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自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

染めと織の万葉慕情39

  養蚕の歌(2)

   1982/12/24 吉田たすく

養蚕の歌のつづきです。春の新しい桑の芽で整った繭の歌です。 今いうハルコという春産のカイコの事で年に二回か三回養うカイコさんの中で一番よい絹の取れるカイコさんです。

 筑波嶺(つくばね)の

  新桑繭(にひくはまよ)の

   衣はあれど

  君が御衣し

    あやに着欲しも

 この歌は東歌(あづまうた)といって関東地方の歌で、今でいう民謡だそうですが。

 筑波嶺は茨城県筑波郡にある男女二降を持つ山として知られ、春秋ここでカガイ(思いを歌にたくして男女が集まる交際の場)が行われ上代人の生活と深くつながっていた事が、風土記や万葉集の説話や歌でわかると岩波書店の日本古典文学大系の萬葉集に出ています。 そのツクバ山の新しい春の桑の葉で養った繭で作った美しい絹織の衣、そのうるわしい衣はさておき、あなたのやわらかいお召物を、不思議なほどに着たいと無性に思うのです。

 御衣を着欲しとは、あなたの体の事を衣にたとえてあなた自身を着たいと詞っているのです。

 万葉当時から筑波の嶺のふもとは養蚕の盛んに行われ、美しい絹織物の産地であったので、このような歌が作られ、筑彼の嶺のウタガキでにぎやかに男女の歌韻にのった事でしょう。

 同じ常陸(ひたち)の国の歌に「布を乾す」歌があります。

 筑波嶺に

  雪かも降らる

  否(いな)をかも

 かなしき 児ろが

  布乾さるかも

 冬になり雪の時季になって来ましたが、 筑波嶺の山にも雪が降りつもったのか、あの白いのは、いやそれともいとしいあの児が新しく絹を織って曝して乾かしているのだろうか。

 筑波嶺の歌が出て来ましたのでウタガキに歌われた歌だと思われる歌がありますので紹介しましょう。

 筑波嶺の

  嶺(ね)ろに霞居

   過ぎかてに

  息づく君を

   卒寝(いね)てやらさね

 筑波嶺の嶺(ね)ろ、ミネに(寝ろ=ネロ とよましています。) ミネにかかる霞が動かないように、あなたの側を通り過ぎきれないで溜息をついているお方を、一緒に寝てやって帰してやんなさいよと第三者が女に歌いかけるひやかしの歌でしょうか。

 東歌にはこんなにゆかいな歌があるのです。

 小筑波(おづくは)の

  嶺ろに月立(つくた)し

   間夜(あいだよ)は

  多(さはだ)なりのを

   また寝てむかも

小筑波の山に月がまた出て来るようになって一カ月もすぎお前と逢わない夜がつづいたが、また一緒に寝ようか。

今一首。

小筑波の

 繁き木の間よ

  立つ鳥の

 目ゆか汝をみむ

  さ寝さらなくに

 筑波の山の繁みの間を飛び立つ鳥を捕え難いように、お前を見ているだけで居なければならないのか、一緒に寝たこともあったじゃないか。

 何ともおおらかな恋の歌ですね。 

              (新匠工芸会会員、織物作家)

染めと織の万葉慕情38

  養蚕の歌(1)

   1982/12/24 吉田たすく

 絹の歌につづいて、絹を作る養蚕の歌を取り上げてみましょう。

 背の君に衣を染めてあげようとか、好きな人のために衣を織ってあげたいという歌はたくさん有りますが、自分自身でカイコを飼って絹糸を作り、衣を作ってあげようという歌は有りませんでした。

 母が養う歌でした。母が養う子の繭・・・と詞うのです。

 カイコさんの繭は、虫がマユにこもってかくれているので、其のさまを詞んで人の隠れるさまにあてた歌です。カイコの事を万葉では養ふ蚕(かふこ)、原文では「養子」(かうこ)という字で書かれています。 小さな虫をカウのでカウコというのでしょう。これが変じて、今いうカイコになったのだと思います。

 たらちねの

  母が養ふ

   蚕の繭(まゆごもり)

 隠れる妹を

  見むよしもがな

 たらちね。お母さんのちちは、大きくたれているのがたのもしかったのでしょう、母の枕詞です。

 そのお母さんが養っているカイコさんは、やがて繭に入って隠(こも)ってしまうように、こもなってしまって人に逢わないあなたに逢うてだてはないのだろうか。あいたい…隠れる形容にカイコを使った歌でした。

今一首、

これもさきの歌と同じく母が養ふ蚕で始まります。

 たらちねの

  母が養ふ蚕の

   隠(まゆごも)り

  いぶせくもあるか

   妹に逢はずして

 たらちねの母が養っているカイコさんのように、繭に隠ってしまっていいるあなた。 いぶせくもあるか、心持ちが内にこもって晴れない事です。

 妹(いも)あなたにお逢いする折がないので。このように妹に逢えない、妹が見えない、失恋の苦し い思いに悩まされて、いっそ、人間を捨てて物を想わぬカイコにでもなってしまおうという歌もあります。

