ほたるいかの書きつけ -11ページ目

ベルリンの壁

 今日11月9日で、ベルリンの壁崩壊から20年がたつ。リアルタイムで見ていた私は、「歴史は動くのだなあ」と実感を持ったものだ。もちろん、自然現象のように勝手に歴史が動くわけではないし、外部から超越的な力で歴史を動かしたわけでもなく、ドイツ人民が、様々な条件と相俟って、自ら歴史を動かしたということは常に頭に置いておくべきことだろう。壁を越えようとして成功した/失敗した多くの人たち、政府の監視をかいくぐって組織を作っていた人たち、そういう多くの人たちの努力と、国際・国内情勢のもろもろとがかみ合って、壁の崩壊へとつながったのだと思う。
 主体的な努力や願望だけではどうにもならないことは世の中には数多くある。しかしそれなしには何も変わらない。それを踏まえて、世の中と向き合っていきたいと思う。

 さて、ベルリンの壁崩壊というと思い出すのが、このブログでは何度も取り上げているがTHE NEWSだ。いま見たら wikipedia に項目が立っているので、そちらにもリンクしておこう。彼女たちが初期から唄っている曲に「もっと自由に!」というのがある。歌詞はその時々の情勢に応じて変化していく。以前このブログで取り上げたのは、天安門事件についてのものだった。が、天安門事件の半年後に起きた、このベルリンの壁崩壊も、歌になっているのだ。
 どんな歌詞だったか、CDがいま手元にないので、記憶に頼って少し書き出してみる。
やっちゃえ! もっと自由に!
やっちゃえ! もっと自由に!
やっちゃえ! もっと自由に!
やっちゃえ! もっと自由にやっちゃえちゃえ!

11月9日の国境解放
28年間壊せるとは思ってなかったあの壁に
ハンマーを打ち降ろした

誰かが東の失敗を嗤う
でも 西側にあるのは 自由? それとも物質?
与えられた自由の中で
見えない壁に 気がつかないだけ

ポツダム広場から東を見る
そこに見えるのは 同じ空 同じ大地
国境線なんて どこにも見えない

記憶力の弱い私がここまでスラスラと思い出せるのに我ながらびっくりするのだが(もしかしたら間違ってるかも^^;;)、当時、それぐらい聴きこんでいたということですね。
 歴史は確かに動いた。しかし、翻っていまの我々を見るに、彼女たちが突き付けた問いは、未だに有効なのではないだろうか?

 もしやと思ってYouTubeを探したのだけれども、残念ながらこのバージョンはないようだ。代わりに、天安門事件バージョンのものを貼っておく(楽曲はほぼ同じです)。
 3人でなんでここまで骨太な音が出せるんだろうといつも思う。Motorheadかよ、と(注:全然違います^^)。

能見正比古もろもろ(3)(追記あり)

能見正比古『血液型人間学』に書いてあることの続き。3回目。今回がとりあえず最後(でも最初はこれを書くつもりだったんだよね。書きだしたらダラダラと長くなってしまったので前回、前々回に書いたという次第)。

