らんまるの街道歩きブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その5です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その4では、松山宿に入り、街道沿いに立ち並ぶ現存の旧商家の見事さにワクワクしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

前回ご紹介した古民家たちのすぐ先で本町一丁目交差点を越えますが、交差点から向かって右(東)を見ると何となく良さそうな建物がチラッと目に入ったのでそちらに向かうと、、

「雑貨 荒物 大山商店」というこれまたステキな商家があったので激写!「本町一丁目」という住所からも松山宿の中心地ど真ん中だろうと思われますし、街道から左右方向に町の賑わいが広がるのは街道の宿場ではままあることです。

 

街道に戻ると、本町一丁目交差点を越えたすぐの街道右側が妙な広場になっていました。

 

端っこに松山道路元標があったり、

 

寂しい感じで「本町広場」というプレートがありますが、

元々は大きな建物でもあったのではないかと思われます。

 

元の姿が分からないかな、と思ってストリートビューで2011年まで遡っても、すでに本町広場になってしまってました。

ちなみに右端近くに見えている、古い商店は今は住宅になってしまっています。

 

本町広場の追及は諦めて先に進むと、煉瓦造りの蔵のある立派な出桁造り商家があり、「(有)プロスパー」と書かれています。

 

越屋根も立派で惚れ惚れするような姿ですが、土地賃貸などの商いをしているようです。

いや~素晴らしいなあ、と思っているうちに、大きな見落としをしていたことに( ゚д゚)ハッ!と気づきました。このプロスパのすぐ左隣りには木造の洋館、島田医院という建物があった筈なのですが、全然覚えがありません??↑の写真で見ても、左の煉瓦造りの蔵の向こうに見えてるのは恐らくその更に左隣のお菓子屋です。

 

嫌~な予感しかしませんが、すぐスマホのストリートビューで確かめると!!(↓は記事作成時にPCでキャプチャ)

こともあろうに、2025年12月=歩いたのと同じ月、に解体しとるΣ(゚д゚lll)ガーン。なんだよ、あとほんの少し早くここにきてたら最後の雄姿が見られたんじゃないの、これ( ;∀;)!!!

 

元の建物を過去のストリートビューで見てみると、、!!!

こんな立派な洋館が残されてたなら文化財指定して残さないとダメでしょうよ(# ゚Д゚)。

 

その先にも、二階建ての蔵造の母屋に平屋の看板建築の店舗を増築したような旧商家がありました。

 

正面から見るとこんな感じ。母屋の右端には「埼玉新聞東松山通信(所?)という札が掛かっていました。

 

左側面はかなり傷んでますが、こちらもかなり後ろまで同じ家の建物が続いているようでした。

 

上の写真の交差点を境に、古民家の密度が減り始めます。少し先の左側に出桁造り商家のようなものが見えるものの中心地から外れた頃合いかな?・・・

などと思っていたのですが、ここでもストリートビューで過去の姿を確認すると、全く違う姿が見えることが分かりました。↑の写真よりもう少し手前側の場所で2011年の姿を見ると、、

 

2011年当時にはまだこんなしぶいパロマの代理店や、現役かどうか微妙ですが「ロッテ」のマークのあるテントの(たぶん)駄菓子屋やクリーニング店が残っていたのが、、

 

その翌年に右側の店舗長屋が更地になって、、

 

2018年には完全な更地になってしまったようです。

基本はこの風景のまま今に至っています。更に道路を拡張する計画でもあったんでしょうかね。日光街道の越谷宿で見られるように、そんなことをしてもクルマが素通りして人が行き来しにくくなるだけですが。

 

↓がさっき遠くから見えていたその旧商家らしき古民家です。出桁造りではなく蔵造りでした。商いはやめているようですが住居としては現役かどうか少々微妙ながら、建物の前側がきれいなので、すくなくとも手入れはされているようです。

 

で、↑の写真の右端に神社の社のようなものが写っていますが、これがこの黒塗りの商家と細い路地を挟んだ先にある、八雲神社です。

少しだけ調べてみると、八雲神社は八坂神社などと同様の祇園信仰(神仏習合で、牛頭天王と素戔嗚尊を信じる)の神社なんだそうです。京都の八坂神社系だと「八坂神社」や「祇園神社」、出雲の須佐神社系だと「八雲神社」なんだとか(ほかにもありますが割愛)。

 

千人同心街道はこのまま神社右の道路を直進するのですが、さっきの黒漆喰塗りの蔵造り商家とこの神社の間にある、街道から左に曲る方向の路地の先に見たいものがあるので、街道から外れてその路地を進みます。

 

そのまま進んで行くと見えてくるのが松山神社。松山宿の総鎮守で、康平6年(1063)に大宮氷川神社を勧請して創建したと伝わっています。

ちなみにこの神社の名前や宿場名に見られるように、本来この地方の名前は「東松山」ではなくて「松山」なんですが、市制施行の際、そのまま「松山市」にしてしまうと、愛媛県のそれを被ってしまうこと、また東武鉄道の「東松山駅」がすでに親しまれるほど馴染んでいたことなどから「東松山市」になったんだそうです。

 

一部だけ朝日が当たっているのは、何となく神々しい感じがします。

 

前の方のお参りが終わるのを待って、自分も神妙にお参りします。

 

お参りが終わったら、街道から外れて来たルートを引き返します。3枚上の写真を撮った地点の右側は、前日立ち寄った下沼公園と対をなす、「上沼」公園。これは北を向いて撮った写真ですが、公園の右端外側は街道なので、元来た路地をそのまま引き返すのではなく、公園内を歩いていくことにしました。

 

 

公園北端まで着くと、公園の左(西)端の向こうに日吉神社が見えたので、そちらに向かいます。

余談ながら、日吉神社の由来などは全く知らなかったのですが、この時「せっかくだから」とスマホでググってみると、山の神(駅伝の話じゃないです)であるオオヤマクイノミコト(大山咋命)が祭神で、魔除け・厄除け・方除けのご利益で知られ、猿が神の使い(魔去る、勝る)として崇敬されということだったので、申年生まれの自分には、多少ご利益多めなのではないかと都合の良いことを考えて向かったものです( ̄▽ ̄)。

 

