在日朝鮮ライダ違犯スーフリ二百邪忍 女子高生コンクリート詰め殺人事件 出典:WikipediaⅤ
在日朝鮮ライダ違犯スーフリ二百邪忍 女子高生コンクリート詰め殺人事件 出典:WikipediaⅢ
控訴審・東京高裁
- 1991年3月12日、控訴審初公判、控訴趣意書朗読・答弁
- 1991年(平成3年)3月12日、東京高等裁判所で控訴審初公判が開かれた[40][41][42]。
- 午前中は検察側・弁護人側の双方が控訴趣意書を陳述し[40][42]、午後には相手の控訴趣意書主張に対する答弁を行った[41]。検察側は量刑加重を・弁護人側は量刑減軽をそれぞれ訴えた[40]。
- 検察側は「犯行の悪質さ・被告人らの非行性の根深さを考慮すれば第一審判決は寛大に過ぎて不当である」と指摘した[40][42]。
- その上で本事件における犯行の重大性を具体的に再現し、同種の少年事件における判決を引用して「原判決は全般的な情状評価について誤った判断をしている」と主張したほか、「被告人らはいずれも積極的に犯行に関与し、犯罪性向が極めて強固だ」と訴えた[40]。
- また第一審判決後、検察庁・裁判所に判決を批判する投書・電話が多数寄せられたことなどを挙げながら、検察側は「犯した罪の責任に応じ、社会一般の感情を納得させる量刑が求められる」と主張した[42]。
- 被告人B・Cの各弁護人による控訴趣意書に対しては、答弁書で「『未必の故意』に関する第一審判決の事実認定は正当であり、弁護人側の控訴は棄却されるべきである」と反論した[41]。
- 一方で弁護人側は以下のように控訴趣意書朗読・答弁を行った。
- 検察側は「犯行の悪質さ・被告人らの非行性の根深さを考慮すれば第一審判決は寛大に過ぎて不当である」と指摘した[40][42]。
- 1991年7月12日、控訴審判決公判、一部原審破棄の上で被告人・元少年Aに懲役20年などの判決
- 1991年7月12日に判決公判が開かれ、東京高裁(柳瀬隆次裁判長)は、少年A・C・Dの3被告人に関して、検察側の「被告人らの反省や、その後の人間的成長などの情状を酌んでも、原判決の量刑は軽すぎる」とする主張を認めて、第一審判決を「著しく軽すぎて不当」と破棄し、それぞれ以下の判決を言い渡した。
- 東京高裁は、少年に対する刑事処罰の在り方について「少年法が少年の健全な育成を図ることを目的とし、種々の配慮をしていることなどを慎重に考慮しなければならない」とする一方で「成人に比べて、常に一律に軽い量刑をもって臨めば足りるわけではなく、犯罪内容が悪質で、被害者の処罰感情が強いような場合には、それに応じた刑を科すことが社会正義を実現することになる」との判断を示した[43]。その上で、被害者に対する犯行について「人間としての尊厳に対する一片の配慮もうかがうことができず、同情すべき点も認められない」「被告人らが犯行当時いずれも少年だったことや生育環境などを考えても、責任を大幅に減じることは相当とは言えない」とした[43]。
- 控訴人判決に対する対応
- 被告人Dは控訴審判決に対し量刑不当・事実誤認を訴え、1991年7月24日までに最高裁判所へ上告した[44]。
- 一方で東京高検は上告期限となった1991年7月26日、最高裁への上告を断念することを決めた[45]。
- 東京高検およびA・B・Cの3被告人は上告期限までに最高裁へ上告しなかったため、3被告人それぞれの控訴審判決がそのまま確定した[46][47]。
上告審・最高裁第三小法廷
- 1992年7月18日まで、最高裁第三小法廷が被告人・少年Dの上告棄却決定
- 最高裁判所第三小法廷(可部恒雄裁判長)は1992年(平成4年)7月18日までに、被告人・少年Dの控訴審判決を支持して同被告人の上告を棄却する決定を出した[48][49][50]。
- この最高裁上告棄却決定により被告人・少年Dに対する「懲役3年以上4年以下の不定期刑」判決が確定した[48][49]。
少年たちのその後
