らんまるの街道歩きブログ

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旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の5回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

寄り道も併せた全行程は27~28㎞くらいだったかと思います。

 

その4では新郷の宿場で須永家本陣門を見た後、愛宕神社参りをして、勘兵衛松と呼ばれる松並木を眺めながら利根川越えを目指しているところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

  

 

前回記事の最後にご紹介したお堂(再掲写真の4枚目)から先は、利根川の堤防に向かう右カーブの登り坂が続いています。

冬のせいもあるでしょうが、どうにも殺風景な印象。

 

ストリートビューで2012年に遡って見ると、この付近はまだ緑豊かで左奥には門や越屋根のある古民家が見えていますが、下方のサムネイルを見ると2017年にはもうはげ山状態でした。

歩道も無ければ路肩もほぼ無い、街道ウォーカーには怖い道ですが、風景的に限って言えばこの頃歩きたかった気がします。この辺りには関所の跡碑もある、と地図を作っていた頃には表示されていましたが、坂道を上がってから辺りを見回しても見当たりませんでした。こういうのがあるから、街道ってなるべく早く歩いちゃっておきたいんですよね。

 

坂を上がるとこれから利根川越えで渡る昭和橋が見えています。

上の写真で言うと、一旦右方向に進んだ後、橋の袂の交差点を左折して昭和橋に行くのですが、その交差点で「道の駅はにゅう」という看板が見えました。しかも交差点のすぐ近く。こうなると現金なもので、俄然トイレに行きたい気がして、立ち寄ってしまいました('◇')ゞ。

 

道の駅ってこういう時、徒歩の旅人にはすごく有難い中継基地のイメージです。

 

トイレ後カロリーの高そうなドリンクと「糖分補給カプセル」という名目のグミをゲット!

 

その他、土産品なども売っていたので、「そういえばこれも旅の一種だよなあ」などと考えて、地元の土産用お菓子の軽量小パックを家族の土産用に購入しました(^^)。

 

前回の旅での荒川越えに続いて、同じく関東の超メジャー級大河、利根川を渡ります。

 

おっ、男体山ですね。軽くガスっているのでちょっとおぼろげですが激写!

 

利根川を渡ったらそのまま右折して、利根川北岸の堤防道に入ります。↓は出発点の八王子や江戸方向を振り返って撮った河川名の看板と昭和橋のコラボ。

 

堤防道はすぐに堤防の上をずっと歩く道と、堤防から下りる道に分岐するので、下りる道に入ります。

 

↑の写真の坂を下り切ったら、そこで左折するとそのまま利根川北側の川俣宿に入ります。

↓はあくまで堤防エリアと住宅エリアを分けるものでしょうが、何となく宿場の木戸の名残っぽいイメージになっていて、色気には欠けますが悪くないです( ̄▽ ̄)。

 

その「仮想木戸口」を通過すると最初に左側に見える大きなお宅が、かつて本陣を務めていた塩屋家です。

建築物は全部現代のものでしょうが、立派な門があり敷地も建物も大きく、往時の雰囲気の名残り的なものを感じます。

 

塩屋家以外はあまり宿場だったことを伝えるものは残っていませんが、敢えて言えばド真っ直ぐな道と、向かって右側の細かい土地割りがそれっぽいと言えなくもないですかね。

 

途中、街道左側に粟嶋神社の長い参道入口がありましたが、この先まだかなりの距離があるので、ここは遥拝に留めて先に進みます。

 

しばらく進んでゆくと、街道右側に「川俣事件記念碑」があります。

川俣事件というのは、社会で習った足尾銅山の鉱毒事件に関連したもので、明治33年(1900)に鉱毒の被害を受けた農民などが多数で、銅山の操業停止をお願いするために東京に向かったところ、この辺りで警官隊と衝突して、逮捕者や怪我人が出てしまったものです。(詳細こちら

足尾銅山鉱毒事件と言えば、やはり教科書に出て来た田中正造を思い出しますが、後に関連史跡も登場します。

 

おっ、こういうのがあると嬉しくなりますね(≧∇≦)。

 

あっ、明和町教育委員会の解説もありました。

 

元々商店(酒屋っぽい印象)などもあったようですが、今は街道の一本向こうに昭和橋から真直ぐ続く国道が伸びていることもあり、廃業されてしまったようです。

 

さっき罪な紅茶飲んだばかりですが、いわゆる「格安自販機」的なものに大好物の「月桂冠」の甘酒があったので迷わず購入!

個人的には、街道歩き時の「体力回復の王」と思っています(次点がしるこ)。特に飲料メーカーではなく、酒造会社のこれは味も素晴らしいです。

 

その先で旧街道と、今の国道の合流点が近づくと、興味深い建物が見えました。

「和洋食 味処 いしづか」。店舗の裏側すぐ向こうが国道です。

二台停まっているクルマの奥には「閉店しました」の貼紙が見ていました。推理するまでもなく、街道側に広い駐車場も確保して、ずっと食堂を続けてきたものの、店の裏側スレッスレに国道が開通し、客も入りづらくなって廃業となったのでしょう。

 

その先に道路改修で、ものすごく複雑になってしまった交差点に出くわします。どこが旧道の続きだか分かります?

 

同じ写真にルートを描き込むと、こんな感じ↓

やむなく一旦左側の国道に出て信号を渡り、またこちら側に戻ってくる必要があります。

しかも信号も長い!

 

なんだかんだ言って4,5分かけてようやく反対側に渡り、やってきた川俣宿方向を見ると、、

街道筋が真直ぐ繋がっていたのがよく分かり、軽く「おおっ!」などと感嘆してみます。

 

国道を渡る時のクルマ通りの多さが嘘のように無くなり快適な街道歩きができますが、今歩いているところ、やけに白線の外側が広いので、きっと下に暗渠というか水路がありそうです。

 

あ、やっぱり!

