冬真っ盛りだった2月3日(土)に、鎌倉街道中道歩きの初回として、鶴岡八幡宮から戸塚近郊の下永谷までの区間を歩いた徒歩旅の記録その3です。
今回歩いたルート地図は↓。
歩行距離は寄り道含めて15kmといったところ。
その2では鎌倉街道中道の旧道が残る巨福呂坂が途切れるところまで登っていた後、千葉県は房総半島によく見られる、ブロ友さん命名の「房総スタイル」の住宅を見つけたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
現代の街道=県道21号、横浜鎌倉線に戻ります。歩きながら目にしたのが曹洞宗の開祖、道元の顕彰碑。一応実家の宗派が曹洞宗なので敬意を表して激写します。
その後方は崖になっていて、あの崖の向こう側にさっき歩いた、旧道の巨福呂坂があります。
この日の靴はここ一番のDanner Field。長い歩きでも、足元が悪い時でも安心!
巨福呂坂のトンネル(実際は落石防護施設)の入り口ですね。この左上方を本来の街道が通っていた筈です。
おっ、岩石が露頭していますね。鎌倉だし、ぱっと見た感じからも凝灰岩なんでしょう。
おや、こんなところに史跡案内?と思ったらトンネル=落石防護施設を作った時の碑でした。
平成五年=1993なので比較的新しいもののはずですが、史跡チックになりかけています。
散歩なのかご同業(街道ウォーカー)なのか?と思いましお多が颯爽と足早に歩かれていたのでご出勤かもしれませんね。
このトンネル状の落石防護施設を抜けたら、まず前回記事からの持ち越しでやることがあります。はい、水路隧道の反対側を確かめるのでした!
細かい金網で撮りづらいのですが何とか鉄製の扉の端っこから。。
向こう側が確認できました。前回記事の写真と対になるものです。
そしてもう一つ、巨福呂坂の坂上で、刀研ぎ師さんのお宅あたりで途切れていた旧道の続きの推測ですが、、崖を切り通す前はざっくり言って右の電柱の辺りを通ってもう少し江戸寄りのあたりで今の道路の高さに下りて来ていたんではないかと思います。
では巨福呂坂周りで観察したかったことも一通り終えたので、先に進みましょう。数分歩くとすぐに街道左側に円応寺(えんのうじ)というお寺があります。
こちらはご本尊が閻魔さまで、さらに「三途の川の渡り賃の六文銭が払えない亡者の服をはぎ取る」と言われる奪衣婆(だつえば)の像もあり、何となく地獄オールスター的な感じです。
拝観してみたかったのですが、まだ9時(開館時間)前だったので、ここで軽くお参りして去りましたが、柵も無いしホントはもう入れたのかな?
深くは立ち入らずに茅葺のお堂を激写して次の目的地に向かいます。
次の目的地はこの斜向かいにある建長寺。鎌倉五山中 第一位の名刹です。
五山全てに行きたいのは山々ですが、あくまで今日の目的は街道歩きであって鎌倉見物ではないので建長寺とこの先通過する円覚寺(五山第二位)のみ立ち寄ることにしましょう。
鎌倉幕府第五代執権の北条時頼が開いたお寺なので、これでもかというくらい、北条家の家紋、三つ鱗がバーンと目に入ります。
そういえば、けんちん汁は「建長寺汁」が訛ったものだとよく言われますが、どうなんでしょう?けんちょうじじる→けんちょんじる→けんちんじる、的な経緯?音声学的には少し不自然な気もしますが細かいことはいっか!
境内の規模感が尋常ではないですね。さすが!
巨大な山門。左下に写ってる方々との比較で大きさがお分かりいただけるかと。
こんなでっかい扁額、あるんだ!というのが率直な感想です。
ささっと横に移動して鐘楼を激写。歴史の重み感がすごいです。
ちなみに山門にはおびんずる様(賓頭盧尊者)が座しておられます。釈迦の弟子の一人。
本来は「ピンドーラ・バーラドヴァージャ」さんでこの「ピンドーラ」を中国で漢字にしたのを後に日本人が読んで「びんずる」になったんですね。
自分の体の悪いところに相当するところを撫でると良くなる、と書いてあったので腰のほか、アタマを撫でさせて頂きました(≧∇≦)。
仏殿!冬の休日の朝早くだったので比較的空いているのが幸いです。
円覚寺では、商用でなければ撮影は禁止されていないので、フラッシュなどは使いませんが、宝冠釈迦如来像の尊いお姿を激写させて頂きました。
目を惹かれてフラフラと激写しに行ったのがこちらの唐門。国の重要文化財です。
この時は何も知らないまま「何か日光東照宮にありそうな、江戸っぽいデザインだなぁ」と感じていたのですが、今記事を書きながらググってみると、「東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人(お江の方)の霊屋(おたまや=墓のお堂)の門として建てられました。」(のが寄付されてこちらに来た)とあったので、そりゃ似てる訳ですね。
仏堂を横から見ると「かっぽれ」という文字がやたら目に入ったので思わず激写!
建長寺めぐりはもう少しだけ続きますが、つづきはその4でご紹介します。
つづく!