'ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。 「神なる主よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。 神よ、御目には、それも小さな事にすぎません。あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。神なる主よ、あなたはわたしをとりわけ優れた人間と見なされたのでしょうか。 '

歴代誌上 17:16-17

 

ダビデ王の比類なき成功の秘訣は、変化に伴う試練を乗り越える決意にあります。ダビデはそれぞれの季節で忠実であり続け、召命を追い求め続けました。ここで説明していくシフトは、私たち一人一人に天の父が置いて下さった特有の資質が明らかになり、成熟していく過程を表現します。 人生のそれぞれのシフトには、個人的な発見、成熟していくための成長、試されること、そして神への完全な同意と積極的な従順が必要です。私たちの人生が神の目的と栄光のために用いられるためです。

 

私たちが今歩み入ったばかりの引き上げられた季節を保持するためには、新しいアイデンティティーから生きることが不可欠です。新しい季節は今まで約束されていても与えられてはいなかった任務が目印です。神はあなたをシフトさせるための将来の夢を明らかにし、道を示してくださいます。召命を追い求めるためには神ご自身と神の計画をさらに求めることが要求されます。神こそが私たちの内にアイデンティティーを建て上げて下さる方なのです。

 

ダビデは祈り、主のお答えを待ちました。祈るとき沈黙を不安に思わないようにしましょう。 あなたが語るのではなく、御声に耳を傾け、それに答えるというイメージかもしれません。だから主の前で待ちましょう。静まって待つ。ダビデが「主の前に座して」待っていたように待つのです。その静けさの中で確信があなたのもとに届きます。あなたは自分の祈りが今聞かれているのを知り、あなたの主があなたの心からの願いを熟考しておられるのを知り、ほかの誰でもないあなた自身に語られる静かなことばを聞くでしょう。おそらくそれは、あなたにとってうれしい驚きであり、元気を回復させてくれるものとなるでしょう。

 

 

'同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 '

ローマの信徒への手紙 8:26

 

'どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 '

エフェソの信徒への手紙 6:18

 

神はなぜ祈りに答えてくださるのでしょうか。それは神が人間との律法ではなく恵みに基づいた新しい契約を定めたからです。神はこの新しい契約の一部としてご自分の民の祈りに対する責務を負っておられます。神は祈りに関して、ご自分が破ることはできないし破りはしないという約束を、 私たちに与えてくださっているのです。神が嘘をつくことなど絶対にありえません。神は私たちに約束しておられます。祈りは神の子どもたちに認められた特権なのです。神はご自身の高潔さによって私たちの祈りを聞く義務を負っておられるのです。

 

 

人類を霊的に救うご計画を立てられた神は、人々を神との個人的関係に導き入れるためにキリスト者を神の協働者とされました。そしてその人々の祈りによって霊的活動が始まるようにされたのです。。信仰者の祈りがなければ神の国には実現しないことが多くあります。たとえば多くの人に罪の赦しと新しいいのちを与えるメッセージを伝える働き人を、神は霊的な「収穫」の場に送り出したいと願っておられます。けれどもキリストは「だから、収穫の主に、収穫のための働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言って、このことは人々の祈りによってのみ完全に成就することを教えられました。つまり神の目的が成就するように人々が心を込めて祈るときにのみ、神は力を発揮してそれを行われるのです。

 

神の武具で全身を覆う記述は、キリスト者にとってそれがいかに重要なものであるかを示しています。 その一つでも欠けるならば私たちを不完全にします。 腰ひもを結び、胸当てを着け、靴を履き、信仰の盾を持っていても、もう一つのもの、常に祈ることが必要です。すべての時と場合において、すべての行為と行為の間においても、絶えず心の中で祈るので す。祈りを始めるのが困難なときは、祈るのは後にして、みことばから始めましょう。詩篇の聖句を読んで少しの間、それについて黙想します。そしてそれを祈りに変えるのです。あなたの魂はすぐに祈りによって高揚するでしょう。書かれたみことばとふれあうことは生けるみことばとのふれあいに変わるからです。

 

神は祈りを聞いてくださいますし、必要なことを実現する能力を持っておられます。ですから、その状況の中で最もよいことをしてくださると心から信じる信仰を持たなければなりません。主イエスははっきりと「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と言われました。悪霊に取り付かれた少年の父親に対しても「信じる者には、どんなこともできるのです」と言われました。ヘブル人への手紙の著者は「全き信仰をもって、真心から神に近づこう」と勧めています。ヤコブもまた「少しも疑わずに、信じて願いなさい」と励ましています。

 

 

祈りは主イエスの御名によってでなければなりません。。これは神に聞いてもらうために祈りの最後に「主イエスのお名前によって」と付け加えると言うことではありません。聖書の中ではだれかの名前によって何かを行うということはその人の承認を受け、その人の権威を持って行うことを意味しています。またその人がどういう人であるか、そしてその名前が何を表すかを意識することでもあるのです。従ってキリスト者は祈るときに、主イエスが人々の必要や求めに応えたいという思い、同情心、そして力を持っておられることを意識して祈らなければならないのです。

 

このことを覚えて祈るなら、信仰が強められ、主はあらゆることを支配していおられるという平安が与えられます。主イエスご自身が「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と言ってくださりました。これは主のご性格と気持ちに調和して(主がどういう方で人々を通して何を行おうとしておられるかを意識する)祈りをするなら、その祈りは非常に効果があるということです。

 

祈りは神の完全なみこころ(願い、意図、計画、目的)に沿って願うときに最も効果的です。何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。主イエスはこの原則を「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という模範的祈りの中で教えられました。多くの場合、神のみこころは聖書に啓示されているので容易に知ることができます。そして神のことばにある約束と動機に基づいた祈りは最も効果的であると確信できます。神のみこころは時にはそれを知ろうと真剣に求めるときに明瞭になります。そして祈ること、聖書を読むこと、神が既に行なっておられるおられるように見えることに心をとめることでわかるようになります。そこである問題や状況について神の御心がわかったと感じたら、神が応えてくださるという確信と信仰をもって祈ることができるようになるのです。

 

 

祈りは私たちのなりゆきまかせの務めではなく、毎日の仕事であり習慣であり、使命であるべきです。画家がモデルに熱中し、詩人が古典の探求に没頭するように、私たちも祈りに耽溺するべきである。あたかも自分の一部のように祈りにふけるべきなのです。主よ、どうか私たちがもっとたくさん祈り願えるように導いてください。

チャールズ・ハッドン・スポルジョン