 ここで取りあげるのは彼が血液型性格判断に興味を持った経緯である。能見の姉が古川の教え子であったという話は大村政男などがよく述べているし、wikipediaにもその旨記述がある のだが、こんなところに能見本人による記述があった。「研究ノートから-あとがきにかえて」の中(p.255)。
 私が一つ年長の亡姉幽香里から、血液型と気質の関係を聞かされたのは、中学に入って間もなくだったが、関心を強く持ち始めたのは大学以後である。私は四百人ほどの寮の委員長となり、寮内のよろずもめごとに立ち合って来た。戦時中のことで、寮生名簿には血液型が記入してある。それを見ながら寮生に接しているうちに、気質の違いが、ありありと浮び上がって来る。これはただごとでないと私は坐り直していた。最初にまず具体的な事実に直面したのが幸いしたと思う。
ちなみにこの段落の直前に、「いわば人間科学のフィールドワーク(野外研究)だ」発言がある。
 能見は1925年生まれ。中学入学のころというと、1932か33年1938年あたりだろうか。ちょうど、古川学説が絶頂期から衰退に向う時期と重なる。1933年の法医学会総会で事実上トドメを刺された格好なので、古川や能見の姉は複雑な思いをしていたころだろう。もっとも世間一般ではその後も血液型性格判断は隆盛を保っていたようではあるが。(追記:アホみたいな計算ミスで年代の推測を誤ってました。能見が「聞かされた」のは学術的には既に終わった後ですね。ただ、外務省嘱託医が「外交官にはO型を採用すべし」と言ったのが1937年なので、まだまだ古川説の残滓は世間に蔓延っていた時代だと思われます)。
 プロフィールによると、能見は東大工学部卒、法学部中退となっているので、東大の寮でのことなのだろう(学徒動員はぎりぎりで逃れたか)。

 一方、『現代のエスプリNo.324 血液型と性格』の冒頭の座談会で、大村政男は以下のように述べている。なおここでの登場人物は大村の他は詫摩武俊と溝口元。座談会自体は松井豊と佐藤達哉も出席しており、幅広いトピックについて討論している。
大村 能見正比古さんが学生寮に居たとき学生の世話をしていたんです。血液型と性格とは何か関係があるように思ったんだそうです。ところが詫摩先生は能見正比古さんに直接会われていますね。能見さんは大宅壮一さんの弟子ですね。大宅さんが血液型をやると儲かるぞと言われたので始めたというのですが、そのほうが真実だと思いますね。能見さんの「血液型人間学」はまったく古川さん(引用者注:古川竹二のこと)の受け売りで、そっくりそのまま持ってきて、国語辞典的におもしろおかしく表現しているだけのことなんです。私は「素朴な古川学説にピエロの衣装を着けた」と言っているのですが、それで能見さんは売り出した。能見さんが男女の相性というのを持ち込んだのは実にうまいと思いますね。結婚問題というものに集中させて受けに受けたんです。
詫摩 彼は確か工学部の出身で。
大村 そうです。東大の工学部です。
詫摩 どういう経歴を踏まれた方かよく知らないのですが、評論家の大宅壮一の門下になったのではないか。
大村 大宅壮一という作家は弟子にしてくれというとだれでも弟子にしてしまうから、大宅壮一の弟子はワンサといるそうですね。能見さんもその一人です。筆の運びもうまかったんでしょうか、大いに伸(の)したんです。マスメディアの発達した時代がつごうのいい受け皿になったんですね。
溝口 能見の本から行くと、姉さんから聞いたということになっているんです。姉さんは女高師の出身。恐らくは大宅壮一の線と姉の線の両方なんでしょうけれども、文献的に見て行った場合には、大宅壮一から聞いたというのは能見の本には出て来ない。
大村 私はある年の日大文理学部の公開講座の時に、「血液型性格学」のことを話したら、相当なお歳の女性が出席していて、古川さんが研究していたころのことをよく知っていると言われました。当時古川さんがそういうことをやっていたので、皆が古川さんがそういうならば、そういう結果を出さなければ悪いのではないか、ということになったのだそうです。例えば、ある教授がこう考えているなどというと、学生はみんなそれに同調してしまう、それと同じではないかと思うんです。黙従傾向といえますね。
本当のところがどうなのかは知る由もないが、溝口が言うとおり、能見としては公式には姉から話を聞いて着想を得たということなのだろう。学術的にはともかく、これだけ有名人について調べたり、アンケート調査をしたり、さらには息子に跡を継がせるなどということはそれなりの情熱がなければできないだろうし、それはまた能見本人が金のためではなく本気で信じていたということを伺わせる。大宅壮一が「儲かるぞ」と言ったぐらいでは、とてもここまではできないだろう。もちろん、能見が大宅に話したところ、大宅が「それは儲かるぞ」と励ました、ぐらいのことはあっても不思議ではないとは思うが。
 ちなみに同じ号には「能見説と古川説の比較とその問題点」という論文を大村政男が執筆しており、その中で能見と古川の関係についても述べられているが、ここには大宅壮一については触れられていない。