 この歌のカイコは、原文では桑子(クワコ) と書かれています。 カイコが桑の葉を食べて育つので、桑の子というのです。

クワコ変じて、クワイコーカイコになったのかも知れません。当時、すでに桑の葉でカイコを娶った事がうかがわれますが、自然に生えた桑の木にカイコをつけて登っていたのか、今のように桑の木を栽培してその葉を

毎日採集して家内でカイコを養ったのか分りませんが、「たらちねの母の蚕の」と歌われたさきの歌のニュアンスからみれば、家内の養蚕の感じがします。そうすれば、当時の養蚕と現代とあまり変わっていないようですから、養蚕文化はずい分古くから発達していたように思われます。

では、桑子になりたい一首

 なかなかに

  人とあらずは

   桑子(くわ)にも

  ならましものを

   玉の緒ばかり

 (こんなに苦しい思いでいるならば)なまじっか人間でいないで、何の物思いもしないカイコにでもなったらよかったのに。玉の緒ばかりとは曲玉、管玉を通すひもの事で、ネックレスのひもです。絶え、乱れ、短いのたとえに使われるので、この歌では短い間でもよいからというのでしょう。

 歌で当時の様子を想像してみるのも楽しいものです。

        (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染めと織の万葉慕情37
  絹の歌
   1982/12/17 吉田たすく

 

 

今日は絹の歌をとりあげてみます。 染織材料の歌で一番多いのが麻の歌で、万葉の全巻中三十五あります。これは麻が当時の人達の通常着であって沢山栽培され、織られ、着られていたからなのです。これにくらべ絹の歌はずい分少ないので、す。歌数が少ないから絹布が少ないだろうと比例的に考えるのもおかしいかもしれませんが、思いの外少ないのでした。
 絹は天皇家やその周辺の人達とか豪族達のよう.な数少ない貴族の人達の衣料でありました。文筆にしたしむそういう貴族の人達の歌に取りあげられてもよいと考えてもみるのですがとにかく少しの歌しか見あたりませんでした。

その内の一首

 西の市に
  ただひとり
   出でて目並べず
  買ひてし絹の
   商(あき)じこりかも…

 西の市は平城京右京八条二坊に開かれる市だそうで今でいうバザールなのでしょう。色々な品物が持ちこまれ物々交換の商が始まり麻布も出ていたでしょうが、それらの中で絹布を一人で見てだれにも相談もしないで買ってしまったが、あまりよい絹布でなかった、「しくじったなあ」というのです。
 ある学者はこの歌は女(ひと)の事を肩にたとえて飼った歌だといいます。
 西の方のちまたへ一人行き、よくしらべもしないで、人にも相談もせず一見惚して結婚してしまったが、今から思えば見かけだおして、まずい女だったとの意だそうです。絹という美しい布のイメージとはかけはなれた感じの歌のようです。

つぎにもう一首

赤帛(あかきぬ)の
 純裏 (ひつら)の衣
  長く欲(ほ)り
 わが思ふ君が
  見えぬころかも

 帛の字を書いてキヌと読ませています。赤絹ですから紅(くれない) 染か茜(あかね)染の赤色の絹です。
純裏 (ひつら)とはヒタウラ・ヒトウラというのです。 赤い絹のあわせの衣です。 このあわせの衣の表布と裏布とがびったりくっついてい
るように。あなたと二人はぴったり長くくっついていたいと思うんだが、私が思うあなたはさっぱりお見にならない此頃ですこと。

 次の歌は絹は絹でも上等ものでなく繭(まゆ)からじかに手でつむいだ絹の歌で絁(あしぎぬ)の歌です。

 富人の
  家の児どもの
   着る身無(みな)み
  腐し棄(くたしすつ)らむ
   絁(きぬ)綿らはも

 高貴な物持の家の児が、着物が多くて、着る身が足りないために腐らしてすててしまうアシギヌはマワタよ、ああもったいない、と貧者がなげく歌です。
この歌は山上憶良の歌で児を思う歌の中の一首です。 憶良は貧しい人の生活描写の歌がかなりあより、当時の庶民の生活がしのばれます。
         (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 

 

染めと織の万葉慕情36

  榛の木染 (3)

   1982/12/10 吉田たすく

ハリ()の木の歌をもう一度。

 伊香保ろの

  咀(そひ)の榛原

    ねもころに

 おくをな兼ねそ

  現在(あさかし)善かば

 

伊香保ろは群馬県北群馬郡の山の事で「榛名山」といわれています。その山はハンの木の林が茂っていて、その名が有るのかもしれません。急な斜面のハリ原のハリの木がよく染まるようにこまかい事などに、今から将来のことを心配なさんな、目前の今さえ幸せですもの。と歌っています。 

 

また一首。

 

伊香保ろの

 唄(そひ)の榛原

  わが衣に

 着きよろしもよ

  一重と思へば

 

伊香保ろの嶺の榛名山の急斜面の榛原のハリが私の衣に実によく染め着くように、あの児は裏表ない純な心を持っているからね。(あの児は純な気持ちで私にぴったり合うのだから)人の気持ちと気持ちがふれあう事を心がそまるといい、衣が染まる事にたとえて歌うのです。