すごく大きい社殿ではないものの、敷地全体が丁寧に手入れされていて、地元で大切にされている神社なのでしょう。

ここからはまた宿場などの中継地ではない道行きに戻りますが、この続きはその7でご紹介します。

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その4です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その3では、この日宿泊予定の東松山まで到着した後、誤って旧街道と分岐した新道を通ってしまったものの、怪我の功名で出桁造りの旧商家を見つけ、その後下沼公園に立ち寄って歩きを終えたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

今回から二日目(12月28日)の行程となります。

 

6時前に起床して6時半過ぎにホテルをチェックアウトして街道に向かいますが、まだ日の出前でほぼ真っ暗(^^;)。

 

昨日うっかり旧道と新道の分岐点で新道を歩いてしまったため、一旦新道と旧道の分岐点まで戻ります。途中、前日に何となくスルーしてしまった名も無い無住のお堂がありました。

そのお堂の右側にある小屋のようなところに「上田朝直建立青石塔婆」があったらしいのですが、運よくGoogleマップからその石塔婆の写真が見つかりました。

この上田朝直という方にについて調べてみると、Wikipediaには「戦国~安土桃山時代にかけての武将。初期は扇谷上杉氏の重臣として仕えていたが、河越夜戦で主君上杉朝定が討死し、後北条氏の家臣となる。武蔵国松山城主」という説明があり、ようはこの辺りの殿様だった訳ですね。武蔵松山城は、ここから東方向に徒歩15分くらいのところにあるようです。

 

さて、そんなこんなで改めて千人同心街道の新道と旧道の分岐点に立ちます。左側が昨日誤って進んだ新道で、右が旧道。

 

旧道に入ると、道筋はいかにも「直進する新道に対してカーブを描く旧道」といった風情ですが、立ち並ぶ建物は基本的に現代のものばかりです。

それもそのはず、本来の松山宿の中心部はもうちょっと先にありました。

 

暫く進むと、東松山市立図書館の手前で旧道はググっと左にカーブして、新道に合流します。

 

新道に合流したところ。この辺りは図書館もあるせいか道が大幅に拡張されています。

 

なお、↑の写真の向かって左奥にあるのが、昨日立ち寄った下沼公園です。一瞬立ち寄ってざっと一枚公園の全景を撮ったらすぐに街道に戻ります。

 

下沼公園の先にある本町二丁目交差点を越えると街の雰囲気がガラッと変わりました。古い建物の数が急に増えてきましたよ!下は交差点すぐ脇の廃店舗。

 

その斜向かいにも何らかの店舗、の後方に蔵造の母屋が見えていました。この辺りから旧松山宿の中心地に入ったようです。

 

ざっと見渡したところ、激写したくなりそうな建物が左右に散らばってますが、まだ朝7時前でクルマ通りも比較的少ないので、右に左にダッシュで移動しつつ撮りたいものは全部撮れそう。

 

街道左側の「鮮魚・青果・食料品・水 魚巳」は一軒じゃないでしょうが、後方にめっちゃ細長く、家が連なっています。

 

その少し先「小松屋呉服店」はやはり後方に「鰻の寝床」状に建物が連なっていて、宿場の老舗らしい造りでした。

Googleマップで調べた限り「この後10:00から開店」とあったので、現役であるようです。

 

そのすぐ先に文字通りうだつの上がった出桁造り商家がありますが、こちらはGoogleマップでクリックしても店名すら出ないし、一階も住居に改築されているようなので、だいぶ前に廃業されたのでしょう。

 

更にその少し先の街道左側に「木村屋」という廃店舗らしき出桁造り商家があります。

店構え的に酒屋っぽいなあと思っていたものの、確信が持てない中、その後だいぶ先の写真まで記事を書いたところで、ストリートビュでこの辺りを行き来したら2019年の写真でこんなものが見つかりました↓。

同じ店舗の脇に「白鹿 木村屋酒店」って書いてある!!やっぱ酒店だったんですね。

 

木村屋酒店のすぐ右隣も出桁造り商家ですが、こちらも完全に住居に改築されていて、元々店舗入口だったであろう辺りには選挙ポスターベタベタなので、廃業されていると考えて良さそう。

 

その先にテナント募集中の、蔵造の建物を無理やり看板建築にしたような建物がありました。

元は何だったんだろう?と思ってストリートビューを見てみると、、

 

2017年時点では調剤薬局のようでした。

もっと以前の姿が見たくて最古の2011年まで遡ると、、

改装前ながらやはり調剤薬局なので、少なくともここ15年くらいは調剤薬局をしていた訳で、元の業態は分かりませんでした。コンビニの「サンクス」が残っているところに時代を感じます。

 

で、この蔵造りの元調剤薬局から戻った斜向かいにも二階建ての出桁造りの旧商家があり、

更にその左隣もこんな立派な旧商家がありました。

そういえば、商いが潤っていた宿場ってこうやって大きな商家がそれぞれ斜交いに建てられていることが多いですよね。ずっと前に甲州街道で歩いた韮崎宿もそんな風だったという解説を読んだ気がします(韮崎はこの記事の辺り)。

 

更にそこから進むと、さきほどの蔵造りの元調剤薬局のすぐ近くの斜向かいにはこんな蔵造り、かつ黒漆喰塗の商家がありました。

その左隣も立派な商家ですよね。松山宿、どんだけ繁栄してたんだ⁉

 

せっかくなので正面からのカットもビシッと掲載!

右隣にもおそらく細長い敷地の旧商家などがあったのでしょうが、今は更地駐車場になっています。Gooogleマップを見ても「蔵造の商家」とそのまんまの説明しかありませんでした。

 

↓がそのすぐ左隣の商家。こちらも蔵造りです。

川越を除いては、文化価値の高い建物をどんどん壊すイメージの埼玉県ですが、東松山はけっこう頑張ってるんだなあ。。

 

などと思いながらも次回かなり残念なこともありますが、続きはその5でご紹介します。

 

つづく

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その3です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その2では、初日のゴール、東松山に向かう途上で、平安時代の貴族で鎮守府将軍だった藤原利仁が祀られた利仁神社のある将軍塚古墳や無量寿寺、少し先で野本八幡神社に立ち寄ったところまでをご紹介しました。(↓再掲)。

 

 

野本八幡神社を辞して街道に戻ると、旧街道らしく、もはや職業病?で美しいとすら感じる自然なカーブの道が続いていました。

 

その先で街道はやや登り坂に差し掛かり、国道254号と交差します。

少し道幅は拡張されてそうですが、昔の道筋をよく残しているように見えます。

 

国道254号に突き当たって少し長めの信号待ちになりました。

国道254号と言えば、練馬区辺りで「よく旧川越街道とも重なっていた国道」という印象が強かったですが、ここで出会うとは!

