

実はこれ、忍城の大手御門跡なんです。忍城の「正門」ですね。

他にも○○門跡は幾つかあったんですが、かなり分散していて工数が増えすぎるので大手門だけに絞りました。

 

街道筋に戻ろうかと思ったんですが、廃墟らしき冠木門を構えたシブい民家などがあり、そのままショートカットルートで忍城跡に向かうことにします。

 

その先で見つけた「行田兵衛尉館跡」の石標はパッと見、忍城にお勤めだった武士の居館跡か思ったですが、ググってみるとこの"行田兵衛尉(ぎょうだひょうえのじょう)は、鎌倉時代初期の武士で、成田助広の三男・助忠を祖とする行田氏の人物です。1184年の「一ノ谷の戦い」で源義経に従軍し、軍功を挙げ行田の領主となった後、1221年の承久の乱で討死したとされています。"と、いうことで、1400年代にできた忍城よりは200年以上前にここに住んでいた人のようです。

「大手御門跡」のところで「忍城」にリンクしたWikipediaを見ると、この行田兵衛尉の元の家系の成田氏が忍城を建てたと言われています。

 

ほどなく大通りに出ます。

 

むっ、あの看板建築の本体は出桁造り商家ですね!クルマ通りも激しくて、渡りにくいので一旦このまま忍城跡に向かい、帰りがけに細部を見ることにしよう。

 

などと言いつつ、自分の歩いている左側(南側)も立派な出桁造り商家が並んでいます。

 

ほかにも戦後の看板建築が並んでいました。一番手前は母屋の破風がかなり分厚いし瓦も見た感じ古そうなので、もしかしたらかなり古い建物をリノベしたのかも知れません。

 

そんなこんなで歩いているうちに、忍城のコンクリ建ての天守閣じゃなくて櫓、が見えてきました。

あれは元禄14年(1701)建造の「御三階櫓」を昭和63年(1988)に再建した模擬御三階櫓、なんだそうです。

 

駐車場の一角に「忍の時鐘楼跡」の碑がぽつねんと立っています。

これも復元してみてもいいかも知れませんね。

 

ちょっと城跡風の冠木門+ちょっとした曲尺手みたいな通路を進みます。

 

忍城跡の中心地に到着!

復元した櫓ですが、まあざっと見る分には立派です。

 

堀を模したと思われる水路。元々沼に囲まれて「浮城」とまで言われた城ですから、周りの水量は本来はこんなものではないですよね。

 

何回か前の記事でちょっとだけご紹介した、元々忍城の外堀を利用してできた水城公園の方が、当時の様子には近いと思われます。(↓再掲)

 

ともあれ、「登城」してみましょう!元通りの城の姿ではないにせよ、ちゃんと歴史的な公園設備としてはちゃんと作ってあり、好印象!

 

「忍城址」!こういうのはやっぱり激写しとかないといけません。

 

忍城の由来、という説明書きがあります、おっ、平成三年三月と言えば、ちょうど大学を卒業した月で、深い意味はないですが、「ああ、あの頃のものか」とちょっと感じるものがあります。

 

ぜひ立ち寄ろう!と思っていた郷土博物館(御三階櫓)は改修工事で休館中 (´・ω・`)。

郷土博物館はどこの街でもとても興味深いことが多く、楽しみにしていたので残念!

 

忍城の鐘楼がこちら。

「文政6年(1823)に伊勢桑名城から忍城に移った松平氏が、宝暦14年(1764)に桑名で鋳造したもの。転封に伴い、忍城に移された。」んだそうです(じゃらん)。

 

博物館も見られないし、あとは建物でも眺めながら、本日のゴール地点の東行田に向かうとしましょう!この続きはその13でご紹介いたしまする。

 

つづく!

 

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その11です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その10では行田市中心部近くにある、新兵衛地蔵のある清善寺と書かれた常夜燈を見た後、城南交差点で右折して行田市の中心部に向かおうとした所までをご紹介しました(↓再掲)。

 

右折後暫く進んで行くと、左側に大きな池の複数ある公園が目に入ってきます。

こちらは元々忍城の外堀の沼を利用した水城公園で、街道はその南側を東西に走っています。

 

ひとしきり公園を見物したら街道に戻り先を急ぎます。すぐに見えてきたこちらの建物は、かつては足袋の一大生産地だった行田の中でも、「穂国(ほこく)足袋」ブランドで名を馳せた荒井八郎商店の足袋原料倉庫で、昭和初期のもの。後に荒井八郎商店が手放した後、曳家でこちらに移され、半分が取り壊されたものの、残った部分が陶芸工房として活用されているそうです。

いいですねえ、そういう活用!都内や埼玉の他の都市、千葉県などもどんどんそういう動きを進めて欲しいもんです。

 

おっ、出ましたね「足袋蔵まち 行田」!

もうけっこう前になりますが、TBSドラマの「陸王」でクローズアップされた勢いがまだ続いているのなら素晴らしいことです。

 

その先の信号交差点で左折します。左折してすぐに右側に高源寺というお寺があり、興味はあったものの、道路の向こう側にあって、信号待ちも長くなりそうなので門前から拝んで進みます。

映画「のぼうの城」で、佐藤浩市さんが演じていた、忍城の家老、正木利英が忍城での戦いの後、武士を辞めて建てたお寺です。

 

 

それはともかく、そのお向かいである街道左側には佐間天神社があり、菅原道真が祀られていました。

 

境内はそんなに広くはないですが、立派な門!1489~1492年の忍城築城の頃の創建とのこと。

 

うーん、歴史のある神社感がありますねえ。

 

学問の神様ですからね、来年6月の資格試験合格しますように!m(__)m。

 

うむ、いい感じで古木の枝の間から太陽が!お昼時だけどなんかちょっと神々しいな(^^)。

 

神社を辞して街道に戻った先で、左折した方向に昔ながらの蔵があると地図に書いてあったので、そちらに向かってみます。

 

少し曲尺手っぽい感じの通りを過ぎていくと、、

 

こちらが、行田の足袋全盛時代の金楽足袋が建てたと言われ、現在草生家が所有しているという草生蔵。明治43年の建造とされているようです。

 

街道に戻り少し先に進むと、街道右側には、「昔ながらのくすりやですっ!」という感じの「化粧品」「くすり」の看板建築「たからや」がありました。

 

その先、街道の左側にまた蔵を見つけました。

おっ、向かって右側の壁(クルマの背後)に説明板がありそうですね。行ってみましょう!