そのよく染まる榛の木伊香保の唄(そひ) 急斜面に生えている歌ですが、伊香保に限らず、この近くの榛の木も、大山や蒜山のすそ野の榛の木も急斜面に生えているのです。

 

 時ならぬ

  斑の衣

   着欲しきか

 島の榛原

  時にあらねど

 

  いつもいつも斑の衣(染色の色の濃淡の一様でない染衣を着たく思っています。島(奈良明日香村の島の、ここに榛の林があったのでしょう)の榛原のハリは染める時季になっていないけれども。(私の心はあの児あらねどの体を着たく思っているけれども、あの児は私に染まる気にまだなっていないんだなあ、あゝ)ま同じく島の榛原を詠んだ歌一首。

 

思ふ子が

 衣摺らむに

  にほひこそ 

 島の榛原

  秋立たずとも

 

私の恋人のあの児が、衣を染めようとしているが、よく染まっておくれ、島の榛原のハリの木よ(秋にならないでまだ青い木だけれども)

 

この二首はたぶん九月か十月ごろに詠んだ歌のようです。さきの一首は(染まる)「時にあらねど」ですし、次の一首は「秋立たずとも」と歌っています。

榛の木で染色するには榛の木が成熟して黄葉になった時が、一番よく染まるものです。 また秋になっていない時季にハンの木で染まりたい、染まってほしいと歌い、恋のいら立ちを詠みあげているのです。

榛の木のような、茶色黒色の染まる草木は十一月から十二月初めに一年間染める分を採集しておきます。染料植物を採集するとき、万葉歌の榛原の歌など思い出して、山野草木を恋心にたとえて歌った当時の人たちを忍ぶのです。

                   (新匠工芸会会員、織物作家)

染めと織の万葉慕情35

  榛の木染 (2)

   1982/12/3 吉田たすく

ハリ(榛)染のつづきです。

「ハリを衣に摺りつけ」という歌がありますのでその一首

 

 住吉の

  遠里小野(とおさとおの)

   真榛(まはり)もち

  摺れる衣の

   盛り過ぎ行く

 

大阪市と堺市に遠里小野があるそうですが、そこの榛の木をもって摺って美しく染めあげた衣も年をへて色あせて行く事だ。我が身の衰えを嘆く歌のようです。 

 

また一首

 

 古(いにしへ)

  ありけむ人の

   求めつつ 

  衣に摺りけむ

   真野の榛原(ハリハラ)

 

昔の人々が求めては摺りつけて染めた真野(神戸市長田区と愛知県の豊橋市との二説あります)の榛原はここですよというのでしょう。

この二つの歌は共にハリを摺りつけと歌っているので、摺り染めの事であり、それが出来るのは花であろう。このハンというのはハギの花である薬のという説もあるのです。

あの可憐なハギの花ですから衣に摺り染したい気持もわかります。

万葉集巻七の譬喩歌(ひゆか)の中に玉に寄ず歌とか花に寄す、鳥に

寄す、雲に寄すなどの寄す歌にならんで木に寄す歌があります。 その木に寄す歌の第一につぎの一首がのっているのです。

白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつけ真野の榛の木を心から思ってもいなかったのに、自分の衣に摺り染めしたことである(自分はそうは思わなかったけれどもあの児と摺りつけ染まってしまった事だ)。この歌も摺り染と歌われているのでハギの花ではないかと思われますが、 この歌は「木に寄す」 歌の中であって「花に寄す」歌ではないのでありま

す。

 

ハンの木は先週書きましたようにその木や皮木の実が染料になりますから、花染でなく木で染める染料という事で木に寄す歌に入っていると思います。

ハンはやはり榛の木だというのです。 その木を染めるには摺り染では染まらず、本式の媒染をして染めなければなりませんが、その事をふまえて、あえて摺りつけ、と歌っているのです。

  住吉の

   岸野の榛に

     染(にほ) ふれど

  染(にほ)はぬわれや

    にほひて居らむ

 

 竹取の翁の歌(竹取物語ではありません。万葉集の巻十六にのる長歌)の反歌のあとにつづく乙女らにこたえる歌の一首ですが、住吉の小野の榛で染めようとするが、なかなか染まらない私である。(心がなびかない)とのにあの児たちは友だち同様に依り従うことだろうかとの意だそうです。

まだまだ沢山の榛の染の歌があります。心を染めるたとえにこの榛染の歌が沢山あるという事は、当時榛の木で盛んに染められていた事がわかります。

                         (新匠工芸会会員、織物作家)

 

映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』が全国の映画館にて年末から公開されていて昨日観てきました。

 1980~90年代 私は完璧な仕事人間で、テレビも見たことがなく、音楽もあまり聴いていませんでしたが、その頃印象に残っている女性歌手はマドンナとホイットニーヒューストンでした。

 マドンナは軽いノリで車を運転している時などは良いのですが、媚びたつくりが鼻について好きになれませんでした。

その点 ホイットニーヒューストンはR &Bの世界ですが、直球勝負。 好きな歌手でした。

 今回は『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本家がホイットニー・ヒューストンの、名曲誕生の瞬間や「歌いたい曲を、自分らしく歌う」ことに命を燃やした栄光の半生を、数々のNo.1ヒットソングとともに臨場感たっぷりに描ききった映画です。