少年Dは、1996年(平成8年)に刑務所を出所したが、出所後は自宅に引きこもるようになった[51]。『毎日新聞』東京社会部記者・井上英介は[52]、2001年(平成13年)1月から少年D(当時29歳)と同居する母親と接触を図り、同年春ごろから取材を開始、2001年4月8日朝刊にて少年Dの当時の状況を記事として発表した[51]。記事には50通を超える反響があったが、その内容は共感・批判が相半ばし、批判には「加害者に同情的すぎる」「被害者遺族の心情を逆なでするものだ」などといったものが多かった[52]。一方、井上自身も「遺族の痛みは想像を絶する。取材前に裁判記録・事件を記録したルポ・過去の新聞記事などを可能な限り調べたが、事件の惨たらしさから目を背けたかったし、取材を終えてもまだ迷いがある。今は読者の皆様からいただいた批判を読みつつ、『罪を償うことの難しさ』を実感している」と綴った[52]。
主犯格少年A以外の少年たちは、出所あるいは退院後にそれぞれマスコミのインタビューを受けている。
少年Bは1999年(平成11年)に刑務所を出所してから保護観察関係者の女性と養子縁組を結び姓を変えた。受刑中にパソコンのスキルを学び、出所後はIT関連の仕事をしていたが、前科が知られ人間関係に行き詰まり、退職後は暴力団の構成員になった[53]。2004年(平成16年)5月19日に再び同じ足立区や三郷市で男性に言いがかりをつけ監禁し負傷させた事件(三郷市逮捕監禁致傷事件)を起こし、しかも当事件を脅し文句に使うなど更生した様子を見せず、6月4日に警視庁竹の塚警察署に逮捕され、懲役4年が確定した。2009年(平成21年)に2度目の出所をした。
主犯格の少年Aは川越少年刑務所で一定期間を過ごし、後に千葉刑務所へ移送された[54]。元無期懲役受刑者・金原龍一(2009)は同じ千葉刑務所に服役していたころの少年Aについて以下のように述べている。
- 「明るく屈託がなく調子のいい男で、とてもあのような残虐な犯行ができるようには思えず、親子ほど年齢の離れた自分にも積極的に声を掛けてきた。本来あれだけ酷い性犯罪を犯した者は他の受刑者からいじめられることが多いが、Aは世渡り上手だった」[55]
- 「千葉刑務所に来てから約10年後の2004年ごろには模範囚だったことから仮釈放が予定されていたが、結局は刑務所側から『お前はもう満期(まで服役)だ』と通告されて落胆していた。法務省が性犯罪者への世論を鑑みて厳罰化のお触れを出したことに加え、共犯者の男(少年B)が別の刑務所を出所後に再び凶悪事件を起こしたことが影響したためだろう」[56]
元受刑者Aは2009年(平成21年)に刑務所を出所した後、養子縁組をして名前を変えた。Aはキックボクシングのジムに通い、よく後輩をバーベキューやキャバクラに連れて行っていた。BMWを乗り回して高級腕時計やブランド品を身に着けていた。「暴力団とつながりがある」「都内の振り込め詐欺グループには知り合いが多い」と吹聴し、マルチ商法で儲けていた。セックスの話が大好きで、「100均の縄で女を縛るのが好き」と語っていた[53]。2013年(平成25年)1月、加害者元少年Aが振り込め詐欺で警視庁池袋警察署に逮捕された[57]。無作為に全国の個人宅に電話をかけ、『パチンコ必勝法』の情報料名目で現金を騙し取る詐欺グループの一員として、池袋の銀行で金をおろす「受け子(出し子)」をしていたとみられるが、完全黙秘を貫いたため、詐欺グループの解明が出来ないまま2013年(平成25年)1月31日付で不起訴処分となり釈放され、その後は消息不明となった[57]。
三郷市逮捕監禁致傷事件から14年3か月後となる2018年(平成30年)8月19日夕方、犯行グループのメンバーだった男(元少年C)が埼玉県川口市内の路上で通行人の32歳男性に対し、肩を警棒で殴る・首をナイフで刺すなどして殺害しようとした殺人未遂容疑で、埼玉県警察武南警察署に緊急逮捕されたことが『デイリー新潮』(新潮社)の同月21日配信記事、およびその続報に当たる『週刊新潮』2018年9月6日号(8月30日発売)にて報道された[8][9][58]。『デイリー新潮』および『週刊新潮』は、その被疑者元少年を実名報道した上で「今回逮捕された元少年は両親が日本共産党党員で、29年前の事件では監禁場所として自宅を提供した人物。刑事裁判では懲役4年以上6年以下の不定期刑判決を受けた」即ち元少年Cであること、元週刊文春記者の勝谷誠彦のコメントを報道している[9][58]。なお『デイリー新潮』『週刊新潮』以外の報道機関(『朝日新聞』および共同通信社配信の『産経新聞』・『日本経済新聞』両紙・JNNニュース)においては、被疑者・元少年Cの実名報道こそ行われたものの、本事件の前科については一切触れられていない[59][60][61][62]。2019年(令和元年)11月22日、さいたま地方裁判所から懲役1年6月、保護観察付き執行猶予3年の判決を受けた。