 

国道254号を越えた後も旧街道の道筋をそのまま残したであろう自然なカーブの道が続きます。

 

少し進んでいくと非常に懐かしい、昭和の小型平屋住宅が残るエリアがありました。

松戸でもところどころで、こういうサイズ感の平屋一軒建ての家が並ぶエリアが、自宅近所だけでも数か所あります。

 

昭和30~40年代の「マイホーム」ですね。

 

道がのたうつようにS字ってます。意外に大きな曲がり具合なので、行く方向が見えないほど。

 

右側に保育園やマンションが見え始め、恐らく大きな道との交差点が近いのだろうといった雰囲気になってきました。

 

その少し先で千人同心街道は若松町一丁目五叉路に突っ込んで、右斜め前方向に曲ります。

進行方向は↑の写真の中央やや右寄りに見えるファミマの看板の右側を通る道ですが、この交差点には色々あって、まず↑の写真の左方向の歩道脇に七鬼神社があります。

 

こちらが七鬼神社。鬼が祀られているようですが、ググっても余り詳しいことが分かりませんでしたが、一般的には他の神社の末社として一緒に祀られる事が多いとされるものの、こちらは小さな社とはいえ単独ですね。

 

更に五叉路の一角には折れてしまったのか、見た目やたらとコンクリで重装備化されたお地蔵さんが行き交う人を見守っていました。

余り大きくないお地蔵さんでしたが、五叉路の信号がやたら長くて近くに行くのが面倒なので、400㎜利かせて望遠で激写!

 

なるべく五叉路の全景を撮ろうとしたのが↓。ど真ん中に写ってる道が今歩いて来たルートで、右寄りに七鬼神社の鳥居が見えていて、白いクルマの向こうにコンクリ・アーマー地蔵さんがいます。

街道の進行方向が左側なので、そちらに進みます。

 

その先、街道の左側に「左 箭弓稲荷道」という新しめの道標があり奥に鳥居が見えています。

ここから進んで行くと、東松山駅の裏手辺りにある、箭弓稲荷神社に着くようです。

ちょっとしたプチ街道ですね。

 

そして、ここで大ボケをした私は鳥居の全景を撮り忘れてしまったので、ストリートビューから拝借した写真でごまかしますね。

 

今歩いているのは県道66号で、恐らくローカル幹線の道路と見えてかなりの交通量でした。

ただ、割と路肩も広く街道ウォーカーに優しい造りで助かります(*´∀`*)。

 

その先で道路はY字分岐路に分かれていて、県道から右に逸れるやや細い道が旧街道、左にカーブするのが現代の県道ルートです。

ここで痛恨のエラーをしてしまい、何も考えずに左の県道に進んでしまいました(;・∀・)が、気づくのは少し後です。

 

誤ったルートを進んでしまった私ですが、その先に出桁造りの元商家が見え、「さっすが旧街道!」などと大っぴらに喜んでいました(^^;)。

 

二階は窓枠といい、右端の戸袋といいかなり元の風格が残っていますが、一階はアルミサッシになってしまったのが残念ながら、状態もよく現役感も高いので、まだ当分大丈夫でしょう。

 

その先の信号交差点で基本的にこの日の歩きは終了し、宿に向かいますが、その前に交差点の左前方側の奥に、下沼公園というちょっと大きな池のある公園があるので、寄ってみることに。

 

公園手前には、庚申塔や馬頭観音などが並んでいたのでまとめて激写します。

 

おお、何かちょっといい感じの公園じゃありませんか!

ちなみに街道を進んだ先には、この下沼公園と対を為すであろう、「上沼公園」がありますが、通過するのは明日のこと。

 

池の中には、弁天様が祀られてるようですね。

 

何かのご縁なので弁天様にお参りしましょう。

その後、意気揚々と16:30頃、東松山駅近くのホテルに向かいましたがなんとチェックインは17時から、とのこと。止む無く10分くらい歩いたところにあるビバホームで時間をつぶして17時過ぎにホテルに戻り、翌日の本格的な歩きに備えたのでした。

 

その4につづく!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)にかけて、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その2です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り、

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞くらいでしょう。

 

その1では、都幾川の南手前側の水路に架かっていた石橋をしげしげと眺めた後、新東松山橋で都幾川を渡り、次の目的地、将軍塚古墳を見つけたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

まだ将軍塚古墳まではけっこう距離があるので、農道をゆっくり進んで行きます。

 

右目の端っこの方にちょっと大きめの鳥が見えた気がしたので、すぐに望遠を利かせてそちらを見てみると、、、、アオサギ(*´∀`*)。心なしかちょっと寒そうに見えるポーズです。

 

そのまま暫く進んで新江川という用水のような小川と用水を越え、県道345号を渡ると、街道右側に旧野本小学校跡があり、その脇の草むらに、「野本村道路元標」があります。

で、街道を進むだけならこのまま直進すればいいんですが、ここから少し東(右)方向に進んだ先に将軍塚古墳があるので、街道から外れてそちらに向かいます。

後ろに見切れてるのがさっきの道路元標です。

 

旧野本小学校跡は現在東松山市野本市民活動センターになっていますが、煉瓦造りの旧野本小学校の校門が今も保存されています。

 

解説板。昭和43年(1968)に今の校舎に移ったなら、現校舎は私と同い年ってことになります。

意図的に保存しようとしなければ、こういう遺構はすぐなくなっちゃいますもんね。ちなみに今の野本小学校はこれから向かう将軍塚古墳の先、旧敷地から見ると北東方向の、割と近い所にあります

 

その先で将軍塚古墳方面の入口標識から北方向に進みます。

野本市民活動センターの敷地の東側の外周を進む感じ。

もう上の写真の右側部分はは前方後円墳の「前方」のすぐ先にあたります。

 

途中通過する先に古墳の「前方」部分に大きな「忠魂碑」が立っているのが見えました。

 

おっ将軍塚古墳の解説がありますね。

ものっっすごくどーでもいい話ですが、前方後円墳って前が方形で後ろが円形部分なんですけど、人型或いは鍵穴の形の連想でどうしても丸い方が前(あるいは上)で、台形の方形部分の方が後ろ(あるいは下)のように感じてしまいます。

つまりこういう(↓)イメージです。

 

 