 ホイットニーヒューストン役のイギリスの女優ナオミ・アッキーは、笑い方や些細な仕草、息遣いや喉の動きなど「ホイットニ ーすべての動きを分解し、身につけた」と語っていますが、ナオミ・アッキーの一部の歌声と動作もまるでホイットニーを彷彿とさせる感じで素晴らしかった。

1992年に実物のホイットニーがケビンコスナーと共演した映画「ボディガード」を見ていますが、その遠い思い出も甦り、更に心が盛り上がる。

 類い稀な感性

  広すぎる音域

    響き渡る声量

ピアニッシシモからスフォルツァンド

 ホイットニーの素晴らしさが蘇りました。

そして

もう一度 あのケビンコスナーとの共演のボディガードが観たくなりました。

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1963年US・ニュージャージー州生まれ。幼いころから教会で歌い始め、母親である歌手のシシー・ヒューストンのステージで歌っているところを、スカウトされ 1985年、デビュー・アルバム『Whiney Houston(邦題:そよ風の贈りもの)』は大ヒットとを記録し、1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム『ホイットニーII〜すてきSomebody』は、ビルボード200チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)。1992年、ケビンコスナーのオファーで初主演した映画『ボディガード』の主題歌「I Will Always Love You(邦題:オールウェイズ・ラヴ・ユー)」は全米シングル・チャートで14週連続No.1を記録し、映画のサウンドトラックは1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど、高い評価を受け、アルバムからのリカット・シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなった。

ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人で累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されている。また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、

 シングルは「Saving All My Love For You(邦題:すべてをあなたに)」から以降7曲連続で全米シングル・チャート1位を獲得しビートルズの記録を破り、R&Bの枠を超えて、多くのファンを魅了し、その唯一無二の圧倒的な歌声は“THE VOICE”と称えられている。アルバムやシングルなどは、これまでにトータル・セールス2億枚を売り上げ、6部門のグラミー賞を受賞など400を超える受賞歴はギネス世界記録に認定、音楽史に残る大偉業を成し遂げた。来日公演のため7回来日。2012年2月11日、不慮の事故で死亡した。享年48歳。

本作はそんな彼女の、ジャンルも人種も超えた<グレイテストソング>誕生の瞬間や、「歌いたい曲を、自分らしく歌う」ことに命を燃やした栄光の半生を、数々のNo.1ヒットソングとともに臨場感たっぷりに描ききる。「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」のナオミ・アッキーが主演を務め、ホイットニーを見いだした伝説の音楽プロデューサー、クライブ・デイビスを「プラダを着た悪魔」のスタンリー・トゥッチが演じる。

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1992年の映画『ボディガード』のシーンを背景にホイットニーの歌をお楽しみください

https://www.youtube.com/watch?v=3JWTaaS7LdU

https://www.youtube.com/watch?v=FxYw0XPEoKE

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2023/2/11、12には愛知見芸術劇場大ホールで

  ホログラムコンサートまで模様されるそうです。

 2022年12月に民藝の勉強で大阪・京都と回りましたが、その一環で、飛騨高山の日下部民芸館へも行ってきました。

 

 初めて訪問したのは、先回書きました様に、ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』に導かれ18歳の一人旅です。

金沢から様々なアクシデントに見舞われ苦難の末到着した飛騨高山で、300年以上の営みを紡いできた名家「日下部家」の民芸館に伺い、その素晴らしい建物に感動し、その後今までに五度ほど訪問しています。

 飛騨といえば山奥のイメージが強いですが、飛騨は元禄時代に幕府の天領になり、豊かな材木や鉱産物を扱う商家が発展し、高山祭の華麗な屋台でも知られるように、。金に糸目をつけずに文化を造った豪商たちの町衆文化が栄えていました。この飛騨において日下部家は幕府の代官所(高山陣屋)の御用商人を代々務め、両替商を営むような豪商でした。

現在の建物は1875年(明治8年)の大火で焼失した後に再建されたものですが、江戸時代の建築様式で建てられていて、飛騨高山を代表する豪商の古い屋敷(民家)として1966(昭和41)年に明治建築の民家としては日本で初めて重要文化財に指定され、これと同時に「日下部民芸館」として開館しました。


 

 全国に民芸館や民芸に関する美術館等は20以上存在しますが、ここは民芸館としては小さな方の美術館です。しかしながら、到着してみるとここが一番だと思える位の素晴らしい感動があります。

 正面から見た外観は、商家とは思えないほど豪壮でとても重厚な印象。屋根は低くゆるやかで軒が深く、雪の重みに楽々と耐えるように配慮しているのでしょうか。

 

 玄関を入ると広い土間。見上げると長い年月の囲炉裏の煤(すす)で漆黒に染まった梁と束柱の豪快な木組が印象的な吹抜け空間。その重厚な柱。大きな囲炉裏に自在鉤、素晴らしい商家です。


 

襖の意匠にも上流階級にふさわしい上質さが表現されています。囲炉裏の間にはぬくもりが今でも残っているように感じます。

 とても広い空間で、大勢の来客や使用人で賑わっていた当時の様子まで伝わってくるような感じです。

 

