一昨日、入院してから5回目の痰検査があり、まだ結核菌がプラスの反応ということで退院はまだまだ先となってしまいました。

 

‭[4] ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。
詩編 27:4 新共同訳‬


サウロかアブサロムか、あるいは他の外敵か、敵の軍勢が陣営を張って攻めてくる中で、ダビデには何という平安と勝利があるのでしょうか。主は私の光、救い、いのちの砦と告白し、微塵の恐れも感じない心の平穏さは、いったいどこから来るのでしょうか。


「たとえウォルムスの瓦の数ほど悪魔がいても私は行く」、「私はここに立っている。神よ、助け給え」とは五百年前のマルティン・ルターの恐れなき告白です。激動の宗教改革の戦いの最中で、どうして静かな不動の確信に満ちた『キリスト者の自由』が生まれたのでしょうか。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に仕える僕であって何人にも従属する。」自由な君主、愛の奴隷。驚くべき提言です。

「わが命も宝も妻も子らも取らば取りね神の国はなお我にあり♪」


この言葉は宗教改革者マルティン・ルターが作詞作曲した讃美歌から来ています。この歌詞は、元々ドイツ語で書かれ、その後日本語に翻訳されました。この歌詞の一部は、「わが命も、わが宝も、奪らば取りね、神の国は、なお我にあり」となっています。これは、物質的なものが失われても、神の国は依然として信者のものであるという信仰の表現です。この歌詞はルターがカトリック教会の審問を受けていた絶体絶命の状況の中で、神が彼を支えてくれたことを示しています。この歌は、信仰を通じて困難を乗り越える力を表現しています。

 

 

[8] 心よ、主はお前に言われる 「わたしの顔を尋ね求めよ」と。 主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
‭詩編 27:8 新共同訳‬

 


今日は不安の時代と言われます。さまざまな公害、頻繁に身近に起こる交通事故、お互いに信じ合えない人間関係など。しかしそうした社会の中にある私たちの不安の根底は目に見える一つ一つの現実ではなく、寄り頼むものがない、言うならば神を失ったというところにあるのです。もちろん神に寄り頼んでいったからといって、そうした問題が自分に都合よく解決していくというものではありませんが、神は光であり救いであり、砦であり、いっさいは神の愛の中に、御旨の中にあるのだと示されるとき、私たちは何をも恐れない平安を与えられるのです。

「わたしの顔を、慕い求めよ」とありますが、これは今大きな試練の中におかれているダビデの祈り求めに対する神のたとえだったのです。私たちにおいてもそうです。物質的なこと、人間的なこと、この世的なことについて問題を感じ、その解決を神に迫っていくとき、神は「ああそうか」とその願いをかなえてくださる方ではありません。神はその所で「わが顔をたずね求めよ」と言われるのです。今、一番大事なことは欠乏を補うこと、問題を解決することではありません。今なすべきことは神と私の関係を正していくことです。神と私の関係がすれ違ってくると、いっさいのものがちぐはぐになってきます。たとえば最初に一つかけ間違ったボタン、それを直さないととにはどうしようもないように、神と私との関係を正すことなしには、本当の問題の解決は得られないのです。

 

 

[14] 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。 主を待ち望め。
‭詩編 27:14 新共同訳


ダビデは経験から、神を待ち望むことの意味を知っていました。16歳のときに王として油を注がれましたが、30歳まで実際に王座に着くことはありませんでした。その間、荒野で、嫉妬深いサウル王に追われました。ダビデは、自分が国を治めるという神の約束の成就を待たなければならなかったのです。後に、王となった後は、反抗的な息子アブサロムに追われました。

神を待ち望むのは簡単なことではありません。神が私たちの祈りに答えていないか、状況の緊急性を理解していらっしゃらないように思えることがよくあります。このような考えは、神が状況を支配していらっしゃらないか、公正ではないということを暗示しています。しかし、神は待ち望むに値する方です。哀歌3:24-26は、神が私たちを元気づけ、新たにし、教えるために、しばしば待つ時間をお使いになるので、主に望みを置き、主を待ち望むようにと呼びかけています。神が教えようとしていらっしゃることを見つけることによって、待っている時間を有効に使いましょう。

[24] 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。 [25] 主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。 [26] 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
哀歌 3:24-26 新共同訳‬

 


信じなければならないときでも、生まれながらの心ではどうしても理屈をこねる傾向があります。静まらねければならないときに、働いてしまいがちです。そして神の道を着実に歩み続けなければならないときに、我が道を行きたがってしまいます。人間の本性にとってどれほど辛くても、神の道を行かなければならないのに。

神をさしおいて自分勝手な道を行くことで、はたしてうまくいくのでしょうか。多くの場合、私たちは心にやましさを覚えます。しかしそうでない場合、間違いなく信仰は弱まって、強くなることはありません。自分自身で救いを得ようと労するたびに、神に信頼してゆだねることはますます難しくなっていきます。そしてついには、自分の堕落した生来の理性に完全に道をゆずり、不信仰に支配されてしまいます。


最も豊かな答えは、最速では来ません。それは、手元に届けられようとしている恵みの積み荷が重ければ重いほど、祈りの答えの航海時間が長くなってしまうからかもしれません。もし祈りが答えられるのが遅れているなら、より大きな恵みがやってくるかもしれません。神を急がせてはいけません。なかなか来ない神の答えがついにやってきたときは、最高にすばらしいものとなります。ついに助けが来るとき、それは長い時期を祈り続けたあとかもしれませんし、信仰と忍耐力を大いに働かせたあとかもしれません。それは、なんと快く甘美なことでしょうか。

私たちは忍耐強くあらねばなりません。神がすべてを行うお方だからです。忍耐強くないときは、まさに神と、神のなさるわざにあら探しをしてしまうのです。神は偉大なる与え手であられます。もし神が今日は与えずに御手を隠しても、明日はその二倍ものものを与えてくださるではありませんか。


芳しくない検査結果、先が見えない入院生活。肩を落としていると看護スタッフの方が「時間がかかりますが培養検査でセーフの可能性もあります」と声をかけてくださいました。培養検査で菌が死んでいればセーフなのだそうだ。祈りつつただ待つだけである。