 今回紹介したのは「血液型と性格」にまつわるエピソードの一つであるわけだが、まあこんな感じで戦前の論争が戦後になって能見の手によって大衆的に復活した、ということである。「血液型と性格」について論じるのであれば、どこか頭の隅にでも置いておくと良いかもしれない。

←能見正比古もろもろ(2)

能見正比古もろもろ(2)

能見正比古『血液型人間学』に書いてあることの続き。お次は言語に関するトンデモ理論を。同じく第二章 p.115 から。
言語はだれが作ったか
人間の思考は言語によって支えられている。言語がどのようにして発生したかは大きな謎に秘められる。それが一カ所で発生し、次第に拡散して行ったと考えたいのだがもしそうなら言語系統は一通りでなければならぬ。実際は、全く言語系統が異なる言語が各地にある。なぜそれが、ほぼ同時代に発生したかは、全く不思議というほかない。
 私の推測は、言語はA型種族とB型種族の接触によって発達したのではないかということだ。言語といっても、感情の表現や、単なる指令伝達の信号なら、サルやイルカも持っている。人間の言語は、事物に対応した"概念"という独立性を、言語に付与したところに特徴があるのだ。これは相互に異なる見方を一致させるのに役立つ。思考方向の反対が多いA型とB型が最初に接触したとき、考えの喰い違いに難渋したことであろう。同じ花を論じても、A型の考える花とB型の見る花を一致させるためには、"花"という共通概念を持つ言葉の設定が必要になる。そしてA型民とB型民の接触が各地で別々にあったとすれば、言語が各地で多発した説明はつく。
 言語がA型B型の共同発明としても、その言葉の使用が、一番巧妙になったのはO型である。言語も生活のための有効な道具である。道具使いのうまいO型は、この方面でも存分に才能を発揮した。O型は言語も文章も明快であり、その論理の組み立ても一番たしかである。A型は言語の細かな部分にとらわれすぎるようだ。それに一語一語を、細かく、定義しようという傾向があり、かえってその論理を判りにくくさせる。B型は逆に一語に幅の広い意味を持たせたがる。そのため、その論理はやや不透明であいまいになりやすい。
 言語AB合作説に従うなら、AB型はその頭脳の中でAとBの対話を無限に繰返しているということになる。AB型が抽象的な思考に強かったり、分析的能力に長じたりするのも判るというものだ。一方、AB型は合理的なわりに、一つの理論を組み立てようとする人はすくないが、考えて見れば、無限の討論から、理論がまとまるわけがないのである。
…誰かなんか言ってやってください。
 この「理論」に従えば、他の血液型の集団と未接触の特定の血液型だけの集団は、言語を持たないことになる。少なくとも、「サルやイルカ」なみの言語であったということになる。しかし、サルにだって複数の血液型がある。さらに、一種類の血液型のみの集団では、概念定義がなくとも意思疎通に困難がない程度の文化しか発達し得なかった、ということにもなる。
 もちろん、時系列的に、血液型の分化と言語の発生のどちらが先なのかは私にはわからない(何をもって言語の発生とするのかもわからないけれども)。だから、血液型が分化した後に言語が発生した、ということは無論あり得るだろう。しかし、同じ血液型であっても随分と異なる性格の者がいることは能見も認めるところである(血液型が性格に及ぼす影響は限定的である旨述べている)。だとすると、ここでの言語発生理論は意味を成さなくなるのではないだろうか。


←能見正比古もろもろ(1)
→能見正比古もろもろ(3)

能見正比古もろもろ(1)

