・・・・・・・っということで、日本は周囲を海に囲まれた島国です。
なのに外洋船を建造する技術が発展しなかったのは不思議ですね。
同じ島国のイギリスは、大航海時代に帆船で海外に進出して覇権を握ったのとは対照的です。
では日本が海外に興味がなかったかというと、そうではありません。
遣唐使です。
630年から894年に中止されるまで16回にわたって派遣されました。
最初は朝鮮半島経由で長安まで陸路が大部分の旅程でしたが、途中から朝鮮との関係悪化で東シナ海を海路で渡るコースに変わりました。
この航海は危険極まりないものでした。
4隻の船団を組んで半分が遭難してしまうという惨憺たる有様でした。
その原因は日本船(和船)の外航能力の欠如でした。
外航に適するよう改善が加えられましたが、前回書いたように船底が平坦なため「復元力」が著しく劣るのです。
ですから行きは和船でしたが、帰りは中国船(ジャンク)を貸与してもらう有様でした。
それでも中国人船員は日本周辺の厳しい海域に慣れておらず、目前で遭難してしまうことも多発しました。
そんな危険を冒しても遣唐使を継続したのは、得られる知識に価値があったからです。
しかし日本はもう学ぶものは少なく、独自の路線で行くべきだと判断しました。
上奏したのは菅原道真です。
そのうち唐自体が滅んでしまいました。
このように日本独自の文化が育まれるようになったのは、船の性能が大きく影響していたのです。
その後、倭寇(13世紀から16世紀)が海外で暴れ回ったではないかと指摘されるかもしれません。
しかし、前期倭寇は日本の近海周辺で、海外で暴れた後期倭寇の実態は外国人によるものでした。
江戸幕府は外航能力を持つ造船そのものを禁止しました。
日本が外洋に乗り出すには(海外の技術を取り込んで建造した)仙台藩のサン・ファン・バウティスタ号、明治に入っての咸臨丸まで待つ必要があったのです。
日本はよく島国根性とか、井の中の蛙、ガラパゴスなどと形容されますが、そういった日本人像の形成に大きな影響を与えたのが船だったのです。


