 

ふんふん、こちらの土蔵は「ほうらい足袋」の奥貫家の足袋蔵でしたか。当時はこんな蔵が唸るようにあったんでしょうね、行田。

 

ちょっと特徴のある、広い敷地のお宅があり、記録用に激写。

建物に鋭角が目立つ感じ。

 

ものすごく敷地も大きそうなので、Googleマップの航空写真で全貌を見てみると、、

敷地広っ!建物めっちゃ多い!ということで、「行田 古墳通り、トンガリ屋根」で検索しても有力な情報は得られませんでした。江戸時代なのか明治以降なのか分かりませんが、かなり裕福な旧家のようです。

 

こちらは何かありそうだなと思って撮った建物ですが、日本タフト株式会社の旧社屋で1963~2022年まで活動していた会社の建物が今も残されているようです。

 

上の写真の左端に見切れている建物が、天満稲荷神社

ググって調べてみると「文政六年(1823)に松平忠堯が桑名から忍に移封された時、桑名の稲荷神社を遷座したものなんだそうです。

 

こちらは「大澤蔵」。

大澤商店の七代目の専蔵が大正十五年(1926)に建てた蔵で、行田で唯一のレンガ蔵なんだそうです(↓解説)。

 

この後、寄り道をしながら忍城跡にも立ち寄ってみますが、このつづきの顛末はその12でご紹介します。

 

つづく!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その10です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その9では高崎線の吹上駅のすぐ西側で踏切を渡り、中山道吹上宿との再会が近いことを予期したところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

そのまま街道を北に進むと、右側に昭和クリニックという敷地の大きな個人経営らしい委員がありました。

洋館風の建物でいい感じの建物でした。

 

そのまま進んでゆくと、中山道歩きで見覚えのある建物群が目に入ってきました!

ああぁ、あの真正面の傾きかけた建物まだ健在じゃないか、良かった(´∀`*)。

 

そうそう、こちらの三軒長屋の左端が傾いでしまってるお宅!

「洋服」の掠れた看板のすぐ左の真ん中のお宅も入口に斜めに棒が渡してあるので、こちらも支えが無いと困るのでしょうね。左端はもう一階も二階も窓がバッキバキ。

 

上の写真で見切れている「洋服」の看板のある店舗はこちら↓。「洋服のイシダ」さん。

二階を見てもカーテンが半開きで無住のように見えますが、とりあえず残っててよかった。

 

前回中山道で歩いた時はどんな写真を掲載してたっけ、、と思って見返すと、、

 

 

その左の三軒長屋は恐らく皆さんもう廃業されて、無住かなと思います。右端の「マルタ」は政党のポスターが貼ってあるので、何がしか不動産収入を貰っているのかも。

 

昔はどんな風だったかな、と、思って以前からこの辺りを歩いた時の記事を見ると、、、、何とこんな↓遠景の写真しか撮ってませんでしたΣ(・ω・ノ)ノ!

よく見ると、青地に黄色の文字で「イシダ洋服店」と書かれた縦看板が見えるので、この頃は恐らくさっきの長屋たちも現役だったような雰囲気です。8年半で変わってしまうものですね。

しかしそうか、当時はまだ古民家への興味が今ほどではなかったんですね。ともあれ、懐かしい埼玉県内の中山道との再会は嬉しい!

 

せっかく再開した中山道ですが、2枚上のマルタや青木クリーニング店の前を左方向に進むとすぐに右折して、中山道との再会を喜ぶのも束の間、千人同心街道は右折して別ルートに入ってしまいますが、その曲がり角の手前の中山道・千人同心街道の左側にこんな建物が!

こんな建物あったっけ?と思って同じ場所を一昨年のストリートビューで見ると、、

元はこの(↑)の右側に写ってるやつでした。金属製の擬タイルも同じなので間違いないでしょう。左側の二階建ては何用か知りませんが解体されたようです。ともあれ、千人同心街道はこのストリートビュー写真のすぐ先で右折し、中山道はもう少し先で左折して完全に袂を分かちます。

 

右折した後、千人同心街道はぐーっと左にカーブし、進路を北東方向に変えます。

 

しばらく進んで行くと、新佐賀橋で元荒川を渡ります。

リンク先のWikipediaにもありますが、元荒川はその名の通り本来の荒川の本流ですが、今では源流はポンプで水をくみ上げ、用水路、排水路に使われてますが、流域のあちこちが桜の名所になっているイメージで、河岸の様子を見る限りこの辺りも同様なんでしょう。

 

しばらくの間自然にカーブする街道を進んで行くと、、

 

国道17号に突き当たり、旧道が国道にぶった切られている場所に突き当たります。

やむなく左折方向に進んで信号交差点を渡り、↑の写真の国道向こう側に出て旧道歩きを再開します。

 

するとすぐに国道と交差していた県道66号に斜めにぶつかって合流します。

何となーくですが、そのうち歩道がなくなりそうな予感。。

 

国道との交差点近くのせいか暫くは幅広で街道ウォーカーにも優しい歩道付きの道が続きます。

 

途中でわたしの前方に現れた母子は、ランニング中だったのか途中で左折方向に進み、そこから元気に浅間山の方に走ってゆきました。

二人ともいい記録が出そうな走りでした(≧∇≦)。

 

その先の街道左側には、鳥居が何基も並んだ本倉稲荷大明神がありましたが、県道の交通量が激しく、お参りは断念。

こちらは本当はお寺である、私の地元愛知県の豊川稲荷から感情されたということで、ちゃんとお参りする予定だったので少々残念!

 

やがて視界いっぱいに入ってきたのが、北陸・上越新幹線の高架です。

 

新幹線の高架に向かっていくと小さな農業用水か排水路を渡る橋に「がんがら大橋」と刻まれた親柱がありました。なんでも下を流れる用水が「がんがら排水路」という名前で、そこからは推測ながら「がんがら」は"一般的に農村地域で「空っぽ」「中身がない」あるいは、音が「ガラガラ」と鳴る様子や、水が激しく落ちる音などを表現する方言や通称が定着したと推測されている"とGoogleのAIが丁寧に説明してくれました。

 

新幹線の高架を潜ります。

折よく潜った直後に新幹線が通ってくれましたが、角度的に全く見えませんでした('◇')ゞ。

 

その先で暫く千人同心街道は住宅街を通って進んでゆきます。

 

しばらく進むと、国道17号の熊谷バイパスの少し手前辺りに、周りに余り家の無い、昭和的な小ぶりな平屋の一軒家がぽつんと建っていました。

見た感じ昭和50年代くいらいのお宅でしょうか。周りは道路拡張の煽りか何かで立ち退いちゃったりしたのかな。。

 

そんなことを考えながら進むと、国道17号熊谷バイパスに突き当たり、歩道橋で先に進みます。

変にだだっ広い交差点を横断歩道で渡らせられるよりはずっといいかな。

 

歩道橋を渡って暫くの間は、道路拡張の影響か家が全くありませんでしたが、しばらく進むと、予感通り歩道の無い道の路肩が狭くなるのにつれて古くからある店舗や家々が見えてきました。

この「フジサイクル エビハラ」いい感じだけど、もう営業はしてなさそうです。

 

その先、街道が右にカーブする手前に、大きな常夜燈があって、「新兵衛地蔵尊」と書かれていました。

新兵衛地蔵尊は、行田市の中心部近くにある清善寺というお寺にあるので、まだけっこう先なのですが、昔からこの街道を行く人が立ち寄ったりしたのかな?

