染めと織の万葉慕情41
正月の歌
1983/01/21 吉田たすく
先週は、大伴家持が越中守の折、天平勝宝三年の正月に作った
新しき
年の初めは
弥年(いやとし)に
雪踏み平(なら)し
常かくにもが
という歌を詠みましたが、この歌を見ればどうしても次の歌を出さなくてはならなくなりました。
さきの歌を作った家持は、越中から転じて因幡の国ヘまわされます。八年後の正月、因幡の国庁の憂悶の正月に詠んだ歌、一首
新しき
年の始の
初春の
今日降る雪の
いや重け吉事
この歌は、越中守の勝宝三年正月の賀歌が頭に残っていて作ったものと思います。あの年は大雪の正月であったが、今年の因幡の正月も雪が降っている。この雪が降り積もるように、吉事(よごと)が積もってほしいものだ。
家持自身また大伴家にとって、その近年は凶事の方が多かったのです。
当時、歌というものは、呪力(じゅりょく)を持つものと信じていました。しかし、吉事にはなかなかなりません。宝字八年には薩摩の国まで左遷させられてしまいました。
まつこと久し、十年後の宝亀元年から吉事が現れて来だしたのです。そのまた十年後には、参議・右大弁といった高官に昇格したのです。
因幡の雪の正月に詠った「いや重け吉事」の歌が呪力を発揮したのです。家持は憂々として、因幡で詠んだ当時を思い起こしたに違いありません。
たくさん作った歌の中で、最高の歌であったとも思ったことでしょう。しかし、大伴家はその後長くは吉事が続かなかったのであります。
万葉集の編纂(ヘんさん)ははっきりしていませんが、市原王(いちはらのおおぎみ)や大伴家持などといわれていいます。万葉集四千数百首の最後の最後、巻末にこの因幡の正月を詠った「いや重け吉事」をのせて終わっているのてす。
藤原氏の盛力が伸びるにつれ、大伴家はだんだんと落ち目をみてまいります。大伴家持は、この歌の後に歌を詠んだかもしれませんが、万葉集にはこれが最後の歌なのです。悲運な家持は、この歌の呪力で大伴家のいやさかを懇願したのだと思います。
(新匠工芸会会員、織物作家
…………………………
因幡の国 (いなばのくに)は今の鳥取県の鳥取市を中心とした東部地域で、西部の伯耆国(ほうきのくに)との二つで今の鳥取県はできています。
新しき
年の始の
初春の
今日降る雪の
いや重け吉事
年の初めに雪が降るのは大変だと思われるでしょうが、平安時代 新年の雪はその年の豊年の吉兆として喜ばれていました。 この正月の雪とその年の豊作を祈念した歌として万葉集に収められている葛井連諸合(ふじのむらじもろあい)作の歌に 「新しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは」 という有名なうたもあります。
大伴家持は因幡で迎える最初の正月であり、「新」、「初」、「雪」、「吉」とめでたい言葉を重ねて世の平安と繁栄を願ったのですね。
ご存知のように、万葉集は、7世紀後半から8世紀後半に約130年間かけて編纂された、現存するわが国最古の歌集であり、作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及び、全20巻からなり、約4500首の歌が収められています。
4516首を締めくくるのが、759年(天平宝字三年)の巻二十の4516番で、この大伴家持の歌です。
万葉集は最後に良いうたをいれて終わっていますね。
ところが、
ここで謎があります。
万葉集で家持の歌は万葉集最多の473首の歌が収められていますし、
この歌は、万葉集の最期を飾る歌となっていますが、何故かこの歌を最後に、家持のうたがどこにも一切残っていないのです。
この歌を詠んだその後26年も生きているというのにのに、後半生の歌は残っていない。
何故でしょう。
何故歌を詠んでいないのでしょう。
何故残らなかったのでしょう
あれほどの歌人であり、様々な場所で歌を詠むことも官僚としての彼には仕事の一つであるから、詠まなかったのではなく、残らなかったと考える方が正しいでしょう。
突然の「沈黙」は、
誰かの陰謀でしょうか
最後の歌が「いや重け吉事」
最後に良いことが重なれと歌ったが・・・・・・・