上に上がり母屋を拝見

母家を奥に抜けると中庭のような屋根のない土間がありその奥の土蔵は民芸品の展示施設になっています。

 

写真の説明はありません。

 

 

 日下部民芸館は建物の素晴らしさばかりが強調され、特に初めて訪問した者にとっては、入った瞬間の素晴らしさに感動して他の室内や別棟で陳列してある民芸品などが霞んでしまうという可哀想な効果も生んでいますが、11代目当主が、柳宗悦の提唱する『民藝運動』に共感し、自邸を一部改装して『民藝館』として昭和41年に開館し河井寛次郎や濱田庄司などの作品や様々な民芸品を含め、日下部家が代々使っていた様々な生活用具(民芸品)も陳列されています。

 















































 土蔵以外にも館内の各所で日下部家が使っていた様々な生活用具が展示されています。それぞれが良いデザインのものばかり、代々がセンスの良い方だったのでしょうね。

 全国に重要文化財の古民家は沢山あり、古さや作品をただ雑然と見せているだけという感じのところも多いのですが、ここは展示品と建物の見やすさは抜群です。清掃も行き届いていて、オーナーがとても大切にされていることが伝わり気持ちの良い所です。

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岐阜県高山市大新町1-52

0577-32-0072

高山駅[東口]から徒歩約16分営業時間:

3月~11月 8:30~17:00

12月~2月 8:30~16:30

定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)

18歳の時、

ブルーノ・タウトが「日本美の再発見」で飛騨から裏日本へ歩いたコースをたどる旅の続きです。

(私は逆回りでしたが)

 

 1969年4月7日朝 キスリング(登山用の大きなリュック)に全ての荷物を入れ、朝9時10分発の急行白兎号で京都まで行き、京都発14時26分発のゆのくに号で金沢着17時45分。

金沢駅から寺町3丁目までバスに乗り高岸寺へ。高岸寺は古刹だが宿坊があり1泊2食付1500円だった。今から見るとすごく安いですが、バイト代時給150円の約10倍。今バイト代は900円くらいですから9000円相当になりますが、当時こんな安い宿はあまりありませんでした。

 

 翌日6時に起きて8時に兼六園、

 金沢城。尾山神社をみて、朝9時36分発の快速で石動へ行き、そこから白川郷へは、旅費を浮かすために途中はヒッチハイクで歩き始めました。

道路に立って通りがかった車を止め、「白川郷へ行きたいのですが、近くまで乗せていただけませんか」何台かたずねる。

乗用車はあまり停まらない。 商用車やトラックが確率が高い。

うまく酒屋の車に乗せてもらい、20km先の荘川峡の小牧へ。

 春とは言え、ここら辺はまだ冬。雪も残っている。

ところが、小牧から南は道路工事で行かれるかどうかわからないらしい。

仕方ないから西に迂回して城端からいこうと思い、また道路に立って何台かの車に城端へ行きませんかっと尋ね、牛乳配達の車で10km先の城端へ。

城端から徒歩で1kmほど歩いたら、

ショック。

 

雪崩で通行禁止だった。

 

 ルートは2つしかないから、先程の荘川峡の小牧の道路工事は通れるかもしれないと思い、小牧へ逆戻り。

小牧で荘川峡の上流へ行く船で行こうとして、運行時刻を見ると長い間待たねばならない。

待っていたら、午後2時、軽自動車の人が通れるかもしれないから行くというので、その軽に乗せてもらった。

荘川峡はダム湖で、広い川のような湖の横を道路が走っているが、道の横には雪が1~2m以上積もっている。

 

 雪が所々湖に流れ落ちた雪崩の跡や、雪崩の雪を切って通れるようになったところを通っていく とてもとてもガタガタのひどい道だ。

 途中、合掌造りの重要文化財、五箇山の村上家へ寄りとても素晴らしく大きな建物をただ一人拝見。

 

観光客も誰もいない五箇山を超え、ようやく県境。小牧から30km程、岐阜県に入り白川村の小白川。

ところまた 大変なアクシデント発生。

ここから先15km程は車は通行止め。

車は逆戻りだ。 仕方ない。ここで車を下ろしてもらったが午後5時10分。

歩き始めた。

歩いて夕方になる 寒くてあぶない頃、

ダム工事用のトラックが1台通りかかって、なんとか乗せてもらい、暗くなったので、その工事の飯場で泊めてもらった。

 

本来、計画では高山についているはずなのだが、どうしようもない。

飯場でもどんなところでも暖かいところはありがたい。

翌日、山道をひとり。歩き始めた。誰もいない車の通れない道沿いに雪の積もった物音ひとつしない白と緑の世界。

 

 きれいだ

大自然ひとりぼっち

静寂の中 自分の足音だけが続く

遭難と同じ感じ。

写真の右下白っぽいのは道の端に積もっている雪

 

荘川峡の山道をどれだけ歩いたかわからないが歩く。 

もう助けて欲しい

 

徒歩16km以上 白川郷荻町近くでなんとか車に乗せてもらい、やれやれ。

 

観光客のいないすばらしい荻町の合掌造りをみて、白川郷はまだ観光地と言えるようなところではなく、古い宿屋はありましたが、合掌造りの民家が宿屋を1軒始めたところでした。

