今回の記事は以前に運営していたブログの記事を加筆修正したものです。前のブログに取り組んでいた当時、熱心にアクセスしてくださる方がおりました。その方はオランダのアムステルダムに住む日本人女性で「JC」と名乗っておられました。記事を投稿するたびにコメントをくださりメールでのやり取りもしていました。

 

彼女は重度の肺病を患っていて、やがてコメントもメールも途絶えてしまいました。おそらくは天に召されたのであろうと思われます。

 

先日、健康診断を受けました。肺に影があるとのことで肺炎かもしれないし、癌の可能性もということです。真っ先に思い出したのがJCさんのことです。彼女が「黙示録」を愛読していると言っていたのを思い出し、再びこの記事に目を留めてみた次第です。

 

[1] その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」 [2] わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。 [3] その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。 [4] また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。 [5] 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。 [6] また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。 この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。 [7] 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。 [8] この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 全能者である神、主、 かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

ヨハネの黙示録 4:1-8 新共同訳

 

黙示録4章と5章は黙示録の序論のようなものでキリストの栄光を垣間見たものが記録されています。ここでは、私たちは天の神の王座の間を見ます。神は御座にいてヨハネが記録するすべての出来事を指揮しています。世界は制御不能に回転しているわけではありません。キリストが悪の力との最後の戦いを始めると、創造の神はその計画を実行します。ヨハネはまず地上ではなく天の様子を見せ、私たちが未来の出来事に怯えないようにしています。

 

預言とは神の言葉を預かるという意味だと言われますが、神の声を聞いた人が預言者であり黙示とは神を見た者です。 聞いた者と見た者との間には大きな進歩、あるいは発展があります。ヨブ記の終わりのところを見ると、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずからを恨み、ちりの灰の中で悔い改めます」(ヨブ42:5-6)と書いてあります。

 

ヨブは自身の目で神を拝み見るとき、その神が、このみじめな自分を顧みてくださるということに彼は気付きました。 そういうふうに黙示というのは夢物語が書いてあるのではなく、神ご自身をあらわされ、そして私たちがその神を見奉ることができるということです。

 

 

1節「開いた門が天にあった」というのは、いままでは門が閉じていて推測する状態であったのが、門が開かれてそこに入り、神の栄光を仰ぎ見るということです。黙示録の終わりのところに、神は人と共にあり、人は神と共に住むとありますが、そういう状態が黙示の世界です。

 

黙示録というのは迫害に悩み苦しんでいる者たちに送られたものです。考えてみると迫害は受動的なものではありません。迫害というものはキリスト教信仰をしているから受けるというものではなく自分が選びとっていくものです。だから能動的なものです。 イエスに弟子たちは逃げようと言いましたがイエスはわたしがいま逃げたのでは、聖書に書かれてある言葉が成就しないと言われました。

 

ご自分の生死よりも聖書に書かれてあることのあかしのほうが大切であるとして、みずから進んで十字架を選びとっていかれたのです。クリスチャンの殉教や苦しみは、選びとっていく苦しみであるところにその重みがあります。 聖書を読んで本当にアーメンと言えるようになるためには、聖書を書いた人と同じような生き方をしなければなりません。

 

黙示録が迫害の中にある人たちに書き送られたものであるなら、私たちも迫害を受けるほど信仰生活に徹していかなければなりません。黙示録が私たちの信仰の糧となるためには、私たちがやはり殉教者、言葉をかえて言うならば日々、自分の十字架を背負って私に従ってきなさいという道を歩んでいかなければ、黙示録は理解することができません。その伝えようとするメッセージを聞きとることはできません。 黙示録が私たちにとってどんなに慰めの言葉であり、励ましの言葉であるかは、私たち自身の生き方によるのではないでしょうか。「友よ、ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」。 

 

 

黙示録の解釈には多くの見解がありますが、1節の「その後」という言葉は、ヨハネが見た幻が時間的な連続性を持たず、異なる時代や出来事を示していることを意味していると理解されています。ここでの「勝利を得る者」については、キリストが彼らを世界から連れ出しているという解釈があります。

 

ヨハネは4回「御霊に捕らえられた」と言っています (1:10、4:2、17:3、21:10)。この表現は、聖霊が彼に幻を見せ、単なる人間の視覚では見られなかった状況や出来事を見せたという意味です。すべての本物の預言は聖霊を通して神から与えられます (Ⅱペテロ1:20-21)。

 

