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foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

 

 いにしへに

  織りてし服(はた)を

    この夕(ゆうべ)

 

  衣に縫いて

   君待つ我を

 

      万葉集 巻十 「七夕」「織女(たなばた)」=同意語

(以前あなたのために織っておいた織物を、今夜は縫い上げ あなたが来られるのを私は待っています)

 

 

万葉集は奈良時代に4500首編纂されたもので、七夕の歌は132首収めてありました。

 七夕の歌ですから、そのほとんどは、男女の恋の物語をイメージして詠まれています。百人一首でも100首のうち43首は恋の歌ですから、遥か昔から恋愛は、常にひとの心を熱く燃え上がらせるものですね。

スタンダールの恋愛論の結晶作用のように想いは募っていき、シェークスピア、近松の曽根崎心中などのように、恋愛は障壁が大きければ大きいほど更に激しく燃え上がっていくものです。

 七夕は年に一度、七月七日の夜だけしか逢うことの許されない究極の遠距離恋愛。

それはそれは燃え上がることでしょう

 

万葉集の七夕のうたを数点選んでみました。

 

 月日えらひ

  逢ひてしあれば

   別れまく

 

 惜しかる君は

  明日(あす)さへもがも

 

 ※「月日えらひ」七月七日という日を選んで。

 ※「明日さへもがも」〈さへ〉添加。〈もがも〉願望。

 一年ぶりにお逢いしたのですもの、お別れするのが惜しゅうございます。明日の宵もまたお逢いできればいいのに。

 

 

 天の原

  振り放け見れば

   天の川

  霧立ちわたる

   君は来ぬらし

 

 ※「天の原」空の広大な様子。

 大きな空をふり仰ぎ天の川を眺めれば霧が湧いて広がっている あなたが来るに違いない

 

 天の川

  瀬ごとに幣(ぬさ)

   奉(たてまつ)る

 

  心は君を

   幸(さき)く来(き)ませと

 ※「幣」神に祈るときに捧げるもの。

 

 天の川の川の瀬の瀬ごとに幣をさし上げて祈る心はあの人が無事おいでになるように

 

 

 天の川

  波は立つとも

   我が舟は

 

 いざ漕ぎ出でむ

  夜のふけぬ間に

 

 天の川にどのように 波が立ってもかまわない さあ漕ぎ出そう夜ふけになる前に

 

 

 ただ今夜(こよい)

  逢ひたる児らに

   言問(ことど)ひも

  いまだせずして

   さ夜そ明けにける

 ※「児ら」女性を親しんで呼ぶ語。

 たった一晩だけ逢えた妻をあまりにも愛しすぎて、愛の言葉をかけるひまもなく夜が明けてしまった

 天の川

  白波高し

   我(あ)が恋ふる

 

  君が舟出は

   今しすらしも

 

 天の川に白波が高い 私の恋しい君がたった今、舟出したらしい

 

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牽牛も船出しました

これからさびしく恋しい月日がはじまります

 せつなき恋をするゆゑに

  月かげさむく身にぞ沁む

 

 もののあはれを知るゆゑに

  水のひかりぞなげかるる

 

 身をうたかたとおもふとも

  うたかたならじわが思ひ

 

 げにいやしかるわれながら

  うれひは清し、君ゆゑに

 

   (佐藤春夫 水辺月夜の歌)

金山駅から 徒歩4分

 

 

カウンターに座り

 酒のお品書きを拝見

   いい酒を置いている。

まだ飲んでいない2種を注文

⭐︎紀土(キッド) 純米大吟醸 和歌山

⭐︎冽 純米大吟醸 山形

どちらもまずまずの味。

今時の流行りの飲みやすい酒

 

⚫︎茗荷の春巻き

 梅雨の頃の草原の香り

  この季節茗荷がいいね

 

⚫︎鴨スモーク

良い味付け

 

 

 

⚫︎手作り豆腐

 これも良いね

 

⭐︎次の酒は飛露喜

飛露喜は久しぶり。福島県会津地方の醸造元。かつて、今ほど有名になる前の頃、飛露喜の専務(社長の弟)が年に一、二度、松坂屋 酒売場で販売されていて、毎回試飲をさせて頂き、中々いい味の酒なので、いつも2、3種類購入していた馴染みの酒。 

 今回は、特別純米

 すっきりとした中に旨みもありいい酒だが、ちょっと綺麗目

 

 

⚫︎蕎麦がき

 

 見るからに旨そうな色形。

 長崎県対馬産の対馬在来種

玄そばからの挽きぐるみ 超々粗挽き20メッシュだといわれる。

美味そうな色形。

  旨い!

