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foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

中津川駅から徒歩2分という好立地で、明るくカウンターでいただくお店

  年に8回位はお邪魔しているお気に入りの店です。

 

今回も注文は 蕎麦前三種と酒 蕎麦

 

●焼き海苔 600円

●味噌二点盛 300円

  帆立味噌

  蕎麦味噌

●蕎麦がき 1500円

粗挽きと細かいもの二種がありそば粉は同じ産地 北海道と言われたので、粗挽きを注文

ここは日本酒の種類は少なめだが、美味い酒を揃えているので、今回は銘柄は言わないでわくりくんに一任。

酒は

天領盃しぼりたて生原酒でした。

やや濃厚な甘旨味で酸味も効き中々いい酒だ 今風の濃い酒

新潟と言われたが、

味は新潟っぽくないのでラベルを見たら佐渡だった。

 

蕎麦前

味噌二種

 帆立味噌

白味噌と帆立がいい感じ一味が効いているが、

ちょっと効きすぎだが旨い

 蕎麦味噌

やや八丁味噌風甘味味噌

 

焼き海苔

蕎麦屋でこれを出すのはよっぽどのところ。

 

 

箱の中の下の石で温めてある

この箱が江戸の風情

東京以外では中々これが食べられないんだな。

世界でも海藻を食べる国は主に日本で韓国の一部位で、日本の専用とも言える海苔を焼きながら食べる贅沢さ。

日本人があまり食べなくなって久しい。

そのまま パリパリっと口へ

香りと味が一気に広がる

香り良し 味よし

山葵を挟んで生醤油を付け

いい海苔だ

酒が美味い

 

次は帆立味噌を乗せて 巻いて

これも美味い

一味の辛さもちょうど良い

酒が美味い

これが蕎麦前の楽しみだね

 

蕎麦がき

丸抜きの白い蕎麦がき

甘い

何もつけず 次は塩で 次はタレで 

これの繰り返し 美味しいね

 

●蕎麦

今日は

粗挽きせいろ 中津川市阿木産 1300円と

せいろ 北海道産 1100円の二種類あるとのことで、

出来を聞いてせいろに。

 

せいろ

北海道 二八

20本打ちぐらいの太さ

丸抜きの綺麗な蕎麦


(北海道産のそばは昔は広大な大地と同じで大味だったが、最近はぐんぐんと美味しいものが出てきて、中には驚くほどの味のものもある。だが、まだ全体的には北海道と聞くと大味のものが多い)

きれいな蕎麦だが

先回わくりで食べた北海道産の蕎麦はとても美味しかった。今回もいいのだが、先回程ではない。いつものわくりより少し味が薄い。今回は少し北海道っぽい。

 蕎麦は生き物毎回味が変わる。次回はどんな味だろう。

蕎麦つゆ

いい味だが後ですこし違う感じ

いつもよりカツオの角が少し立っている

できたばかりでまだ若いのだろう。

いつ行っても安心して蕎麦前と旨い蕎麦掻き、酒 美味しい蕎麦を楽しめ

明るい店内で女性が一人でお昼に蕎麦前でお酒を飲める店

…………………………………………

手打蕎麦 わくり

0573-65-0876

岐阜県中津川市太田町2丁目2-35

中津川駅から徒歩2分

火曜定休
11:30~16:00(L.O.15:30)
[土•日•祝]
11:30~19:30(L.O.19:00)

夜は完全予約制

余談ですが、ミシュランプレートにも掲載されています

東美濃(多治見市土岐市、瑞浪市、恵那市、中津川市、)にある蕎麦屋の中で、中津川市のわくりと多治見市のみず乃が安定して良い蕎麦が食べられる私の一押しの店。
両方とも蕎麦掻きがあり両方とも旨い。

 わくりは女性一人の蕎麦屋酒にも向いているが、みず乃は、郊外の住宅街にあり車でしか行けないので、蕎麦前がちょっと、というより蕎麦主体。

蕎麦は生き物。毎回味は変化する。

さて、今回はどうだろう。

 

 

注文は

●玄挽き蕎麦 十枚限定1050円

●そばがき850円

●辛味大根200円

 

