能見正比古もろもろ(3)(追記あり) | ほたるいかの書きつけ

能見正比古もろもろ(3)(追記あり)

能見正比古『血液型人間学』に書いてあることの続き。3回目。今回がとりあえず最後(でも最初はこれを書くつもりだったんだよね。書きだしたらダラダラと長くなってしまったので前回、前々回に書いたという次第)。

 ここで取りあげるのは彼が血液型性格判断に興味を持った経緯である。能見の姉が古川の教え子であったという話は大村政男などがよく述べているし、wikipediaにもその旨記述がある のだが、こんなところに能見本人による記述があった。「研究ノートから-あとがきにかえて」の中(p.255)。
 私が一つ年長の亡姉幽香里から、血液型と気質の関係を聞かされたのは、中学に入って間もなくだったが、関心を強く持ち始めたのは大学以後である。私は四百人ほどの寮の委員長となり、寮内のよろずもめごとに立ち合って来た。戦時中のことで、寮生名簿には血液型が記入してある。それを見ながら寮生に接しているうちに、気質の違いが、ありありと浮び上がって来る。これはただごとでないと私は坐り直していた。最初にまず具体的な事実に直面したのが幸いしたと思う。
ちなみにこの段落の直前に、「いわば人間科学のフィールドワーク(野外研究)だ」発言がある。
 能見は1925年生まれ。中学入学のころというと、1932か33年1938年あたりだろうか。ちょうど、古川学説が絶頂期から衰退に向う時期と重なる。1933年の法医学会総会で事実上トドメを刺された格好なので、古川や能見の姉は複雑な思いをしていたころだろう。もっとも世間一般ではその後も血液型性格判断は隆盛を保っていたようではあるが。(追記:アホみたいな計算ミスで年代の推測を誤ってました。能見が「聞かされた」のは学術的には既に終わった後ですね。ただ、外務省嘱託医が「外交官にはO型を採用すべし」と言ったのが1937年なので、まだまだ古川説の残滓は世間に蔓延っていた時代だと思われます)。
 プロフィールによると、能見は東大工学部卒、法学部中退となっているので、東大の寮でのことなのだろう(学徒動員はぎりぎりで逃れたか)。

 一方、『現代のエスプリNo.324 血液型と性格』の冒頭の座談会で、大村政男は以下のように述べている。なおここでの登場人物は大村の他は詫摩武俊と溝口元。座談会自体は松井豊と佐藤達哉も出席しており、幅広いトピックについて討論している。
大村 能見正比古さんが学生寮に居たとき学生の世話をしていたんです。血液型と性格とは何か関係があるように思ったんだそうです。ところが詫摩先生は能見正比古さんに直接会われていますね。能見さんは大宅壮一さんの弟子ですね。大宅さんが血液型をやると儲かるぞと言われたので始めたというのですが、そのほうが真実だと思いますね。能見さんの「血液型人間学」はまったく古川さん(引用者注:古川竹二のこと)の受け売りで、そっくりそのまま持ってきて、国語辞典的におもしろおかしく表現しているだけのことなんです。私は「素朴な古川学説にピエロの衣装を着けた」と言っているのですが、それで能見さんは売り出した。能見さんが男女の相性というのを持ち込んだのは実にうまいと思いますね。結婚問題というものに集中させて受けに受けたんです。
詫摩 彼は確か工学部の出身で。
大村 そうです。東大の工学部です。
詫摩 どういう経歴を踏まれた方かよく知らないのですが、評論家の大宅壮一の門下になったのではないか。
大村 大宅壮一という作家は弟子にしてくれというとだれでも弟子にしてしまうから、大宅壮一の弟子はワンサといるそうですね。能見さんもその一人です。筆の運びもうまかったんでしょうか、大いに伸(の)したんです。マスメディアの発達した時代がつごうのいい受け皿になったんですね。
溝口 能見の本から行くと、姉さんから聞いたということになっているんです。姉さんは女高師の出身。恐らくは大宅壮一の線と姉の線の両方なんでしょうけれども、文献的に見て行った場合には、大宅壮一から聞いたというのは能見の本には出て来ない。
大村 私はある年の日大文理学部の公開講座の時に、「血液型性格学」のことを話したら、相当なお歳の女性が出席していて、古川さんが研究していたころのことをよく知っていると言われました。当時古川さんがそういうことをやっていたので、皆が古川さんがそういうならば、そういう結果を出さなければ悪いのではないか、ということになったのだそうです。例えば、ある教授がこう考えているなどというと、学生はみんなそれに同調してしまう、それと同じではないかと思うんです。黙従傾向といえますね。
本当のところがどうなのかは知る由もないが、溝口が言うとおり、能見としては公式には姉から話を聞いて着想を得たということなのだろう。学術的にはともかく、これだけ有名人について調べたり、アンケート調査をしたり、さらには息子に跡を継がせるなどということはそれなりの情熱がなければできないだろうし、それはまた能見本人が金のためではなく本気で信じていたということを伺わせる。大宅壮一が「儲かるぞ」と言ったぐらいでは、とてもここまではできないだろう。もちろん、能見が大宅に話したところ、大宅が「それは儲かるぞ」と励ました、ぐらいのことはあっても不思議ではないとは思うが。
 ちなみに同じ号には「能見説と古川説の比較とその問題点」という論文を大村政男が執筆しており、その中で能見と古川の関係についても述べられているが、ここには大宅壮一については触れられていない。

 今回紹介したのは「血液型と性格」にまつわるエピソードの一つであるわけだが、まあこんな感じで戦前の論争が戦後になって能見の手によって大衆的に復活した、ということである。「血液型と性格」について論じるのであれば、どこか頭の隅にでも置いておくと良いかもしれない。

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