その合掌造りの民宿は、泊まり客は僕ひとり。

 宿のご主人と奥様がわざわざ部屋に来られて、正座して三つ指を揃えて丁寧に挨拶をされました。

この18歳になったばかりの若造に勿体無いことです。

 初めての客商売 あまりにも気遣いされ、大きな合掌造りの大きな囲炉裏でご主人が私一人のために岩魚などを焼いてくださる。

江戸時代からそのまま眠っている様な部屋に絣の布団

まさに江戸時代にタイムスリップの様だ。

宿賃は安いし、若造だし、申し訳ないようなとてもありがたい心で満たされました。

 

白川郷合掌造り集落を堪能したところで、またヒッチハイク

「高山へ行きたいのですが乗せてくださいと」様々な車に声をかけて行く。途中までは行くという車に乗せてもらいまた次の車を見つけてようやく飛騨高山へ。

飛騨高山で古い宿に泊まりたかったので、

江戸時代から続く商人宿、高山市上一之町の「冬頭屋」へ泊まりました。ここも古き良き時代感。

 冬頭屋は今も営業されていて、現代は旅館ではないですが、古い趣を残しながら日本料理店として営業されているようです。

 古い商人宿を楽しんだ翌日

早速高山観光。

 

 偶然、春の高山祭の直前だったので、各町々の道路で、祭り屋台の飾りたてをしていました。

観光客がいないところで素晴らしい高山祭の屋台をすぐ目の前で一人で独り占めで見ることができました。

 あの厳しく寒い山歩きがこの喜びを用意してくれていたのです。

その後で、ようやく日下部民芸館へ。

ここは素晴らしい建築美です。梁の美と民藝品。しっかり楽しみ、や陣屋などを見て周り、南へ下り、下呂へ。下呂はブルーノタウトの言う通りだろうと思いながらも一応確認で散策。

 やはりつまらなかった。

更に南下して、日本ライン下りから夕刻 豊田市の叔父の家に泊まり、明治村、田縣神社へ行き名古屋駅から東京へ。翌日、大学の入学式でした。

5泊6日の旅は倉吉から名古屋まで650km  ヒッチハイクが231km。

アクシデントと

静寂と研ぎ澄まされたような美しい大自然、人の成せる美を十分に感じ

磨きたいと思った18歳の旅でした。

 2022年12月に民藝の勉強で大阪・京都と回りましたが、その一環で、飛騨高山の日下部民芸館へも行きました。

日下部民芸館は民芸館というより、梁や建物が素晴らしい所で、今までに五度ほど訪問していますが、ここへ伺う度に遠い思い出が甦ります。

私が初めて訪れたのは、高校卒業の年。

鳥取県倉吉市の実家から530km

静寂と寒さとアクシデント 遭難しそうだった長い旅。

とても遠い昔  18歳の一人旅。

 古い写真を取り出してみました。

当時のメモも一緒に貼って残しています。他の事ではメモなど残していませんから、とても大きな冒険 多くの想いがあり、残したかったのでしょう。

 きっかけは、まだ私が中学生の頃。

図鑑などで日光東照宮を見たとき、

日本の建物で、国宝でもあり、他に比較するものが無いほどの絢爛豪華な世界的な建物だが、何か違和感がありました。

金はかけてあるが安っぽく感じなんか嫌で、日本っぽくない、日本の心がない。

 日本の建築は 侘びとか寂とかいう以前のもっと 自然 風 空気を感じさせるものじゃないかなっと モヤモヤしていました。(当時はまだ侘びとか寂についてはそれほど知識も持っていませんでしたが)

 そのモヤモヤとした疑問を持ち続けていたその頃に出会ったのが、ブルーノ・タウト著「日本美の再発見」でした。

 その本はドイツの建築家、ブルーノ・タウトの目に映った日本の建築を、感じるままにまとめた評論で戦前の1939年(昭和14年)に発刊されました。

 その確固たる価値観に裏付けられた賛否の言葉は痛快でもあり時に滑稽でもあり素晴らしい内容でした。

桂離宮や白川郷を世界に紹介したとして特に有名になった本です。

 桂離宮と日光東照宮という同時期に作られていながら全く異なる評価があまりに有名であるため、日本建築に対する評論のように感じられる方が多いでしょうが、実際は日本各地をまわり、歯に衣着せぬ書き方で日本美を表している旅行記でもあります。

 とても感銘を受け、この本の中の『飛騨から裏日本へ』という項目のブルーノ・タウトが歩いた岐阜から日本ラインに乗船⇨下呂⇨高山⇨白川郷⇨北陸という道を自分も歩いてみようと思い立ちました。

家は裕福ではなかったので、まず旅費を貯めねばなりません。そこで、高校卒業し大学に行くまでの長い春休みを利用してお金を貯めてから見て回ることにしました。

 
鳥取県倉吉市 山陰の小さな街はあまりアルバイト先はありませんでしたが、時給150円位のところを見つけ、約一ヶ月働き、旅費は少し足りませんでしたが親には負担は掛けられないので内緒。