20メッシュのざらつき

  旨い!

 

次の酒は

⭐︎旭興 特別純米辛口無濾過生原酒 限定別誂 五百万石

栃木県の酒

きれいめの辛口でややさらっとした感じ まあまあかな。

 

⭐︎超王祿 純米 無濾過生詰 2023年 王祿酒造

精米歩合:60%アルコール分:15.5%

仕込み水:自然湧水通称"黄金井戸”

島根県東出雲の醸造元。出雲は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の通り日本酒発祥の地であり、古代からの出雲杜氏の醸す酒は旨みのある良い酒です。

王祿酒造は全ての酒が生まれたままの味わいを届けるために無濾過です。

 

⚫︎粗挽き蕎麦

  そばの粒玉が随所に飛んでいる旨そうな超々粗挽きだ。

名古屋でここまで粗いそばを出す店は1店舗知っていますがまた別にあったとは。

これも蕎麦がきと同じ玄そばからの挽きぐるみ 超々粗挽き20メッシュ。  嬉しいね。

多くの人が好むのは、細くて滑らかな喉越しの良い蕎麦。けれど、それとは正反対の方向に、蕎麦の「旨み」を極限まで追い求めた世界があるのをご存知でしょうか?

■ 喉越しか、旨みか

喉越しの良い蕎麦はツルツルと喉を流れ、万人受けします。だからこそ、多くの蕎麦屋は細かい粉で滑らかに仕上げた蕎麦を提供しています。一方で、喉越しをあえて捨ててでも、「蕎麦の旨み」に賭ける店があります。そうした蕎麦は、口に含んだ瞬間に蕎麦の香ばしさが広がり、噛めば噛むほど甘みが滲み出る──一度食べたら忘れられない味です。

蕎麦粉は粒子が粗くなるほど、蕎麦本来の香りや甘み、風味が強く出ていきます。しかし、それと同時に粉同士が繋がりにくくなり、水回しや延ばしといった工程が格段に難しくなるため、技術が必要になります。

 蕎麦粉を挽く時には、通常は篩(ふるい)にかけて粒度を整えます。このとき、蕎麦用の篩で最も粗いものが「20メッシュ」、つまり0.84mmの篩目です。このクラスの粉は非常に大粒で、まさに“超々粗挽き”。水をうまく回せず、打ちにくく、まとまらず、蕎麦として仕上げるのが非常に難しいため、20メッシュ等超々粗挽きで打つ店は、全国でも100軒に1軒あるかないかと言われるぐらいです。

「蕎麦がき」の場合、粉を繋ぐ必要がないため、20メッシュのような粗挽きでも比較的簡単に作ることができますが、蕎麦として打つとなると、話は別。繋がらず、切れてしまい、茹でることすら難しい──それでもなお、20メッシュや超々粗挽きで蕎麦を打つというのは、蕎麦本来の魅力に惚れ込み、ひとつの素材でどこまで深く味を引き出せるかという挑戦なのです。

蕎麦職人の腕と心意気、蕎麦の味への深い探究心と愛情の現れですね。

 

閑話休題

武山の蕎麦の味

 甘味がグッときて旨味がくる。

   これは本当に旨い蕎麦だ。久しぶりに旨味の蕎麦をいただいた。

 こういう蕎麦には蕎麦つゆはいらない。

  箸先に塩をチョンとつけて蕎麦を一口分つまんでたべる

 ちょうど良い塩分に蕎麦の旨味甘味がじっくりと乗ってくる 甘みを十分感じた時に まったりとした冷酒を一口

これに勝るものはない。

 

⚫︎蕎麦湯

蕎麦屋で最後の〆の蕎麦湯を、ゆがいた後の蕎麦の味も香りもしないシャビシャビの湯を出す店が多い中で、こちらは、きちんと蕎麦粉を溶いて作った濃厚な蕎麦湯。 ありがたい。

せっかく蕎麦湯を出すのであれば、最後まで客を楽しませるこの店のように、本来はこうあるべきだと思う。

ご馳走様でした。 

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 私は蕎麦好きが昂じて、うまい蕎麦を求めて日本各地のこだわり蕎麦屋遍歴を何十年も行って、その数400軒程にもなっていますが、途中で自分でも打つようになり、素人ながら旨味の手打ち十割超粗挽き蕎麦を追求し様々な方法で打ち、15年ほど前までは20メッシュの篩いを使った超々粗挽き蕎麦を打っていました。

