今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
「好きな作曲家100選」シリーズの第17回である。
前回の第16回では、16~17世紀のルネサンス~バロック移行期のオランダの作曲家、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクのことを書いた。
イギリス、スペイン、オランダと各国で栄えるようになった音楽文化だが、やはり16世紀後半~17世紀における中心的存在はイタリアであり、この作曲家選でもイタリアの作曲家が自然と多くなる。
飛ぶ鳥を落とす勢いのこの時期のイタリアでは、音楽劇(インテルメディオの発展とオペラの誕生。その記事はこちら)のほか、マドリガーレと呼ばれる新しい多声声楽曲が流行した。
マドリガーレはイタリア語で歌われ、それまでの多声声楽曲よりも自由に詩の抑揚に寄り添って音楽が付けられた。
インテルメディオにも関わったフランスの作曲家フィリップ・ヴェルドロ(1480/85-1552以前)が1520年代に書いた「カンツォーネ」という曲種が、マドリガーレの最初期のものであるらしい。
その後マドリガーレは、ヴェネツィアで活動したアドリアン・ヴィラールト(1490頃-1562)、ローマで活動したジャック・アルカデルト(1504/05-1568)、フェラーラで活動したチプリアーノ・デ・ローレ(1515/16-1565)といった、イタリアで活動したフランドル出身の作曲家たちの熟練したポリフォニー技法によって発展した。
16世紀後半になると、ローマのジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(1525頃-1594)、ヴェネツィアのアンドレア・ガブリエリ(1532/33-1585)、フェラーラのルッツァスコ・ルッツァスキ(1545頃-1607)、ローマのルカ・マレンツィオ(1553/54-1599)、ヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリ(1554/57-1612)といった、イタリア生まれの作曲家たちの手によってマドリガーレは熟成されていった。
1600年前後、そんなマドリガーレを最高の芸術に高めたのが、カルロ・ジェズアルド(1566頃-1613)と、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)、このほとんど同年齢の天才二人である。
モンテヴェルディがアポロン的な“光の作曲家”だとすると、ジェズアルドはディオニュソス的な“影の作曲家”であった。
貴族の生まれの彼は若い頃から音楽をこよなく愛し、20歳頃にいとこと結婚、子にも恵まれたが、この頃が幸せの絶頂だった。
妻は他の男と不倫するようになり、それに気づいた24歳頃のジェズアルドは激高して不倫現場を押さえ、寝台上で2人を殺害してしまう。
当時は、戦国時代だった同時期の日本と同様、群雄割拠・下剋上のルネサンスの時代。
こうした汚辱の雪ぎ方は騎士の慣習として認められていたようだが、それでもこの出来事は生涯にわたって彼に暗い影を落とした。
1594年(28歳頃)、彼は再婚のためにフェラーラに赴き、上述の通りルッツァスキが盛んにマドリガーレを作曲していたこの町で、最先端の音楽に接する。
やや生気を取り戻した彼は、居城ジェズアルドに戻ってからも精力的に作曲し、20歳代の終わりに立て続けに4巻のマドリガーレ集を出版した(1594-96年)。
当時の様式に則りながらもすでに彼らしい繊細な表現がみられ、同時期のモンテヴェルディの作品と並び16世紀末を代表するマドリガーレ集となっている。
しかし、暗い影を持つ彼のもとに人は集まらず、再婚した妻の心も離れていった。
1600年(34歳頃)には、再婚の妻との間の息子が早逝してしまう。
そうしたことも反映してか、30歳代に出版した聖歌集第1、2巻(1603年)は、曲調に不穏さが現れ始める。
若き日の罪に苛まれ続けた彼は(自分を鞭打たせるための使用人を雇っていたという)、居城からほとんど出ることなく、孤独の殻に閉じこもっていく。
40歳代に出版したマドリガーレ集第5、6巻や「聖務週間日課のためのレスポンソリウム集」(1611年)は、彼の代表作となった。
彼の苦悩そのもののように陰鬱な響きを持つこのマドリガーレ集は、同時期のモンテヴェルディの曲集とともに並外れた傑作であり、17世紀初頭にあってマドリガーレの高い芸術性を決定づけた。
1613年(47歳頃)、最初の妻との間の長男も亡くなり、その3週間後に彼自身もその生涯を閉じた。
マドリガーレ「私は死ぬ、悲しみや苦しみゆえに」(Moro, lasso, al mio duolo)。
彼のマドリガーレには死や苦悩に関する歌詞が多いが、これもその一例である。
彼の最晩年のマドリガーレ集第6巻(なお全曲聴くにはこちら、YouTubeページに飛ばない場合はhttps://www.youtube.com/watch?v=mR-ylavYCSI&list=OLAK5uy_kEyW3K4CftIGaJs1pQkPGYrCzbIdOUu2oのURLへ)に収録されたこの曲は、現代の私たちが聴いてもなお新鮮さを失わない、先鋭的な半音階的和声進行を持っている。
半音階的技法自体は新しいものではなく、16世紀半ばのオルランド・ディ・ラッソの作品などにもみられていた(その記事はこちら)。
しかし、それらがマニエリスム美術のように「技法のための技法」ともいうべき人工的な響きを持つのに対し、ジェズアルドの和声進行はもっと限りなく情緒的で、美しくも禍々しい、「狂気の芸術的昇華」と言うほかないようなものとなっている。
彼の人生を象徴するような、哀しい一曲。
ジェズアルドとモンテヴェルディの手によって芸術的頂点に達したマドリガーレは、彼らの後にはその流行を終え、バロック期以降はカンタータに取って代わられることとなる。
ミサ曲やモテットのように、以後の時代にも引き継がれ作曲され続ける、といったことはマドリガーレの場合はなかった。
それでも、二人の巨匠が迸る感興を自在に託したこの曲種は、その傑作の数々のために今後もそう簡単に忘れ去られることはないだろう。
なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。
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