ルカの福音書第9章は、12人の弟子が主イエスの代理としてメッセージを伝え、活動を行うように送り出される場面から始まります。12人の弟子とは、シモン・ペテロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、そしてイスカリオテのユダです。

 

[3] 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
‭ルカによる福音書 9:3 新共同訳‬


主イエスは何も持たないで遣わされることに意味があるとおっしゃいます。弟子たちは神の力を頼みにし、自分たちの備えを頼みにしないようを主に言い聞かされました。旅立ちは「裸一貫」です。必要なものはすべて神様によって備えられます。神と共に歩む時、見えるのは目の前の次の一歩だけです。人間の性格としては、道全体が明るくあって欲しいと思います。しかし、道がそのように明るかったら、私たちは神様を頼りに信仰の道を歩こうとするでしょうか。暗い次の一歩を神に信頼して踏み出すことだけが信仰を働かせることなのです。


主イエスは霊の力と宣教の働きをする権威をお与になられました。12人の弟子に与えられた指示はマタイ福音書の並行記事によると、「イスラエルの家の失われた羊のところに行く」ことでした(マタイ10:6)。それは第一の使命が主イエスのメッセージをまだ聞いたことのないユダヤ人に伝え、神の国の力を示すことだったことを示しています。けれどもよみがえられた後、主イエスは宣教の範囲をあらゆる国へと広げられました。その命令は「世の終わりまで」効力ある命令なのです。

神の国を伝えなさいという主イエスの宣教命令にはいつも、病人を癒し悪霊を追い出すこと(人のからだや生活を支配する病気や悪霊の支配を砕くこと)が含まれていました。神のメッセージは同じ御霊の力の現れが伴うように、神は今も望んでおられます。そのような力に満ち権威に満ちたメッセージこそが、キリストが再び来られる直前の終りの時代(今、現在の日)に、サタンの挑戦と対決し勝利することができるのです。

 

 

[23] それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
‭ルカによる福音書 9:23 新共同訳‬


主の担われた十字架とはいったいなんなのか。ゴルゴタの丘に向かわれたとき負われたご自分の十字架の横木のことであろうか。そうではありません。主の負われた十字架は、人々の罪と死。主は十字架で人々が負うべき罪と死を自らの身に引き受けられたのです。「日々、自分の十字架を負って」と主がおっしゃるとき、それは過去に自分が犯した過ちのことではありません。それは、主が十字架で完全に担ってくださったのです。もしそれを自分で負うと言うのなら、それは主の十字架を拒絶することになってしまいます。

では、負うべき苦しみのことでしょうか。確かに私たちには日々負うべき重荷、労苦が与えられています。しかし、主の十字架が「罪と死」であったことを思う時、また罪を主が完全にそこにおいて担ってくださったことを思う時、「自分の十字架」とは「死ぬこと」そのものではないかと思われます。もちろん、それは霊的死(神との断絶)のことではありません。それは主が身代わりとしてやはり担ってくださったのです。「自分の十字架」の意味する死とは、神なしで生きて来た自分に死ぬこと、罪の自分に死ぬことなのです。

[28] この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 [29] 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 [30] 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 [31] 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
ルカによる福音書 9:28-31 新共同訳‬


29節の出来事は「姿変り」と言われるもので、三人の弟子たちの前で主イエスの姿が変り、人間になられた神である主イエスの天の栄光の姿を一瞬、現すものでした。この体験によって、間もなく十字架での死に直面する主イエスが励まされ(マタイ16:21)、弟子たちに主イエスが十字架の上で苦しまれることが知らされ(9:31)、主イエスが神の御子であって、人間の罪によって破壊された神との関係を神と人間の両方を代表して修復できる唯一の方であるという保証が神によって与えられました(9:35)。弟子たちがキリストを含む三人をあがめようとしたとき、ほかの二人が消えたこと、そしてキリストだけが礼拝にふさわしい方であると神が仰られたことに私たちは注目すべきです。

イエスはその姿を変容され、本来の栄光の姿をはっきりと示されました。イエスに倣い、イエスと共に生き、イエスに従って歩む私たちも、本来のあるべき姿、本来のあるべき生き方へと、自らが変えられていくことを、神は望んでおられます。「主イエスの変容」は神の私たちへのこの望みをも示しています。私たちは皆、神につくられ、愛され、本来の私たち自身のこの存在はふさわしいものとされています。本来のこのあるべき姿に、私たち自身は、私たちの教会は、さらにはっきりと「変えられて」いくように、神は望んでおられます。そして私たちが「変えられて」いくこのことは、神のみ心と神の力によってなされることを、私たちは祈り求めていかなければなりません。

 

 

[60] イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
ルカによる福音書 9:60 新共同訳‬


イエスは時々、きびしすぎるのではないかという意見を耳にします。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人に、「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい」と言われ、また「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言った人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。

イエスが厳しすぎるのかどうかは、愛が厳しい一面を持つことを考えると、そうかもしれません。イエスは、この二者の危険を見抜かれました。彼らは神の国のそばまで来ていました。しかし彼らはお人好しで、選択すべき決定的な瞬間に身を引こうとしていたのです。

愛と慈悲によって、イエスは彼らを助けようとされました。それはただちに決断するようにとの勧告でした。彼らは自分たちの考えに従って自由に選択できたのです。それで少しあとに延ばそうとしました。しかしイエスはすぐに決断するように迫られました。人々はいつも決断を先延ばしにして、他のことをしようとします。しかしイエスは「それはいけません」「今すぐ決断するように」と言われます。

今日も多くの方々がイエスの言葉に耳を傾けていますが、決断を先延ばしにしようとしてしまいます。彼らは年々問題を先延ばしにし、その結果、不安と焦りが生まれてしまいます。イエスの御前に出ることを恐れ、一方で不安な魂が救われるために、限界まで追い詰められています。最後の悔い改めができないのです。何が最後の決断を妨げているのか考えてみましょう。

 

もし神があなたの常識を根底から揺さぶるようなことを命じ、あなたが試されたらどうしますか。尻込みしますか。あなたが何かの習慣的行動にはまってしまったら、純然たる意志をもってそれを断ち切らない限り、試されるたびに同じことを繰り返すだけです。

実は、同じことが霊的な面でも言えます。あなたは何度もイエスが望んでおられることの手前まで来ました。しかし、肝心なところで引き返してしまいました。それは決然と自分を主に任せない限り、いつまでも続きます。「はい、わかりました。しかし、この件で神に従ったとしても、その他については……」「はい、神に従います。ただし、私の常識で判断させてください」と私たちは言わずにはいられないのです。

イエス・キリストは、ご自身を信じる者たちに対して、なりふり構わぬ冒険心を発揮するよう要求しています。何か価値あることをしたいと思うなら、未知の領域に飛び込み、全てを捨てる覚悟が必要な時があります。イエス・キリストは霊的な領域で、あなたが常識に頼って信じてきた全てを失う覚悟で、「みことばに飛び込め、信仰によって」と求めています。それに従ってみると、主が言われたことが常識と変わらないほど確かであることに気づくでしょう。

常識を基準にすれば、イエス・キリストが述べたことは常軌を逸していると思われるかもしれません。しかし、信仰を基準にすると、それらがまさしく神のおことばであることに、畏怖の念とともに気づくようになります。神に全幅の信頼を置くことです。そして、神が冒険の機会を設けてくださったなら、それをつかむのです。危機が迫ると、私たちは神を知らない人のように振る舞ってしまいます。大勢の群衆がいようとも、神を信頼して勇敢に信仰を働かせるのは、一人いるかいないかです。

オズワルド・チェンバーズ