2016年11月12日(土)
今日は当初の予定では奥州街道シーズンⅡの続きなどを歩く
予定だったのですが、昨夜腰痛が少々悪化したこともあり、
急遽代替案として大人の遠足シリーズとして見沼通船堀や
見沼田んぼを歩いてきました。ごく最近、ブロ友さんがこの辺りを
歩かれており、ちょっと刺激を受けたため 、このコースを選びました。
(今回は『大人の遠足BOOK 日帰りウォーキング関東周辺②』から)
歩行ルートは☟です。
朝いちばんは何となく曇りがちだったため、10時半前に家を出て、
現場に最寄りの東浦和に概ね11時ころ到着。そこから一旦南に
進んだ後、東に移動すると川の様な流れに到着します。
これは見沼代用水西縁です。
かなり長くなりますが、見沼代用水について簡単に説明を
させて下さい(簡略化のため、多少デフォルメします):
・縄文海進の頃、この辺りは海でした。その後海が後退しても
付近には水が残り大きな湿地帯(見沼)になりました(冒頭付近の
リンクから”見沼”の説明を参照下さい)。
・江戸時代初期、関東郡代の伊奈半十郎忠治が、治水事業の
一環として、見沼から流れ出る芝川を堰き止め広大な溜池が
できました(見沼溜井)。
・ところが後に、水の貯留によって上流の水田が水没したり、土砂の
堆積により貯水が減少するという問題も発生。
・八代将軍吉宗公の新田開発の折、紀州出身の井沢惣兵衛為永
が新たにここを干拓し、利根川から新たに用水を引きました。
見沼に代わる用水なので、見沼代用水となった訳です。
・元々伊奈氏が治水事業で活躍していたのですが、ここで井沢氏が
紀州から持ってきた新技術でさらなる治水を進めた、とも言えるかと。
・で、見沼代用水には西側の流れ(西縁)と東側の流れ(東縁)があり、
真ん中には芝川が流れています。見沼代用水西縁と芝川を結び、
船が通れるようにした堀が見沼通船堀西縁、もちろん反対側が
見沼通船堀東縁です。
先程の写真は見沼代用水西縁ですので、ここから芝川に繋がって
いるのは見沼通船堀西縁という事になります。通船堀西縁の
始点には見沼通船堀の説明板がありました。
芝川と、見沼代用水の間には高低差があるので閘門を使って
いたんですね。
散歩ルートは見沼代用水西縁から、見沼通船堀西縁沿いに
移ります。
暫く通船堀西縁沿いに快適な散歩を楽しんだら、☟の地点で
この県道103号は赤山街道の一部ですが、実は江戸時代に造成
された八丁堤という堤の上を通っています。八丁堤は見沼代用水の
東縁から西縁までの八丁(873Mくらい)続く堤。
赤山街道もいずれ歩く「比較的近郊の街道」ですが、ここも
歩道が無くて少し歩きづらいかな?
その先左手には稲荷神社があります。
境内はちょっとした公園にもなっていますが、残念ながらこの時は
柵で入れないようになっていました。
稲荷神社から200Mほど先の左側には非常に立派な家があります。
これが享保十二年(1827)に通船堀の差配役となった鈴井家の住宅です。
母屋の右端には詳細な説明板が立っています。
母屋は現役の住宅なので公開されていませんが、母屋の背後にある
納屋などは公開の対象となっており、母屋の右側から見に行けます。
こちらの建物が納屋。中にも入ることができます。
土間の床が非常にリアルで貴重だし、あちこちに詳細な説明が
掲示されており非常に勉強になります。
その奥にある白壁の建物が米蔵です。
(奥から振り返って撮ったもの。米蔵の向こうがさっきの納屋)
更にその奥には船小屋があり、中には大変貴重な船が保管されて
います。
この船は、水深の浅い通船堀の通行のため、船底が平たくなって
おり、艜舟(ひらたぶね:平田舟)と呼ばれます。
やー、これは貴重なものを拝見できましたね。
更に東に進むと、見沼通船堀の西縁と東縁の間にある、芝川に
到着しますが、その川沿いで足元を走り抜ける、すごく速い
小さな影が見えたので、カンでシャッターを切ったところ非常に
運よく、その正体の激写に成功しました。
これは、あれですよね。イタチ!
、ではなくて動物のイタチ。
いずれにしてもちょっとびっくりしました。
芝川に架かる橋の上から北の方を見やると、、
向かって左手に見えているのが通船堀西縁のエンド部分ですね。
そして川べりには先ほど言及した八丁堤の説明板があるので
詳しくはこちらをご覧ください。
通船堀西縁の方に少し戻って芝川との合流点をしげしげと眺めます。
で、芝川の対岸、もう少しだけ北側には通船堀東縁と芝川の
合流点が見えています。
芝川を渡って通船堀東縁に向かいます。
☝の写真で見えている橋の上から、通船堀東縁を東側に向かって
まんじりともせずに見てみます。
西縁よりもちょっと水量が少ない印象ですが、貴重な閘門が
復元されているのはこちら側の筈なので先を急ぎます。。。と、
大々的に「史跡 見沼通船堀 東縁」と書かれていますね。
やがて第一閘門が見えてきます。
享保十六年(1731)に完成したこの閘門式の運河は日本最古と言われ、
同形式でもっと有名なパナマ運河よりも183年も早い建造でした。
国の史跡にも指定されています。
その少し先には第二閘門が少々草に埋もれていました。
毎年一度、ここで通船をしているとの事ですが、今年は開催しない
様子でした。恐らく理由はこれではないかと思います☟。
まだ今日は工事をしていない様子でしたので、もう少し遅れていたら
1年後まで通船堀が見学できなかったかもしれませんね。
水量の少なめな東縁ではちょろちょろと穏やかに水が流れています。
更に進むと見沼代用水東縁からの水門が見え、ここで通船堀は
おしまい。
ここから先は見沼代用水東縁に沿って北方向に散歩の足を
伸ばしますが、ここまでを1/3とし、続きは2/3でご紹介します。
(つづく)