なんていう与太話は置いておいてそのまま進んでゆくと、「前方」「後円」の境目辺りと思われる場所に鳥居があって、そこから「後円」に登れそうなのでそちらに向かいます。

向かって右が「後円」、左側が「前方」。

 

階段を上がると左側に更に急角度で、かつ余り奥行きの無い石段があります。

 

階段を上がるとその先に利仁神社があります。

祀られている祭神は藤原利仁。奥州藤原氏の初代清衡の父だった藤原経清、の家来だった人ですが、後に鎮守府将軍(≒陸奥常駐の征ni夷大将軍的なもの)になってますが、そんなことより、芥川龍之介の小説「芋粥」に出て来た人=下級貴族に腹いっぱい芋粥を食べさせてあげようとした人、といった方が有名でしょうが、、、何と神様になっちゃたんだΣ(・ω・ノ)ノ!鎮守府将軍を神として祀っているから「将軍の墓=将軍塚」古墳なんですね。

 

将軍塚古墳を後にして、そのあまま東松山市民活動センターの脇を進むと、正面に無量寿寺というお寺があります。こちらは野本基員(のもと もとかず)=神社に祀られていた藤原利仁の子孫を初代とする野本家の館跡だったとされています。

おっ、参道入口に庚申塔がありますね。

 

アップで激写!

 

あっ、「禁葷酒」の石標!ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、「葷」はネギとかニラ、ニンニクみたいに臭いの強い野菜ですから、「臭い野菜と酒は持ち込み禁止な!」ってことですね。

確かにお寺がニラ臭いなんてのは場にそぐわないですよね。全部健康には良さそうですが。

 

山門額縁の術!

和歌山の時のような絶景にはなりません。

 

丁重にお参りをして無量寿寺を辞したら、街道ルートに戻って国道407号を斜に渡ります。

 

旧街道然とした道筋ですが、この手の旧街道にありがちなパターンで、地元の方の抜け道になっているので、多少注意が必要です。

 

 

その先の街道左側に野本八幡神社の参道入口があるので、立ち寄ることにしました。

 

市の無形文化財に指定された、秋のお祭りの獅子舞と、有形文化財の絵馬の説明ですね、

 

参道を進んで社殿でお参りします。

ここまでくれば本日の宿まではあと少しだな、と思いながらもまだ午後3時頃なのに、遠からず日が沈みそうな太陽の色に急かされて、先を急ぎつつ、その3に続きます。

12月27日(土)から28日(日)にかけて、8か月ぶりに千人同心街道歩きの三回目として、前回ゴールの埼玉県 高坂から、東行田までの区間を歩きました。

 

歩いたルートは↓の地図の通り、歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらい。寄り道も併せると全部で23~24㎞くらいだと思います。

 

今回は何となくゆったりと歩こうということで、初日中途半端な時間に家を出て、池袋経由で東武東上線の高坂駅に到着し、東行田に向けてスタートします、がこの日は時間も遅く(午後2時過ぎ)ということもあって、途中の東松山で一泊して二日目に残り区間を歩くことにしました。

 

駅から少し東に進んだ後、千人同心街道に復帰します。前回歩いたのが4月末で初期の陽気でしたが、この日は一日で一番気温の高い時間帯なのに、「あれ?俺ってひょっとして、誤って薄い下着着て来ちゃったっけ?」と本気で焦るほどの寒風モード。

胸元を確認してもちゃんとヒートテックは着ていたので、「なぁんだ、単なるめちゃくちゃ寒い日か(´∀`*)」と気を取り直して進んでゆきます。ちなみにこの少し先までは、千人同心街道と、川越・児玉往還が重なっている区間になっています。

 

この辺りは高坂の宿場なのですが、道路がナチュラルカーブなこと以外にはあんまり宿場を感じないなあ、などと考えていると、立派な薬医門と蔵のある、ザ・宿場的なお宅が!

門の奥を見ると母屋は今どきのサイディング材の住宅に建て替わっているようでしたが、蔵と門が残っててよかった。

 

ちなみに戦国時代に高坂刑部大輔がこの地の館を建設してできた街がこの高坂宿と言われるそうですが、検索しても「高坂刑部大輔」という人物の来歴はハッキリしなかったのに、なぜか「じゃらん」のサイトに「秩父氏の一族で後北条氏に仕えたとされる」などと詳しく書いてあってちょっと笑ってしまいました。それが本当ならすごいぞ、じゃらん!

 

と、それはともかくその先で街道は黄色と黒の柵でぶった切られています。仕方ないので右側に移動して柵の切れたところで向こう側に渡ります。

その後直進するのが街道ルートですが、一旦そのまま右方向に進みます。ここを右折すると、江戸時代にこの地で高坂藩一万石を開いた加賀爪直澄の居館跡とされる高済寺があります。

 

加賀爪氏は元々関東管領上杉氏の一族の「加賀爪上杉氏」で、時代と共に今川氏に仕え、今川氏没落の後は徳川氏に仕えたそうです。こちらの「加賀爪上杉氏」のWikipediaでも直澄の名が8代当主として記載されています。

 

100mちょっとほど歩くと寺の門と屋根、、の他に土塁?が見えてきました。

居館跡ゆえの土塁なのかは先達も書かれていないですが、おそらくそうでしょう。

 

こちらが高済寺の山門と本堂。本堂の左後方の高台というか土塁の上には加賀爪氏累代の墓があります。

 

ああ、やっぱり堀と土塁があったんですね。少し前にブロ友さんとコメントでやり取りしたことがありますが、私、こういう説明板って写真だけ撮って後で読むタイプなので、今記事を書きながらようやく理解しました(^^;)。

 

こちらが加賀爪家累代の墓。屋敷跡を見下ろすように土塁の上に立っています。

写真の解像度が悪く、内容も忘れてしまいましたが、右から3基目のものは死産か、生まれてすぐ死んでしまった子のものだった記憶があります。

 

その後高済寺を後にして、街道筋に戻るとすぐ先の街道右側に道標が二基ありました。

向かって右側のものは読みづらいですが、「奉納経拝礼供養塔」ですね。目視でギリギリ読めました。

 

向かって右側のものは、10年くらい前にここを通った方の記録では道路向こうの花壇の見える辺りにあったものですが、正面は「八王子道」、向かって左面には「左 ちちぶ ひき いわどの 道」と刻まれています。

要はここで、右折した後斜面を下っていくのが千人同心街道、直進方向が川越・児玉往還、そして道を戻れば千人同心街道スタート地点の八王子ということです。

 