 現代に蔓延する血液型性格判断のルーツといえば能見正比古だが、こないだ彼の著書『血液型人間学』をつらつらと読み返していて面白いところがいくつかあったので紹介しておく(なんせ読んだの随分昔だから忘れておった)。だらだら書いてたら長くなってしまったので、数回に分けます。(^^;;
 この本については、「忘却からの帰還」のKumicitさんが色々調べておられるので、本筋としてはそちらを参照されたい(「能見」で検索して出てきたページ にリンクを張っておきます)。

 イキナリだが「研究ノートから-あとがきにかえて」において、能見が「論理的根拠」として挙げている第二章「血液型と気質の原理」から少し引用しよう。p.58「2 血液型が気質体質と関係するのは何故か?」より。
材料が違えば機能も…
わからないづくめの血液型が人間の体質、気質と関係があるというのは、どういうことなのか?それは、きわめて簡単な理由による。
わからないといっても血液型が何らかの物質、型物質の違いによって起る現象であることは、はっきりしている。その型物質は、髪の毛の末に至る全身に分布している物質だ。言いかえれば、たとえばA型の人とB型の人では、全身を構成している材料物質が違うということになる。材料が違えば、その機能や特性が違うのは、全く当たりまえのことである。洋服生地でも羊毛か綿か化学繊維かで、性能が違ってくる。日常の道具も機械も、電気回路のようなものでも、構成する材料が違えば、特性は違う。人体だって例外ではない。
 血液型が違っても、つまり材料が違っても、人間の体質気質……機能特性が全く同じということになれば、血液型とは、まるでユウレイのような存在となる。そんなバカげた、非科学的な話はない。
 血液型が人間の体質気質の個性と関連するということは、だから全く論理的にも当然のことなのだ。その上、人体を生化学的に型(タイプ)に分ける物質は、血液型以外に、発見されていない……というより、血液型以上に普遍的なものは、考えられないといってもいい。血液型が人間個性のタイプに対応することは、科学的にも、必然の事実である。
 問題は、血液型による個性の違いが、どの程度の大きさに現れるか、どのようにして表現されるかということである。(以下略)
いやあ、スゴイね。なんらかの違いがあるのだから、気質に反映されないわけがない、されないなんてそんな非科学的なことがあるか、というわけである。このヒトの「科学」なんてえのは所詮この程度で、本人はこれが論理的根拠である(そして読者アンケートや何人もの有名人の事例「研究」が実証的根拠である)と主張しているのだけど、やってることは結論ありきの強引な論法である。

 もう一つ、この人の「論証」のパターンとして典型的な論法を引用しておこう。同じ章の「二 人間気質のメカニズム 1 野菜の味と気質の味(p.66~)」より。
生野菜のO 福神漬のAB
テレビのスタジオで同席の俵萌子女史に聞かれたことがある。
「私の家族は全員A型だけど、一人一人性格が違うわよ」
俵夫妻が別れる以前の話だ。この萌子さんのような質問にはよく出会う。そんなときには、
「そりゃ当然ですよ。人間は玩具(おもちゃ)の兵隊さんじゃないから、そう簡単に、四色に塗り分けられませんよ」
と前置きして、私は次のたとえ話をする。
 人間を仮に野菜だとする。八百屋というくらいだから、野菜には八百ぐらいの種類があるのだろう。人間の個性だって、八百ではきかないくらい、沢山の種類がある。その中でO型の人はナマ野菜に相当する。ナマだけに個性の差が一番あるのがO型である。
 その野菜を、今、ツケ物にしたと仮定する。ツケ物にしても大根、キューリ、ナス、白菜等々、それぞれの個性はちゃんと残っている。見ても判るし食べても判る。違うのはツケ物という共通性が加わっていることだ。その共通性がA気質なのである。
 B型はおでんでも煮〆でもいいから、野菜を似たとする。A型と同じ考え方で、それぞれの野菜の個性は残りながら、新しく加わった煮物という共通性がB気質というわけだ。
 AB型は煮てツケるからややこしい。さしづめ福神漬。福神漬でもよく見れば、キューリかナタ豆かの区別は、つくのである。