しばらくはこんな感じで自動車レスの快適な歩きが続きますが、続きはその6でご紹介します。

 

つづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた徒歩旅最終回の記録、の4回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は街道から外れた立ち寄りも含めてざっと27~28㎞前後になるはず。

 

前回の記事では、関東平野の広さを感じた後、花陽浴(はなあび)という手に入れにくい日本酒を作る南陽酒造で列をなして花陽浴を買わんとする人たちを見てすぐに、新郷宿に入ると意外に寂しいその景色に驚天動地の想いだったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

  

 

その先の街道右側にある和菓子の「あらい」は、ブロ友さんが通った時にはたしか現役かどうか微妙な様子だったものの、こうしてみるとしっかり現役で営業中なことが分かりました。

 

そのすぐ先の街道左側にこんな昭和な二階建ての建物があり、こちらは、、

 

自分のシルエットが余計ですが、「山田医院」という個人の医院のようですが、ちょっと建物は寂れた印象です。

 

そこから少し進むと、山田医院のすぐ先にはこんな洋館がありました。

これはまあ位置的にも先ほどの山田医院の院長のお宅ということで間違い無さそうです。右側の鋭角屋根といい、左側のマンサード屋根といい、瀟洒な洋館風でカッコイイなあ。

 

更にその先に半円の凸型のファサードのついたこちらの平屋看板建築は、ブロ友さんも「山田医院に付属した薬局」と推察されてましたが、現地で実際の位置関係を見ると、120%合意です。

 

その「元薬局」と思しき建物の先には新しい病院施設が!!

画面外では「山田クリニック」の看板が立っていたので、恐らく院長の代替わりか何かの折に、広いクリニックを建てて、病院業はこちらに移したのでしょう。さっきの二階建て医院が寂れた印象なのはそういうことなんですね、きっと。

 

こういう宿場の街などで、とても頼りになるバス停を見ると、、

「宿中」!宿場の中ほどってことですね。街道筋だとよく「上宿」「中宿」「下宿」という表現はバス停などで見かけますが、「宿中」というのは珍しい気がします。

 

その先、こちら↓が街道ウォーカー的観点からこの宿場のメインイベントとなるものです。

恐らく街道歩きをされる人にはピンと来るであろうこちらは、旧須永家本陣の門です。

 

それらしい外観を保っていますが、現存するのは門のみで、本陣の建物は無くなっています。

 

いろんな指定文化財が残されているようで、羽生市教育委員会の看板には徳川斉昭の和かなどが紹介されています。

 

本陣門も脇から見ると木材で支えてようやく立っているような感じでした。

 

須永家本陣跡の敷地を後にする際に後ろを振り返り、「上新郷のシイノキ」という樹齢400年の古木を激写して先に進みます。本陣門はシイノキの真後ろ方向にあります。

 

宿場風情、とまで言えるかは別として街道筋には古くからありそうなお宅が散見されます。

 

通りに面した部分は古びていますが、立派なお宅で造りがしっかりしているのが分かります。

 

上の写真の古民家の先辺りから少しずつ民家が途切れ、宿場の外れ近くになってきました。

↓の写真の交差点は「愛宕神社前」といい、正しい「+」の形よりもちょっと崩れた感じでした。

そして交差点名の通り、向かって右前方の角には愛宕神社がありますので立ち寄ることに。

 

愛宕神社の参道入口は↑の交差点をちょっとだけ右折方向に進んだところにあります。

この鳥居を潜ったらその先で左折→右折をして本殿に向かう、やや複雑なルートを進みます。

 

本殿に正対したところ↓。

実はこの愛宕神社本殿があるその下は愛宕塚古墳という古墳だったりします。

 

下が古墳で両脇に巨木があると、何となく神様的なものを感じてしまいます。古代の人が山や巨木、巨石などに神性を感じたのと同じような感覚なんだろうと思いました。

 

愛宕神社を辞して街道に復帰すると、街道筋のバス停名は「勘兵衛松」。

この先、長距離に渡って街道筋に松並木があり、その名前が勘兵衛松、な訳です。

 

そこから視界に入るのは、街道筋を長らく歩いていてもめったに見ないような見事な松並木!

 

おっ、解説がありますね。なるほど、歴史の中でどんどん本来の松は減っていき、今、オリジナルの松で残っているのは一本だけなんですねえ。

並木が見事なのは近年になって新たに植えたものが多いからというのもある訳だ。

 

こちら↓は昭和三年建立の勘兵衛松碑。詳細がビッシリ書かれてしますが、光の加減もあって、よっ、読めん( ;∀;)!!

 

碑を読みたかったはやまやまですが、諦めて進むと、その先の街道左側の柵に「賽神社跡」の説明板があったらしいのですが、全く覚えておらず、恐らくカメラの設定か何かに気を取られ、華麗にスルーしてしまったようです。

賽神社、というのはこの先にあった、利根川を渡る関所破りを試みて死罪になった人たちの弔い目的で建てられた神社です、というようなことが解説板に書かれています。

 

その少し先で見かけたお堂には、庚申塔・如意輪観音・地蔵尊三体が治められていました。

 

この先で「坂東太郎」という別名を持つ利根川を渡っていきますが、この続きは次回記事でご紹介します。

 

その5につづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた歩き旅の記録、の3回目です。

 

当日の歩行ルートは↓

 

歩いた距離は街道から外れた立ち寄りも含めてざっと27~28㎞前後。

 

その2では行田市内で、武蔵用水や見沼代用水を渡った後、激渋な廃墟を発見し、ストリートビューでその変遷を追ったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

暫く歩道がなく路肩の狭い道を歩いて休憩したくなった頃、折よく荒木天満天神社という神社が街道右側にあったので、休憩がてら立ち寄ってゆっくりめに境内をぶらぶらして街道に戻りました。

 

道沿いは空家も多くやや寂しい印象もあるなか、かねがねブロ友さんと生き残り率が高いとやり取りしている床屋が早朝から絶賛営業中で、何となく元気をもらいました(^^)。

 

その先でかなり良さそうな古民家が見えてきました。

 

平屋看板建築の後ろに二階建ての母屋がくっついた構造ですが、、店舗部分が重力に逆らいきれず下に湾曲しているようです。

 

「粉屋 森田商店」元々小麦粉などを挽いて売る店だったんでしょうか。左端には今や懐かしいタバコ販売のカウンターもありますね。昭和文化遺産として残って欲しいものです。

その場でかなり気に入ってしまったので、都合10枚以上撮ってしまいました(≧∇≦)。

 

廃店舗が目立ちます。元々街道筋で商店なども多かったのが、県道になってクルマの通行が増え、歩行に向かない通りになって寂れてしまった、的な経緯を想像します。

 

その先、荒木の交差点で館林方面に向かって右折をします。

 

右折して暫く進むと、街道筋の左右とも広大な田畑が続き、ものすごく見通しが良くなってきました。まだちょっと赤い日光を浴びた「荒木土地改良竣工記念碑」、の向こうにもだだっぴろい平地が広がっているのが見えます。

 

「俺は!今!関東平野を!歩いてるぜ!!」と強く感じる風景です。

育った実家はすぐ近くに低山があって遠くの見通しの効かない地形だったので、何度見ても斬新な、圧倒的な広さ!

