先週末、結核菌の有無を調べる痰検査が行われ、またしてもプラスの結果。あとわずかだそうだ。2週間おきの検査で3回連続マイナスがでたら退院できる。東北の長い冬が終わりを迎えた矢先、心身ともに春を感じられるようになっての入院。時が過ぎ、夏の気配も近づいてきたのに残念。今少し忍耐の時だが、一番の心配は知人に預けてきた愛犬のことだ。

ハナ(シーズー、8歳)。昨年、夏の暑さに耐えられなかったのか突然死したハル(チワワ、当時8歳)の伴侶だったらしい。ハルとは昨年、3月に里親募集掲示板で巡り合った。以前から飼っていた老犬ミル(チワワ)の余生が寂しくないようにと考えて多頭飼いを決意した。ミルは5年ほど前に友人から譲られた。当時すでに13歳だったが毛が雪のようにふんわりとして可愛らしかったので即決で飼うことにした。昨年10月に旅立った。18歳、大往生だったと思う。

実はハルは里親募集でもらったとは言え、譲ってくれた相手はペットショップ経営者。繁殖の種犬としての役目を終わらせ、残りの人生を幸せに生きてほしいと願ったのだろう。ハナも同じペットショップに懇願して格安で譲っていただいた。

私は思った。ハルは愛する伴侶であるハナを我が家に導くために「命」を捧げたのではないのか? それがハルの使命だったのかな?と。


今回は使命について取り上げてみます。

あらためて聖書に登場する人物を思い浮かべますと、すべての人物がその使命を全うしたことが感じられます。中でも私が一番に思い浮かぶのは「洗礼者ヨハネ」です。(もちろんイエス様以外でですが)


洗礼者ヨハネは紀元前6年から前2年頃にユダヤのヘロディア王国で生まれました。彼の父は祭司ザカリアで、母はエリサベツでした。エリサベツは高齢で子供に恵まれず、ザカリアが神殿で香をたく仕事をしているときに、天使ガブリエルが突然現れ、エリサベツが息子を授かることを予言しました。その後、エリサベツは妊娠し男の子を産みました。そして生まれてから8日目に、儀式と命名のために集まった人々は父親の名前から”ザカリア”と名付けようとしましたが、エリサベツは「いいえ、名はヨハネ(ヘブライ語で「יהוה(ヤハウェ)が深く恵む」という意味)としなければなりません」と言いました。このようにして、洗礼者ヨハネの誕生が祝われました。

洗礼者ヨハネの使命は、「メシアの道をまっすぐにする(直くする)使命」があったと聖書に記録されています。具体的には、メシア(イエス)が現れたときに、メシアが歩みやすいように道を整えるという使命であり、人類の救援摂理を円滑に進めるためでした。また洗礼者ヨハネは、神の選民であるユダヤ民族に、イエスがメシヤ(救世主)であるということを証し、人々をメシヤの前に導き、イエスの使命を完遂しやすくするという使命を持って現れました。ヨハネは、神の人類救援の摂理において重要な使命を担っていたのです。


彼は荒野で人々に悔い改めを促します。彼は預言者として霊的成長を促進し、神の言葉を伝える使命に集中するために、人里離れた荒野を選びました。荒野での生活によりヨハネは経済的、政治的な権力から独立していました。そのため彼の説教は権力への妥協を一切含まなかったのです。また、旧約聖書において荒野は神以外に頼るものがない場所とされ、イスラエルの民が試練に直面し神に逆らった場所でありながら、神との新たな出会いと神の世話や教えを受ける場所でもあります。ヨハネはユダヤの荒野に出現し、人々に悔い改めを呼びかけたのはまさに「天の国」が到来しようとしているからです。

「天の国」とは、一般的な天国(パラダイス)の概念とは異なります。これはマルコ福音書やルカ福音書における「神の国」を指しています。マタイ福音書の主な読者層であるイスラエル人は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒律を遵守し、神の名を軽々しく口にすることを避ける習慣がありました。おそらくその理由からマタイは「神の国」を「天の国」と表現しているのです。ここで言う「神の国」は、領土を意味するものではなく「神が王として世界を統治される状態」を意味しています。

「悔い改める」とは、内省を強調することと捉えられがちですが、ヨハネの呼びかけは、キリストの到来と共に始まる神の支配を受け入れ、自らを神の支配に委ねることにあると考えられます。イエスの生き方や教えに表れる価値観は、神の支配への委ねから生じたものです。福音書を読み、キリストに倣い、日常生活で神の支配に自らを開くことで、カタツムリの歩みであっても、徐々に神の恵みにより自己中心的な視点から解放され、新たな生き方へと導かれるでしょう。