血液型で違う気質の味
このたとえで、血液型と気質の関係は、かなり理解していただける。ツケ物にも浅ヅケと深ヅケ?がある。煮物にもアッサリ煮るのと、佃煮などの違いがある。A気質B気質の濃淡も合わせて説明できる。(以下略)
 彼の「論理」というのはどれもこんな感じ。
  この章は、そもそも血液型とは、という話から始まって、上に挙げたような話が続き、能見なりの「血液型と性格」のイメージを表す図が出てきて、あとは有名人を例に挙げてのケーススタディである。それで科学的な根拠だと言うのだからちゃんちゃらおかしい。なんせ、論理の核となるべき部分は「たとえ話」しかないのだから。

 「このたとえで、(…)かなり理解していただける」と言うが、全然理解できない。このたとえで能見が言わんとしていることはわかるのだけれども、それがどうして血液型と性格の関係のたとえになっているのか、とても根拠になるとは言えないだろう。でも、たぶん、これでわかった気になってしまう人は多いのだよね。ああ、なるほど、そういうことなのか、と。
 で、この手の論法は、血液型性格判断に限らず、ニセ科学では実にポピュラーなものだ。「水からの伝言」の江本勝だって、理論の説明の時は、最初に音叉を二つ持ってきて、共鳴の実験をするところから始めるわけだ。音叉の共鳴が起こるのと同じように、万物には波動があって、それが共鳴して云々という話につなげていく。実際はつながっていないのだけれども、わかった気になる人は多いのだろう。やっぱり、簡単に「わかった気」になっちゃいかんのだと思う。

→能見正比古もろもろ(2)

記憶力のないABO FAN氏

 忙しいのだけどあまりにアレなのでざっとエントリ上げとく。
 私のところのコメント欄で ABO FAN氏が挙げた文献は以下である。記号の意味として氏が書いた部分も含め、まとめて引用しておく(このコメント 以降)。タイポは修正しといた。大量にあるので先に何をするかを言っておくと、★のついた文献(「データの差があったとしている文献」)の内実を見ていこうということである。無論、全部ではない。急に出されて読めるかっつの。それと、印のついていない文献も、リストということで出しておく。○印の文献について触れないのは、「データの差はないとしているが、実際には差が出ている」などというアホなごたくに付き合う義理はないからである。
★データの差があったとしている文献 →6件
○データの差はないとしているが、実際には差が出ていると思われる文献 →4件
×データの差がないとしている文献 →2件

【日本心理学会大会発表論文集】
■2006年
○血液型ステレオタイプに関する研究 野上 康子((株)教育測定研究所)
○血液型ステレオタイプの検討(3) 高橋 優(埼玉工業大学)井出野 尚(早稲田大学)   
■2007年
×血液型ステレオタイプの検討(4) 高橋 優(埼玉工業大学)井出野 尚(早稲田大学)   
■2009年
★自分の性格の評価に血液型ステレオタイプが与える影響 工藤 恵理子(東京女子大学)

【日本社会心理学会大会発表論文集】
■2006年
★血液型性格項目の自己認知に及ぼすTV番組視聴の影響 山岡 重行(聖徳大学人文学部)
■2007年
★潜在的な血液型ステレオタイプ信念と自己情報処理 久保田健市(名古屋市立大学)

【日本教育心理学会大会発表論文集】
■2008年
○女子学生へのアンケートと幼児の線引き行動からみた血液型と性格の関係 小林 小夜子 長崎女子短期大学

【その他】
■2005年
○『「心理テスト」はウソでした。』 村上 宣寛(富山大学教育学部教授)
■2009年
★『心理学ワールド』(No.46 2009年7月号)[巻頭随筆 ことばの森] 免疫学からみた血液型と性格
 藤田紘一郎(東京医科歯科大学名誉教授)