 

その先で羽生市に入ります、、が!

 

上の標識のちょっと手前で、県道から右に分岐するのが千人同心街道の旧道なので、そちらに進みます。

 

今はちらほらと住宅がありますが、元々田畑の中を一本、街道が突き抜けているような場所だったのではないかと思われます。

 

しばらく歩いていくと街道は左カーブに差し掛かり、まもなく県道に再合流するのだと分かりますが、↓の写真で道の両側にオレンジ+白のポールと、その外側に白い柵があり、そこには、、

 

柵の外にはこんな用水らしき水路が流れており、地図で見ると見沼代用水から分流しているので、この辺りの農業用水で間違い無さそうです。

 

おっと、ここでほぼ左折するように左カーブをして、県道に再合流するんだな。

 

上の写真でも見えますが、進行方向に小山みたいな緑の塊があります。神社でもあるのかな?

 

などと思いつつ脇を通ると、この林に恐らくは通りがかりのクルマからゴミを捨てる輩が多いとして羽生市役所から警告が出ていました。

市が管理している土地で手つかずになってるということのようですね。

 

上の写真の真後ろ方向の、街道脇からかなりけっこう離れたところには、今度こそ神社の森が残り、浅間神社の社域ですが、ちょっと街道からは距離がありすぎのためパスします。

 

その少し先で急に住宅街に入り、祥雲寺というお寺の横を通り過ぎると、、

 

何やら何かの工場とその先にある大きな店舗のところに大勢の人が列を作って並んでいます。

ああっ、これは前にブロ友さんが別のアメブロガーさんと散策してたエリアですね。してみると奥に見えている交差点を左折する街道ルートの先が新郷の宿場、右折すれば新郷駅方面だ。

 

すんごい人ですね。ここは南陽酒造と言う造り酒屋です。GoogleのAI解説によるとこの南陽酒造は「花陽浴(はなあび)」という、入手困難な幻の銘柄の日本酒を家族経営で作っていて、私の歩いた1月10日前後は新酒の仕込みと出荷の最盛期に当たるのだそうです。

一番前の方は何時に来たんでしょうね。飲食関係その他「レアな商品を得るために並ぶ」、というのは、少なくとも自分自身のためには取らない行動なので、寒い中頭が下がる思いです。

 

その先、上の写真で言うと右方向にある信号交差点を左折して新郷の宿場に入っていくと、元々宿場の商店が並んでいたであろう通り沿いは割と寂しい感じでした。

この2店舗は外観からしても廃業して長そうです。うーん、まあ街道筋にはままあることですが、それにしてもさっきの南陽酒造の賑わいと比べると、宿場に入ったのに寂しい感じだなぁ、などと感じつつ、この続きはその4でご紹介します。

 

つづく!

年明けの1月10日()に千人同心街道の第四回=最終回として、東行田からゴール地点の佐野までを歩いた歩き旅の記録、その2です。

 

当日の歩行ルートは↓

歩いた距離は恐らく寄り道も併せてざっと27~28㎞だったんではないかと思います。

 

その1では、東行田駅を出発した後、忍城主の成田顕泰が忍城の鬼門除けとして建てた長久寺や、その長久寺が別当を務める久伊豆神社に行った後、歩いている街道の県道が、まさしくゴール地点の佐野まで繋がっていることに気をよくしたところまでをご紹介しました(↓再掲)。 

 

街道を歩いていると割と交差点の信号の上にある地名などが気になったりしますが、そうか、こおこは小見(おみ)というんですね。

その場でサッとググって見ると、行田市内だけあって足袋蔵や、埼玉古墳群で知られる、とあります。

 

街道脇を見ると、「めっちゃ関東!」と思わず叫んでしまうような平野と、高い空が見えます。

その先ではしばらくの間、すごく普通の景色が続いたので特に激写はせずに暫く進むと、ちょっと興味深い建物が見えてきました。

 

こちらです↓。住居にそのままつながった「オミレース工業㈱」という会社なんですね。

やはりその場でGoogleのAIに聞いてみると「レース生地などの衣料品素材を扱う製造・卸売企業」なんだそうで、一応こちらは「小見工場」という位置づけなんだそうです。「小見工場」って言われると、ブロ友さんとよくやり取りしている「〇〇本店」という店を見た時の「果たして支店はあるのか問題」、じゃありませんが、何となく「本社工場とか、他の地名の工場があるのだろうか?」などと考えてしまいます。

 

別の角度からも激写します!

店舗らしき部分に掛かっているレースのカーテンもきっと自社製なんだろうなあ、などと深い考察のない感想を持って先に進みます。

 

オミレース工業から進むこと数分、街道の左側に次の目標物が見えてきます。

小さな山の上に社がありますが、こちらは単なる神社ではなく、この小山自体が虚空蔵山(こくぞうやま)古墳という名の古墳で、6世紀後半のものと推定されているそうです(詳細はこちら)。ぱっと見ると小ぶりの円墳なのかな?と思うのですが、本来はちょうど↑の写真の方向、=北北西に向かって伸びる前方後円墳だったそうですが、かなり大幅に削られてしまっているのは残念です。

 

登るのは問題無さそうなので、とにもかくにもてっぺんにおわす虚空蔵菩薩にお参りしよう。

丁寧にお参りした後、古墳の上から街道進行方向を見ると、、

 

お、ちょっと急だけど元来た階段に戻らずともそのまま進行方向に下りられそうですね。

 

下りた先に見えていた社は諏訪神社でした。

こんなところで諏訪大神にお参りできるとは、ある種貴重だなあ。

 

その先、街道が右カーブする地点でこんな↓激突防止対策が施されてました。

前回記事のラストでご紹介したものといい、この辺りはやたらと敷地内に突入して来るクルマが多いんでしょうかね。

 

まだ冬至からさして日も経っておらず太陽が低いので、かなり気温が低い上、全然暖かくなってきません(-_-;)。

 

その先で信号を越えると、「一級河川武蔵水路」の看板とその向こうに見える、かなり流れのはやい水路がありました。

 

武蔵水路を上流に向かって激写したのがこちら↓。

台風の跡で増水した川のような速さの流れが常態のようでした。落ちたら終わりだな(;・∀・)。

 

用水の先で左方を眺めると、日光の男体山らしき山が見えています。平野が広くて遠くの山がよく見えるのは関東のいい所だな、やっぱり。

 

お、県道の距離表示ですね。今日のちょうど中間地点辺りの館林がまだ11km先か。

先はまだ長いので楽しんで行くことにしました!