ただ、本当に右折して進もうとすると、ぱっと見民家の敷地に侵入しそうに見えたので、一本先の曲がり角で右折して、堂々と舗装道路でこの先の都幾川越えに向かいます。

 

曲った先でしばらく道なりに坂を下りてゆくと、都幾川の広い河川敷を利用した都幾川リバーサイドパークがあり、その入り口を入ってすぐのところを流れる細い水路沿いに少し奥まで行くと、、

石橋および石橋供養塔という東松山市指定の歴史資料の標柱がありました。

 

おっ!説明板がありますね、こりゃ助かるな、、?看板が薄れてところどころ読めん!(-_-;)

ま、まあこの後見る石橋は、このすぐ先での川、の手前を流れる水路に架けられたものがそのまま残っているのだそうです。それがこちら↓。

当然渡ってみても大丈夫でした。元は旅人などが通っていたのに、今はこの石橋の横を野球少年なんかが走り回る訳だ。

 

そしたこちらが石橋供養塔。

うーん、このエリア、思っていた以上にH.R.I.(Historical Road Index=歴史街道指数)が高いのだなあ、と感心します。H.R.I歴史街道指数とは、今、記事を書きながら私がテキトーに考えた「自家製用語」です('◇')ゞ。

 

石橋を見た後ですが、今は都幾川を渡る渡しが無いので、土手を駆けあがって川に沿って東に向かう堤防道を進みます。

 

10分ほども進むと、都幾川に架かる新東松山橋にぶつかりますが、都幾川を渡った後は、向かって右側(東側)に進む必要があるので、橋の端付近の道路下通路を潜って反対側に出てから、橋に向かいます。

 

やー、橋の上に出ると寒風が全身に突き刺さって寒いっ!

 

向かって左、恐らく西南西くらいの方向を見ると、かなり大きな雪山が視界に入ります。

富士さ、、は方向違いますね、、とするとあれか、浅間山ではないかと!

浅間山がこうしてズバッとみられる点はちょっと埼玉羨ましい。

 

橋の下を流れる都幾川も記念に激写しておきます。

 

正面を見ると、うっすらと冠雪した山が、、あの形って日光の男体山なんじゃないかな。

時間帯がもっと早かったらもっとくっきり見えたでしょうね。

 

橋から低地に下りたら、向かって右側に伸びた後、ゆるく左にカーブして正面に向かう農道に入ります。この辺りも元の街道筋は恐らく消滅しているので、適当で。

  

農道からは無数の鉄塔が見えますが、向かって右側のものはコンクリ製の四つ足がありますね。「四脚門」ならぬ、「四脚塔」(^^)。

 

などと微妙なネーミングをしている間に次の目的地が見えてきました↓。ぱっと見ただの森にしか見えませんが、あれが次の立ち寄り先、将軍塚古墳という史跡です。

歴史的な街道って大方は、江戸幕府の政策として整備されたものが多いので、歩きながら触れる時代は大体江戸時代ですが、ちょくちょくこうやってほかの時代の物とも触れ合えるのがいいところだなあ。

 

などとしみじみ感じ入りながらその2に続きます。

和歌山城散策の続きです。

 

前回=その7では、和歌山城に「登城」し、二の丸跡を見た後、「見たいものがあるのでまだ天守閣には向かわない」などと匂わせ風に終わらせてしまいました(↓再掲)

 

二の丸の先(西方向)に進むと、何やら二の丸から下り坂になって降りてゆく、屋根・壁付きの通路があるじゃありませんか!

あんまり予習してなかったんですが(^^;)、これは御橋廊下といい、向かって右側の二の丸から、紅葉渓という西の丸庭園に向かう廊下なんだそうです。廊下みたいな橋、じゃなくて橋のような廊下なんですね(・o・;)。

 

観光客は渡れないようなので、いそいそと石垣の脇の道を進んで庭園に向かいます。

これはこれで悪くない景色だなあ。石垣も昔のものでしょうし。

 

おっ、ここが西の丸庭園の入口ですな。奥の方からめっちゃ中国語が聞こえてきます。

 

なんかめっちゃ庭園良さそうな予感がします。

この飛び石、歩きやすそうで、ちゃんと石の間隔を正確に見積もらないと歩きづらいので、注意しつつ歩きます。

 

おっ、「紅葉渓」という名がぴったりの景色になってきましたよ。

もうちょっと回って「絶景ポイント」を探してみよう!

 

あーっと、ここはかなりの絶景ポイントだ!!

さすが御三家の庭園って感じですね。あの茶室「紅松庵」で雅に過ごしてみたいなあ。

 

ほんと、ちょっとした「渓谷」みたいな景色のところもありますねえ。

 

遠くから「水鏡の術」的に見てもいい感じですね。これを撮ったところは、けっこう場所取り競争が厳しくて余裕が無かったので、もうちょっと落ち着いて撮れればよかったな。。

 

石が多少乱れてますが、しっかりと残っている石垣。この石垣の反対側が天守閣方面への入口だったと思います。

 

さぁ、天守閣に向かいましょう!

 

けっこうな登り坂なんですよね、天守閣への道。

 

途中、V字のようにルートが折り返す地点があったので、その真ん中に立つと、左右の水平距離ってすごく近いのに、高さにはものすごい差があるのが面白く、しばらく眺めていました。

右上の方に写ってる、帽子被ったおいちゃんも「高低差すごいなあ」的な感じですよね。

 

↑のがケータイ、↓がキャノンのコンデジで全く同じ場所から撮ったものです。

こっちの方が色味はきれいだなあ。

 

おっ、天守閣近し!この場所は昨年末のNHKBSの番組「ニッポン 不滅の名城 和歌山城」という番組で、ここには「天守 一之門」があったと説明されていました。

 

ちょっとした山登り的な趣すらありましたが、ようやく天守閣の下まで到着!

どの季節に来ても良い景色でしょうが、秋は色が豊かでいいなあ。ちなみに和歌山城の天守閣は昭和20年(1945)の和歌山大空襲で焼失していて、今の天守閣は和歌山の方々の熱意もあって鉄筋コンクリートで再建されています。外観はかなりしっかり再建されていて、ぱっと見ても違和感はありません。

 

入場券を買ったら門から場内に入ります。

 

大天守は四方が見渡せる展望台にもなっているので、全方向を順に見て回りました。↓東方面。

 

南方面。遠くの方で山が重なり合ってる様がいいなあ。

画面中央に見えている近代的な建物は実は2つあって手前側が和歌山県立近代美術館、奥が和歌山県立博物館(前日訪れたのは和歌山市立博物館)です。後で行ってみよ!