そばがき

超粗挽き 美味しい

 

 美味しいが

ツブツブは大きさを感じながら溶けるのだが、今日はツブツブがやや固い こねる時間が少し短かかったか水が少し足りなかった様ですね。

 

玄挽き蕎麦

 福井県産の十割蕎麦

粒子は30メッシュ位で

太さは20本打ちの1.5mm位

麺線のエッジも立って美しい

 

甘味はそれほどでもないが美味しい蕎麦

十割で喉越しも楽しもうとするとこれくらいの細さがある方が良いが、旨みを求めれば太い方が好きだ。

 私だと 喉越しなら二八の細挽きにして、ツルツルッと いくようにして、十割蕎麦は旨み追求で太打ちにするが、これもその店のセオリーがあり、それがまたおもしろい。

 今日の蕎麦も塩が合う。

辛味大根はしっかりと辛味が効いたきちんとした辛味大根の味わい。

 

(一言で辛味大根と言っても、普通の大根の辛いものではありません。

普通の大根よりずいぶん小ぶりで、親田辛味大根やねずみ大根など古くから栽培されてきたものや赤いもの、緑色のものなど様々あり、辛味が強く、水分が少ない大根です。

 蕎麦にわさびを合わせますが、本来はわさびではなく、辛味大根が本筋です。

   辛味大根と山葵の両方で蕎麦を食べてみてください、すぐにわかります。)

 

今日もご馳走様

 …………………………

蕎麦 みづ乃

岐阜県多治見市希望ヶ丘3-12

0572-56-6000


営業時間:11:30~14:30 月曜定休(祝日営業)翌日休業
【駐車場】店舗前3台、第2駐車場3台の合計6台

朝 窓を開けると
 雲ひとつない青空

ああ 今日はカバノに行って
早春の陽だまりでランチをしようと思い立った。

晴れた日のランチに時々来ている。

今日も
 風のない
 ゆるやかな陽ざしの中を車で10分 恵那峡へ



暖かい陽光に
まだ冬枯れの木々



 すっきりとしたカジュアルな店内に



 雑然と 一つづつがバラバラの椅子やテーブルの様だが、50年代の家具にまとめられたこだわりがある。

アペリティフは
 フランスの赤



食べながら
 のんびりとiPadで雑文データチェックしつつ いただく。





カバノの野菜は地元農家産のもの。
 この地元の範疇は、私の行なっている美食の会で行くお店の範疇
(平安時代、美濃国の最大面積であった恵那郡(恵那山を中心とした、恵那市中津川市、瑞浪市の一部、木曽全域 飯田市の西側)) によく似ている。


 パスタのソースが美味しくて、普段はパンなど追加したことないのに、お変わりで一切れお願いしてしまった。

メインの
ボーノポークの包み焼きの上に乗っている季節のモーリユ茸(編笠茸)がおいしかった。



 日本ではキノコは秋の味覚ですが、フランスでは1年を通して季節のキノコを楽しめます。 3月になるとモーリユ茸(アミガサダケ)を楽しみますが、丁度今ですね。



  春の装い
早春の野の感じのデセール



ふと子供の頃聞いた唱歌を思い出しました。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

「早春賦(そうしゅんふ)」ですね。

美味しいデセール

最後に いつもの様に
エスプレッソをWで。



ごちそうさま。
 …………………………

 フランス料理はソースが命というが、カバノはソースが上手 近くでは一番 田舎の恵那市でこのランクの料理が食べられるのは嬉しいです。
ランチも美味しいが、フレンチの美味しさはディナーでこそ。
 ディナーとは訳すと正餐(せいさん)のこと。1日の食事のうち内容のもっとも豊かなものをさしていて、それが転じて現在は夕食を指す言葉ともなったもの。

そのお店の味を本当に知りたければディナーをどうぞ。

 ランチではカバノですが、ディナーは、店名もディグと変え2階に場所を変えていただきます。
 正餐を大切にされるお店ということ。
こういう考えってすごく大事ですね。

「早春賦(そうしゅんふ)」は、吉丸一昌(よしまる かずまさ)作詞、中田章(なかた あきら)作曲による日本の歌曲。

 …………………………

カフェ・ギャラリー・カバノ
  レストラン・ディグ
恵那市大井町2709-521
0573 22 9912

恵那峡

染めと織の万葉慕情49

  麗しき姿 (1)