 

その先で「棒川橋」という一風変わった名前の橋で見沼代用水を渡ります。

見沼代用水とは、江戸時代に、徳川吉宗が紀州から連れて来た、治水技術を持つ一族の井沢弥惣兵衛為永が利根川から水を引いて開削した、埼玉県東部(見沼田んぼ周辺)の広大な新田開発を支え、江戸の物流も担った歴史的な農業用水、です。さらなる詳細は写真の上のリンク先のWikipediaをご覧ください。(以前の自分のこちらの記事でも詳しめに書いています)

 

こちらが見沼代用水↓。

ちょうど水鳥が着水したようなので、ズームイン!してみましょう。

 

ズームし切れませんが、頭の方が黒くて、顔が白いのでカワウでしょうかね。

 

見沼代用水を渡ったところにあるのが真言宗の東福寺で、お参りしようかと思ったのですが、山門まですごく遠いので門前から遥拝して先に進みます。

その先で、埼玉県や千葉県の風土病だと思われる「急に歩道が無くなった上、同時に道幅も狭くなる現象」に襲われました(^^;)。

 

そのお蔭、、という訳ではないでしょうが、随分前に廃業した何がしかの店舗と住居らしき建物がありました。

恐らく補修に使ったブルーシート自体が壊滅状態なのでしょう。

 

反対のアングルからもう一枚激写!

 

ストリートビューを見ると2012年の時点では、右側の平屋看板建築部分の窓はすでに破損が始まっていますが、まだ建物の体裁はいちおう整っていたようです。

写真下方のサムネイルを見ると右から左に向かって時が進んでいきますが、2019年からブルーシートが見えます。

 

街道は先に見える「矢島畳店」のところでほぼ直角に左に曲り、北方向に進路を変えます。

この辺り、右側はそこそこ幅のある路肩を歩けますが、左側はちょっと怖いなあ。

 

それでもクルマが途切れた瞬間を狙って左側に渡り、琴平神社にお参りして、また右側に戻ります。

 

左にカーブした後は左右とも路肩がかなり狭く、気を付ける必要があります。

街道ウォーカーにはよくあることなので慣れてはいますが、後ろからのクルマの音などには常に注意を払いつつ進みます。

 

まだまだ先は続きますが、今回の記事はここまでとし、続きはその3でご紹介します。

 

つづく!

年明けから間もない1月10日()、千人同心街道歩き旅の最終回として前回ゴールの東行田から、この街道の終着点、栃木県佐野市の例幣使街道との合流点までを歩いた徒歩旅の記録、その1です。

 

当日の歩行ルートは↓の通り。

歩いた距離は恐らく寄り道も併せると27~28㎞くらいになるかと思います。

 

日の短い時期で、ゴール前に日が暮れてしまうと写真も撮りづらいので、自分への「出血🩸大サービス」的なイメージで熊谷駅から徒歩5分程度のホテルに前泊し、朝早くの秩父鉄道で東行田に移動します。

前回ゴールした時は反対側を向いてたせいか、このアコーディオン状の構造の民家?と、三軒長屋の看板建築に気付いていませんでした。

 

たぶんこの駅に来ることももう無いと思うので記念として朝の東行田駅を激写!

 

東行田駅の道路向井にはモンテヤマザキの店舗がありますが、住居としてはともかく、店舗としては現役感が感じられません。

この日はカメラマン用の、両手親指と人差し指だけが手袋の途中から「ニュッ!」と出せる手袋をしていたのですが、うっかり親指と人差し指を出そうものなら、たちまち指が凍ってボキッと折れて地面に落ちてしまいそうなイメージの寒さでした(;・∀・)。

 

街道筋に入ると、すぐに秩父鉄道の踏切に差し掛かります。

 

↑の写真のすぐ左側が東行田駅、

ホームで座って待ってる人が寒そう~!

 

で、右が羽生方面です。単線の線路の風景はけっこう好きです。

 

踏切を越えてすぐの左側に長久寺というお寺があり、門前の二十三夜塔などが見えていました。

初っ端なのでせいぜい8時間程度の旅ですが、本日の道中の無事などを願ってお参りしておこう。

 

樹齢の高そうな松が参道に聳えていて壮観!

 

 

こちらの長久寺は、前回の旅で忍城の由来の時にご紹介した、忍城を築いた成田顕泰が、文明の頃(1469-1487)に建てたお寺で、武運長久を祈って長久寺と名付けた、とされています。

 

むっ、工事や作業現場で使われるカラーコーンがちょっとお寺仕様になっとる!

こういう配慮はいいですねえ。

 

寒いですが、手袋も外してお参り!佐野までの道中が安全に過ごせますように!

 

街道に戻ると県道とは言え、旧街道的なカーブを描くルートが見えています。

 

赤い提灯の掛けられた居酒屋「まゆみ」。夜などは意外と常連さんが来たりするのかな?

 

などと思っていると、すぐに街道左側に久伊豆神社が現れます。さっきの長久寺とめっちゃ近いなあ。

長久寺がこの久伊豆神社の別当寺だったってことかな?、、と予想してGoogleで聞いて見ると、AIがすぐに「はい、東行田(埼玉県行田市桜町)にある久伊豆神社は、隣接する長久寺(ちょうきゅうじ)が別当寺でした。 」と回答してくれました。忍城主の成田親泰が忍城の守護神として久伊豆神社を祀った際、隣接する長久寺を別当寺としたとの事。ホント、便利な世の中になったなあ。

 

大きくて立派な社標も記録に残しておきましょう。

 

参道を進んでいくと、藤らしい木と木を支える構造物が。

こちらの久伊豆神社は藤の名所で4月にはこんなに(←神社のHPから)みごとに藤が咲くということでした。枯れ木の藤も風情はありますが、とにかく寒くってそれどころじゃない、というのがこの時の感想でした(;・∀・)。

 

丁重にお参りをしてから、朝日を浴びて赤く輝く久伊豆神社の社殿を激写!