ルカ福音書3章4節では旧約聖書を借りて洗礼者ヨハネの使命が明らかにされています。「主の道を整え」以下の言葉は「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」という預言者イザヤの言葉をヨハネにあてはめて、今まさに活動を開始しようとしているイエスを人々が迎え入れるように導くために、ヨハネは神から派遣された者であると紹介しています。

ヨハネの服装は、列王記下1章8節の預言者エリヤそっくりです。エリヤは列王記下(2:11)によれば、生きたまま天に引き上げられたとあるうえ、マラキ書に「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす(3:23)」とあることもあって、その再来が待たれていました。ヨハネの出現は、当時エリヤの再来と受け止められていたようです。そこで人々は彼のもとに集まってきて罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けていました。

イエスもヨハネから洗礼を受けます。その後、王様のヘロデによって捕まり、牢屋に入れられてしまいました。彼はその後、領主ヘロデによって処刑されてしまいます(マタイ14章6-12節参照)。

 

 

イエスが突然ヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けたいと申し出た際、ヨハネはイエスのバプテスマが自分のものより遥かに崇高だと述べていました。これはマタイによって記されたイエスの最初の言葉です。ヨハネは自分には資格がなく、むしろイエスからバプテスマを受けたいと願っていました。

イエスがバプテスマを受けたいと望んだ理由は何でしょうか。イエスは罪を犯したことがないため、罪の悔い改めのためではありません。「正しいことをすべて実現する」とは、ヨハネが始めた神の使命を完遂することを意味しています。これは、イエスが自身の使命を全うし、神の意志を遂行するためにバプテスマを受けたいと望んだことを示しています。イエスのバプテスマは、彼の神聖な使命の開始を象徴していたのです。

イエスはご自分がバプテスマを受けることで、神の働きを確証し前進させると考えました。イエスがバプテスマを受けたのは、(1)ヨハネが行っていたことへの支持を示すため、(2)公の宣教を開始するため、(3)私たちに模範を示すため、(4) ネヘミヤ、エズラ、モーセ、ダニエルが行ったように、民に代わって罪を告白するため、(5)ただ眺めているだけの批判的なパリサイ人とではなく、悔い改めた神の民とご自分を同一視するためでした。

 

 

[28] わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。[29] 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。[30] あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヨハネによる福音書 3:28-30 新共同訳‬


ヨハネは「私はメシアではない」と公言しました。イエスが主役だ、とヨハネは言うのです。言わばイエスが結婚式の花婿であり、自分は花婿の友人、結婚の介添人だ。花婿の声が聞こえるのがわたしにはこの上なくうれしい。真の働きをするのはイエスであって、自分はそのイエスを指し示す。ヨハネの喜びは、母エリサベツの胎内にいたときだけのものではありませんでした。

30年を経て、ヨハネはあらためてイエスと出会い、喜びに溢れました。この偽善、虐げ、抑圧、虚栄、自己保身の横行するこの世にあって、イエスが真実と愛のため、人びとの救いのために自ら苦難を引き受け、傷つき、命を投げ出される。イエスが人の魂と世界を救うのをヨハネは見て喜んだのです。

その後ヨハネはイエスを見つけ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。これはイエスが人類の罪を贖うメシアであることを示しています。

ヨハネのこの告白はイエスが神の子であり、人類の罪を贖う存在であることを強調しています。これによりヨハネは自身の役割を果たし、人々をイエスへと導きました。このエピソードはキリスト教の中心的な教義であるイエスのメシア性を強調するものであり、新約聖書の理解において重要な役割を果たしています。

イエス様もヨハネも自分自身の「死」にひるむことなく挑まれました。自分の使命・役割をお果たしになられました。人はみな自分が神様からいただいた使命に対し責任感を持たなければと思いました。


この記事を書きながら、なぜか山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」が心に浮かびました。

小説「樅ノ木は残った」の終わりにある「そして樅ノ木は残った」という言葉は、主人公・原田甲斐の孤独と彼の生き方、そして彼が直面した試練と葛藤を象徴しています。原田甲斐は、伊達藩を守るために多くの困難に立ち向かい、周囲から誤解されながらも、自分の信念を貫きました。彼の生き方は、庭にある樅の巨木のように孤高であり、何も語らない樅の木が彼の内面を反映しているとも言えます。

この言葉は、物語の中で起こった激動の出来事や人間関係の変化にもかかわらず、樅の木が変わらずにそこに存在し続けることから、変わることのない強さや、時代や状況が変わっても変わらない核心的な価値を表していると解釈できます。また、原田甲斐が藩と自分自身のためにした犠牲を、静かに語るものとも言えるでしょう。

 

 

ミル(数年前)

 

ハル(左) ミル(右)

 

最初に飼ったわんこ「ロダ」引っ越しのため水草牧師に引き取ってもらいました。(水草先生からいただいた写真)「ロダ」という名は聖書のある個所に出てきますよ。私の帰りを喜び迎える存在であってほしいと思い付けた名です。