8月12日(月)の鎌倉街道下道歩きの最終回、金沢文庫から
ゴール地点鎌倉までの街道ウォーク記事、その7です。
当日の歩行ルートは☟。
歩行距離は16KMちょっと位でした。
その6では、鎌倉の中心にもほど近そうな、荏柄天神の壱の鳥居の
前で庚申塔類をしげしげと眺めたところまでをご紹介しました(☟再掲)。
そのすぐ先の右側の路地を入ったところに関取場跡碑があります。
これは相撲関連の話ではなく、北条氏がここに関を置おいて通行料
を取り、そのお金を荏柄天神の修復に使った、という説明が
あります。本来の石碑より、左側にある、子供が書いたと思われる
説明の方が断然分かり易いです(^^)。
鎌倉の中心地に迫るにつれて、車道はかなり渋滞してきました。
若い頃に何度か友人のクルマで鎌倉に来たことがありますが、
鎌倉の入口から、駐車場にクルマを停めるまで2時間以上かかり、
以来鎌倉には必ず電車で来ることにしていたのですが、今回は
6回に分け、松戸から徒歩で鎌倉まで来た訳です。
☝の写真の奥に見えている信号交差点の右側は、Y字状の
追分になっており、交差点の名前は「岐れ道」と言い、そこには
庚申供養塔と「右 大師道」と刻まれた道標が残っています。
大師道は、その6で見た道標と同じ、覚園寺(かくおんじ)への道の
ことですね。確かに地図を見ると、どちらの道標の地点からも覚園寺
に道が繋がっています。
鎌倉方向から、岐れ道のY字路を見るとこんな感じ。
左側が大師道、右側が鎌倉街道下道です。
そのすぐ先の☟の地点で、右折して寄り道をします。
この辺りになるともう街道歩きというよりは単に観光に近い内容に
なってきています。
見に行くのは源頼朝の墓です(他にも何件か)。
途中の角に大蔵幕府舊跡の碑があります。
治承四年(1180)に頼朝は鎌倉に入り、鎌倉の大蔵という地に御所を建てて政治を始めたため、「大蔵幕府」という名前がついたとのこと。
墓所の入口が見えてきました。ラストの石段は厳しそうですが、
頑張っちゃいましょう。
意外に軽やかに石段を登った上にある墓所に到着。
丁重にお参りをします。
階段を下りて改めて見ると、周りには法華堂跡碑がありました。
法華堂は、落馬が元で亡くなった頼朝の遺体が葬られた場所です。
この一連の石碑は大正時代のものなので、読めますが少々時間が
かかりますね。
法華堂の背後には白旗神社があります。こちらは先述の法華堂が
神仏分離令で廃止された後の建立。
街道に戻ります。もうここからはラストスパート。しかし暑い。
車道が左カーブする☟の地点で右に入って、またすぐに左折すると
鶴岡八幡宮の東側に辿り着きます。鎌倉街道下道の厳密な
ゴールは決まっていませんが、まあ八幡宮が適当でしょう。
右折→左折をすると、鶴岡八幡の東鳥居が見えてきました。
鳥居に辿り着いて、街道歩き31本目の鎌倉街道下道、ゴール!!
おめでとう、>>俺。
鳥居の先の流鏑馬道を通った後はまあせっかくなので八幡宮で
無事に鎌倉まで到着できたお礼参りなどを致しましょう。
人混みは苦手なのですが、お礼参りを欠かす訳には参りません。
大量の人たちと一緒に仁王門を潜ってお詣りします。
無事に鎌倉まで到着できたこと、ありがとうございました。
また遠からずここから川口を目指して中道を歩きますので、
引き続き宜しくお願いします。
あとは太鼓橋を見て。
三の鳥居を撮って、
観光欲がほとんどない状態で駅に向かいますが、やはり
銅板葺きの戸袋のある建物や、
いかにも古そうな酒屋の建物、
それに、赤錆びたトタン屋根の建物をリノベした店舗などは
思わず激写してしまいました。
そうえいばこの参道を歩いて通るのは初めてだなあ。
最後に二の鳥居を撮ります。
詳細不明ですが二の鳥居の横には橋の欄干が残ってますね。
ものすごい人出の街を抜けて、、
鎌倉駅から帰途につきました。
と、いうことで鎌倉街道下道(したつみち)、これにて終劇っ!
鎌倉街道は、江戸時代の街道よりもはるかに古いので、当然
あちこちで旧道が消滅している個所もありましたが、旧道らしい
道幅や湾曲が残っている所も多かったですし、何よりラスト近くの
切通しは見事でしたね。
次は鎌倉街道中道を鎌倉から歩く予定です。本当は川口から
鎌倉を目指したいのですが、殆どの書籍や、先達の記録がすべて
鎌倉発のものなので、逆方向に歩こうとすると、資料の内容が
非常に読みづらく、長い物には巻かれることにしました(^^)。