 

街道に戻って少し進んだ右側に三軒並んだ看板建築の商店が並んでいました。真ん中は店名も無く店の前に三輪自転車があるので、おそらく廃業してお年寄りがお住まい、右のチカ美容室は見た感じ現役かどうか微妙で、左端のとまる家電は現役かな?

 

と予想して2023年8月付のストリートビューを見ると、、

両サイドはすでに廃業を表す灰色のマーク、真ん中の「やきとり大関」はこの時点では現役かも知れませんが、今はクレハロンテントの店名も無いので、三軒とも廃業ということで間違い無さそうです。

Googleマップの現役印は、「閉業の確認は取れていない」くらいの話なのかも知れません。

 

その先の間口の広いトタン壁の商業施設は左側にある間口二軒分の「クリーニングと洋服お直しの専門店 ファッションハクエイ」は廃業ですね。右隣の焼き肉屋の幟が被さってます。

右端にコインランドリーがあるので、全くの同一業種ではないにせよ、ハクエイの店じまいに一役買ったのか、ハクエイが無くなったのでコインランドリーができたのか。23年8月のストリートビューではコインランドリーは開業済み、ハクエイも現役なので何とも言えませんね(言う必要もないんですが)。

 

シャトレーゼは郊外の街道筋には付き物、と言ってよいですね。

 

こういう見通しのいいカーブは、街道歩き記事に使うには持ってこいだなあ。

ちなみに↑の写真の中断左側に白い建物が写っていますが、その手前に、左折方向に道が伸びています。

 

その道の入口で、敷地にちょっと入り込んで走るクルマが多いのか、厳重に守りを固めていました。

この場所を通られると危なそうですもんね。

 

今歩いている県道は埼玉の県道7号で「佐野行田線」という名称です。

本日のゴールは、千人同心街道のゴールでもある佐野なので、「よぉし、おっちゃん佐野まで頑張って歩くぞ」みたいに気分を盛り上げて先に進むのでした。

 

続きはその2でご紹介します。

 

つづく!

 

昨年末の12月27日(土)~28日(日)の2日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その15です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータル概算で23~24㎞といったところ、のはず。

 

その14では行田から東行田に向かう途中で、以前ブロ友さんも紹介していた古い商店を多数見つけて、激写しまくったせいで全然足が進まなくなってしまったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

そこから少し進んだ信号交差点の手前右側にブルーシートで上部を覆われた建物がありました。

ん~、このブルーシートの建物、何か見覚えあるな。ブロ友さんの記事なのは間違いないけど。

 

男マークに、、

 

薄れてしまってるけど女性マーク

ああ、一昨年末くらいの散策でブロ友さんが見つけた銭湯ですね、これは!廃業してからずいぶんと長いようですね。

 

当時ブロ友さんも書いてましたが、2012年の時点ですでにブルーシート仕様になってます。

車もボディが煤けていて現役かどうか不明ですねえ。

 

廃銭湯の脇の信号交差点を渡る時に踏切の音が聞こえるのでそちらを見やると、東行田から行田市駅に向かう電車が見えました。たぶんこの2本くらい後の電車に乗ることになるはず。

もっとすごいローカル線な車体を想像してました。

 

その先でもちらほら長屋形式の看板建築の店舗がありましたが、恐らく廃業済みと思われるものが多かったです。

 

あっ、看板の文字が消えてしまったこの建物も見覚えあります。

確か反対側から見ると片倉シルクか何かの小さな看板が、、

 

 

無くなっとるΣ(・ω・ノ)ノ!。今ブロ友さんの記事を再読すると、一階の左端の木材が見えてる辺りに「片倉のシルク号」という看板があったのが、間違い探しクイズのように撤去されてます。

ちなみに片倉シルク号とは、製糸工場が起源の片倉工業という自転車メーカーのスポーツサイクルのブランドで、今は絹自転車工業(シルクサイクル)という会社に継承されているそうです。

 

その先でも廃業したと思われる店舗がポツポツと見えていました。

 

 

 

こちらの土橋薬局も「くすり」の看板はそんなに古くないように見えるものの、営業している雰囲気はあまり感じられません。

 

と、そろそろ、今回の旅での目玉の一つに遭遇しそうな頃合いだな、と思いつつ進むと、煉瓦壁に貼られたこの「キノエネ醤油」の看板が現れました。

 

煉瓦壁のすぐ左横にあるのがこちら!文化二年(1805)創業という、200年以上の歴史を持つ横田酒造株式会社です。二階の色褪せた黒漆喰も渋いああ。

 

ちなみにストリートビューで一番新しい2023年8月の画像を見ると、、↓こんな銅板の看板が残っていることが分かります。もっと早く来ればよかったなあ、残念!

 

店舗の左端に「日本橋醸造元」と書かれた板が懸かっています。これは、横田酒造の銘酒の名前ですが創業者である近江商人の横田庄右衛門が、良い水を探してこの地に辿り着く前に日本橋にあった蔵元で修業をしていたことに由来するそうです。

 

さらに店舗の向こうには立派な蔵!蔵と店舗合わせたら間口何間あるんだろ、これ?

 

記念にこれは撮っておかねば!

「日本橋」のほかに、忍城に因んだ「浮城」や「のぼうの城」という酒も造っているのですね。

 

店舗と蔵の全景も記念に残しておこう!旅のゴール寸前にこういう建物が見られると、全道程が素晴らしかったような気持ちになれるのがオトク(^^)v!

 

横田酒造のすぐ先の交差点で千人同心街道は左折しますが、その左折点に看板建築の「看板」が側面まで回ってるような長屋看板建築を見かけ、この建物の前を回り込むように左折します。

 

一瞬のスキを狙って脱兎のように看板建築の道路向かいに渡り全景も激写!

真ん中の店舗は「江原畜産直売所」と書かれていて、「中西ハム」という縦看板も見えます。右端は一階がエスニック料理、二階の黄色い貼紙のある窓は中古車の売買業者のようです。

 

さて、これで今回の旅で見るべきものは全部見たはずなので、街道に沿って東行田駅まで行って帰宅しましょう。

 

昭和的な長屋住宅などを見ながら歩くこと数分、

 

今日のゴール、東行田駅に到着!街道のゴール地点から最寄り駅まで30秒って、15年近くの街道歩きの中でも最短記録に近いんじゃないかと思います。

 

さ、かなり消耗してるので濃ゆそうな飲み物で一旦糖分補給しよう!

美味しかったです、これ!