足りない部分はヒッチハイクでと思い旅行へ。

ですから、宿も一番安い所を探して泊まります。

 春休みの終盤、私は東京へ行かねばならないので、タウトとは逆ルートで金沢⇨石動⇨荘川⇨白川郷⇨高山⇨下呂⇨日本ライン⇨名古屋のコースで南下することにしました。

 まだディスカバージャパンなどの日本の観光ブームになる前で、わかりやすい旅行雑誌など無い時代なので、県や市の観光課へ電話したりして結構大変。 

 泊まるのはそこで一番安そうな宿を探し、一番安く行ける方法を模索して事前にスケジュール作成。

 まだ春とはいえ、富山から岐阜山間部は雪の心配もありましたが、行けばまあなんとかなるだろうと実行しました。

ブルーノ・タウト著「日本美の再発見」は、もう一度日本文化を考えるのにとても良い本です。皆様も一度読んでみてくださいね。

次回は様々なアクシデントのあった大変な旅行記を載せますね。

最高の蕎麦を求めて蕎麦行脚

恵那から170km 車で2時間強

「ざる蕎麦・せと」は、国道41号線に面した大きな店だった。

駐車場も広く、国道沿いの大衆蕎麦屋という感じだが、味は大丈夫だろうか?ちょっと不安。

お品書きを拝見

すごいこだわりのそば屋だった。

ビックリと同時に半信半疑 こんな大衆蕎麦屋なのに居抜きで始めた感じだ。

 

『「ソバの品種を食べ比べる」

   これが私の主張であります。

 米に、コシヒカリやひとめぼれがあるように、ソバにも300種類以上の品種があるという。

米に、魚沼産コシヒカリや飛騨コシヒカリといった地域自慢があるように、同じ品種であっても、産地と生産者が異なれば、ソバの風味は異なるという。

ソバに品種や気候による味の違いがあるのならそれを確認してみようではありませんか!

年間約十品種 その中から毎日四種を用意どれもがお勧めの品種で、飛騨各地でソバの栽培に努力をされている農家さんたちにお願いをして、 少量ずつですが大切なそばを分けていただいております。また、全国の産地からは飛騨のソバとは特徴の違うソバを仕入れるときもあります。

それぞれ、製粉方法と製麺方法を変えて品種の特徴を最大限に表現できるよう努めています

いろいろな品種を味わっていただきたいという趣旨から、注文は半量サイズで承っております。

2品種のそばを選んでご注文下さい。

そばの持ち味、生産者の思いをいろいろ試していただきたいのです。

お互いに、そばを楽しもうではありませんか。。』

こう書いてある。

 

ここまで書くということは、よほど自信があるということだが。

「そば品種を変えながら製粉方法と製麺方法を変えて品種の特徴を最大限に表現」

食べ比べができるとは、素晴らしい。

そこで二人で四種をシェア1980円というのを注文して食べ比べをすることにした。

別に

大根おろし

天ぷら盛り合わせ

蕎麦がき

酒 蓬莱 熱かん

を注文した。

 

蕎麦もそうだが、蕎麦がきを食べるとその店のレベルがわかる。

 

蕎麦がき

2、3mmのとても大粒の粒子のものが入っている大プリプリ蕎麦がきだ。

まるで私がいつも打つ篩(ふるい)を使わない手挽き超々粗挽きの粒子とそっくりの大粒だった。

甘くねっとりとした旨味のそばがき。

これは良い、ここまで大粒にしていると とてもうまい。

 そして、私がたまに作る超々粗挽き蕎麦掻きに味も似ている。

 

大根おろしは

鬼おろしの辛味大根だった。

大根の汁付き

 これがいいね

普通の大根はおろした後汁がたくさん出るが、辛味大根は水分が少ないので、汁だけを集めるのは結構面倒

だけどこの汁を蕎麦つゆに入れて蕎麦を食べるとピリッとした辛味と大根の甘みが蕎麦を数倍おいしくするのだ。

 

 

四種の蕎麦をシェアの内容。蕎麦にはシールがついてくる。

●青色のシール

「万波(まんなみ) そば

栽培地・飛騨市宮川町 品種・万波在来

一件の家が代々伝えた幻のソバ

【九割 製粉粒度(無篩い)】

「ざる蕎麦せと」の製麺技法のひとつである「ソバをコナにしないで打つ」製麺です。

今回は風味で好評の万波ソバを使用しました。

ソバ粒(つぶ)より麺を細くできないので、ほかよりすこし太麺です。その位の粗挽きです。」と書かれている。

 来たものは先ほどの蕎麦掻きと同じ感じの超々粗挽きだが、(無篩い)とあるように私の作りと同じように篩を使っていない。

これだけでも驚き。私が打つ日本一の超々粗挽きにそっくりなのだ。

私のは何も加えないそのままの超々粗挽き十割蕎麦だが、いくらなんでも私と同じやり方ではつながらないので、九割蕎麦として、 1割の小麦粉を繋ぎにされているのだが、

1割のつなぎだけでは、この粗さでは難しいはずだが、どうやって打っているのだろう?