 

カーブした先で右後方からやってきた道と合流します。

 

ちなみに↑の写真の右側に見えているのがこちらのお宅、、じゃなくて個人商店かな。

二階の♢のマークが目立ってますねえ。

 

ほかにも「はきもの」「文具」のしまざき、

 

廃業した店舗のような家を見て進んでゆくと、

 

↓の交差点で千人同心街道は右折をして、行田市の中心部に向かいます。

因みにここを直進すると交差点の先から「忍城通り」に入ってそのまま忍城に着きますが、街道ウォーカーとしてはきちんと街道に沿って歩きつつ、忍城にも行きたいのでここは街道に沿って右折します。

 

そろそろ行田に入って終盤戦に入りますが、この続きはその11でご紹介します。

 

つづく!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その9です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その8では、荒川近くで浅間山や富士山を見た後、大芦川で荒川を渡り始めてすぐに鴻巣市に入ったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

大芦橋を渡り始めましたが、、大芦橋長っ!!終わりが見えやしません。

 

この辺りってまだ荒川も比較的水量が少ないんですね。冬なのもあるでしょうけど。

 

ふと視界の上の端辺りにパラグライダー的なものが見えたので、急いで望遠をフルに利かせて(400㎜)激写!

プロペラの力で荒川の河川敷から上空に上がったんですね。

 

大芦橋の途中で、何かものの入った細長い布の袋が置かれていて、ふくらみ方から、何とな~く犬か猫の死体が入ってるように見えたので、そそくさとそこを離れます(-_-;)。

 

そんなこんなでかなり時間がかかりましたが大芦橋を渡ったら、すぐに左折して堤防道に入ってV字に折り返し、県道307号を東側に潜り返し、そのまま荒川の堤防を進みます。お、水管橋の反対側ですね。左端の辺りで水管は地面に潜る訳だ。

 

たぶんもうまじまじと見る機会は無さそうなので、水管橋を今一度激写して、先に進みます。

 

堤防道から斜めに下りて行く道を進んで左折すると旧道ルートに復活した、、んじゃないかな。

 

街道筋から見て左側奥に醫王寺が見えたので、望遠で激写して遥拝します。

醫王寺の前を進むギザギザに曲がる道が旧道という説もあるようですが、自分の来たルートの方もそれらしく、何とも言えないです。

 

いずれにしても、この辺り↓までくれば旧道には入れているはず。ここで歩道の方向そのままに直進します。

 

ん~、昭和遺跡的な商店跡かな?

と思ったら店舗は写真左端の外にあり(廃業されている感じでした)、どうやら元は自販機が多数並んでいたのかも知れません。

 

のどごし<生>ってまだあるのかな?現存の商品も多いですが、自販機を止めてからだいぶ時間が経っているようです。

 

そこから進んでいくと、小さな鳥居やら社が並んでエリアに出ます。

 

ここには道六神(≒道祖神の一種或いは別称)や、、

 

日枝神社が祀られていています。

この辺りの人たちがよくお参りに来ていたのでしょう。

 

さらにその傍らには庚申塔がありました。

実はこの庚申塔、道標も兼ねていて「右 松山道 左 五反田かし」と刻まれていたそうですが、旅の後半でそろそろボケていたのか、うっかり撮らずに先に進んでしまいました (_ _||||) 。

疲れてくるとやることなすこと全て雑になるのが自分の悪いクセです('◇')ゞ。

 

その先では、あちこちでぐにゃぐにゃ曲がるルートを進んでいきます。

 

その途中で街道左側にある龍光寺には、嘉禎2年(1236)の板碑があったものの、今は標柱しかない、との情報があったのと、境内で、恐らく法事か何かでご来客があったようで、人の気配もあったので、本堂の外観だけ激写して先に進みます。

 

その先、街道筋から左斜めに分かれるようにここ旧大芦村の総鎮守だった、氷川神社の参道があったので、そちらに進みます。

 

 

社殿でお参りした後、一応社殿の神様にお許しを願った上で、その左手前にあるコンクリの台みたいなところで休憩させて頂きました。

 

この先、この日のゴールまで一気に歩けるように、10分ちょっとばかり休憩して、街道に復帰すると、氷川神社から100mも進まぬうちに、街道右側のコンクリ塀が引っ込んだところに庚申塔がありました。

供えられている水はきれいだったので、常にお世話をしている方がいるのでしょう。

 

そこから暫く、何というかぐねぐねx2する道を進みます。

 

アプリ「古地図散歩」で明治初期のこの辺りの様子を見てもこの辺りは家も無かったようなので、恐らく田畑の中をぐねぐねしながら進む道だったはずです。

 

更に進んでゆくとやがて、高崎線の踏切を越えます。吹上駅からほど近い所だな、これ。

 

「松山街道踏切」とあるので、今回の歩きで通ってきた松山から続く街道筋だと分かります。

 

踏切から吹上駅も見えました。

 

この少し先で、懐かしい中山道とほんの一瞬の再開がある筈ですが、この続きはその10でご紹介します!!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その8です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その7では、熊谷市に入った後、旧街道ルートが左右逆の「コ」の字型に入ったところで、春日神社に立ち寄ったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

すぐ上に再掲した写真の塀からすぐ先に小八林(←地名)の庚申塔がありました。

ちょっと傾いてしまってますが、日の光がいい感じに入ってくれました。

 

その先で下り坂に差し掛かります。

写真中央下側に白いガードレールが見えていますが、あのガードレールに沿って、下りながら右に曲るのが旧道ルート。そのガードレールの上の方に小さく半円状のアーチのようなものが見えています。

 

何だろうと思って望遠を最大まで利かせてみると、あれは、、橋?、、の割にはその下の「渡る部分」が薄すぎるなあ。

と思って、地図でその方向をみると人や車が渡る橋ではなく「荒川水管橋」といって水道管に荒川を渡らせるための橋でした。なるほど!ちなみに写真の一番上の方に写っているのは水菅橋とは無関係の、単なる望遠で拡大された電線です(^^;)。

 

同じ場所で少し左(西)に寄った方角を見ると、、ありゃ、あれって日光の男体山?