 

おお、西方面は紀の川の河口付近と工業地帯が見えますね。昨日歩き回った和歌浦方面は、この写真でいうともっと左方向。橋の向こうは「紀伊水道」かな?

 

上の写真からもう少し移動して南西方面を、見ると大きな工場がたくさん見えたので、とっさにケータイで激写しました。

西方面も激写予定でしたが、超幅狭の通路で話し込んで全然動いてくれない見物客がいて、撮り損ねました"(-""-)"。

 

次に天守閣の展示を見に行きます。

 

刀剣その他の武器や、

 

鎧や陣羽織、

  

 

時折ちょっとした隙間から石垣がドアップで見えたりしますが、廊下の景色は撮っても現代的!

  

 

天守閣の下の方に通じる出入口が保存されているのは、非常に興味深く、私以外の人も多数、これは激写されていました。

近代的なコンクリの城の基底部近くにこれがあったら注目しますよね。

 

その後和歌山城を辞します。

天守閣に向かった時とは別ルートで城山を下りてゆくと、見覚えの無い所に出ました。石垣は和歌山城本来のものが残っているようです。

 

と、いうのも、同じく御三家の城である名古屋城でも石垣にこういう印を見かけたからです。

三角の左右の辺が伸びすぎたようなマーク、

 

〇に・など様々です。

 

おっ、解説がありましたね。

 

その後県立博物館と県立近代美術館でけっこうな時間を使いましたが、激写が制限されていたので、写真は残らず残念でしたが、11月22日は「和歌山県民の日」に指定されていて、何でもこの日は県立の博物館・美術館は他県の人も含めて入城無料だったので、オトクでした(≧∇≦)。

 

県立博物館は、特別展「紀伊徳川家の威風」という個人的にあまりにも興味深いテーマを開催して、ワクワク(*゚▽゚*)しました。近代美術館の方は難解な絵を描く日本人の洋画家の特別展を開催中でしたが、美術は昔からセンスが欠片も無く、現代美術の難解さに完敗でした。

 

その後、美術館の近くにあった暴れん坊将軍こと徳川吉宗公の像を通りすがりに激写し、

 

「ひしお」という和歌山ラーメンの名店で昼食休憩。

 

 

その後はかなり長い事土産物選びに時間を使い、、前日の歩きの疲れもあって夕方前に帰宅の途に就きます。和歌山市中心部は歩き回りまくって位置関係がだいたい分かるようになっていたので、最後に和歌山城の天守閣が真正面に見えるルートを厳選して、和歌山駅方面に向かいます。

 

和歌山城からは、折角なので往路同様全部徒歩にします。和歌川を最後にじっくり見て、、

 

わかしお特急に乗り込んでしばらくすると、、

 

いきなり遠方にあべのハルカスが見えてびっくりしました。遮るものがなければかなり遠くからでも見られるんですね。

 

新大阪に着くと嬉しかったのは、激レアなパンダ列車をまた見られたことです。

 

新大阪から新幹線で東京に向かう時の定番はこれ!じゃがりこたこ焼き味!

すっかりリラックスして帰宅したのでした。和歌山、よかったなあ。もうちょっとじじいになったらもう一度和歌山に行って、今度はせかせか、ではなくゆったりと回りたいものです。

 

これにて和歌山旅行終劇、次回からは久々の千人同心街道歩きの記事に戻ります!

だしぬけに意味不明なタイトルですみません。実は1月12日(月)、19:00からNHK Eテレで放映される、『出川哲朗のクイズほぉ~スクール』という番組の中で、2020年の中山道歩き記事で掲載した写真が使われることになりました。

なんでもこの回では、「バス」がテーマで、面白いバス停名を紹介するそうなのですが、そこで2020年に私の撮った珍しい地名の写真を使わせて欲しい旨、制作会社の方からご依頼があり、二つ返事で承諾したものです。

 

該当の番組はこちら↓です。



その写真はこちらの記事↓からの1枚となりますので、お時間ある方はご覧いただけると嬉しいです(≧∇≦)。
2020年10月7日掲載の記事(https://ameblo.jp/goldentrout/entry-12627831338.html)

 

地名に関連してそうな写真は記事中2,3枚しかないので、どれになるかはだいたいお察し頂けるかと思いますが、なんでも、番組では「画像提供:らんまる」というクレジットを付けて頂けるそうなので、結局どれが使われたかは分かりやすいと思います(^^)。

 

みなさま、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ということで、さっそく去年11月20日(木)夜から22日(土)までの和歌山旅行の記録、2日目に入ります。

 

この日は朝から和歌山城に向かいました。ホテルをチェックアウトしたら和歌山駅の地下通路で駅の西側に出て、そのまま駅から西方向の和歌山城方面に向かう「けやき大通り」(県道17号)を歩きます。

暑くも寒くも無く、旅行には良い季節ですね。

 

けやき大通りは元々幅広い大通りの両側がアーケード商店街になっていたようですが、時の流れか、駅からさほど離れていないのに、だだっ広い駐車場が道沿いに広がり、恐らくそこに元々あった店の看板が、字を消された状態で残っていました。

 

こちらは和歌山市内最古とも言われる昭和22年創業の純喫茶「珈琲るーむ 森永」。

通常は16時までの営業ながら、時折金曜夜に「夜喫茶」として17~22時まで営業されることもあるようです。まだ開いてなくて残念!