   1983/03/18 吉田たすく

庭のサンシュの黄色な花も満開になり、桜前線も南から近づきます。 時おり雪がちらつきますが、もう春です。

 竹取の翁の話の続きですがも春、青春のころの衣服やスタイルが詠われています。

水標(みはなだ)の 絹の帯を 引き帯なす 錦帯に取らせ 海神(わだつみ)の殿の甍(いらか)に 飛びかける すがるのごとき 腰細に 取り飾らひ まそ鏡 取並(な)め掛けて 己(おの)が顔 かへらひ見つつ 春さりて 野辺を巡(めぐ)れば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 来鳴き翔(かけ)らふ

 高貴な美男子の着こなしが、細かく描かれているのがおもしろいです。

 先週は二色綾織の靴下に、黒のうるしの革靴をはいて庭に立ったところでしたが、それを見ていた乙女が私にくれた帯です。水とはうすい藍色で、すでに藍染の布があったのです。その薄青色の絹の帯を引き帯みたいにして、朝鮮半島から来た舶来の帯にとり付けては、海の宮殿の屋根に「飛びかはす、すがるのごとき細腰につけて飾って」

 すがるとは、じが蜂の事で、蜂の腰は大変細いでしょ。

 そのように、ウエストを細くスタイルよく帯をきゅっとしめて取り飾るというのです。現代のスタイルは、ウエストを細くヒップの形よくはったのが喜ばれますが、万葉の当時の乙女の姿も同じ事を詠った歌があります。ところが翁は男です。

 当時のハンサムは、乙女と同じ細腰をよしとしたのでしょう。翁は自分の青年時代の姿をこのように表現しているのです。

 その麗しき姿を鏡で見るのです。「まそ鏡取り並め掛けて」というのですから、今でいう三面鏡のように前、左右も見られるように鏡を並べて、自分の顔をためつすがめつながめ見たのでしょう。春ともなって野辺をさまよえば、風流だ、粋だと私を思ってか、野のキジまでも来て鳴き、まわりを飛びかっています。

 そのようだから、乙女達はもちろんの事、私のまわりに寄り集まって来たというのです。なんとも、竹取の翁の若いころのベストドレッサーぷりがうかがわれて来ます。

                        (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food 風土」の中のテーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

https://ameblo.jp/foo-do/

 …………………………

吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市×#酒 #染織 #万葉集

染めと織の万葉慕情48

  春の歌(2)

   1983/03/11 吉田たすく

 

 この前の文に「庭のサンシュの木の枝に黄色なつぼみがふくらみ」と書いたつもりのサンシュが、ミスプリントでユの字に一本加わってサンショになってしまって、サンショにどうして黄色いつぼみがつくんだ、という指摘をうけて大わらいしましたが、あれはサンシュのつぼみの事でした。そのサンシュのつぼみも、この一週間の春雪に降られる寒さにもかかわらず、五分咲に明るく開きかけて来ました。 この花が満開に近くなると、今度はレンギョウの黄色い花がじゅずつなぎに開き、一日一日と春色を濃くして行きます。

 さて、竹取の翁の歌のつづきですが、このたびは翁の華やかな少年時代に、こんなにあでやかで華麗な衣服を着た事をならべつくして女の子に大変もてた事を詠うのです。

 さ丹(に)つかふ 色なつかしき紫の 大綾の衣 住吉の遠里小野のま榛もちにほしし衣に 高麗錦 紐に縫ひ付け 刺部重部 なみ重ね着て打麻やし麻績の子ら あり衣の宝の子らが うったへは緑(へ)て織る布 日ざらしの 麻手(あさて)作りを 信巾裳(ひらみ)なす 脛裳(はばき)に取らし 若やぶる 稲置娘子(いなきをとめ)が 妻(つま)どふと 我(わ)れにおこせし