2~3節の「天に一つの玉座」。玉座に着いておられるのは神で、ヨハネはその神の臨在を深く鋭く感じていました。しかし神の姿をはっきり描こうとはしていません。神の栄光があまりにも偉大で言葉には言い表せなかったのです。神は「近づくこともできない光の中に住まわれて」いるので、ヨハネはダイヤモンドのような輝きと、炎のような臨在しか説明ができませんでした。赤めのうは真っ赤な宝石で、神の贖い(キリストの犠牲の死による人々の霊的救いと回復)を表しています。

 

4節「二十四人の長老たち」。この長老たちは誰でしょうか。ある人は天にいる教会全体、つまりキリスト者の群れを代表していると考えます。またある人は有力な御使いたちだと言います。しかし、御使いたちは既に長老たちの周りに立っています。長老がかぶっている冠は勝利を得た人の冠で、御使いではなく信仰者のために用意されたものです。 さらに、長老たちは旧約聖書のイスラエル(十二部族)と新約聖書の教会(キリストの十二使徒)で、ともに神とイエス・キリストを礼拝していると考える人もいます。

 

この場合二十四人の長老は神の教会全体(旧約聖書と新約聖書の信仰者)を表していることになります。なぜならキリストの犠牲(霊的救い、解放、回復)によりあらゆる時代の神の民の贖い(霊的救い、解放、回復)が実現したからです。長老たちは実際の人物でヨハネに話しかけています。

 

 

5節「神の七つの御霊神の七つの御霊」は神の御座におられる聖霊を表しています。ここで使われている言葉はイザヤ書11章2節の御霊についての七通りの表現を基にしていると思われます。数字の「七」は御霊とその働きの豊かさと完全さを表しています。聖霊は罪に対する裁きと神の清さに満ちた燃える火のような方です。

 

6節「四つの生き物」。四つの生き物とその顔は、あらゆる生き物を表していると思われます。神が造られた生き物はみな神に栄光と栄誉をささげ、最終的には罪の呪いから解放されます。これらの生き物の姿はエゼキエル書1章5~14節のケルビムに似ていますが、エゼキエル書では生き物はみな同じ顔をしていました。ここでの生き物は、預言者イザヤがイザヤ書6章1~2節で描いたセラフィムのように、謙遜と敏速さを象徴する六つの翼を持っています。これらの生き物は単なる象徴ではなく、理性のある実際の存在として示されています。目は非常に優れた知性を表し、周りで行われていることに注意し気付いていることを示しています。 

 

 

「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」。高められた精神は、(新生による)新しい人格が高みにとどまることなしには生まれない。外面的に、あなたが最善を尽くして生活したとしても、神は絶えず、「友よ、もっと高くまで上るのだ」と言われる。

 

誘惑を受けた場合の鉄則は「もっと高くまで上る」ことである。しかし、高く上れば上ったなりに、異なる誘惑に直面することになる。サタンも「高く上れ」という戦法を用いる。神も同様にそうされる。しかし、その効果は全く異なる。悪魔があなたを高みに引き上げた場合、聖潔に対するあなたの考えを、血肉のからだを持つ人間には決して到達できないものに固定してしまう。それは一種の霊的な曲芸のようなもので、静止を余儀なくされ、身動きがとれないものとなる。

 

しかし、神がその恵みによって天の高みにあなたを引き上げてくださる場合には、尖塔の突先を見つけて、しがみつく必要はない。のびやかに動ける広々とした高原が広がっているからである。あなたの霊的生活が、今週と昨年の同じ週でどう違うかを比べ、神が高みに引き上げてくださったことを確かめてみるとよい。私たちはみな、以前より高い地点から眺めることができるように導かれている。

 

すぐに到達できないような真理を示してください、と神に願ってはいけない。むしろ、その真理の光にとどまり、常に少しずつ実践していくことである。恵みによる成長を測るのは、信仰的に後退しなかったという事実ではなく、自分が今、霊的にどこにいるかが分かる、という洞察力である。

 

あなたは「もっと高くにまで上れ」という神の声を聞いた。それは耳を通して、というより、あなたの人格の洞察力を通してである。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)と主は言われた。私たちの人格が神からの啓示を受けられる段階に達するまでは、神はご自身がなそうとしておられることを私たちの目から隠しておかなければならないのである。

 

オズワルド・チェンバーズ

 

 

JCさん、「体調が良くなったら国際電話で話そう」という約束が実現しなかったことが残念でたまりません。数年にわたるご厚情に感謝をいたします。