埼玉って浅間山や日光連山、場所によっては富士山も見えるのが素晴らしい!

 

などと考えながら街道ルートに沿って坂を下りて行くと、街道脇には石塔石仏群や、、

 

馬頭観音などがあり、街道風情を盛り上げてくれました。

後ろに錆び錆びの壁があるのがちょっといい感じ。

 

そこから進んでゆっくと昔からありそうな商店にぶつかって左折、ここで逆「コ」の字に入る前の道に再合流します。

ダイドーの自販機があるな!ちょっと糖分摂りたいので好都合です(^^)。

 

デミタスコーヒーがなんと100円と超オトク価格だったので即購入!(ちょうど購入ボタンを押した瞬間前後に撮ったので値段表示が消えたっぽいです)

通常は青い微糖ですが、長距離歩きの最中は糖分も多めに補給したいので赤いフル糖分です。

 

さっきの商店に向かって左方向=進行方向に進みます。急に真っ平らな平地になりました。

やけに真っ平らだなあぁ、、ってあれか、この先に荒川があるから、川が作った平地ですね、恐らく。かつての街道はもう少し右斜め前方面に進んでいたようですが、今は消えてしまっています。

 

その割とすぐ先、上の写真で右側に写っている住宅のすぐ先あたりに道標らしき石標がありました。

上の写真はLEDライトを当てていますが、和歌山の時と違って午前中の晴天のせいか、LEDライトを当てても読み取れず、先達の記録にも触れられておらず、でした_| ̄|○

 

やー、関東平野だなぁという景色になってきました。

 

歩いている道よりもだいぶ右奥の方に大きな石標が見えました。

距離もあるので見にはいきませんが、恐らく開墾碑の類ではないかと。

 

農家的な大屋根の家などを見ながら信号交差点を越えます。

 

新郷を渡った先は旧道らしいカーブを描いてますが、先の方の土手でどん詰まってます。

お分かりの方も多いと思いますが、あれは荒川の堤防の土手で、かつては水管橋がある辺りに渡し場があり、比較的最近までそこに橋が架かっていたそうですが、今は土手に上がってかなり上流方向=左方向に進んでから大芦橋という橋を渡らなければなりません。

 

その先街道左側に元は屋根付きだったのではないかと思われるコンクリの塀の中に、赤い帽子をかぶせて貰ったお地蔵さんが鎮座、、いや立っていました。

ちょっと寒そう。

 

更にそのすぐ先にも屋根付きの、さっきよりも少し造りのよいお堂の中にまたお地蔵さんが。

2枚上の写真の中央からやや左に写っている小屋のものがこのお堂です。

 

堤防の手前にかなり古くからありそうな、比較的大きな敷地のお宅がありました。

右端に写っているのは蔵・物置かと思いますが、二階の窓がお多福窓です。

 

堤防で旧道が途切れてしまいました。仕方ないので、道なりに左に曲り、堤防に上がる道を進みますが、道幅は狭く、歩道などないので、クルマには注意が必要です。

 

かつて渡し場があった辺りにかかる水菅橋。H.R.I(Historical Road Index:歴史街道指数=私的造語)はダダ下がりですが、こういう巨大な建造物を見上げるのは、人の持つ技術を感じるので、嫌いって訳ではないです。

 

これを渡れれば近道だし、旧道ルートを正確に辿れますが、こんなに下が見えるようでは怖くてダメですね(;・∀・)。

 

あっ、富、、じゃなくて浅間山ですね。埼玉だと冬には浅間山がこんなに大きく見えるんだ!

 

堤防道を進んで行くと、最初に↓の橋が見えてきますが、これは渡っちゃダメな奴です。

実は荒川の手前には和田吉野川という細い川があって、これはその手前の和田吉野川は渡るものの、荒川の手前までしかいけない吉見橋という橋です。

 

和田吉野川から更に進むと、渡るべき大芦橋が見えてきますが、そのまま橋に入ると、橋の右側を渡ることになりますが、右側には歩道が無いので、大芦橋の手前で左斜め前に進む下り坂に入ると、県道307号を潜る通路があるので、それを潜って県道の左側に出ます。

 

左側に出たら初めて荒川越え!

 

南西方向には今度こそ富士山が!

全部は撮ってませんが、この辺りって遠くに筑波山が見えるほか、日光連山に浅間山に富士山も見えるという超オトクスポットなんですね。

 

大芦橋を渡り始めるとすぐに鴻巣市に入ります。

行程としてはだいたい全体の2/3くらいを歩いたと思いますが、この続きはその9でご紹介します。

 

つづく!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その7です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その6では、何本も川を横切って街道を進み、少し分かりにくい旧道の曲がり角で馬頭観音を見つけ親切に案内してもらったような気になったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

馬頭観音に向かって右方向に道なりに進むと歩道橋を渡って、旧街道の外側を回るように同じく右折してきた県道66号=千人同心街道に合流できます。

右折後は道路整備が更に進んで道幅も広がり、街道風情は薄味。

 

上の写真の少し先で左側に伸びる路地の先を見ると神社が。

 

へえ、クマの神社か。こちらは平将門討伐に向かう俵藤太 藤原秀郷が啓示を受けて勧請したと伝わってるんですね。

 

社殿の補修中なのが少々残念ですが、年末年始だし、しょうがないですね。

 

おぉ、こんなところに南国っぽい木が!

近くで見ると、幹の部分がもじゃもじゃだったので、ヤシではなく、シュロだったようです。

 

上の写真の地点の先で少し下り坂になり、その先に進んで行くと、「和菓子」と書かれた店舗がありましたが、現役感が余り感じられません。

真ん前にトラックが停まってるので、人の出入りはありそうですが、、

 

なんかごちゃごちゃしとる!いかも金属の台の上にあるのはレジですよね。

廃業してるのかな、と思いつつ先に進むと、、

 

そのまま横長に別の棟に繋がっていて、色々不思議な建物でした。

 

その先で吉見町に入ります。気が向いてググってみるとイチゴの産地なんだそうです🍓。

 

イチゴの産地なんだけど、最初に目に入ったのは中古農機具でした!

