昨年12月9日に、旧東海道でもトップクラスに街道情緒のある関宿から、前回シリーズの伊勢参宮道の津宿までを結ぶ伊勢別街道を歩いた記事のその12です。
当日歩いたコースは↓。
歩いた距離は寄り道含めて20kmちょっとくらいだった筈。
その11では津市中心部近くの、真宗高田派本山専修寺にて、写真では表現しかねるほどスケールの大きすぎる建造物を見た後、しばらく離れていた旧道ルートに復帰したところまでをご紹介しました(↓再掲)。
旧道は再び住宅街の中を進みます。道幅がまさしく旧道の頃のままだろう道をかなり多くのクルマが通行するので、ちょっと注意が必要。
蔵付きで門も塀も立派な旧家などをしげしげと眺めながら進みます。
上の写真の旧家の左側にあったコンクリの大きな蔵。
!片側長屋門?と思って激写したらこちらは切妻屋根の横長の民家でした。
一種の職業病的なやつですね。職業じゃないですが(^^;)。
伊勢参宮道の前半でよく見かけた、切妻屋根+袖壁+虫籠窓+幕板+格子の古民家。
わずか2か月ぶりですが、前回の旅は色々思うことも多かったので色々懐かしいなあ。
実はこちらの古民家は、江戸時代に創業した白井織布という会社で、この一身田を中心に百軒ほどあった木綿屋のうち、最後に残った一軒です。
古くからの物を思われる、縦長の札がいいですねえ。
旧街道らしい道筋の両側には現代の住宅と古そうな住宅が併存しています。
現代にそのまま移行した街道筋の町並みですね。
おお、黒漆喰と連子格子、それに二階右側の高欄が良い感じですね。
ある程度リノベされていますが、玄関のサッシの引き戸なども色合いのバランスは考慮されていて、こういうリノベは好感度MAXです。
おお、これは入母屋造りの屋根の横広物件ですね。二階の色褪せた黒漆喰や側面の錆びたトタン板壁もしぶい、幕板付きの古民家です。
こちらの平屋も破風の様子などからするとそこそこ古そうですが、かなり荒れています。
その先で伊勢鉄道の高架を潜ります。
この辺りになると、さらに交通量は激しくなり、歩きにくくなってきました、、あれ?高架の下に何やら見覚えのあるシルエットが。
あなたは、四次元ポケットから何でも出して何でも叶えてくれるあの、、、
って、黒目がほとんど消えてしまってちょっと怖いかも!!
旧道は↓の地点のY字(実際は変則的な五叉路)を右に進みます。
暫く進んだところで、五六川に架かる五六橋を渡ります。クルマ通りがだいぶ少なくなって助かります。
こちらの蔵付きのお宅はかなり古そうですね。下方がちょっと石垣になってますが、かつて五六川が氾濫したりしたのかな。
おや、最近大好きな左右非対称の長屋門じゃありませんか。旅の終盤で良いものが見られて嬉しいなあ(*´∀`*)。
ここは元々駄菓子とか売っていたような雰囲気の旧店舗ですね。
小っちゃくて見えないですが、コカ・コーラの看板は「Enjoy」ではなく「Drink」なので割と古そうです。
今どき貴重になりつつある公衆電話と赤ポスト。
多重屋根の立派な塀のお宅は庭木が茂ってこの角度からしか真価が分かりませんでした。
その先で、街道右側の路地を進みほぼ最後の寄り道をします。左側が大乃己所(おおのこそ)神社。右側が慈眼寺です。慈眼寺が大乃己所神社の別当寺なのでしょう
まずは大乃己所神社からお参りしましょう。、
こちらは見初大明神のご神体と言われる獅子頭を祀っているそうで、何でも伊勢國に悪疫が流行った時に、一本の大ツバキから三十三体の獅子頭を造り、各所の神社に分け与えて舞を舞ったところ悪疫が平癒したのだそうです。見初大明神のご神体の獅子頭すごっ( ゚Д゚)!
右側の慈眼寺は本尊の十一面観音菩薩像が、伝教大師(最澄)作と言われているそうです。
日本史の授業だと「最澄と空海」みたいに並んで紹介されますが、私が以前からよく言っている「古代過労トリオ」(現代に伝わる言い伝えが多すぎて、それが全部本当なら過労死レベルで忙しかったであろうお三方)の横綱、空海と比べると伝わる事績は、少なくとも街道筋ではずいぶんと少ないですよね。(↓古代過労トリオ)
まだ残っていた紅葉がなかなかの風情だったので激写してから街道に戻りましょう。
後ろのブルーシートが入っちゃったのはちょっと色彩的に失敗でした(><)。
その先の丁字路で左折した先はだいぶ現代的な街並みになってきましたね。
玄関がすごく高い位置にあって実質三階建てくらいになっている民家があったので激写。
こちらも私が師匠と仰いでいる関西のブロ友さん命名の「入母屋城」ですね。
あとは伊勢参宮道との合流点を目指して突き進みグランドフィナーレとなりますが、旅日記の残り部分はその13でご紹介します。
あと1回つづく!!