 

おお、なんか「ジャンボ」という名の平屋看板建築の店舗がありますね。

その場でググってみると、老舗のたこ焼き屋で、中学生なども食べにくる人気店のようでした。

上の写真だと分かりにくいですが、幅も奥行きもけっこうある店舗です。

 

ストリートビューからキャプ足した開店中の様子(今年のもの)↓。

 

「坊主丁」(ぼうずちょう」という変わった名前の交差点を通過します。

坊主「町」じゃないんだ⁉と思って調べると、ハッキリした由来は分かりませんが、GoogleのAIは「坊さんが多く住んでいた町なのではないか?」という、自分でもすぐ考えつくような推測が出て来ました。ちなみに地図で見てみるとこの近くには「南汀丁」とか「中六軒丁」という地名もありました。

 

坊主丁交差点のすぐ次の交差点を渡る時に、キョロキョロ左右に交差する道を見ていると、なにか素晴らしげな建物が見えたので、ダッシュして激写にいきます。

「うをぜん」、魚屋だった店舗でしょう。今は両サイドとも駐車場=空地で「うをぜん」自身も、シャッターは長らく閉まったままの様子です。側面を見ると、当初いわゆる「原爆型トマソン」=ぴったりくっついていた隣家の痕跡、かと思いましたが、よく見ると二階建ての看板建築で後方が日本家屋だったのを、更に後ろ方向に増築して埋めてしまったように見えます。

 

シャッター右側には鉢植えが並んでいるし、前の写真で見ると壁も落書きされています。正確な住所と併せて検索しても情報が出てこなかったので、もう廃業して久しいようです。

 

その先で和歌川を渡ります。

前日は和歌浦方面の河口あたりで随分と広くなった姿を見ましたが、この辺りでは普通の穏やかな河川といった感じ。

 

二軒長屋の二階建て看板建築。「パン工房」は現役の様子。

 

そんなこんなで進んでゆくと、ようやく和歌山城の堀まで到達しました。↓は城の北東の端から西方向を見たもの。

 

お堀の南方向を見ると、ものすごい奥行きの遠さ!さすが徳川御三家の城ですねえ。

 

西方向もかなりの長さ。

 

ちゃんと「和歌山城」の石標は撮っておきませんとね。

 

解説板も一旦は流し読みして、写真に残して後でゆっくり読みます。

 

では一の橋を通って大手門から登城しましょう!!

 

公園としてもこの季節に散策するには最高でした!

和歌山城は元々、天正十三年(1585)に、今年の大河ドラマの主人公、豊臣秀長が兄 秀吉の命で建てたのが最初で、関ケ原合戦後、浅野幸長が城主となって城郭の整備や天守の建設をし、元和五年(1619)に家康の十一男、頼宜が五十五万石で入城したものです。その後落雷で焼失、さらに和歌山の空襲で再度消失したものの、昭和33年(1968)、市民の希望もあってコンクリで再建されたそうです。

 

おっ桝形ですね。元々城門があったはず。

 

二の丸跡。今は公園状になっています。

 

おっ、二の丸の説明がありますね。

なるほど、2万㎡以上あってかつては、四隅に櫓もあったのか。ちょっと見てみたかったな。

 

天守閣方面の入口がありますが、先に見たいものがあるので、今はそちらに向かわず、二の丸の奥の方に向かうことにしました。

 

和歌山城散策、次回に続きます。

2025年11月20日(木)夜から22日(土)まで和歌山を旅した記録、その6です。

 

その5では、和歌浦天満宮にお参りした後、御手洗池公園を通って和歌浦の海辺に着き、頭の中で昭和の名曲『遠くへ行きたい』が再生されたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

前回使った地図で言うと、中央上から右下に伸びているやたらと細い半島のような「和歌の浦」の根本近くに居ます。

 

何人か釣り人が居るものの、ほとんど人の声はせず、時折通りかかる自動車の音を除けば、波の音だけが聞こえてきます。向こうに見えているのは雑賀崎方面ですね。

 

錆びた係船杭があったので、何となく遊び心でカメラを地面に置いて激写!

 

特にあてもなく雑賀崎の方に向かってゆくと、石垣っぽい壁の家があり、壁の下方を見ると緑の岩が見えていました。岩石は詳しいことがよく分かりませんが緑色泥岩か何かかな?

自然の岩を利用したのか、デザインでこうしたのかも分かりませんでした。

 

おっ、はるか遠くに朝一番で行った紀三井寺の仏殿が見えていました。

さて、それでは和歌の浦の細い半島をなるべく先端に近い方まで行ってみましょう!

 

防波堤の上がそのまま遊歩道のようになっているので、その上を歩いて、和歌の浦の先端方向に歩いてゆきます。海辺は砂浜で、ところどころヤシの木?で部分的にちょっと南国っぽい感じになってます

 

遊歩道状の防波堤から地面に下りることなく↑の写真の施設2Fに移動できる場所があったので、ちょっとそちらに出てみました。夏の間は遊泳客が居ると見えて更衣室やトイレなどを通り抜けて展望台的なところへ。

 

せっかくなので階下に降りて砂浜もちょっと味わってみよう!

海辺の風景はいいなあ。何となく「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」なんて訳詞がアタマに浮かんできました。

 

浜辺から和歌の浦の先端方向を見てみます。ん~、先端遠すぎ(≧∇≦)!

と、いうことでこのあと数百メートル奥まで進みましたが、半島はどんどん狭くなるし、道も悪くなって更にまだ1㎞くらいあるし、で途中で断念!

 

で、せっかくなので、半島の根本経由、紀三井寺方面まで徒歩で帰ることにしましたが、折角なので、こんどは半島の反対側を見て帰ることにしました。

 

反対側に出るとそこは、和歌川の河口部で、ちょうど引き潮で砂地が見える頃合いでした。

都内では見られない、自然の風景が美しく、尊いものに感じられます。

 

スタスタ歩いて行くと枝ぶりの立派な木がありました。

これを見て何かを連想するなあ、と暫く考えていてようやく思い立ったのは、「なんかこの木、盆栽みたいだなあ」ということでした。盆栽の30~40倍くらいのスケールに拡大するとこんなものでしょう。

 

海沿いに歩きます。ちょうど進路が弧のように曲がっているので、いい眺めです。

 

 

そのまま行くと、小さな島に建てられたような、日蓮宗の海禅院というお寺があったので、勇んで橋を渡って行きましたが、何やら島全体が工事中の模様。

 

ほとんどお寺自体は見られなかったので、せめてもの土産と、露頭している地層などを激写。

 

そのまま海沿い道に戻り、少し進むと、道路の左側に、玉津嶋神社を見かけてこちらでもお参りします。

 

創建は不明

リンク先のWikipediaにも「社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まる」とあるので、古代の頃から祀られていて、正確な創建の年は不明なんですね。

 

建物の中ではかなり多人数の親戚御一同が、お孫さんorひ孫さんの七五三で幸せ120%!状態だったので、お邪魔をしないよう、そろ~っとお賽銭を投げて、そお~っとお参りをして、ぬる~っと帰りました。

 

そこから歩くこと30~40分、、くらいして紀三井寺門前町に着いた頃、ひどい空腹になったので、近くのモスバーガーで多めに昼食を食べて紀三井寺駅まで更に歩きます。

 

電車で和歌山駅に着いたら、駅前の近鉄百貨店でしばし休憩し、その後バスで南海電鉄の和歌山市駅まで移動します。移動途中、昔は賑わっていたであろう、今は寂れたアーケード商店街の横を通った時に、不意に真後ろに座っていたご年配のご婦人の会話が耳に入りました:

A「この辺りも昔はすごく賑わってお店もたっくさんある商店街だったんですよ」

B「そうなの?お店はたくさんあったみたいだけど」

A「お店の数だけは今もあるけど、そういうことじゃないの。昔は本当にいいお店がたくさんあったの」

みたいな会話で、ブロ友さんともよくコメントのやり取りで、都市部の衰退について嘆いていますが、ここ和歌山でも状況は同様のようでした。

 

さて、この日最後の訪問先は和歌山市立博物館!