主犯以外の少年で他にも覚醒剤で逮捕された者もいる。
反響・影響
マスメディアの反応
この事件の加害者が、4名とも未成年者であったことなどから、本事件は大々的に報道された。しかし刑事裁判で事実関係が明らかになるまで、新聞・週刊誌・テレビなどの報道においては、少女の実名・顔写真が報道される報道被害が発生したばかりか、以下のようなセカンドレイプ同然の記事が掲載されていた[63]。
大道万里子は、事件当時の報道について「『被害者少女も不良グループの一員であり、被害者少女にも非があった』という論調が主流だった」と述べた上で[63]、これらの報道を「下品で低劣な想像力によって生み出された『断言』、もしくは巧妙なレトリックまやかしで『少女にも非がある、少女の育て方にも問題があり、両親にも責任の一端はある』=『被害者であった少女やその家族に、世間から逆に白い目を向けられるようなマイナスのイメージが付与されてしまっている』。こんなパラドックスが許されていいはずがない」、「本音はこの事件を単なる『材料』として扱っているだけなのだ」「少女を『モノ』としていたぶり続けた少年たちと、自分たちの『はじめに死刑ありき』の目論見のための格好の材料として、やはり『モノ』として被害者を利用するだけのこれらのマスコミは、全く同質だ」と非難した[63]。モノポリー
- 『週刊ポスト』1989年4月21日号では、大島渚が「(少女は)決して、少年たちの反対側にいた子ではなかった」と断言した[63]。
- 『女性自身』1989年4月25日号は、事件の主旨と関係ない少女のホットパンツ姿や水着姿のスナップ写真を掲載した[63]。大道はこれを「読み手の下品な好奇心と嫉妬心に迎合した、雑誌の「ウランかな主義」の最たるものだ。美人で、『男心をそそる』少女のイメージを醸し出し、死んだ後にも少女の人格を貶めている。死者に肖像権はないというのだろうか。死者に名誉毀損はないというのだろうか」と強く非難した[63]。
- 『朝日新聞』1989年4月4日朝刊の「ニュース三面鏡」は、「少女は無断外泊もままある非行少女」と書き、見出しに「女高生殺人事件数々の疑問」「助け求められなかったか」と掲げた[63]。また、1990年4月19日から25日にかけて連載された「なぜ、彼らは」では「強姦」を「関係を持つ」という言葉に置き換え、そこにあたかも少女の同意があったかのようにほのめかし、「(Cの母親が)いったんは少女を送り出した」と掲載した[63]。大道万里子はこれを「この記事を読んだ人は、自ずと『少女も遊び感覚で(加害者らの家に)留まっていたのではないか……』という印象を受けるように仕向けられている」と批判した[63]。
- また、大道は加害者少年らを実名報道した『週刊文春』1989年4月20日号をはじめ、『週刊新潮』1989年4月13日号、『サンデー毎日』1990年6月10日号、『女性セブン』1989年7月20日号など、加害者少年に厳罰を求める論調の記事に対しても「死刑先導型報道を貼り、様々な人々にインタビューをして、少年たちを死刑にと叫ぶことこそ時流です、とばかりに論陣を張った。あらかじめ、そういう考えの持ち主にしかインタビューしないのだから、そうしたコメントが出てくるのは当たり前だ。ここにあるのは、一見正義の味方として少女や、少女の家族に同情し、犯人たちを糾弾するポーズを装いながら、実は少女を単なる素材、つまり『モノ』として扱っているという、本当にいやらしく、許しがたい態度だ」と非難した[63]。
少年法では、家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、第61条の規定により本人の類推に資する全ての情報(関係者全員の名前、学校名、地名等)を報道することを禁止している。