その後、もっと旨みを追求していく中で、もっと粒子を荒く大きくして蕎麦本来の味を出そうと、篩いの使用をやめて、無篩いとして、石臼も一度挽きにしています。(石臼は、一度挽いた同じ粉を何回も挽いていくと粒子の大きさがどんどん細かくなっていくので、私はその中で一番粗い一度挽きで世界で一番粗い蕎麦にこだわっています。これは我田引水かもしれませんが、最高に旨みがでて本当に美味いです。ただ、粒子が大きすぎて特殊な打ち方をしないと繋がらないので少量しか打てません。)

 普段蕎麦屋に行くときは、極力粗挽きの店をさがしていますが、金山の駅近で、超々粗挽きの蕎麦屋があるというのはとても嬉しいです。

こちらは蕎麦前も美味しく、酒も良いものを置いているので、更に嬉しいですね。

とても貴重な超々粗挽きの美味い蕎麦屋を知ることができました。

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そば 武山(たけやま)

名古屋市中区金山2-11-10 名豊第一ビル 1F

052-684-4120

インターネット予約050-5600-9059

は夜のみ受付しております。昼は受付しておりません。

金山駅 北口 徒歩4分 東別院駅 2番出口 徒歩8分

金山駅から415m

火水定休

12:00 - 13:30 18:00 - 22:00

七夕の

 蛍が乱舞

   する頃に

  機織り人は

   天に昇りて

 

 蛍が大好きで 月見草を愛し

夕暮れに小鴨川の土手に一緒に行き、月見草は咲く瞬間にポンっと音がするよと教えてくれた父は、

大好きな蛍や月見草の咲く頃に合わせて逝った

 

 7月3日は父の命日

 

あれから38年

 

 なでしこの

     花咲く頃に

   思い出す

 

  機織り人の

    父の顔

 

 

その後父の元へ逝った母と一緒に生前の様に仲睦まじく染め織りを行っていることでしょう

あちらでは今頃どんな作品を織っているのでしょう。

母はいつもの様にネクタイを織り、父は新しい絹染めの着物を織っているでしょうか

いつか私もその作品を見るのが楽しみです。

 

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吉田たすく

 絵羽着物 「なでしこ」 昭和60年(1985年) 新匠工芸会作品

両親は亡くなるまで本当に仲良く恋愛状態の様な夫婦でした。

この作品は、おそらく愛する母を想いながら織り上げたのだと思います

 風そよぐ

  花と想えし

   君の影

  染め織りたるは

    撫子の花

       周之介

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「不染」

1969年、東大寺の清水公照大僧正を自宅に迎え話を伺う中で、たすくの染織に対する姿勢に好感を持った大僧正より「不染」の号を名付けられた。また、「おらずやのたすく」ともいわれた。「不染」の号を得て、たすくはとても感激し大切にしていたという。また、この時公照大僧正は部屋の襖にサラサラと大きな襖絵を書かれて、たすくは更に感動したという。

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 万葉集のうたの中で「染」についてまとめた本は上村六郎先生の「万葉の染色」がありますが、「織」についてまとめた本はまだなく、父は1982年に、万葉集の中の織りについての考察「染めと織の万葉慕情」を週1度2年間に渡って計100回新聞に掲載しました。

 残された資料は長い年月で読みづらく、40年後の一昨年と昨年に渡ってこの100回分全てを読み解いてブログとFBに掲載させていただきました。このおかげでほんの少しだけ万葉集が身近になったような気がします。

 死して尚、凡愚な息子に教えてくれています。

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 清水 公照(しみず こうしょう1911年1月3日 - 1999年5月6日) 

 華厳宗の僧侶。(現・姫路市)出身。

第207世、第208世 東大寺管長となり、苦心の末、東大寺大仏殿昭和大修理を行った。独特の味わいのある書画、陶芸で知られ墨画書画、陶芸の作品制作等も多く、「今良寛」の異名がある。

 250台は入れるだろう大駐車場に入るのに20台位並んでいた。館内でチケット売り場も入り口前も80名以上が並んでいる。車でしか行けない豊田市美術館でこんな混み具合は今までで初めてです。

 

並んでいる人たちをみると、普段美術展など行かない雰囲気の人も多い。

 流石印象派

   流石モネだね。

 