 

ローカルな感じの駅の改札ですが、ちゃんとSuicaその他の交通カードで入れます。

 

先ほど見かけたのと恐らく同じ型の車両で熊谷まで出て、上野東京ラインで帰宅しました。

今年の年明けにこの続きを歩いているので、このままお付き合い頂けると嬉しいです(≧∇≦)!

 

第四回につづく!!

昨年末の12月27日(土)~28日(日)の2日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その14です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータル概算で23~24㎞だったと思います。

 

その13ではこの街が足袋蔵で栄えまくっていた頃の面影を残した店舗と併せて、すでに廃業してしまった廃店舗をしみじみと眺めたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

行田市の町並みが続きます。右端は前回記事の最後に載せた店舗ですが、その並びもまた廃業してしまった店舗が並んでいます。

 

さらにその先には二軒並んだ看板建築の商店があり、左側の「Fashon Roomオータニ」はシャッターの感じから廃業のようですが、右側の「cosmetic IWAI」はバリバリ現役の様子。

 

こちらは仲良く?並んだ看板建築の三軒の元商家ですが、見た感じ三軒とも廃業して住居仕様に改装済みのようですね。

 

平屋の店舗の後方に二階建ての母屋のある廃店舗、、の左側に目の覚めるような看板建築の床屋がありました。

 

こちらは現役のようで、ホッとします。末永く残って欲しい建物です。

 

↓の交差点で左折します。

 

二階建てでみぎがわが店舗だったような造りの廃屋があります。右側二階にはお多福窓が残ってるなあ。

 

その右隣の「よしや本店」。文房具屋のようで、店の前に赤いポストがあります。

こちらはカーテンがビシッと閉まってますが、ググった限りでは現役のようでした。これを書いている今(土曜日 12:37)も「営業中」とGoogleは言っています。

 

その先、↓の地点で街道のルートは右折をします。そのまま右方向に進めばすぐに新忍川と船着き場跡があり、その先の東行田に向かいますが、ほんの一瞬だけ反対側の左方向を見に行くことに。

 

目に入ったのが、現役っぽいクリーニング店と、廃業らしい「髙澤洋服店」。

クリーニングの方も「クリーニング タカザワ」と書いてあるので、元々個人店舗で洋服店をやっていたのが、後にクリーニングの店舗兼住居を建て増してクリーニング業に鞍替え、おそらく洋服店の方は住居専用になった、といったところかと思います。

 

2枚上の写真に写る、はんこ屋の向かいに、昔ここにあった渡し場の説明の碑と、

 

イラスト付きの説明板がありました。元々「長野口御門」があったということなので、先ほど寄った忍城の中心部からはかなり距離がありますが、恐らく城から一番遠い門で、直接この御門で船の輸送と繋がっていたんですね。

忍城のイラストも興味深く拝見んしました。城の中心部があれだけ水に囲まれてたら、そりゃ難攻不落にもなるよなあ..。

 

ここに船が着いて、人や物資が行き来していたんだなあ。

 

では広い意味のラストスパートとして、東行田駅に向かいましょう。新忍川を渡ってから割とすぐの所に、やたらと間口の狭いお宅があったのでさらっと激写して通り過ぎます。

右側がやたら細くて奥行きのある駐車場?になってますが、元々このお宅が倍の幅あったとしてもおかしくなさそうな感じ。ちなみに2012年のストリートビューを見ても、このお宅はこのままで、この駐車場の右側の更地には、その頃「金婚足袋」という足袋会社の二階建て社屋がありました。

ああ、そして細い間口のお宅の右隣は駐車場とかではなく、はるか後方のお寺かお堂に続く参道なんですね。なるほど!

 

忍城エリアを完全に脱したからか、街並みの寂れが一層強くなって来たきがします。

 

むっ!この「三菱カラーテレビ」の看板が軒下に格納されたこの「居酒屋葉月」もブロ友さんが紹介してた建物です。

なるほど、実物の質感はこんな感じかあ。

 

葉月の並びもよい感じなのでまとめて遠景で激写しておこう。

足袋産業で街が元気だった頃はこの辺りまで賑わいが続いていたのでしょう。街道筋だしね。

 

店名部分がかなり汚れてしまった柿沼カメラさん、住居の方も見たところ雨戸がビシッと閉まっているので、廃業×廃屋パターンだと思われます。

 

二階の軒先に干されている洗濯物にちょっと懐かしい雰囲気を感じました。

勝手に洗濯物撮ってしまってすみませんm(__)m。

 

トタン屋根のプレハブ住居です。鉢植えなどありますが、冬枯れなのか人がいないのか。。

周りを新しい家が囲んでいますが、この家はかなり前からこの姿でここにあるんでしょう。

 

こちらの木造二階建ても古そうで、恐らく元商家ではないかと思われますが、カーテンも二階の雨戸も閉まったきりなので、恐らく廃屋でしょう。

ここから東行田に向かう途上にはまだ見どころが幾つかありますが、残りの部分についてはその15でご紹介します。

 

その15につづく!!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その13です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータル概算で23~24㎞だったと思います。

 

その12では、街道筋から外れて忍城址に立ち寄り、復元された御三階櫓(博物館)を外から眺めたものの、改修工事で中に入れず地団太を踏んで悔しがったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

 

復元した忍城構内はこんな↓感じで、復元した城壁といい、やはり一定水準で城跡の雰囲気が出ていて、歴史的な公園としては良いと思います。

 

では「下城」して、行田の街を眺めつつ東行田駅までいきましょう!

 

県道128号(熊谷羽生線)に出ると、さっそく元は商店街だった街並みに復帰します。

マツバYシャツ店の薄れた看板と字体がシブいなあ。

 

こちらの看板建築には「有限会社ポニー」と「高野商店」と書かれていますが、住所と店名で調べてみると同じ住所で「タカノ靴店」とあったので、靴の小売店だったと思われます。

 

よく見ると錆び錆びの金属製擬タイルに「HONDA」の文字、の痕跡が残る激渋看板建築や、

 

軒先のテントがビリッビリの平屋看板建築と、ちょっと屋根が撓んでいる木造二階建ての商家などからも、以前はもっと賑わった商店街だったのでしょう。

 

こちらは「カネキ」と読めばいいのかな?