蕎麦の太さは3mm弱、私が打つものと同じくらい太い。そうしないと大粒の粒子のところで切れてしまうからだ。ただ、3mm位の蕎麦粉がくるとそれでも切れてしまうが。

 その味は、私の超々粗挽き十割蕎麦より少し薄味だが蕎麦の味がしっかり出ていて、濃厚な味で甘く旨く素晴らしいそばだ。これは旨い。何年ぶりぐらいに濃すぎる蕎麦だ。

蕎麦屋でここまで超々粗挽きで濃厚な蕎麦は他にはなく、特別の美味しさ。

 かつて、京都伏見区にあった「蕎麦工房 「膳」のように素晴らしい味だ。

(「膳」は金~日 11:30~15:00だけ営業する行列のでる蕎麦屋だった。私の打ち方にとてもよく似ていて、長時間そば談義をした店でしたが、2年前に閉店され、あれ以来ここまで濃い味の蕎麦屋には遭遇していませんでした。)

旨みだけで言えば中部圏の蕎麦屋の中で1番のように思う。

帰りにご主人にお尋ねしたら、奥に入っていかれてボールに無篩いの粉を持ってこられた。

石臼の目もほぼ私のものと同じような感じの3mm位の大粒の入ったひきぐるみだった。

「ソバをコナにしないで打つ」製麺と書かれていたが、そこでやり方を聞いたら、私の十割蕎麦と同じ無篩いの石臼一度挽きだった。

ただ、これだけではつながらないので、丸抜きの40メッシュ(0.42mm)の蕎麦粉を三分の一加え、更につなぎの小麦粉を1割混ぜるとのことであった。

これで納得。

40メッシュは一般の手打ち蕎麦屋では粗挽き蕎麦で出すレベルの蕎麦粉であり、もっと小粒の50メッシュだと繋がりやすいのに、それを難しいという蕎麦屋もある中で、その粗挽き蕎麦粉を繋ぎに使うとはね。 驚いた。

100メッシュ(0.149mm)以下の微粉や200メッシュ(0.074mm)以下の超微粉を使えば繋がりやすいのに、それでは味が変わるので、同じ産地の40メッシュ(0.42mm)の蕎麦粉を繋ぎにするという発想がすごいね。

そして、これでもつながりにくいので1割の小麦粉をさらに加えるとは。

ここまで来るのに長い間研究をされたのだろう。

これなら、腕の良い蕎麦屋さんならきちんと繋がるし、旨みも他のものとは比べられないほど出て、他の蕎麦屋でもここまでの旨みを出すことはよほどのことがない限り不可能である。

これより美味しくしようとすれば、40メッシュを加えるのをやめて、1割のつなぎもやめ、私と同じように無震い超々粗挽き十割蕎麦にするしかないが、あまりにも技術と体力と時間がかかってしまい、もしも蕎麦が繋がったとしても、頑張っても1日10人前が限度であり、大勢のお客様相手には不可能となるから、まあこれぐらいが限度でしょう。

 

●赤のシール

桃源(とうげん)そば

栽培地・高山市久々野町 品種・日和田在来

【外一割製粉粒度 (24mesh)】

そば好家達が極めた味わい

久々野町では蕎麦好きが集い、「日本一うまいそばを作ろう!」という目標を掲げ、 十年以上の

歳月をかけ、日夜涙ぐましい努力を重ね、丹精込めたソバを栽培しています。

手刈り・天日干しの手間の掛かったソバです。と書かれている。

蕎麦粉10に小麦粉1の割合 超粗挽きの24メッシュ 太さは約2mm 甘味旨味あり 美味しい 中々出来の良い蕎麦

 

●黄色のシール飛騨(ひだぶれんど)

品種 国府 清見 大野在来 など

【二八 製粉粒度 (40mesh)】

良いとこ取りのオリジナルブレンド

飛弾で栽培されているソバから「香りの良いソバ」と「味の濃いソバ」をブレンドしています。品種は季節により変更しますが、季節々々によって微妙に変化する味覚に連動し、一年中おいしく味わってもらえるよう工夫しています。と書かれている。

 

喉越しと旨みの両方を求めた蕎麦だが、二八蕎麦なので、どうしても味は上記の2つに負けてしまう。

 

●緑のシール

焙煎(ばいせん) そば 栽培地・神岡町流葉

品種・切雲ソバ

昼夜の寒暖の差が育てた完極のソバ

【九割 製粉粒度 (40mesh)】

切雲ソバを焙烙で焙煎してから製粉しました。

二八そばや十割ソバとは全く違う味。

「ソバなのに今まで知らなかったソバの風味!」を体験して下さい。と書かれている。

少しほうじ茶のような感じの変わった蕎麦だった。

蕎麦の味というよりほうじ茶を思わせる味でした。

 日本中の蕎麦屋を400店舗ほどまわっていますが、今回ほど驚いたことはありません。

私が日本一の超々粗挽きだとして作っている十割蕎麦とよく似た超々粗挽きが出てきたのですから。

 内容を聞くと、40メッシュを加えた九一蕎麦で、十割ではなかったのでしたが。びっくりしました。

素晴らしい研究と美味しい経験をさせていただきました。

また 桜が咲く頃食べに行きたいと思います。

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ざる蕎麦・せと

岐阜県 高山市下岡本町1660-1 ざる蕎麦せと

0577-35-5756