 赤みがかったいきな色合の紫の派手な模様で、住吉の遠野小野というところの榛(はん) の木で染め上げた衣に 高麗錦(舶来の上等なにしき)の紐を縫いつけて重ね着をし、なおその上に麻績ぎの子や財部の子らが、打って作った糸を機にしかけて織った布を水につけ、日によくほして仕上げた。麻の手織の布をス・トールにかけたり、また・スカートにはいたように可愛らしく着こなしたものだ。 またいつも御殿で生活している稲ぎ乙女が、私に求婚のために送ってくれた。

 靴の話も出て来ます。

 おちかたの二綾下沓(したくつ) 飛ぶ鳥の飛鳥壮士(あすかおとこ)が長雨いみ縫ひし黒沓(くろくつ)さしはきて庭にたたずめ退(まか)な立ちと障(さ) ふる乙女がほの聞きて

 舶来の二色の綾織の靴下をはき、飛ぶ鳥のアスカの村の靴作りの名人が長雨の日をよけて縫い、黒漆をぬって作った革靴をはいて庭にさまよっていると、「庭に立ってないで帰りなさい」と母に邪魔にされた女の子がほのかに耳にして…..

 革靴をはいた美少年の姿がうかがわれておもしろいものです。当時の服装は、ちょうど現代の形によく似ています。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food 風土」の中のテーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

 

 

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市×#酒 #染織 #万葉集

染めと織の万葉慕情47

  春の歌(1)

   1983/03/4 吉田たすく

 

 先週、先々週の歌は、伯耆の国府(倉吉)で憶良が作ったではなかろうか、と私が思った貧窮問答歌でした。ちょうどこの二週間は、東京での「たすく手織展」のため東京へ行き、この間東京にも雪が降ったりして寒い日が続きました。昨日、倉吉に帰ってみますと、行く前は細い小枝に小さな黒い粒が点々とあった庭のサンショの木の枝には、明るい黄色なつぼみがふくらみ、もう春なんだよと言ってるようです。

 寒く貧しい生活の表現の媒体に染織品のぼろを使って作った憶良の歌とは対照的に、春のように華麗ではなやかな染織品をならべて高貴優雅な生活を詠った歌があります。 春らしくこの歌を送ります。大変に長い長歌ですが、その前にこの歌を作った解説がのっているのでその前文を(小学館の古典文学全集により) のせてみます。

 昔、竹取の翁(平安時代の竹取物語とは違います)が春の丘に登り見晴らすと、にぎやかにご馳走を煮ている九人の花のようにうるわしい美女に出会います。 美女たちはからかい気分で言うには「ここに来て火を吹いておこして下さいな」。ニコニコつつき合いながら言うには「誰なのよ、このおじんを呼んだのは」と馬鹿にします。答えて言うには 「思いもかけず美しい仙女さまにお目にかかり、とまどっている心をどうすることもできません。なれなれしく近づいた罪は、できれば歌で償わせていただきます」と前おきして、歌を詠うのです。 からかわれたしかえしなのでしょう。 年とって今は醜い自分ではあるが、若いころにはこんなにぜいたくで豪華な生活してたんだ、と言う事を身につける衣料衣服で詠いあげるところが見どころです。

「みどり子の 若子髪には たらちし 母に懐(いだ)かえ 紐繦(ひむつき)の 平生(はふこ)が身には 木綿肩衣(ゆふかたぎぬ) 純裏(ひつら)に縫(ぬ)ひ着(き) 頸着(うなつき)の 童子(わらは)が身には 夾纈(ゆひはた)の 袖着衣(そでつけごろも) 着しわれを にほひ寄る 児らが同年輩(よち)には蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛もち ここにかき垂(た)れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童(わらわ)になしみ」…..