 4週間前に京都の京セラ美術館で同じ展覧会を観て、ブログに感想を書き、「もっとモネ全盛の頃の絵を出して欲しい」と希望も載せていますが、

再度復習で豊田に来ました。

今回は2回目なので、会場内を行ったり来たりして、制作年ごとに分けて絵を見ることにしました。

作品は一部1900年(60歳)ごろから展示されていますが、その多くが

私のささやかな願いは何も反映されず、逆に京セラ美術館の入り口に陳列されていた印象派という名の元になったモネの代表作『印象・日の出』は陳列されていず、更に数点あった2mを超える大作もなく、良き時代のモネ作品は更に減っていて、更にモネ終焉の時代という感じのざんねんなモネ展になっていました。

生涯に2000点とも言われる絵を描いているモネですが、1883年43歳のときにパリ郊外のジヴェルニーに移り住み、この地で描いた 「睡蓮」はおよそ300作に及ぶほどでした。

 

モネの略歴と年代別感想

1840年生まれ

1890年には屋敷と土地を購入、 家の前に 「花の庭」を造園しはじめます

1883年から1900年頃の「睡蓮」は、モネの絶頂期であり、明るい光と色彩にあふれて光の微妙な変化に映る睡蓮や枝垂れ柳などが淡い影などで表現されていますが、この絶頂期の作品は今回は晩年の展覧会なので、最初にごく数点しか出品されていません。

 その後1905年ぐらいには徐々に目が悪くなって白濁していきますが、眼科に行くことはなく、作品は少しずつ色が濃くなり暗くなっていきます。

黄色はそれほど目立たなかったのですが、

1912年(72歳)の時に白内障と診断されます。

1917年(77歳)ぐらいになると目が悪いからでしょうが、筆のタッチも荒くなってきて、さらに色がきつくなってきて、少し抽象画っぽくなり、ゴッホに似た筆のタッチや黄色が目立つようになってきます。

1920年80歳になると、色彩が壊れ、全くモネらしさがありません。

右目はほとんど見えなくなり、左目の視力もわずかになってしまったようです。 

1922年(82歳)白内障の手術を行い

手術後に彼は

「左の白内障眼で見ると、すべてが黄色に見えるのに、手術した右目で見ると、すべてが青っぽく見える」といったそうです

1926年(86歳)で死去します。

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 京都と豊田で観た2回の「モネ  睡蓮のとき」展ですが、

今回も含めて過去数々観てきた、明るい光の透明感のあるモネらしい輝かしい絵は、白内障と診断される前の65歳位までだったようです。

この、モネの一番輝いていた65歳以前の作品たちをわざと外したこの展覧会は、反面教師となり、モネという作家をじっくりと考える良い機会となり、モネの素晴らしさを再認識することができました。

 

 そういう面で、今回は様々考え調べることができて、とても良い展覧会でした。

 

モネの一番輝いていた全盛期の透明感のある絵を期待する方は、この展覧会でないほうがいいとおもいます。

 また、この「モネ 睡蓮のとき」展で初めてモネを見る人に「モネってこんなの?」っと誤解されるのは嫌だな。

自然の中で描き、自然の優しい光と影を自らの目を通し、「見えるがまま心のまま」に描いた素晴らしい作品を別の会でどうぞ楽しんでください。

 

 写真は、館内で撮影OKだった場所のものですが、どれも透明感のないモネっぽさの少ない作品です。(モネをゴッホ風タッチに少しアレンジした様な感じに見えませんか😅)

 自然や美術が好きで暇を見つけると野山や展覧会などへよく行きますが、また建築物も大好きで良い建物があるとすぐに行きたくなってしまいます。

 

 今回は名古屋市の旧名古屋銀行本店です。

 

 東京神田のニコライ堂や上野の国立博物館、鹿鳴館等を設計し、辰野金吾等を育てた日本近代建築の父として有名なジョサイア・コンドルの孫弟子で、コンドルの影響を多く受け付いた建築家鈴木禎次が設計し、1926(昭和元)年に名古屋銀行として築かれた。

その旧名古屋銀行本店が2018年に、モダンチャイニーズを提供するバンケット&レストランへ変貌。

 内装は、旧銀行時代の重厚さに英国の薫り高い「ザ・ペニンシュラ香港」のロビーや、2014年の映画の「グランド・ブダペスト・ホテル」の色彩など。世界の名門ホテルの豪奢なイメージを重ね合わせて設えられました。

 ザ・コンダーハウスの名は、コンドルを英語風に読み替えて名付けられました。

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 この建物及び内装を ぜひみたいと思い、ディナーへ行きました。

 重厚な建物 重厚な扉を開くと眼前に広がる大階段。深紅のカーペットが敷き詰められた壮麗な空間、アールデコ調の煌めくシャンデリアに照らされた、ワンフロア150名ほど入れる店内、往時をしのぶ柱やアーチ、職人による手の込んだ意匠。銀行時代の金庫を活用した化粧室など、なかなか素晴らしいです。