かなりの台数を取り扱ってますねえ。「やっぱ、ヤンマーの機械買うならあそこだよな!数が違うよ、数が!」的な存在の販売店なのかも知れませんね。

 

その先にかなり風化の進んだ(たぶん)庚申塔がありました。お賽銭も置かれ、お供えの花も新しいので地元で今も大切にされているんですね。

 

そこから先で、千人同心街道は今歩いている県道から右側に分岐するので、クルマの通行が途絶えたのを見計らって、脱兎のように右側に渡ります。

 

その先は時折藪の中に廃屋があったりしましたが、風景的に気になったのは、、景観をぶちこわす太陽光パネル。

規模がそんなに大きくないのでマシですが、道路の左右にまるで隠すかのように太陽光パネルがけっこうな数散りばめられていました。

 

その先で、県道が坂を下った後、再び登り坂になり左にカーブする地点で、千人同心街道は直進し、今までルートが重なっていた県道から右側に分岐することになります。

見るからに旧道に入って行きます!って感じだ。

 

そして分岐と同時に熊谷市に入ります。

 

2枚上の写真中央近くにもじゃもじゃっとして草叢的なものがありますが、そこに近づいていくと、、おや、お地蔵さんか?

 

やはり地蔵尊でした。

この先の集落を見守ってきたお地蔵さんなんでしょう。丁重にお参りして先に進みます。

 

そこから緩やかな登り坂を進んで行くと、民家の手前に再びシュロの木が。

この辺りで一時期流行ったのかな?

 

上の写真でシュロの後ろに見えていた古民家はちょっと不思議な装いでした。

一時期何か店舗をやっていたのを住居に戻したのか、単に補強・リフォームでこうなったのかちょっと分かりませんでした。

 

旧道は余り道幅は無いのですが、旧街道あるある、でバスのルートになっているようでした。

この少し先で、散歩中のおばあさんが、バスの車中に知り合いでもいたのか、バスに向かって笑顔で手を振っている姿が印象的でしたね。調べてみるとコミュニティバス「ひまわり号」(ゆうゆうバス)というんだそうです。

 

その先に「茅葺トタン被せ」か?と思われるようなシブい佇まいの古民家を発見して、激写。

こういうお宅って屋根の内側がどうなってるのか見てみたくなります。

 

その先で旧街道は下り坂の切通しに差し掛かります。

今のような道路の造成が出来なかった頃はもっと高い所を通る旧坂だったんでしょうね。

 

その先、↓の地点で旧道は左に曲り、左右逆の「コ」の字のようなルートを進みます。

画面中央左寄りに写っている石標は「道路改修碑」。

 

左折した先の左側に春日神社があります。

 

本殿に向かう参道は少し登り坂。かなり奥まで入っていく感じで、神域感があります。

 

本殿。電灯が点いたままなだなあ。年末だから夜お参りに来る地元の方もいるのかな?

 

春日神社を辞すと、すぐに旧街道ルートは右折をして逆「コ」の字の縦部分に入ります。

道の真ん中は元々水路でもあったような感じ。ある意味旧道風情っちゃ旧道風情です。

 

この逆「コ」の字区間、この先もちょっとした見どころがありますが、このつづきはその8でご紹介します。

 

つづく!

 

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その6です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞。

 

その5では、松山宿を外れかけた辺りにある松山の総鎮守、松山神社やそのすぐ近くにある上沼公園を通過したところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

日吉神社のすぐ北にある上沼公園交差点で左(北北西)に曲ると、元商家らしき(おそらく)廃屋がありました。

 

こちらのお宅なども一回の造りをみる限り元は商家だったように見えますが、今は住居専用になっているのではないかと思われました。

 

街道を進んでいくとその先は街道によくあるS字カーブに差し掛かり、そこから先はなだらかで長い下り坂になっています。

「これは、あれだな」、と見当をつけて、記事冒頭の地図を印刷した手持用のマップで、少し先の地点を見ると「市野川」という川が流れているので、大昔にその川が作った谷のようです。

 

それはそれでよかったのですが、この日の朝は冷え込みがなかなか厳しく、親指と人差し指だけ、カメラ操作のために先っぽだけ出せるようになってる手袋をしていても手は冷えるは全身も寒いわ、で堪らず自販機でこいつ↓を購入。

その名も「罪な紅茶」!冬場の街道歩きだと暖を取って、糖分を補給するためにこういう「濃ゆい」感じのドリンクを飲むことが多いです。理想は甘酒、次点はしるこですが、「罪な紅茶」を名乗るだけあって、これもなかなかのものでした(^^)。

 

ドリンクを買った自販機から少し先だったと思いますが、かなり荒廃している(たぶん)アパートがありました。左の方なんかもう戸が開いているのか壊れたのかで風雨も吹き込み放題です。

こうなっちゃうと、補修・修繕で二階に上がるのも難しそう。その奥に立派な一軒家があったので、そちらのお宅が持っていた賃貸アパートなのかな?

 

その先にも、元町工場(こうば)的な建物がありましたが、こちらも廃工場でしょう。

右端の建物が事務所で、左側が作業場だったんでしょうね。

 

ずんずん坂を下りてゆくと市野川に差し掛かります。水の中で、何となく寒そうにしている(ように見えた)シラサギにだけ朝日が当たってちょっと神秘的、或いは象徴的な感じがしたので、望遠利かせて激写しました。

撮り終わると同時にゆるやかに「撮ったなら私はいきますよ」的に飛び立ったのが印象的でしたが、緩やかに見えたものの、シャッター音がイヤだっただけかも。

 

河岸段丘を下って降りて来たので、川を渡った後は当然、似たような長くてゆるやかな登り坂になります。

 

坂を上がる途中で右奥を見ると、道路からかなり遠いところにKITCHEN KAFE GRANBONという店がありました。サブタイトル的にTHE BARN HOUSEとあります。

外観を見て少なからず驚きました。もう20年も前になりますが、欧州に居る時に日本からの訪問客を連れて、ベルギーのかなり奥地、ドイツ語、の方言が話されているような土地で入った、一軒しかないレストランがこんな感じだったんです。偶然の一致なのか、同じような地方の建物を参考にされたのか分かりませんが、けっこう気合を入れてデザインされたんじゃないかと勝手に想像しました。真ん前に一本気があるのもいい感じです。

 

その先の街道右手側に、完璧に防寒装備を施されたお地蔵さんが座っていました。

実はこの地蔵、道標も兼ねています。

 

「行田海道〇リ 熊谷海道三リ」と刻まれています。 

 

地蔵道標から街道を進んでゆくと、都市部に住んでいるとなかなか見られない霜柱が!

当然喜んでザックザク音を立てまくって歩きました。霜柱を踏むなんて何年ぶりだろう?

 

更には、残っていた水たまりに薄い氷が張ってるじゃありませんか!