 

こちらはJCBも使える「メガネ 宝石 時計 ひらかわ」という商店だったようです。

ブロ友さんともよく宝石・時計舗は生存率が高いとよくやり取りしていますが、こちらは残念ながら廃業して久しい様子。側面二階の窓に貼られたテープ(補強?)が生々しいなあ。

 

これは前回記事で、道路の反対側で接写した出桁造り商家だな。古い商家によくあるように、すごくしっかりした建物に見えます。

 

忍城に向かう時に「ぜったい出桁造り商家だろうな」と思った看板建築ですね。

こちらからは影で見えにくいので反対側に回って見ると、、

 

うんっ、やっぱり破風の厚い、立派な出桁造りの商家でした。

左側のほぼ真っ白な所は看板建築のファサードが白トビしちゃったものです。

 

漫然とシャッターを切ったらしく全然覚えてないのですが、こんな屋根の建物を撮ってました。

Googleマップでこの地点を指定しても情報なく分からずじまい。

 

この辺りから行田市・行田宿の忠臣に近づいたせいか、史跡跡の石標が目立つようになってきました。県道と中央通りの交差点の角にあったこちら↓は宿場の高札場跡碑。

 

その斜向かいには蘭方医の河津省庵先生の診療所跡碑があり、

 

面影は全くありませんが、「埼玉縣信用金庫」と「県」に古い文字の「縣」を使っている銀行の手前、距離が無さすぎて見切れてしまった石碑こそ、、

 

行田宿の本陣跡なのでした。

紛うことなき、行田宿の中心部を通過している訳だ!

 

本陣跡から少し進んだところに、看板建築があります。「ライフシーン ほずみ」と書かれているものの、業態が分かりづらいなあと思っていると、店舗の歩道近くにベタッと貼られている選挙ポスター、の左側に今まで数々見てきたような、足袋蔵の説明板のようなものが見えます。

 

ほほう、「保泉蔵」と書いて「ほずみぐら」なんですね。こちらも明治創業の「保泉商店」だったんですねえ。それが転じて恐らく生活用品も扱うライフセンターになったんでしょう。

 

そしてこの保泉蔵、宿場町によくある形式の通り、ずいぶんと奥行きがあります。

いわゆる「鰻の寝床」だ!一番奥の方は蔵ですね。

 

その先で何やらずいぶんとステキな建物が見えてきました。

こちらの激渋でよい感じの出桁造り商家は、「秋は凄いよ夏の暑さを全て忘れさせる」「秋は凄いよ僕の体重を増やせる」とやや謎めいた秋の礼賛の貼紙の下に「シュトーレン始めました」「タルトタタン始めました」の貼紙があるので、ショーケースに入ってるものから考えても、和風建築の洋菓子屋なんですねえ。

 

こちらの「十万石」という蔵造の店舗は、この辺りの銘菓、十万石(おまんじゅう)のお店でした。

 

調べると、よい意味で昭和な、それこそ激渋なCMを発見したのでご参考まで↓(Youtube)。

 

 

 

仕出しの戸崎屋とその隣の「関根ラジオ店」、、ん?何か思い出しそうな、、

 

あ!関根ラジオ店!そういえばブロ友さんもこの店名ごと煤けてしまった廃店舗は取り上げられてました。

かなり寂しそうな店名の薄れ方x「ラジオ店」という今では珍しい店名で、当時特に印象が強くて覚えていました。

 

こちらも看板建築の奥は立派な建物が眠っていそうですが、ファサードのトタン板も剥がれて閉まってるし、廃業して久しいのでしょう。

足袋の商いが唸るような勢いだった頃はこちらも繁盛したお店だったんだろうな、などと少々感傷的な気分になりつつ、ここから東行田の駅まで進んでゆきますが、この続きはその14でご紹介します。

 

あと2回ほどつづく、たぶん!

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その12です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その11では行田市の中心部近くに入って、あちこちに残る足袋蔵や、古いオフィスなどを見たところまでご紹介しました(↓再掲)。

 

 

今歩いているところは両側アーケードの商店街で、かなり以前から残っていそうな店舗もちらほらありますが、自分の居る、向かって左側の方は少し先でアーケードの屋根が無くなっているように見えます。

 

アーケードが途切れた先で、街道筋から少し外れた所に見たいものがあるので、↓の地点で左に曲ります。

 

目的地に向かう途中で、廃墟になって久しそうな木造二階建てを見かけます。

何やら玄関回りに色々貼ってありますね。

 

建設大臣が許可した社団法人日本鳶工業連合会会員証に、昭和47年(1972)4月1日付の労災保険関係成立票、上の方には日本赤十字社の正社員標などがあります。鳶の会社だったんですね。

 

曲尺手っぽいところを抜けて進んで行きます。

 

複雑な道筋を進んで行くと、やっと目標のものが見えてきました。黄色で囲った場所です。

と言っても暗い色の壁が日陰になっているところにあるので、ほとんど見えませんね。

 

実はこれ、忍城の大手御門跡なんです。忍城の「正門」ですね。

他にも○○門跡は幾つかあったんですが、かなり分散していて工数が増えすぎるので大手門だけに絞りました。

 

街道筋に戻ろうかと思ったんですが、廃墟らしき冠木門を構えたシブい民家などがあり、そのままショートカットルートで忍城跡に向かうことにします。

 

その先で見つけた「行田兵衛尉館跡」の石標はパッと見、忍城にお勤めだった武士の居館跡か思ったですが、ググってみるとこの"行田兵衛尉(ぎょうだひょうえのじょう)は、鎌倉時代初期の武士で、成田助広の三男・助忠を祖とする行田氏の人物です。1184年の「一ノ谷の戦い」で源義経に従軍し、軍功を挙げ行田の領主となった後、1221年の承久の乱で討死したとされています。"と、いうことで、1400年代にできた忍城よりは200年以上前にここに住んでいた人のようです。

「大手御門跡」のところで「忍城」にリンクしたWikipediaを見ると、この行田兵衛尉の元の家系の成田氏が忍城を建てたと言われています。

 

ほどなく大通りに出ます。

 

むっ、あの看板建築の本体は出桁造り商家ですね!クルマ通りも激しくて、渡りにくいので一旦このまま忍城跡に向かい、帰りがけに細部を見ることにしよう。

 

などと言いつつ、自分の歩いている左側(南側)も立派な出桁造り商家が並んでいます。

 

ほかにも戦後の看板建築が並んでいました。一番手前は母屋の破風がかなり分厚いし瓦も見た感じ古そうなので、もしかしたらかなり古い建物をリノベしたのかも知れません。

 

そんなこんなで歩いているうちに、忍城のコンクリ建ての天守閣じゃなくて櫓、が見えてきました。

あれは元禄14年(1701)建造の「御三階櫓」を昭和63年(1988)に再建した模擬御三階櫓、なんだそうです。

 

駐車場の一角に「忍の時鐘楼跡」の碑がぽつねんと立っています。

これも復元してみてもいいかも知れませんね。

 

ちょっと城跡風の冠木門+ちょっとした曲尺手みたいな通路を進みます。

 

忍城跡の中心地に到着!