 

 重厚な内装の雰囲気、すごくいい建物だっ!と酔う直前、BGM。

  アップテンポのルンバだった。

   建物の感じにはアンマッチ

    これで一気にカジュアル気分に。

 

メニュー

MODERN CHINESE

モダンチャイニーズ中華

 

 

 アペリティフ

シャンパーニュ

 

 

前菜の盛り合わせ

和牛のローストビーフ 紹興酒ソース

高知県産焼き鰹口水

青搾菜と干し海老醤

鰹のタレは南方のエスニックな酸味とオイルが魚特有の臭みを消すことといい感じにマッチしていた。

 

白ワイン3

 

北京ダック ~フォアグラと林檎~

 まあまあだけど北京ダックは自分で包んで食べたいな。

そして、できたらダックの皮だけ沢山食べたいね

 

 

金華豚と金翅フカヒレのスープ

フカヒレスープなんだけど、弱いね フカヒレの入り方が少ないというより他の味が多いんだよね、フカヒレってもっと美味しいんだけどこの値段だから仕方ないね。

 

 

オレンジワイン

ベル ア チャオ セミヨン

 

長崎県産地鰆のソテー 春野菜と新玉葱

 鰆か。 近年鰆が流行っていて多くのレストランで使っているけど、あまり味に特徴のない魚なので、不味くはならないが、特においしくもならない。淡い味なので様々な味付けには向く魚だ。

だから、西京煮など味噌で炊いたり、様々なソースで味付けしたものが多い。 

 

 もっと旨みを持った魚が沢山あるのにね。

 

赤ワイン

 

近江牛脛肉の広東風煮込み

 

基本中華なのでナイフとフォークは付いていないので箸で食べるのだから、

当然箸で崩せる迄きちんと柔らかく煮なければね。

 

京鴨と藤 香港麺

細打ちラーメンでした

まあまあいい味ですが、胡椒多めでちょっと煮込み過ぎてからくなった感じ。

 

デコポンと瀬戸内レモンソルベ

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食べ終わって

 150人ほどの席がほぼ満席。

2人カップルが多い店内なのに、料理や飲み物を出したりするカウンターの所で、景気付けなのかバーゲンセールの安いチェーン居酒屋のように男性従業員が2人ほどが時々大声で注文のような声を張り上げて雰囲気を大きく下げている。

声を出すたびに振り返ってみしまい、建物とはあまりにもギャップがありイメージダウンですね。

BGMは最後までどちらかといえばアップテンポのカジュアル。

 味も若い人向けにしたカジュアル中華でした。

建物も内装も重厚でよく作ってあるのに。

雰囲気だけ上級上演出で、値段抑えめのディナー。これは、普段ファミレスやチェーン居酒屋等で済ましているヤングアダルトには、日常とちょっと違うリッチ感が出せて、特にカップルには受けることでしょう。

 これをプロデュースした方はいいゾーンを狙って作られたと思います。

 今回 料理10000円位、まあまあおいしく値段候の味ですが、この建物の内装はすばらしく良い時間でした。

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ザ・コンダーハウス

052-684-7522

名古屋市中区錦二丁目20番25号

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* 鶴舞線「伏見」駅 3番出口より徒歩約4分

* 地下鉄名城線・地下鉄東山線「栄」駅 サカエ地下10番出口より徒歩約5分

* 地下鉄桜通線「久屋大通」駅 4番出口より徒歩約9分

フランシス・コッポラ監督が構想から実に40年という歳月を経て完成させた14年ぶりの新作で、自身の私財1億2000万ドル(約186億円)を投じて実現させたという映画「メガロポリス」を観て

 ちょっと疲れた午後のひととき

 

名古屋マリオットアソシア52階スカイラウンジ ジーニスでティータイム

 

 

 

 

 

コーヒーにしようかと思ったが、まず喉を潤わそうと、シャンパーニュ

 モエ・エ・シャンドン

 

 一口飲み ホッとする

最初にシャンパーニュにして正解

チーズとドライフルーツアラカルト

 

 良いバランス おいしい

眼下 緑に囲まれた名古屋城

 

その向こう彼方の方で

  小さく見える飛行機が着陸態勢で下降していく

   小牧空港ですね

 

さて、スイーツへいきましょう

 

メニューを拝見し

オペラがあったので、

コーヒーとオペラを注文。

 