パリパリッと心地よい音を立てて氷を踏みしめながら、ちょっとゴキゲンな気持ちで進みます。

 

氷を踏んでからほどなく、滑川に差し掛かります。

コンクリ護岸でない川は自然な感じでいいなあ。

 

その先、宿場ではないものの、人里に差し掛かります。

 

上の写真の中央左寄りに写っている酒屋「常店」。看板右側のに「つねだな」と書いてあるので、意外と歴史のある「常さん」の始めた店だったりするんだろうか。。

 

そのすぐ先に、街道から左にV字分岐する道があり、そちらに寄り道します。

 

分岐したすぐ先にあるのが覚性寺。平将門の追討目的で下向した俵藤太=藤原秀郷が、天慶3年(940)夢でお告げを聞いて東平熊野神社を勧請して、薬師如来像を本尊とした当寺を建てた、とされているそうです。

 

↓はその覚性寺の薬師堂。ここに祀られている薬師如来像は、かつて(武藏)松山城落城の折、寺も燃えてしまった時に、一体だけ焼失を免れたのだそうです。

 

そんな歴史が、「覚性寺縁起」というこちらの石標に詳しく書かれていました。

 

本堂がこちら↓。

予定よりもちょっと行程が遅れているので、ざっ!とお参りして街道に戻ります。

 

街道に戻ってすぐのところで左側にあった「真下商会」。ガラス戸の上の所に「カ」というカタカナと、「転」という字だけが残って何の店だか分かりません。

 

ストリートビューで2011年5月の画像を見ると、、同じ建物で、店の前には荷台付きのクルマがあり、店の右端の「二輪車専門店」と書かれたオレンジの看板があるので、バイクや自転車を商っておられたんだろうと思います。

「カ」と「転」のうち、「転」は自転車の転ですが、「カ」は分からずじまい。「カー用品」とか?でも二輪専門店だし、難しいな。。

 

その先で市野川、滑川につづき今度は角川に差し掛かります。

 

この先で街道のルートは本来右に向かって緩やかにカーブして、北向き→東向きに進路を変えますが、現在は大きな交差点ができてしまっているので、角川の上にかぶるようになっている歩道橋で右側に渡った後、右側方向に進む、旧道跡を進むことにします。

 

角川。一応記念に歩道橋の階段の上から。

 

歩道橋で道路右側に渡り、道路の交差点よりも手前で、右側に向かう旧道跡の細道に入ると、いかにも「はい、ここが旧道ですよ(*´∀`*)」といった感じで文化十年(1813)の馬頭観世音があります。

馬頭観音から右の方に進むと歩道橋があるのでそれを渡ると、自動的に新道の大きな交差点を通らずして、歩道橋だけで千人同心街道の続き部分に入れるのが素晴らしい!!

 

と感動したところで、この続きはその7でご紹介します。

 

つづく!!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その5です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その4では、松山宿に入り、街道沿いに立ち並ぶ現存の旧商家の見事さにワクワクしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

前回ご紹介した古民家たちのすぐ先で本町一丁目交差点を越えますが、交差点から向かって右(東)を見ると何となく良さそうな建物がチラッと目に入ったのでそちらに向かうと、、

「雑貨 荒物 大山商店」というこれまたステキな商家があったので激写!「本町一丁目」という住所からも松山宿の中心地ど真ん中だろうと思われますし、街道から左右方向に町の賑わいが広がるのは街道の宿場ではままあることです。

 

街道に戻ると、本町一丁目交差点を越えたすぐの街道右側が妙な広場になっていました。

 

端っこに松山道路元標があったり、

 

寂しい感じで「本町広場」というプレートがありますが、

元々は大きな建物でもあったのではないかと思われます。

 

元の姿が分からないかな、と思ってストリートビューで2011年まで遡っても、すでに本町広場になってしまってました。

ちなみに右端近くに見えている、古い商店は今は住宅になってしまっています。

 

本町広場の追及は諦めて先に進むと、煉瓦造りの蔵のある立派な出桁造り商家があり、「(有)プロスパー」と書かれています。

 

越屋根も立派で惚れ惚れするような姿ですが、土地賃貸などの商いをしているようです。

いや~素晴らしいなあ、と思っているうちに、大きな見落としをしていたことに( ゚д゚)ハッ!と気づきました。このプロスパのすぐ左隣りには木造の洋館、島田医院という建物があった筈なのですが、全然覚えがありません??↑の写真で見ても、左の煉瓦造りの蔵の向こうに見えてるのは恐らくその更に左隣のお菓子屋です。

 

嫌~な予感しかしませんが、すぐスマホのストリートビューで確かめると!!(↓は記事作成時にPCでキャプチャ)

こともあろうに、2025年12月=歩いたのと同じ月、に解体しとるΣ(゚д゚lll)ガーン。なんだよ、あとほんの少し早くここにきてたら最後の雄姿が見られたんじゃないの、これ( ;∀;)!!!

 

元の建物を過去のストリートビューで見てみると、、!!!

こんな立派な洋館が残されてたなら文化財指定して残さないとダメでしょうよ(# ゚Д゚)。

 

その先にも、二階建ての蔵造の母屋に平屋の看板建築の店舗を増築したような旧商家がありました。

 

正面から見るとこんな感じ。母屋の右端には「埼玉新聞東松山通信(所?)という札が掛かっていました。

 

左側面はかなり傷んでますが、こちらもかなり後ろまで同じ家の建物が続いているようでした。

 

上の写真の交差点を境に、古民家の密度が減り始めます。少し先の左側に出桁造り商家のようなものが見えるものの中心地から外れた頃合いかな?・・・

などと思っていたのですが、ここでもストリートビューで過去の姿を確認すると、全く違う姿が見えることが分かりました。↑の写真よりもう少し手前側の場所で2011年の姿を見ると、、

 

2011年当時にはまだこんなしぶいパロマの代理店や、現役かどうか微妙ですが「ロッテ」のマークのあるテントの(たぶん)駄菓子屋やクリーニング店が残っていたのが、、

 

その翌年に右側の店舗長屋が更地になって、、

 

2018年には完全な更地になってしまったようです。

基本はこの風景のまま今に至っています。更に道路を拡張する計画でもあったんでしょうかね。日光街道の越谷宿で見られるように、そんなことをしてもクルマが素通りして人が行き来しにくくなるだけですが。

 

↓がさっき遠くから見えていたその旧商家らしき古民家です。出桁造りではなく蔵造りでした。商いはやめているようですが住居としては現役かどうか少々微妙ながら、建物の前側がきれいなので、すくなくとも手入れはされているようです。