復元した櫓ですが、まあざっと見る分には立派です。

 

堀を模したと思われる水路。元々沼に囲まれて「浮城」とまで言われた城ですから、周りの水量は本来はこんなものではないですよね。

 

何回か前の記事でちょっとだけご紹介した、元々忍城の外堀を利用してできた水城公園の方が、当時の様子には近いと思われます。(↓再掲)

 

ともあれ、「登城」してみましょう!元通りの城の姿ではないにせよ、ちゃんと歴史的な公園設備としてはちゃんと作ってあり、好印象!

 

「忍城址」!こういうのはやっぱり激写しとかないといけません。

 

忍城の由来、という説明書きがあります、おっ、平成三年三月と言えば、ちょうど大学を卒業した月で、深い意味はないですが、「ああ、あの頃のものか」とちょっと感じるものがあります。

 

ぜひ立ち寄ろう!と思っていた郷土博物館(御三階櫓)は改修工事で休館中 (´・ω・`)。

郷土博物館はどこの街でもとても興味深いことが多く、楽しみにしていたので残念!

 

忍城の鐘楼がこちら。

「文政6年(1823)に伊勢桑名城から忍城に移った松平氏が、宝暦14年(1764)に桑名で鋳造したもの。転封に伴い、忍城に移された。」んだそうです(じゃらん)。

 

博物館も見られないし、あとは建物でも眺めながら、本日のゴール地点の東行田に向かうとしましょう!この続きはその13でご紹介いたしまする。

 

つづく!

 

2025年暮れの12月27日(土)と28日(日)の二日間に分割して、千人同心街道歩きの第三回として、前回ゴールの高坂から東行田の区間を歩いた徒歩旅の記録、その11です。

 

歩いたルートは↓の地図の通り。

歩いた距離は初日5km前後、二日目17kmくらいで、寄り道も併せてトータルで23~24㎞だったと思います。

 

その10では行田市中心部近くにある、新兵衛地蔵のある清善寺と書かれた常夜燈を見た後、城南交差点で右折して行田市の中心部に向かおうとした所までをご紹介しました(↓再掲)。

 

右折後暫く進んで行くと、左側に大きな池の複数ある公園が目に入ってきます。

こちらは元々忍城の外堀の沼を利用した水城公園で、街道はその南側を東西に走っています。

 

ひとしきり公園を見物したら街道に戻り先を急ぎます。すぐに見えてきたこちらの建物は、かつては足袋の一大生産地だった行田の中でも、「穂国(ほこく)足袋」ブランドで名を馳せた荒井八郎商店の足袋原料倉庫で、昭和初期のもの。後に荒井八郎商店が手放した後、曳家でこちらに移され、半分が取り壊されたものの、残った部分が陶芸工房として活用されているそうです。

いいですねえ、そういう活用!都内や埼玉の他の都市、千葉県などもどんどんそういう動きを進めて欲しいもんです。

 

おっ、出ましたね「足袋蔵まち 行田」!

もうけっこう前になりますが、TBSドラマの「陸王」でクローズアップされた勢いがまだ続いているのなら素晴らしいことです。

 

その先の信号交差点で左折します。左折してすぐに右側に高源寺というお寺があり、興味はあったものの、道路の向こう側にあって、信号待ちも長くなりそうなので門前から拝んで進みます。

映画「のぼうの城」で、佐藤浩市さんが演じていた、忍城の家老、正木利英が忍城での戦いの後、武士を辞めて建てたお寺です。

 

 

それはともかく、そのお向かいである街道左側には佐間天神社があり、菅原道真が祀られていました。

 

境内はそんなに広くはないですが、立派な門!1489~1492年の忍城築城の頃の創建とのこと。

 

うーん、歴史のある神社感がありますねえ。

 

学問の神様ですからね、来年6月の資格試験合格しますように!m(__)m。

 

うむ、いい感じで古木の枝の間から太陽が!お昼時だけどなんかちょっと神々しいな(^^)。

 

神社を辞して街道に戻った先で、左折した方向に昔ながらの蔵があると地図に書いてあったので、そちらに向かってみます。

 

少し曲尺手っぽい感じの通りを過ぎていくと、、

 

こちらが、行田の足袋全盛時代の金楽足袋が建てたと言われ、現在草生家が所有しているという草生蔵。明治43年の建造とされているようです。

 

街道に戻り少し先に進むと、街道右側には、「昔ながらのくすりやですっ!」という感じの「化粧品」「くすり」の看板建築「たからや」がありました。

 

その先、街道の左側にまた蔵を見つけました。

おっ、向かって右側の壁(クルマの背後)に説明板がありそうですね。行ってみましょう!

 

ふんふん、こちらの土蔵は「ほうらい足袋」の奥貫家の足袋蔵でしたか。当時はこんな蔵が唸るようにあったんでしょうね、行田。

 

ちょっと特徴のある、広い敷地のお宅があり、記録用に激写。

建物に鋭角が目立つ感じ。

 

ものすごく敷地も大きそうなので、Googleマップの航空写真で全貌を見てみると、、

敷地広っ!建物めっちゃ多い!ということで、「行田 古墳通り、トンガリ屋根」で検索しても有力な情報は得られませんでした。江戸時代なのか明治以降なのか分かりませんが、かなり裕福な旧家のようです。

 

こちらは何かありそうだなと思って撮った建物ですが、日本タフト株式会社の旧社屋で1963~2022年まで活動していた会社の建物が今も残されているようです。

 

上の写真の左端に見切れている建物が、天満稲荷神社

ググって調べてみると「文政六年(1823)に松平忠堯が桑名から忍に移封された時、桑名の稲荷神社を遷座したものなんだそうです。

 

こちらは「大澤蔵」。

大澤商店の七代目の専蔵が大正十五年(1926)に建てた蔵で、行田で唯一のレンガ蔵なんだそうです(↓解説)。

 

この後、寄り道をしながら忍城跡にも立ち寄ってみますが、このつづきの顛末はその12でご紹介します。

 

つづく!