【海外の論文】
■2005年
×Personality and Individual Differences 38 (2005) 797?808
Blood type and the five factors of personality in Asia
 Kunher Wu, Kristian D. Lindsted, Jerry W. Lee
■2007年
★Physica A: Statistical and Theoretical Physics Volume 373, 1 January 2007, Pages 533-540
Blood-type distribution
 Beom Jun Kim, Dong Myeong Lee, Sung Hun Lee and Wan-Suk Gim
★韓国心理会誌:社会及び性格
Korean Journal of Social and Personality Psychology 2007, Vol. 21, No. 3, 27?55
血液型類型学研究に対する概観:
 社会文化的,行動科学的及び生化学的観点で
A Review of Sociocultural, Behavioral, Biochemical Analyses on ABO Blood-Groups Typology
 孫栄宇[教授],劉聖益[研究員]
 Sung Il Ryu , Young Woo Sohn

血液型ステレオタイプの検討(3):クラスター分析による血液型イメージの検討
日本心理学会大会発表論文集(2006年)
    埼玉工業大学 高橋 優
    早稲田大学  井出野 尚

日本応用心理学会大会発表論文集
公開シンポジウムI 『血液型性格判断、ホントかウソか』
 藤田主一(日本体育大学)大村政男(日本大学)荒木英幸(福島民報社)
 →福島民報(2005.9.4朝刊)によれば、血液型と性格が関係しているとのこと[未確認情報]。
ここで、★のついている文献をもう一度まとめておく。便宜上、番号をふっておくことにする。

(1)★自分の性格の評価に血液型ステレオタイプが与える影響 工藤 恵理子(東京女子大学)
(2)★血液型性格項目の自己認知に及ぼすTV番組視聴の影響 山岡 重行(聖徳大学人文学部)
(3)★潜在的な血液型ステレオタイプ信念と自己情報処理 久保田健市(名古屋市立大学)
(4)★『心理学ワールド』(No.46 2009年7月号)[巻頭随筆 ことばの森] 免疫学からみた血液型と性格
 藤田紘一郎(東京医科歯科大学名誉教授)
(5)★Physica A: Statistical and Theoretical Physics Volume 373, 1 January 2007, Pages 533-540
Blood-type distribution
 Beom Jun Kim, Dong Myeong Lee, Sung Hun Lee and Wan-Suk Gim
(6)★韓国心理会誌:社会及び性格
Korean Journal of Social and Personality Psychology 2007, Vol. 21, No. 3, 27?55
血液型類型学研究に対する概観:
 社会文化的,行動科学的及び生化学的観点で
A Review of Sociocultural, Behavioral, Biochemical Analyses on ABO Blood-Groups Typology
 孫栄宇[教授],劉聖益[研究員]
 Sung Il Ryu , Young Woo Sohn

さて、このうちいくつかは、既にネット上できちんと批判されている。順番が入れ替わるが、リンクをはっておく。

(6)について:
まったくカスなRyu and Sohn[2007] (「忘却からの帰還」)
「a meta-analytic method」を使って(カッコ付きであることに注意)、過去の文献を調べて血液型と性格の関係を調べた、というもの。使用されているデータの中には Furukawa (1927, 1930)なんてものもあるが、これはもちろん戦前の古川竹二の論文である。D'Adamo (2001)なんてのも使われている。要するに、無意味な論文。
 この件については、既にこのブログのコメント欄で、直接 ABO FAN氏には伝えてある。ここ(#4)のABO FAN氏のコメント 、及びそのすぐ後の私のコメント(#6)を参照のこと。
 というわけで、憶えているのか忘れたフリをしているのかわからないが、この問題については決着ずみ。なお、さらに少し後のコメント(#10)では、「孫さんの論文が正しいかどうかは関係ないのです。」などと言っているので、たぶん自分が何を言っているのかも理解していないのであろう。