 

で、↑の写真の右端に神社の社のようなものが写っていますが、これがこの黒塗りの商家と細い路地を挟んだ先にある、八雲神社です。

少しだけ調べてみると、八雲神社は八坂神社などと同様の祇園信仰(神仏習合で、牛頭天王と素戔嗚尊を信じる)の神社なんだそうです。京都の八坂神社系だと「八坂神社」や「祇園神社」、出雲の須佐神社系だと「八雲神社」なんだとか(ほかにもありますが割愛)。

 

千人同心街道はこのまま神社右の道路を直進するのですが、さっきの黒漆喰塗りの蔵造り商家とこの神社の間にある、街道から左に曲る方向の路地の先に見たいものがあるので、街道から外れてその路地を進みます。

 

そのまま進んで行くと見えてくるのが松山神社。松山宿の総鎮守で、康平6年(1063)に大宮氷川神社を勧請して創建したと伝わっています。

ちなみにこの神社の名前や宿場名に見られるように、本来この地方の名前は「東松山」ではなくて「松山」なんですが、市制施行の際、そのまま「松山市」にしてしまうと、愛媛県のそれを被ってしまうこと、また東武鉄道の「東松山駅」がすでに親しまれるほど馴染んでいたことなどから「東松山市」になったんだそうです。

 

一部だけ朝日が当たっているのは、何となく神々しい感じがします。

 

前の方のお参りが終わるのを待って、自分も神妙にお参りします。

 

お参りが終わったら、街道から外れて来たルートを引き返します。3枚上の写真を撮った地点の右側は、前日立ち寄った下沼公園と対をなす、「上沼」公園。これは北を向いて撮った写真ですが、公園の右端外側は街道なので、元来た路地をそのまま引き返すのではなく、公園内を歩いていくことにしました。

 

 

公園北端まで着くと、公園の左(西)端の向こうに日吉神社が見えたので、そちらに向かいます。

余談ながら、日吉神社の由来などは全く知らなかったのですが、この時「せっかくだから」とスマホでググってみると、山の神(駅伝の話じゃないです)であるオオヤマクイノミコト(大山咋命)が祭神で、魔除け・厄除け・方除けのご利益で知られ、猿が神の使い(魔去る、勝る)として崇敬されということだったので、申年生まれの自分には、多少ご利益多めなのではないかと都合の良いことを考えて向かったものです( ̄▽ ̄)。

 

すごく大きい社殿ではないものの、敷地全体が丁寧に手入れされていて、地元で大切にされている神社なのでしょう。

ここからはまた宿場などの中継地ではない道行きに戻りますが、この続きはその7でご紹介します。

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その4です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その3では、この日宿泊予定の東松山まで到着した後、誤って旧街道と分岐した新道を通ってしまったものの、怪我の功名で出桁造りの旧商家を見つけ、その後下沼公園に立ち寄って歩きを終えたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

今回から二日目(12月28日)の行程となります。

 

6時前に起床して6時半過ぎにホテルをチェックアウトして街道に向かいますが、まだ日の出前でほぼ真っ暗(^^;)。

 

昨日うっかり旧道と新道の分岐点で新道を歩いてしまったため、一旦新道と旧道の分岐点まで戻ります。途中、前日に何となくスルーしてしまった名も無い無住のお堂がありました。

そのお堂の右側にある小屋のようなところに「上田朝直建立青石塔婆」があったらしいのですが、運よくGoogleマップからその石塔婆の写真が見つかりました。

この上田朝直という方にについて調べてみると、Wikipediaには「戦国~安土桃山時代にかけての武将。初期は扇谷上杉氏の重臣として仕えていたが、河越夜戦で主君上杉朝定が討死し、後北条氏の家臣となる。武蔵国松山城主」という説明があり、ようはこの辺りの殿様だった訳ですね。武蔵松山城は、ここから東方向に徒歩15分くらいのところにあるようです。

 

さて、そんなこんなで改めて千人同心街道の新道と旧道の分岐点に立ちます。左側が昨日誤って進んだ新道で、右が旧道。

 

旧道に入ると、道筋はいかにも「直進する新道に対してカーブを描く旧道」といった風情ですが、立ち並ぶ建物は基本的に現代のものばかりです。

それもそのはず、本来の松山宿の中心部はもうちょっと先にありました。

 

暫く進むと、東松山市立図書館の手前で旧道はググっと左にカーブして、新道に合流します。

 

新道に合流したところ。この辺りは図書館もあるせいか道が大幅に拡張されています。

 

なお、↑の写真の向かって左奥にあるのが、昨日立ち寄った下沼公園です。一瞬立ち寄ってざっと一枚公園の全景を撮ったらすぐに街道に戻ります。

 

下沼公園の先にある本町二丁目交差点を越えると街の雰囲気がガラッと変わりました。古い建物の数が急に増えてきましたよ!下は交差点すぐ脇の廃店舗。

 

その斜向かいにも何らかの店舗、の後方に蔵造の母屋が見えていました。この辺りから旧松山宿の中心地に入ったようです。

 

ざっと見渡したところ、激写したくなりそうな建物が左右に散らばってますが、まだ朝7時前でクルマ通りも比較的少ないので、右に左にダッシュで移動しつつ撮りたいものは全部撮れそう。

 

街道左側の「鮮魚・青果・食料品・水 魚巳」は一軒じゃないでしょうが、後方にめっちゃ細長く、家が連なっています。

 

その少し先「小松屋呉服店」はやはり後方に「鰻の寝床」状に建物が連なっていて、宿場の老舗らしい造りでした。

Googleマップで調べた限り「この後10:00から開店」とあったので、現役であるようです。

 

そのすぐ先に文字通りうだつの上がった出桁造り商家がありますが、こちらはGoogleマップでクリックしても店名すら出ないし、一階も住居に改築されているようなので、だいぶ前に廃業されたのでしょう。

 

更にその少し先の街道左側に「木村屋」という廃店舗らしき出桁造り商家があります。

店構え的に酒屋っぽいなあと思っていたものの、確信が持てない中、その後だいぶ先の写真まで記事を書いたところで、ストリートビュでこの辺りを行き来したら2019年の写真でこんなものが見つかりました↓。

同じ店舗の脇に「白鹿 木村屋酒店」って書いてある!!やっぱ酒店だったんですね。

 

木村屋酒店のすぐ右隣も出桁造り商家ですが、こちらも完全に住居に改築されていて、元々店舗入口だったであろう辺りには選挙ポスターベタベタなので、廃業されていると考えて良さそう。

 