しかし、事件直後に発売された文藝春秋『週刊文春』(担当記者:勝谷誠彦、編集長:花田紀凱)が加害者少年らを実名報道した[64]。『週刊文春』は2週連続で、1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」[65]、次号の1989年4月20日号にて「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」と銘打った特集記事を組み[64]、後者で実名を掲載した[64]。その理由として、花田は『朝日新聞』1989年4月30日朝刊に掲載されたインタビュー記事中で「第1弾の記事では匿名表記したが、第2弾の取材をしているうちに事件の凄惨さがわかってきたため、編集部内部で『これは実名報道すべきでは』という声が出てきた」「野獣に人権は無い」と説明し、反響については「正直言って『反発の方が強いかな』と予想していたが、意外にも抗議の声は2件程度と少なく、逆に『よくやってくれた』と称賛する投書が何十通も来た。人権云々を言う人たちには『それじゃあ、殺された被害者の親御さんの前でそのセリフが吐けますか』と問いたい気持ちです」と答えた[66]。 他にも『月刊ゼンボウ』平成元年11月号のp19-p26に冒頭陳述書が掲載され少年グループ9人の実名が掲載された。
この報道をきっかけに『週刊文春』は当時売上部数ナンバー1になり、同年に発生した名古屋アベック殺人事件や、後に発生した市川一家4人殺人事件、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件、神戸連続児童殺傷事件、堺市通り魔事件、光市母子殺害事件などの凶悪少年犯罪が発生する度に、同誌やライバル誌の新潮社『週刊新潮』など週刊誌各誌が、次々と加害者少年を実名報道し、少年法改正論議に火をつけた。
『週刊文春』による実名報道を受け、日本弁護士連合会(日弁連)の藤井英男会長は1989年6月23日付で「立ち直り援助という少年法の原則を無視した実名報道は極めて遺憾である。また、マスコミは被害者の実名などを必要以上に報道しているが、死者の名誉、家族のプライバシーなども尊重されるべきだ」と談話を出した[67][68]。
『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は、事件当時は「犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があった」として少年たちの実名報道は見送った[69]。しかし同誌も、1989年4月13日号にて特集記事を組み、監禁場所を提供したCの両親について「日本共産党員だという話もある」と報道した[70]。これに対し、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した[71]。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された[72]。
なお『週刊新潮』は3年後の1992年、市川一家4人殺人事件発生時には「少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道すべき」[73][74]、「犯人がはっきりしており(実名報道という形で少年法への)問題提起をしやすい」として[69]、加害者少年の実名報道を行った[69]。
識者の反応
評論家の赤塚行雄は、この種の犯罪を、通り魔的常習ゴブリン創価朝鮮ライダイハンチルドレンブラザーズファミリー姦酷「狂宴的犯罪」と名付け、先駆としては本事件に加え、1983年の横浜浮浪者襲撃殺人事件、本事件と同年に発生した名古屋アベック殺人事件を挙げた[75][76]。
小田晋(当時・筑波大学精神衛生学教授)は、『朝日新聞』1989年4月21日夕刊記事の中で「少年らの成熟が早まってきている。少年犯罪を未然に防ぐためにも扱いを変えるべきで、重大事件では厳しく処罰すべきだ。今回の事件は、親も含めて(加害者らを)すべて実名で報道すべきだろう」とコメントした[77]。