「赤ん坊の赤子頭のころは(たらちし) 母にい抱かれ紐付の衣をまとい、幼児髪のころは絹綿のちゃんちゃんこを一つ裏に縫って着、丸襟の少年髪のころは、しぼり染の袖付け衣を着ていた私が、輝くばかりの、皆さまがたと同じ年ごろには、真黒な髪をで解いてここらまで垂らし、取り束ね上げてまげを結ってみたり、解き乱して少年姿にしてみたりして」とつづきます。これから青年の派手な衣服が詠われて来るのですが、 クライマックスは来週にまわします。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情46

  憶良の貧窮問答歌(2)

   1983/02/25 吉田たすく

 先週に続いて、伯耆の国庁に来ていた山上憶良の貧窮問答歌を取り上げてみます。 万葉当時の貧者の生活が、写生風に詠まれているので興味深いものです。この歌は貧者と窮者の問答で、かなり長い長歌です。本文と訳文をならべると紙面が足りませんので、岩波の文学大系の訳文をのせてみます。

 貧者が問います。風に雨や雪をまじえて降る夜、寒くて固い塩を取っては糟湯(かすゆ)をすすり、咳をしては鼻をぐすぐすさせ、少しばかりの髯を撫でては、自分を置いて能ある人間はあるまい、と大いにうぬぼれてはいるのだが、寒さは身にこたえるので麻の夜具をひっかぶり、布肩衣(麻の粗末な袖なし)をありったけ着てもまだまだ寒い夜なのに、自分よりも貧しい人の父母はおなかがすいて、こごえて、妻や子は力なく声を立てて泣いている。こんなとき、お前はどんな暮しをしているのだね。

 窮者は答えて。 天地は広いが、自分のためには狭く身のおきどころがなく、太陽や月は照れども自分のためには照って下さらない。この世は闇だ、だれもがこんなのか、自分だけなのか。

 人間に生まれ耕作をしているけれど、綿もない袖無も海草のみるのようばらばらにやぶれてぶら下がったボロはかり肩に打ちかけて。

 つぶれた、傾いた家の中に、土にじかにわらをばらまき敷いて父母は上座の方に、妻子たちは足の方にすわっては嘆き悲しみ、かまどには湯気も立てず、米を蒸す器にはくもが巣作って飯をたく事も忘れ、ほそぼそ小鳥のように嘆いている時、短い物を切り縮めるようにむちを持った村長めが、寝床まで来て年貢を出せとわめきちらす。 こんなにもつらいものか、世の中に生きる道とは。

 染織品のぼろの言葉で、貧者の生活を表現しています。 伯耆でこの歌を作ったとは書かれていませんが、国庁跡のあたりを歩いていると、この地で作った歌のように思われるのです。

 山上憶良は、このような歌のほか、子を思う歌

 瓜食めば

  子供思ほゆ

    栗食めば

  ましてしぬばゆ

  いずくより

来たりしものそ

眼交(まながい) に

もとなかかりて

   安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も

 何せむに

  勝れる宝

   子にしかめやも

 などの歌があります。

 これらを見ますに、身近な人たちへの思いやりの深い人であったとうかがえます。

                 (新匠工芸会会員 織物作家)

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food  風土」の中のテーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていますので、そちらをご覧ください。

 

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #伯耆国分寺跡 #打吹山 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情45

  憶良の貧窮問答歌(1)

   1983/02/18 吉田たすく

 朝の散歩は歩かないで、自転車で行くことにしています。家から一時間で歩いて帰る半径にくらべて、自転車で走ればかな遠方まで足をのばすことができるのです。いろいろと風景の違った所へ行ってこられるのが楽しみです。

この間の雪の次の日に、自転車で伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと)(注1)へ出かけました。日向の道は雪がとけ、日陰や林の中にはまだ雪の白さが目立っていました。鼻から出る息は白く見え、ハンドルをにぎる手先は、切れるように冷たい

朝でした。

 国分寺跡を通り、国庁跡(こくちょうあと)に来ました。雪をかむった農家の屋根、屋根の向こうに打吹山(うつぶきやま)(注2)が黒く見えていました。 この国庁で、かつて昔、山上憶良が伯耆の国政をとっていたことが思われて来たのです。 憶良のような国造(くにのみやっこ、こくぞう)は、このあたりのどんな館に住んでいたのでしょうか。また、そのころの庶民はどんな家に住んで

いたのでしょう。竪穴の住居か、ほっ立柱の草屋根だったのだろうか。 床があっただろうか、 土間の上にごろ寝だったのだろうか、などと考えているうち、憶良の貧窮問答歌が頭にうかんで来たのです。