その先にテナント募集中の、蔵造の建物を無理やり看板建築にしたような建物がありました。

元は何だったんだろう?と思ってストリートビューを見てみると、、

 

2017年時点では調剤薬局のようでした。

もっと以前の姿が見たくて最古の2011年まで遡ると、、

改装前ながらやはり調剤薬局なので、少なくともここ15年くらいは調剤薬局をしていた訳で、元の業態は分かりませんでした。コンビニの「サンクス」が残っているところに時代を感じます。

 

で、この蔵造りの元調剤薬局から戻った斜向かいにも二階建ての出桁造りの旧商家があり、

更にその左隣もこんな立派な旧商家がありました。

そういえば、商いが潤っていた宿場ってこうやって大きな商家がそれぞれ斜交いに建てられていることが多いですよね。ずっと前に甲州街道で歩いた韮崎宿もそんな風だったという解説を読んだ気がします(韮崎はこの記事の辺り)。

 

更にそこから進むと、さきほどの蔵造りの元調剤薬局のすぐ近くの斜向かいにはこんな蔵造り、かつ黒漆喰塗の商家がありました。

その左隣も立派な商家ですよね。松山宿、どんだけ繁栄してたんだ⁉

 

せっかくなので正面からのカットもビシッと掲載!

右隣にもおそらく細長い敷地の旧商家などがあったのでしょうが、今は更地駐車場になっています。Gooogleマップを見ても「蔵造の商家」とそのまんまの説明しかありませんでした。

 

↓がそのすぐ左隣の商家。こちらも蔵造りです。

川越を除いては、文化価値の高い建物をどんどん壊すイメージの埼玉県ですが、東松山はけっこう頑張ってるんだなあ。。

 

などと思いながらも次回かなり残念なこともありますが、続きはその5でご紹介します。

 

つづく

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その3です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その2では、初日のゴール、東松山に向かう途上で、平安時代の貴族で鎮守府将軍だった藤原利仁が祀られた利仁神社のある将軍塚古墳や無量寿寺、少し先で野本八幡神社に立ち寄ったところまでをご紹介しました。(↓再掲)。

 

 

野本八幡神社を辞して街道に戻ると、旧街道らしく、もはや職業病?で美しいとすら感じる自然なカーブの道が続いていました。

 

その先で街道はやや登り坂に差し掛かり、国道254号と交差します。

少し道幅は拡張されてそうですが、昔の道筋をよく残しているように見えます。

 

国道254号に突き当たって少し長めの信号待ちになりました。

国道254号と言えば、練馬区辺りで「よく旧川越街道とも重なっていた国道」という印象が強かったですが、ここで出会うとは!

 

国道254号を越えた後も旧街道の道筋をそのまま残したであろう自然なカーブの道が続きます。

 

少し進んでいくと非常に懐かしい、昭和の小型平屋住宅が残るエリアがありました。

松戸でもところどころで、こういうサイズ感の平屋一軒建ての家が並ぶエリアが、自宅近所だけでも数か所あります。

 

昭和30~40年代の「マイホーム」ですね。

 

道がのたうつようにS字ってます。意外に大きな曲がり具合なので、行く方向が見えないほど。

 

右側に保育園やマンションが見え始め、恐らく大きな道との交差点が近いのだろうといった雰囲気になってきました。

 

その少し先で千人同心街道は若松町一丁目五叉路に突っ込んで、右斜め前方向に曲ります。

進行方向は↑の写真の中央やや右寄りに見えるファミマの看板の右側を通る道ですが、この交差点には色々あって、まず↑の写真の左方向の歩道脇に七鬼神社があります。

 

こちらが七鬼神社。鬼が祀られているようですが、ググっても余り詳しいことが分かりませんでしたが、一般的には他の神社の末社として一緒に祀られる事が多いとされるものの、こちらは小さな社とはいえ単独ですね。

 

更に五叉路の一角には折れてしまったのか、見た目やたらとコンクリで重装備化されたお地蔵さんが行き交う人を見守っていました。

余り大きくないお地蔵さんでしたが、五叉路の信号がやたら長くて近くに行くのが面倒なので、400㎜利かせて望遠で激写!

 

なるべく五叉路の全景を撮ろうとしたのが↓。ど真ん中に写ってる道が今歩いて来たルートで、右寄りに七鬼神社の鳥居が見えていて、白いクルマの向こうにコンクリ・アーマー地蔵さんがいます。

街道の進行方向が左側なので、そちらに進みます。

 

その先、街道の左側に「左 箭弓稲荷道」という新しめの道標があり奥に鳥居が見えています。

ここから進んで行くと、東松山駅の裏手辺りにある、箭弓稲荷神社に着くようです。

ちょっとしたプチ街道ですね。

 

そして、ここで大ボケをした私は鳥居の全景を撮り忘れてしまったので、ストリートビューから拝借した写真でごまかしますね。

 

今歩いているのは県道66号で、恐らくローカル幹線の道路と見えてかなりの交通量でした。

ただ、割と路肩も広く街道ウォーカーに優しい造りで助かります(*´∀`*)。

 

その先で道路はY字分岐路に分かれていて、県道から右に逸れるやや細い道が旧街道、左にカーブするのが現代の県道ルートです。

ここで痛恨のエラーをしてしまい、何も考えずに左の県道に進んでしまいました(;・∀・)が、気づくのは少し後です。

 

誤ったルートを進んでしまった私ですが、その先に出桁造りの元商家が見え、「さっすが旧街道!」などと大っぴらに喜んでいました(^^;)。

 

二階は窓枠といい、右端の戸袋といいかなり元の風格が残っていますが、一階はアルミサッシになってしまったのが残念ながら、状態もよく現役感も高いので、まだ当分大丈夫でしょう。

 

その先の信号交差点で基本的にこの日の歩きは終了し、宿に向かいますが、その前に交差点の左前方側の奥に、下沼公園というちょっと大きな池のある公園があるので、寄ってみることに。

 

公園手前には、庚申塔や馬頭観音などが並んでいたのでまとめて激写します。

 

おお、何かちょっといい感じの公園じゃありませんか!

ちなみに街道を進んだ先には、この下沼公園と対を為すであろう、「上沼公園」がありますが、通過するのは明日のこと。

 

池の中には、弁天様が祀られてるようですね。

 

何かのご縁なので弁天様にお参りしましょう。

その後、意気揚々と16:30頃、東松山駅近くのホテルに向かいましたがなんとチェックインは17時から、とのこと。止む無く10分くらい歩いたところにあるビバホームで時間をつぶして17時過ぎにホテルに戻り、翌日の本格的な歩きに備えたのでした。

 

その4につづく!