オペラ

 「不滅の銘菓」「ケーキの王様」と評され、菓子職人にとって究極の目標のひとつとも言われるケーキです。

絢爛豪華な威容で知られるパリのオペラ座をモデルとして作られ、ケーキの表面にはオペラ座の屋根に立つアポロン神像の黄金の琴にちなみ、金箔を施されている。

濃厚で濃いチョコのベースの上に金箔がふわっと載っているだけのシンプルな高級感

 ビターチョコとブランデーやラムなどのアルコールがしっとりしアーモンドなどの香りに、すっきりと何層にも重ねたラインで上品に仕上げ、深い味わいのキングオブケーキ。

 何十年も前、子供の頃からケーキの中で一番好き。

  でも、なかなか美味しいお店に当たりません。

 私の理想が高すぎるのかもしれませんがオペラだけは特別。

 

 さてこちらのオペラはどうでしょう

見た目、なんとなく普通 高級感は感じませんね

  断面の層もきれいじゃないし

メニューの写真はすっきりとしているがそれと比べてもきれいじゃない。

 

 味は悪くはないのに、リキュールやアーモンド等をミックスして作り上げた甘く深みのあるビター感というところまではきてなくてちょっと物足りない。

オペラに対して思い入れが強いからしかたないけど。

 オペラと言わずチョコレートケーキと言えば

  素直に美味しくたべたのに。

 

今日は52階の景色が素晴らしいからまあいいかな。

 どこかで素晴らしいオペラが食べたいな。

新緑の

 萌えいずる春

  せせらぎに

 青紅葉なを

  清しく揺らぎ

 

 

ラ・ターナネル・ボスコ

先月のことですが、新緑の青もみじのそよぎを楽しみながらイタリアンをいただこうと、いつものラ・ターナネル・ボスコへ




 

 

席に案内され

 窓に広がる

  青紅葉

   せせらぎの声

 

アペリティフ

スッパークリングワインの淡さと弾ける泡で

 

涼しそうなガラス器に

⚫︎蛍烏賊と春野菜のサラダ

 下にクスクス

 

⚫︎新玉葱のポタージュ

 クリームチーズのせ

赤ワイン

プリミティーヴォ

モンテプルチアーノと同じ黒葡萄系の濃厚な味

プリミティーヴォは、イタリアの南部プーリア州で多く栽培されている品種ですが、その起源はクロアチア原産のツーリエンナーク・カーステラーンスキー種であるとされています。ジャムの様な甘みのある果実味を特徴としており、やや強めの酸を感じるまろやかな味わいになります。アメリカ・カリフォルニア州で栽培されている「ジンファンデル」と同一品種だと言われています。

 

⚫︎筍としらすのペペロンチーノ

⚫︎オマール海老

 

次のワイン

ピノノワール

 

メイン

⚫︎飛騨牛ステーキ

 ポテト

パプリカソース

山葵ソース

 

デセール

⚫︎ミルクのムースとお抹茶のジェラート

 

 

青紅葉

 本当に綺麗ですね

 ゆっくりと眺めながらゆったりといただきました

   ごちそうさま。

 

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 La tana nel BOSCO

  • 0572-26-7352
  • 住所  岐阜県多治見市小名田町小滝5-6

 ななとせも

  待てどかへらぬ

   いとしごの

  女神のつばさ

   つけてくだれる

 

今日6月23日は1945年沖縄戦の終了した日。

 

 

 沖縄戦で、日本軍により動員された沖縄県の10代から20代の女子学徒隊のうち、看護要員として「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒で構成されたひめゆり学徒隊は、戦禍の中、米軍の爆撃、機銃掃射や自決を迫られ240名のうち136名が死亡しました。

 1945年太平洋戦争の敗戦。最大の被災地沖縄は戦争の傷跡が沢山残っていました。

 

 終戦直後の物資難な時代、アメリカ軍統治下であった事情もあり、ひめゆり学徒隊の終焉の地も1946年の「ひめゆりの塔」と刻んだ高さ数十センチメートルの、小さな碑が一つあるだけで他には何もない寂しいものした。

  自らも従軍医師として南洋に行っていた戦後初期の前衛彫刻家の伊藤宝城(伊藤博)は、この悲惨な状況を知り、彼女たちの翼となれ、と1948年にひめゆりの女神像の制作に取り掛かり4年がかりで製作し、1952年に沖縄へ寄贈しました。 

1952年、太平洋戦争終結7年後、この像はひめゆり学徒隊の慰霊碑の前に一体化して設置され、沖縄県主体で知事や市長などと盛大な落成式が行われました。

 