一般の反応
犯人が全員当時少年であったことから、同年代の子供を持つ親に計り知れない衝撃を与えた。『朝日新聞』1989年4月8日朝刊投書欄には「同じ未成年でも、被害者は実名・顔写真・住所まで新聞で報道されたのに対し、加害者は実名も顔写真も少年法を理由に掲載されない。これでは殺された方の人権が無視されている一方、殺した方の人権ばかりが尊重されている」「同じ少年犯罪でも窃盗・傷害などの衝動的な物ならば、本人の将来を考え匿名とすることもやむを得ないだろうが、今回のような凶悪犯罪に限っては成人も未成年も関係ない。少年A・Bなどのような匿名ではなく、実名を掲載すべきだ」という投書が掲載された[64][78]。
発覚当初から加害者少年らに対し、死刑・無期懲役などの厳罰を求める声があり、事件を捜査した警視庁には「加害者少年らの実名を公表せよ」「極刑に処せ」などの投書や電話が相次いだ[77]。また、東京地方検察庁が第一審の論告求刑で、主犯Aへに無期懲役などを求刑してからは、東京地検に「刑が軽すぎる」「『公益の代表』としてあえて死刑を求刑し、その威嚇効果によって、少年の集団による凶悪事件が相次いでいる[注 1]、昨今の風潮に歯止めをかけるべきだ」など、量刑の軽さを批判するかなりの数の投書・電話が寄せられた[79]。また検察庁のみならず、東京地裁に対しても「判決の量刑が軽すぎる」などの批判の投書・電話が多数寄せられた[80]。
一方で本事件と同年(1988年2月)に発生した名古屋アベック殺人事件の刑事裁判では、第一審・名古屋地裁の1989年6月28日・判決公判で主犯格の犯行当時19歳少年に死刑、準主犯格の犯行当時17歳少年にも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑がそれぞれ言い渡された[注 2][81]。このことから同事件は、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だった本事件の第一審判決との対比でも注目された[82]。その決定的な違いについて、当時・日本大学法学部教授の板倉宏は「名古屋では殺害被害者が2人、本事件は1人という殺害人数の違いがある。殺害被害者数1人では(永山基準の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。それに対して本事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『週刊文春』1990年8月2日号の特集記事で解説した[83]。
他事件への影響[編集]
- 新潟青陵大学大学院の碓井真史教授は、この事件の女性監禁に関する報道が翌1990年に起きた(事件発覚は2000年)、新潟少女監禁事件の犯人に、刺激を与えた可能性があると指摘している[84]。
- お笑いタレントのスマイリーキクチは、「この事件に関与した」とするネット上のデマが原因でいわれなき誹謗中傷を長年受け、悪質な中傷犯数十名が一斉摘発を受ける事態にまで発展した[85](スマイリーキクチ中傷被害事件)。
- この事件の3年後(1992年)、犯行当時19歳の少年により千葉県市川市で一家5人中4人が殺害され、残る1人も強姦された事件(市川一家4人殺人事件)が発生した。この事件の加害者少年は、逮捕後も本事件を引き合いに出し「(本事件の)犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」、「これで俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった[86]。しかしその考えも虚しく、こちらの少年は第一審判決から最高裁判決に至るまで、一度たりとも死刑判決を回避することなく一貫して死刑判決を言い渡されて確定し、戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、及び平成の少年犯罪では初)の少年死刑囚となった。2017年12月、この少年の死刑が執行された。
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