 この歌は貧者窮者が問答の形で詠い、実に写実的な表現で当時の貧しい人の生活を書き残しています。伯耆の国で詠んだとは記されていませんが、この歌を読んでいると、ちょうど今立っているこの地、伯耆国庁のまわりの貧しい住居・生活そのものを詠んだもののように思われてならないのです。

 草屋根のすき間から大山(だいせん)おろしの雪まじりの風が住居内に音を立てて吹きすさぶ生活が見えるようです。

  万葉の染織に関係する歌はどの歌も恋歌や愛の歌につかわれていて、はなやかで、なまめかしい歌ですが、まったく正反対にこの憶良の歌は染織の言葉でいかに貧しいかを表現しているのです。

 

 「寒くしあれば 麻 (あさぶすま)引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと服襲(きそ)へども 寒き夜すらを」

と、おんぼろ生活の形容につかっています。

麻のドンゴロスのようなぼろの夜具を引きかぶって、袖なしの麻のチャンチャンコを有りったけ着こんでも、まだまだ寒くと詠うのです。

 今は新築の家の並ぶ道を自転車で走りながら、万葉のころの貧しい人たちの生活を思いうかべたことでした。

来週は山上憶良の貧窮問答歌の全文をお送りしましょう。

                 (新匠工芸会会員、織物作家)

…………………………………………

 (注1) 伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと) 鳥取県倉吉市国府、国分寺 天平13年(741年)聖武天皇の発願により全国の国ごとに造営された国立の寺院跡です。 国府川左岸の丘陵上に立地する奈良時代創建の伯耆国の国分僧寺跡。寺域は東西約182m、南北約160mで、溝と土塁(南側は溝と築地塀)で画される。南門、金堂、講堂の伽藍中軸線があり、塔は東南隅に位置する。

 天暦2年(948)焼失。出土遺物は、多量の瓦のほか、風鐸、杖頭などで、創建時の軒丸・軒平瓦は伯耆国分寺特有の文様をもつほか、塔跡付近出土の風鐸はほぼ完形の稀な例である。

 

 (注2) 打吹山(うつぶきやま)は、鳥取県倉吉市にある山で市を象徴する山、天女伝説のある山で、残された天女の子どもが、この山の頂で太鼓や笛を吹いて天に帰った母親を思い偲んだと伝えられている。この打吹山を中心に倉吉の街が開かれた。山頂には打吹城が戦国時代まであり、豊臣秀吉により滅ぼされた。標高204m。

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #伯耆国分寺跡 #打吹山 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情44

  酒の歌(3)

   1983/02/11 吉田たすく

 

  もう一度、大宰府で詠んだ大伴旅人の酒の歌をとりあげてみましょう。

旅人は大酒をのみ、歌を作り、歌い、騒いだ様子を表わした歌に「酔泣」(えいなき)という言葉で表現したようです。
その酔の歌が三首あります。

 

 賢(さか)しみと

  物いふよりは

   酒飲みて

酔泣(えいなき)する

  まさりたるらし

 

 黙(もだ)をりて

  賢(さか) しらするは

   酒飲みて

  酔泣するに

   なほしかずけり

 

 賢人ぶって物を言うよりは酒飲む方がとか、また黙って利口そうにふるまっているよりは飲んで酔泣きする方がよっぽどいいよ。

 狩猟、歌、舞、文筆などの遊びの道に心楽しまなくなれば、酒を飲んで酔泣きするのがよかろう、という歌も作っています。

 

 世の中の

  遊びの道に

   すずしくは

  酔泣するに

   あるべかるらし

 

 また玉よりも宝よりも、一杯(ひとつき)の濁り酒にまさるものなし、と詠っています。

 

 価無き

  宝といふとも

   一杯の

  濁れる酒に

   あにまさめやも

 

 夜光る

  玉といふとも

   酒飲みて

  情(こころ)をやるに

   あに若かめやも

 

 さらに詠います。 言う事もする事もないほど貫いものの極みは酒だよ、と。

 

 言はむすべ

  せむすべしらず

    極まりて

  貫きものは

   酒にしあるらし

 

