今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
「好きな作曲家100選」シリーズの第11回である。
前回の第10回では、15~16世紀の盛期ルネサンス最大の作曲家、ジョスカン・デ・プレのことを書いた。
その後もフランドル楽派の作曲家たちはまだまだ数多く現れるが(その記事はこちら)、ジョスカンに匹敵するほどの作曲家が生まれたのは彼の没後間もなく、フランドルでなくイタリアにおいてであった。
フランドル楽派のポリフォニー様式をもれなく吸収し、それを簡明かつ穏やかな独自の様式美に高めた、しばしば後期ルネサンス最大と目される作曲家、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525頃-1594)である。
15世紀にはすっかりフランドルに押されていたイタリア音楽界は、16世紀になるとマルケット・カーラ(1465/70頃-1525頃)、バルトロメオ・トロンボンチーノ(1470頃-1535以降)、フランチェスコ・ダ・ミラノ(1497-1543)といった作曲家が現れだしたものの、フランドルにはまだ比ぶべくもなかった。
しかし、真打パレストリーナの出現によってイタリアは突然、一流の音楽地に変貌する。
ローマ近郊の町パレストリーナに生まれ、生涯の多くをローマ(サン・ピエトロ大聖堂などに勤めた)で過ごしたジョヴァンニ・ダ・パレストリーナは、ルネサンス期初のイタリア生まれイタリア育ちの巨匠だった。
パレストリーナ以降、イタリアから優秀な音楽家が多数出現することになるが、中でもクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)とジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)の2人の偉大さは群を抜いている。
パレストリーナ、モンテヴェルディ、フレスコバルディ。
この3人は、イタリア音楽史上に高々と聳え立つ三つの巨峰である。
この三大巨匠によって、フランス・ベルギー音楽の後塵を拝していたイタリア音楽が一気にトップに躍り出た。
それはまさにこの約2世紀後、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三大巨匠によって、イタリア音楽の後塵を拝していたドイツ・オーストリア音楽が一気にトップに躍り出たのとよく似ている。
パレストリーナ、モンテヴェルディ、フレスコバルディの三大イタリア音楽家はそれぞれ宗教曲、オペラ、器楽曲を得意としており、その点でもJ.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三大ドイツ・オーストリア音楽家と各々対をなしている。
また、モンテヴェルディ、フレスコバルディやモーツァルト、ベートーヴェンが最先端の音楽を書いて時代を切り開いていったのに対し、パレストリーナとJ.S.バッハはそれまでの時代(前者はルネサンス、後者はバロック)を総括するような音楽を書いた、というところまでそっくりである。
パレストリーナは没後も対位法の規範的存在とされ、彼を超える教会音楽作曲家がイタリアに現れることはもはやなかった。
「教皇マルチェルスのミサ」(Missa Papae Marcelli)より第1楽章 キリエ(Kyrie)の冒頭部分(なお全曲聴くにはこちら)。
晩年好きの私だが、パレストリーナにおいては彼の壮年期(37歳頃)の作と思しきこの名曲を取り上げないわけにはいかない。
前回のジョスカン・デ・プレのミサ(その記事はこちら)のフランスらしい優美さとはまた違った、イタリアらしい甘美さがここにはある。
ちょうど彼らの約2世紀前、フィリップ・ド・ヴィトリらフランスのアルス・ノーヴァと、フランチェスコ・ランディーニらイタリアのアルス・ノーヴァとの違いとよく似ている(その記事はこちら)。
甘美にして神々しいこのミサは、もしも天国に音楽が流れるならばかくやあらんと思われるような、あまりにも美しい音楽である。
J.S.バッハを「音楽の父」と呼ぶ私たちは、ついバッハ以前の音楽を忘れてしまいがちだけれど、バッハはあくまで「ドイツ音楽の父」。
「イタリア音楽の父」とも呼ぶべきパレストリーナは、決して忘れるわけにはいかない存在である。
彼の出現により16世紀に突然始まったイタリア音楽の隆盛は、この後200年もの長きにわたって続くことになる。
「音楽の国」というとフランスでなくイタリアとなり、音楽上の様々な基本的事項(演奏記号など)がイタリア語で表記されていくこととなる。
パレストリーナは、そんな大転換の時代の最初期の重要な作曲家であった。
なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。
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