 

  その時に読まれたのがこの短歌で、落成記念に販売された写真ハガキにも一緒に書かれています。

 現在は新しい慰霊碑に変わり、その後は、この女神像は慰霊碑の5mほど後ろに移設されています。

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ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に糸満市の沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

外科壕跡を挟んでひめゆりの塔の奥側にはひめゆり学徒隊の慰霊碑(納骨堂)が建てられ、現代ではさらに外科壕跡の左手には、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示した『ひめゆり平和祈念資料館』が1989年に建てられています。『ひめゆりの塔』は、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えません。

 ひめゆり平和祈念資料館では、戦争体験者が年々少なくなっていく今、沖縄戦がどんなものであったのか、元ひめゆり学徒たちの体験を通して、若い世代に戦争の実態を伝えています。後世に戦争の悲惨さと命の尊さを伝える意味でも、子どもと一緒に平和学習のために一度は訪れてほしい場所です。

現代の世界も日本も、戦争を知らない世代ばかりとなりつつあり

その為か、日本政府も少しづつ着実に戦争に近づいている感じもあります。

米軍の攻撃により20万人の犠牲者を出した沖縄の方々の大きな犠牲のおかげで本土の人間は、空襲以外では何十万人以上の犠牲も少なくなったことでしょう。

日本人全てが後々まで知っておかねばならない大切な日です。

 観光等で沖縄へ行かれる方々も数時間で結構です、もう一度こちらへ出向き、戦争の悲惨さを感じていただきたいと思います。

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 親子の写真は女神像を沖縄へ送る直前、父の実家である鳥取県倉吉市広瀬町の伊藤病院の前での記念撮影です。

向かって右から私の母(佐久子) 兄(創之介)  父の兄(伊藤博)の妻信子(ばあちゃん) 前に抱かれているのが私です。

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伊藤博  鳥取県倉吉市広瀬町 

   (父 吉田たすくの長兄)

 号を「伊藤宝城」という

戦後日本の抽象彫刻の先駆者 伊藤宝城

ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤宝城

 

慰霊の日 六月二十三日

  いつも思いだす像です。

 

沖縄戦

県外出身者死者・行方不明者 65,908人

沖縄県民死者・行方不明者122,228人

(この内民間人死者 94,000人)

アメリカ軍死者・行方不明者 14,006人

イギリス軍死者82名

アメリカ軍戦傷者 72,012人

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 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館資料より

01.沖縄戦とひめゆり学徒隊 

太平洋戦争末期の1945年3月から3か月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。米軍は、日本本土攻略の拠点として沖縄を確保するため、圧倒的な物量で攻撃しました。日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。その6割に当たる12万人は沖縄県民でした。

日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を「根こそぎ動員」し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。

02.男女学徒隊の戦場動員 

 沖縄戦では、県内にあった21の全ての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲爆撃の中、部隊の物資運びや伝令(命令の伝達)、橋の補修、電話線の修復などを行いました。米軍戦車への自爆攻撃を命じられた生徒もいました。

生徒の戦場動員は、軍の要請によって、軍と県との話し合いで決まり、学校が従いました。女子生徒の戦場動員に法的な根拠はなく、男子生徒の戦場動員に必要な法的手続きはとられませんでした。

学徒隊として学校から動員された生徒のほかに、兵隊として入隊した生徒、自宅近くの部隊に動員された生徒、家族と避難中に命を落とした生徒もいます。あわせて約2000人以上の生徒が沖縄戦で亡くなりました。

03.南風原の沖縄陸軍病院

1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は引率教師とともに学校を出発し、南風原にある沖縄陸軍病院に向かいました。沖縄陸軍病院は兵隊のための病院で、小高い丘に40近い壕が掘られ、その中に粗末な二段ベッドが並んでいました。

生徒たちの多くは、看護婦と一緒に患者の世話を行いました。尿や便の片付け、水や食事の世話、包帯交換の手伝いなどに走り回り、休む間もありませんでした。特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕の外に出て行く命がけの仕事でした。動員された生徒は222名、教師は18名にのぼりました。

04.過酷な勤務 

 患者の食事は、初めのうちは、テニスボールぐらいのおにぎりが1個、朝夕2回ありましたが、だんだん小さくなって、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個になりました。生徒の食事も同じでした。

米軍との戦闘が激しくなると、壕は重傷の患者でいっぱいになりました。生徒が横になる場所はなく、壁にもたれて仮眠を取りましたが、すぐに患者に呼ばれて起こされました。患者は、「水をくれ」「おしっこがしたい」「痛い、痛い、何とかしてくれ」と呼び続けていました。

