(好きな作曲家100選 その19 ジローラモ・フレスコバルディ) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

「好きな作曲家100選」シリーズの第19回である。

 

 

前回の第18回では、16~17世紀の前期バロックのイタリアの作曲家、クラウディオ・モンテヴェルディのことを書いた。

イタリア・バロック最大の作曲家、モンテヴェルディ。

そのモンテヴェルディと並び称される巨匠であり、バロック期のイタリア音楽のこの上ない隆盛の礎を作ったのが、ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)である。

 

 

私は以前の記事で、モンテヴェルディをモーツァルトに、フレスコバルディをベートーヴェンにたとえた(その記事はこちら)。

それは、彼らが音楽史上きっての偉大な作曲家だからであるとともに、モンテヴェルディがオペラを、フレスコバルディが器楽曲をそれぞれ得意としたからである。

また、明るく晴れやかなモンテヴェルディに対し、フレスコバルディはイタリア音楽にしては雄渾で厳めしい曲が多く、その点でもベートーヴェンに似ている。

 

 

北イタリアのフェラーラに生まれた彼は、同地でルッツァスコ・ルッツァスキ(1545頃-1607)に音楽を学び、若い頃から頭角を現して弱冠14歳でフェラーラのオルガニストの職に就いた。

鍵盤楽器の神童としてイタリア中に名が知れ渡り、のちに「オルガンの怪物」の異名をとる。

この頃にフェラーラを訪れたというモンテヴェルディ(1567-1643)(その記事はこちら)、ラッソ(1530/32-1594)(その記事はこちら)、ジェズアルド(1566頃-1613)(その記事はこちら)らと何らかの交流があったかもしれない。

 

 

フェラーラからローマに移り、若くして権威あるサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストに就任した20歳代には、鍵盤楽器曲ではファンタジア集第1巻(1608)、室内楽曲では3つのカンツォーナ(1608)、声楽曲ではマドリガーレ集第1巻(1608)を出版した。

ファンタジアでは、同時代の老バード(1539/43-1623)(その記事はこちら)や壮年期のスウェーリンク(1562-1621)(その記事はこちら)といった大家たちに匹敵する熟練した対位法が駆使され、さらに彼ならではの活発な音楽性が加わって、彼の前期様式が確立されている。

 

 

30歳代には、鍵盤楽器曲ではトッカータ集第1巻(1615)、リチェルカーレとフランス風カンツォーナ集(1615)、声楽曲ではいくつかのモテットやアリアといった曲で、モンテヴェルディにおける「第二作法」のような、新たな時代の自由な音楽語法を探っていった。

そして40歳代には、鍵盤楽器曲ではカプリッチョ集第1巻(1624)、トッカータ集第2巻(1627)、室内楽曲ではカンツォーナ集第1巻(1628)、声楽曲ではさまざまな旋律による曲集第2巻(1627)、アリア集第1、2巻(1630)といった、鮮烈な中期様式の意欲作を次々に書いた。

 

 

40歳代後半にメディチ家の宮廷オルガニストとしてフィレンツェに赴くが、50歳代にはまたローマに戻る。

後期様式となった50歳代には、創作の筆は遅くなるも、その筆致はいっそうの充実をみせる。

「音楽の花束」(1635)ではオルガン1台で大規模なミサ曲の世界を展開、トッカータ集第1、2巻の改訂版(1637)では円熟した書法による数曲を追加し、これらの曲集は彼の没後も長らく器楽曲の規範とされた(かのJ.S.バッハも「音楽の花束」の写譜を蔵書していた)。

1643年、彼は59歳で生涯を閉じた。

 

 

フレスコバルディの作品からどれか一つ選ぶとなると難しい。

中期の傑作群はいずれも捨てがたく、特にそれまでの器楽になかった鮮やかな生命力の漲る第1、2曲、しっとりとしたコラール前奏曲のような第3、4曲、大伽藍のごとき壮麗さに圧倒される第5、6曲、…と個性的な楽曲が続くトッカータ集第2巻などはその最たるものである。

晩年の「音楽の花束」の深遠なる世界も見過ごせない。

悩ましいところだが、ここでは現存する彼の最後の作品ともいわれる、トッカータ集第1巻(改訂版)より「パッサカリア上の100のパルティータ」を選びたい。

 

 

 

 

トッカータ集第1巻(改訂版)より「パッサカリア上の100のパルティータ」(Cento Partite sopra Passacagli)。

たった2小節のきわめてシンプルな低音下行4音のパッサカリア上に、さまざまなパルティータ(変奏曲)が繰り広げられる。

彼のこれ以前のパルティータでは、変奏の数はせいぜい10かそこらだったのに対し、この曲は異様なまでに規模が大きい。

いわば彼の変奏技法の集大成であり、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌと並んで、オスティナート上の変奏曲の二大傑作として厳然と聳え立っている。

レオンハルトの古い録音で聴くと、曲の偉大さがとりわけよく分かる。

 

 

フレスコバルディの音楽は、イタリアはもちろんのこと、フランスや南ドイツの作曲家たちにも広く影響を与えた。

特に南ドイツでは、彼ほどの人は現れなかったにせよ、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-1667)、ヨハン・カスパール・ケルル(1627-1693)、ヨハン・クリーガー(1651-1735)、ゲオルク・ムッファト(1653-1704)、ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)、ヨハン・カスパール・フェルディナント・フィッシャー(1656-1746)など、多くの作曲家が活躍した。

彼らは南ドイツ・オルガン楽派と呼ばれ、その伝統はJ.S.バッハへとつながっていったが、バッハにおいて北ドイツ・オルガン楽派(その記事はこちら)との統合が実現したのだった。

 

 

奇しくもフレスコバルディとモンテヴェルディの2人の没年となった1643年をもって、前期バロック音楽は終わったといえるかもしれない。

フレスコバルディは、殊に器楽においてはJ.S.バッハ以前最大、かつイタリア音楽史上最大の作曲家と言って差し支えないだろう。

パレストリーナ、モンテヴェルディ、フレスコバルディ。

ルネサンス音楽を総決算し、バロック音楽を切り開いた彼ら三巨匠の後には、イタリア・バロック音楽が花開きイタリア音楽の全盛期を迎えるも、三巨匠ほどのモニュメンタルな大物は現れなかった。

それはちょうど、バロック音楽を総決算し、ロマン派音楽を切り開いたJ.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三巨匠の後に、ドイツ・ロマン派音楽が花開きドイツ音楽の全盛期を迎えるも、三巨匠ほどの大物が現れなかったのと、大変よく似ている。

 

 

なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。

 

前書き

1~10のまとめ 1500年以前

11. ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ

12. オルランド・ディ・ラッソ

13. ウィリアム・バード

14. トマス・ルイス・デ・ビクトリア

15. ヤコポ・ペーリ

16. ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク

17. カルロ・ジェズアルド

18. クラウディオ・モンテヴェルディ

 

 


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