(2)について:
こちらのエントリ を参照のこと。この論文自体は、ここからPDFを取得できる 。山岡さん御自身は、テレビでも血液型性格判断の危険性を強く訴えておられた。その趣旨を歪め、まるで血液型性格判断肯定派の一員であるかのように描き出すABO FAN氏のやり口は、端的に言って卑怯であると言わざるを得ない。
 なお、この論文の最後のところは、以下のように述べられている。
ある印象を与えるために編集した映像と一方的なナレーションなどで血液型性格を確定された事実のように放送すること自体が血液型による差別を生み出していることをマスメディア、特にTV局は強く自覚するべきである。
ABO FAN氏が読まなければならないのはここである。
 さらに補足すると、山岡さんと同じ番組に出演された中西大輔氏が御自身のブログできちんと述べている(「たけしのニッポンのミカタ! 「占い」なしでは生きられない! 」Garbage Articles)。これもABO FAN氏は把握しているはずである。

(4)について:
藤田紘一郎氏はもはやトンデモ認定されているので、この人が何を言っても無意味である。私自身は『心理学ワールド』は未読であるが、上に続いてやはり中西大輔氏がブログで批判しておられる(「『心理学ワールド』46巻 」Garbage Articles)。中西氏は、「一見もっともらしいが、トンデモだ。」「問題は、こんないい加減な主張を日本心理学会が出版している雑誌が堂々と2ページも割いて (何の注釈も断りもなく)、紹介しているという点だ。」と述べておられる。孫引きで眺める限りではあるが、まるで竹内久美子のようなトンデモ主張であるという印象だ。
 ついでに藤田氏と血液型性格判断について、いくつかリンクをはっておこう。
パラサイト式血液型診断~藤田紘一郎がトンデモさんリスト入り? (NATROMの日記)
血液型と食べ物の相性 (NATROMの日記)
カイチュウ博士こと藤田紘一郎センセが、水商売だけでなく血液型健康商売に手を広げたようだ (幻影随想)

(5)について:
これについては奥村さんが分析しておられる(B型の彼氏 )。論文自体はこちら 。未読なので、これ以上のコメントは控えておく。

(3)について:
これはABO FAN氏の期待する文脈とはまったく異なる話。ここから論文を取得できる

(1)について:
これはよくわからない。アブストだけは見られる
血液型ステレオタイプが自己評価に与える影響について、血液型ステレオタイプのプライミングおよび、血液型信念の効果を検討した。全体として、血液型ステレオタイプに合致するような自己評価が認められたが、プライムの効果は認められなかった。
「知識汚染」の効果がどれだけあるか、っちゅー話としか思えないのだが。

というわけで、以上、ざっと見てきたが、全然ABO FAN氏の主張を補強するものになっていない。もちろん何度もこのブログでは書いてきたが、血液型ステレオタイプの蔓延によって、性格が、あるいは性格の自己評定が歪み、血液型と性格に相関が見られることは可能性として十分ある(そして、それを示す研究結果もある)。が、知識の「汚染」なしに、血液型と性格の間にもともと相関があるのだということを主張する論文はないのである(無論、マトモな論文では、ということだが)。

また、上でも述べたが、幾つかについては既にABO FAN氏に対して反論しており、それに対してはABO FAN氏は話をずらすだけで正面からの再反論はしていない。ABO FAN流に言えば、「回答拒否」ということだろうか?まあそれはともかく、何度も同じ手間を取らせないでほしい。こっちだって忙しいんだし。

ABO FAN氏は記憶力が極端に低いのか、都合の悪いことは見なかったフリをしているのか。ここでは、ABO FAN氏の名誉のために、記憶力が極端に低いのだ、ということにしておく。なぜなら、わかってて見ないフリをするのは論者としては最低の行為だからである。そこまでは落ちぶれていないだろうという期待を込めて、そういう結論にしておく。

最後にどうでもいいことを一つ。大村さんの研究を持ち出す時点で「アウト」ですよね、ABO FANさん