食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服や頭にはシラミがわきました。青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。

05.南部への撤退

 5月22日、首里の第32軍司令部に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定します。5月25日、沖縄陸軍病院に撤退命令が出され、生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、砲弾の中を南部へと急ぎました。

沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれました。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失います。

6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃されていきました。

06.解散命令と死の彷徨 

6月18日夜、陸軍病院では学徒隊に「解散命令」が言いわたされました。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められていきました。砲弾の飛び交う中、傷ついた体をひきずって逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃を受ける者、手榴弾を爆発させる者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母を呼びながら死んでいく生徒が続出しました。

生徒の多くは、6月20日から28日の間に米軍に捕まり、各地の収容所に送られましたが、なかには日本の降伏も知らずに8月22日にまで壕に隠れていた生徒もいました。

07.ひめゆり学徒の動員・死亡状況

沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になりました。「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。

沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。

08.ひめゆり学徒隊の戦跡「伊原第三外科壕」

 現在、ひめゆりの塔が建っているガマ(鍾乳洞)は、沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。「伊原」はガマがある場所の地名です。ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名が隠れていました。19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。

 

 さみだれの

  雫をのせて

   咲く花の

 

  想いをのせて

   ほのと灯るや

 

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我が庭にはじめて蛍袋が咲きました

 とてもうれしいです

少しうつむき加減に咲く花は

 派手さはないですが

  そこが魅力

 

目で楽しんだ後は

 花を摘んでさっと湯通しして

  お浸しに

この時期の野の花料理でそっとお出ししています。

7つの美術展を観る京都の旅、

  最終日の最後は悠久の燻銀のような展覧会です。

 

泉屋博古館せんおくはくこかん)2025/06/01

 

 ここは住友財閥収集のすばらしい美術品のある美術館で、数年前から何度か来ようと思っていたのに休みだったりタイミングが合わず、更に昨年一年間の休館を挟んでオープンし、ようやく来ることができました。

 

 

 今回は

 「中国青銅器の時代展」 +リニューアル記念名品展Ⅰ「帰ってきた泉屋博古館 いにしえの至宝たち」の2つの展覧会でしたが

住友コレクションと言えば、何はともあれ、今から3000年以上前の殷時代の世界有数と名高い中国青銅器。そして、数々の国宝や重要文化財の書画などがありますが、まず、「中国青銅器の時代展」をメインに拝見しました。

 

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 永観堂(禅林寺)で青もみじの繊細な美を堪能し、爽やかな気分のあと徒歩5分で到着。

そこは

ゆったりとした、とても素晴らしい美術館でした。

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 説明より

いまから約3000年前、 日本ではちょうど縄文時代が終わりにさしかかるころ、中国大陸では殷や周といった古代王朝が栄え、高度に発達した鋳造技術によって、 複雑繊細な造形をもつ青銅器の数々が生み出されていました。

 「国の大事は祀と戎にあり」 (『左伝』 成公十三年)といわれた中国古代では、 軍事活動とならんで、 祭祀儀礼が国家にとってきわめて大きな意味をもっていました。 なかでも祖先の神々をまつることが重要視されており、「宗廟」という場でその霊をむかえ、一族郎党や賓客を招いてまつりをおこなっていたとされます。

 中国古代では、こうしたまつりのために当時の技術の粋を注ぎこみ、祭祀儀礼のための青銅器を生み出しました。 ここでは、住友コレクションのなかから、 特に造形のすぐれた名品を一堂に会し、 中国青銅器の時代へと旅立つうえでのイントロダクションとします。

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 とても細かな手の込んだ柄やお茶目な柄など、如何にも殷時代を思わせる数々の青銅器。日本の縄文土器や埴輪の最高峰の品に匹敵するぐらい魅力ある繊細で複雑な造形の殷器が様々な顔貌で目の前で拝見出来、とても素晴らしいものが多くて、嬉しく楽しく何度も見返しながら拝見しました。

 青銅器の形それぞれに用途が細かく決まっており名称がありました。

 ここまで細かな用途別分類は現代にはありませんが、3000年も前にここまで細かく分けて使用していたとはとても驚きました。

8月17日迄のロングランで展示内容は前期と後期の2回に分けられるようで、今回は前期を拝見しましたが、とても素晴らしいものが多く、楽しめたので、後期も拝見したいと思います。

ただ、これからの京都は酷暑真っ只中 覚悟していかねばなりませんね。

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泉屋博古館 京都

京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24

TEL075-771-6411