 こんなにも、酒を駆歌(おうか)して詠いつくした旅人でありました。 これらの歌は、九州の大宰府の館で作られたものばかです。しかし、旅人の酒をほむる歌は、京をこうる寂しさを無理にカバーした歌であったのかも知れません。

 あの豪快な歌を作った同じ館で詠った歌に、こんなにも寂しい歌が残されているのです。

 

 わが盛り

   またをちめやも

   ほとほとに

  奈良の京(みやこ)を

    見ずかなりなむ

 

 私に若い盛んな時期が戻って来るであろうか。いや、戻って来ないであろう。 あのにぎやかな奈良の都を再び見ることは、おそらく出来ずに終わるであろう。

 

 わが命も

  常にあらぬか

   昔見し

  象(さき) の小河を

   行きて見むため

 

私の命は永久であってくれないか、昔見た吉野のさきの小川に再び行って見るために。 旅人の両面の現れた歌として、大変興味をもって読んだことでした。

 

                (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染めと織の万葉慕情43

  酒の歌(2)   1983/02/04 吉田たすく

 先週、大伴旅人の酒の歌を二首のせましたが、万葉巻三に酒をほむる歌が十三首ならんでいるうちの二首だったのです。

ほかにも、おもしろい歌があります。

 

昔、禁酒の法律を出した国がちょいちょいありました。 中国でも、魏の国の太祖が禁酒令を出した事があったそうです。酒好きの人たちは大変困った事でしょう。ところが、頭のいい人もいるもんで、酒という名前を変名して濁酒を賢人と呼び、黒酒を聖人といって酒をのんだ故事があるのです。 この故事をもとにして、旅人が詠んでいます。

 

 酒の名を

  聖と負(おほ)せし

   古(いにしえ)の

  大き聖(ひじり)の

     言のよろしさ

 

 酒の名を聖といって飲んだ、昔の大聖人の言葉の何とよいことよ、というのです。飲むなといってもだめだよ、なんとしてもごまかしても飲んじゃうから。

また、同じく中国の故事で、魏晋のころ七人の賢人が竹林に入って酒を飲み、琴を弾じ清談をした。 竹林の七賢といわれる故事にならって。

 

 古の

  七の賢(さか)しき

   人どもも

  欲(ほ)りせしものは

   酒にしあるら

 

 旅人は、ずい分の酒飲みだったのでしょう。 中国の賢人も酒ずきだよ、おれもそうだぞ、と歌っているようです。

もっときびしい歌があります。

 

 あな魏(みにく

  賢(さか)しらをすと

   酒飲まぬ

  人をよく見れば

    猿にかも似る

 

 ああ、みっともないやつ。偉そうにすまして酒を飲まない人をよく見ると、猿に似てるがな。 とうとう、飲まない人を猿にしてしまいました。

酒ってうまいです。 また、ほろ酔い気分のよい事ってありません。

 

 今(こ)の世にし

   楽しくあらば

    来む世には

   虫に鳥にも

    われはなりなむ

 

 今、飲んでいる。 こんなに楽しいんだもの。 来世は虫でも鳥でもなってもいい、もっと飲め飲め、俺はかまわん。調子よくなってまいりました。

 

 

 生者(いけるもの)

  ついにも死ぬる

   ものにあれば

  今(こ)の世なる間()

    楽しくをあらな

 

もう死んでもよい、酒を飲んで楽しければ・・・。

 

 大伴旅人はよほど酒が好きで、大変に酒のよさを謳歌したものです。 私のような酒好きは大賛成です。 旅人の気持ちがよくわかります。

 酒を飲みながら、こんな歌を読んでいるとやめられません。

      (新匠工芸会会員、織物作家)

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いかにも 酒を飲んで微笑みながら話している時の 親父らしい文でした。

 

 私が子供の頃、毎晩来られる様々な客人と台所で円形の卓袱台を皆で囲み、楽しく酒を酌み交わす父の情景が甦ります。いつもこんな楽しい話を交えながら遅くまで談笑し、時には下手なマンドリンを弾きながらお客様や皆でロシア民謡やシャンソン、童謡等を歌いました。

 ちょっと飲み過ぎた日はそこで寝てしまい、寝室まで運んで行った事も何度か。

   遠く温かい 思い出です。