必ず行っておきたかった場所です。感じのよい受付のお姉さんに入館料を支払って中へ。

 

この時は「特別展 紀州の美を統べし殿様 徳川治宝」ということで紀州藩第十代藩主、徳川治宝(はるとみ)の展示があることを、紀州東照宮の受付のチラシで知り、どうしても和歌山にいる間に見たかったのです。

 

徳川治宝の特別展は撮影が全面禁止でしたが、常設展はかなり多く撮影OKだったので、記憶のために何枚か激写してきました。

特に古代の和歌山の歴史に関する展示は非常に興味深く、とても充実した博物館で感動し、博物館を出る時には受付のお姉さんに、素晴らしい展示のお礼を言って博物館を辞し、晩御飯に寿司を食べて宿に帰るなりいきなりバタンキューで午後9時前には寝てしまったのでした。

 

ということで次回から二日目の和歌山城見物に入ります、が!今年はこちらが最後の記事となります。今年もこのブログにご訪問、コメントを頂き誠に有難うございました。m(__)m

来年もどうぞよろしくお願いいたします。どうかよいお年をお迎えください(≧∇≦)!

 

2025年末 らんまる

ということで、11月の和歌山旅行の二日目の様子、続きます。その4では、紀三井寺に続き、厳しい石段のある紀伊東照宮にお参りした後、すぐ近くの和歌浦天満宮の参道入口に辿り着いたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

紀伊東照宮

和歌浦天満宮入口

 

いざ、参る!みたいな感じで境内に入ります。社名の石標はシンプルに「天満神社」!

 

アッキャー!!!🐵 またこんな石段!

そりゃあ、確かに紀三井寺やさっきの東照宮よりは段数少ないですよ、、少ないですけどね、もう3回目なので、何なら一番キツかったです(;'∀')。ちょっと石段が不ぞろい気味でそれも怖かったです(llllll゚Д゚)。

 

それでも石段の上からの眺めはやはり格別!

 

お、すぐ下に見えてる大きな池のある公園に後で行ってみよう。スマホに仕込んだ「ことりっぷ」で調べると、御手洗池公園というんだね。

 

すごく簡単に言うと、西暦1000年よりもちょっと前に「参議」という位にあった橘直幹(たちばなの なおもと)という人が大宰府から京に帰る途中でここに立ち寄り、菅原道真の霊を勧請したのが始まりなんだそうです。

 

よし、ここでも一つ覚え技、楼門額縁の術で海の方を撮ってみましょう。

 

高齢の方もちょくちょく参拝されていましたが、かなりスムーズにあの石段上がっておられたのを見てちょっとびっくりしました。

 

丁寧に参拝した後、社殿に向かって左奥方向を見ると、何やら石段とそれに続く道が。

さすがにここでクマは出ないと思うけど、奥に何があるんだろう?

 

ああっ、役行者(小角)が奥で祀られているんですね!

実は愛知県豊田市の私の実家のすぐ近くのちょっとした崖下にも、役行者を祀った祠のある崖があって、何となくそれが懐かしくなり、折角なので寄ってみることにしました。

 

景色だけ見ると、中山道で山道を歩いたのを思い出しますねえ。

 

 

暫く進むと役行者を祀った祠があったので、ざっとお参りして、戻ります。

さすがに脚が疲れてきたので、下りは石段ではなく、「女坂」的な緩い坂道を通り、さっき石段の上から見えた、御手洗池公園に向かいます。

 

公園に向かう途上、またしても味のある古民家があって、少し足止めされてしまいました。

 

さて、今度こそ観光らしい感じで公園を練り歩きますよ!あの赤い橋の向こうは島になってるんですね。

 

かなり池が大きいのが特徴だったので、その場でググってみると、、かつてはこの公園、先ほど行ったばかりの和歌浦八幡宮の真ん前まで迫っていた海の一部だったそうです。

(↓はニュース和歌山の記事からお借りした、『紀伊名所図会』の抜粋カラー版)

 

他の観光客もほとんど居なかったので、何となくですが、「一休さん」の「このはしわたるべからず」のエピソードを思い出して、橋の真ん中を歩いていきました(^^)。

 

そうか、この辺りの水辺も元は海だったのかぁ。感慨が深くなるので調べてよかった(*´∀`*)。

 

以前1,2度書いたことがありますが、私、紅葉や楓はもちろんですが、「桜の紅葉」昔からかなり好きなんです。

こういうところゆっくり歩いてるだけで癒されますなあ。

 

公園を出たら次の目的地を目指してひた歩き続けます。

 

15分くらい歩いて着いた先は、、海です!

 

↓の地図画面右寄りに、⇘方向に伸びるやたら細長い半島みたいなものがあり、その根元に紀州東照宮や和歌浦天満宮、それに大きな池のある公園(御手洗池公園)がありますね。上の写真は概ね御手洗池公園から真下方向に進んだ辺りです。

 

海辺の景色がいいなあ、実にいい!!

・・・・旅先でこういう風景を見ているとほぼ例外なく脳内で昭和の名曲、『遠くへ行きたい』の再生が始まります。街道歩きを含めて、旅する時の自分のテーマ曲で、やはり昭和40年代生まれですね。知らない町を歩いて、知らない海を眺めて、幸せこの上ない旅じゃございませんか( *´ω`* )。多数の歌手がカバーしてますが、やはりジェリー藤尾さんのものが一番良いと思います。

 

このまま海辺の散策に入り、いよいよフツーの旅行めいてくる!、、んじゃないかと思いますが、この続きはその6でご紹介します。

 

つづく!